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カンボジアの世界遺産、アンコール遺跡の中でも圧倒的な存在感と人気を誇る「アンコール・ワット」。 その特徴的な尖塔が池の向こうにそびえ立つ、あまりにも有名なその外観はどこか幻想的ですらあります。 今回は世界遺産「アンコール・ワット」の歴史、創建の理由から、有名な回廊の壁画、さらにはアンコール・ワットに秘められた壮大な思想をご紹介します! 1. 【世界遺産】アンコール・ワットの歴史 世界遺産のアンコール・ワットは、9世紀ごろから15世紀まで、今のカンボジア、シェムリアップ付近に王都を構え、カンボジアだけでなくタイやベトナム、ラオスなど最盛期には東南アジアの広範囲を勢力を拡大していたクメール人(カンボジア人)による王朝、アンコール王朝時代に築かれたものです。 シェムリアップのアンコール遺跡を訪れた方ならよくお分かりかと思いますが、この地域には数多くのアンコール王朝時代の遺跡が広範囲に築かれた跡として残されています。 これは約600年もの長きに渡って繁栄を築いたアンコール王朝の歴史をそのまま物語るものでもあり、その中でも最も規模の大きいアンコール・ワットは、それを築いた当時にアンコール王朝が最盛期を迎えていたことを示すものでもあります。 9世紀ごろからアンコール王朝が今のカンボジアに誕生して以降、この王朝では王位継承の熾烈な争いが国内でも繰り広げられてきました。 ここにアンコール王朝の1つの特徴があり、歴代の国王は民衆に自分が正当な王であることを示すため、戦いを勝ち抜くことで神のごとき強さを証明するとともに、ヒンドゥー教の神々の正当な血筋を持った神との交信者であることを示すことで、民衆からのゆるぎない信仰を集めました。 アンコール王朝とヒンドゥー教が強く結びついていた理由でもあります。 王位に就いた後も積極的な外交と勢力拡大を繰り広げ、東の隣国にあったChampa(チャンパ)国への侵攻や、当時の中国へ貢物を送るなどしてそれまで途切れていた中国との外交を再開させるなど、精力的にアンコール王朝の繁栄を引っ張ってきたのです。 アンコール・ワットと言うと観光で訪れるあの寺院だけを思い浮かべがちですが、正確にはあの中央伽藍は中心の一画に過ぎず、敷地面積でいうと全体の面積は200ヘクタール(南北1,300メートル、東西1,500メートル。 東京ドーム15個分)にも及ぶそうです。 地上を歩いているだけだとその全貌が見えないのですが、アンコール・ワットの中央伽藍の外側には、この敷地を取り囲むようにぐるりと幅200メートルにも及ぶ環濠が造られています。 また、あまりその大きさに実感が湧かないかもしれませんが、アンコール・ワットの中で中央にそびえ立つ尖閣(中央祠堂)の高さは実に65メートルにもなるそうです。 ちなみに、同じ世界遺産でインドが誇るタージ・マハルの高さは73メートルなので、高さではタージ・マハルを少し低くしたイメージになります。 いずれにしても、外側の環濠や石造りの中央伽藍、そしてその中の回廊に描かれた壮大な壁画、これら全てを完成させるのには途方もない労力と時間が必要だということは想像できるのではないでしょうか。 ヒンドゥー教 vs 上座部仏教 後ほど詳しくご紹介しますが、世界遺産のアンコール・ワットに限らず、アンコール遺跡を訪れるとヒンドゥー教というよりは仏教遺跡なのでは、と混乱してしまうことがよくあります。 というのも、アンコール遺跡に残されたヒンドゥー教の彫刻は、インドなど現在のヒンドゥー教寺院に見られるようなある種の派手さが無く、一見すると仏像や観音像のようにも見えてしまうこと、また実際にアンコール・トムの四面観音のように仏像も残されているためです。 さらに15世紀に入りアユタヤ王朝の侵攻によりアンコール王朝が滅んでからは、アンコール・ワットも仏教寺院として帰属することになり、現在に至っています。 【世界遺産】アンコール・ワット創建の謎 世界遺産アンコール・ワット。 「アンコール」は「都」、「ワット」は「寺」を意味します。 つまり、「都の寺」というわけです。 このため、今でもアンコール・ワットが創建された目的には議論の余地が残されているのですが、それも含めてご紹介しましょう。 それまでの王たちが使っていた王宮や王都をそのまま引き継いだ方が楽だし、効率的なのでは?と思われた方もいるかもしれません。 ですが、ここにはアンコール王朝ならではの理由がありました。 先ほど少しお話ししたように、広大な王国を支配するに当たって、内部紛争による争いに勝利しただけでは誰も新しい国王を正当な王とみなしてくれません。 そこで、王たちはいかに自分が王にふさわしく正当な存在であるかを証明する必要があったのです。 そこで王たちは、自らをヒンドゥー教の神々と交信を行い、神からも認められた「現人神(あらひとがみ)」たる存在であることを示すことで、人々の心を掌握しようとしました。 もしこれまでの王が利用していた王都をそのまま利用していたのでは、自分が前の王に従っているようで、自分が神との交信者であり、神に代わって地上を支配する存在であることが証明できません。 そのため、自分の意志として新しい王都を築き、またよりスケールの大きな王宮を築くことでこれまでの王以上のパワーを誇示しようとしたわけです。 王の墳墓 vs ヴィシュヌ神を祀る寺院 世界遺産アンコール・ワットがヒンドゥー教の神、ヴィシュヌ神を祀っていることについては学者や研究者の中でも一致しています。 実はヴィシュヌ神を祀っているというのもアンコール・ワットの1つの特徴であり、この寺院を知る重要なキーワードでもあります。 というのも、それまでのアンコール王朝の王たちはほぼシヴァ神に帰依していたためです。 その論拠の1つに、アンコールワットの最上部にある中央祠堂の地下から小さな石棺が見つかったことが挙げられます。 戦いの中で命を落とした可能性も十分あり、そのような場合はそもそも遺体を埋葬・保管することも困難になるはずではないか、という意見もあります。 代々、アンコール王朝の王たちはその死後、神との関係を示す名前が与えられてきました。 それは、中央伽藍の真ん中にそびえ立つ5つの尖塔がヒンドゥー教において神々が住まうとされている須弥山(メール山)を模したものであり、また中央伽藍を取り囲む環濠は世界の大海を模したものと言われているためです。 後ほどご紹介しますが、アンコール・ワットの第1回廊に描かれた壁画もその多くがヒンドゥー教の経典にまつわるエピソードが題材となっていることからも、この寺院がヒンドゥー教寺院であることは明らかでしょう。 アンコール・ワットが西向きである理由 先ほど、アンコール・ワットがそれまでの王と違ってヴィシュヌ神を祀っていることをご紹介しましたが、実はアンコール・ワットが持つ、他のアンコール遺跡と違う特徴がもう1つあることをご存じでしょうか。 それは、アンコール・ワットが西向きに造られているということ。 実は多くのアンコール遺跡寺院は東向きに造られているのに対し、アンコール・ワットは西向きに建てられているのです。 アンコール・ワットが西向きに造られている理由にもいくつかの説があり、まだはっきりと決着がついているわけではありません。 「死者」を葬る方角 仏教でもそうですが、太陽が沈む「西」という方角には宗教的には「死者」や「あの世」という信仰が込められています。 「西」を司るヴィシュヌ神 もう1つの説はとてもシンプルで、アンコール・ワットが西向きに造られているのは、祀られている神であるヴィシュヌ神が「西」を司る神であるため、というもの。 シンプルながらこちらも説得力のある考え方ですよね。 寺院内に描かれた多くのアプサラス(天女・女神) アンコール・ワットの寺院内を鑑賞していると、いたるところに「踊り子」の彫刻が描かれていることが分かります。 この踊り子は「アプサラス」という天女を描いたものですが、このアプサラスという天女は神々や聖者が来ると、歌や踊りを踊ってそれを讃え、時には霊を慰める役割を担うと言われています。 そんなアプサラスが寺院内に多く描かれている理由、それはおそらく、この寺院がヴィシュヌ神を祀っているだけでなく、ヴィシュヌ神がすむ天宮を描いたものとも考えられています。 つまり、神々が住む天宮をこの地上に具現化したものが、アンコール・ワットというわけです。 【世界遺産】アンコール・ワット最大の魅力、回廊壁画(彫刻) 回廊壁画の8つの題材 世界遺産アンコール・ワットの最大の魅力は何といっても、第1回廊にぐるりと張り巡らされた壁画(彫刻)の圧倒的なスケール感でしょう。 全長約780メートルにわたって、8つの主題が壁画一面に描かれている様は圧巻の一言です。 この壁画をじっくり観て回るだけでも十分に価値があり、それぞれの詳細なご紹介は別の記事に委ねるとして、今回は第一回廊に描かれた8つの主題のあらすじを簡単にご紹介していきます。 乳海攪拌(にゅうかいかくはん)(東南面) アンコール遺跡の彫刻で最も多く目にするのが、この「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」のエピソードです。 実は「乳海攪拌」のあらすじはヒンドゥ教の経典によっても微妙にストーリーが異なっています。 ですが、大まかなストーリーは下記のようなものです。 その昔、世界に神々と魔族(アスラ)しか存在しておらず、両者が世界の支配を行うべく戦いを繰り広げていました。 長い戦いの中、やや戦況が不利になった神々は、困ってヴィシュヌ神に助けを乞います。 すると、ヴィシュヌ神は、 「この大海をかき回していると、いずれ海の中から不老不死の妙薬「アムリタ」が出てくるだろう。 このアムリタをアスラに渡すことなく、飲み干すことができれば神は永遠の力を手に入れることができ、アスラに勝利できる。 」 とアドバイスしました。 さっそく神々は妙薬「アムリタ」を見つけるべく、アスラに一時休戦を持ちかけて、一緒に大海を回してこの薬を探すことを提案します。 アスラは、アムリタが見つかればそれをアスラが飲むことを条件に協力に応じるわけですが、当然そんなことを神々が許すことはしません。 ですがアスラの協力なしにはアムリタも見つからないので、とりあえずアスラの要望を受け入れることにして、神々とアスラは協力して大海をかき混ぜる作業に取り掛かりました。 アンコール・ワットの壁画に描かれているのは、まさに神とアスラが綱引きのように、巨大な蛇をマンダラ山に巻き付け、両側から引っ張って大海をかき回しているシーンです。 神であるデーヴァ(Deva)は88名、アスラ(Asura)は92人が描かれ、中央にマンダラ山、上部にはこれを見守る144人のアプサラス(天女)、下層には海中の魚やワニが描かれています。 「天界と地獄」(南東) これは仏教やローマ・ギリシャ神話でもある程度馴染みのある、死後の世界へ赴くシーンを表現したものです。 壁画に描かれているのは、死後、Yama(閻魔)の審判を受けるために死の世界を歩いている王の姿と、Yamaによる審判の後、無事に天国に向かうことができた王と王妃の姿が描かれています。 壁画は大きく上下の2つに分かれており、上部が天国、下には地獄の様子が描かれ、地獄に関しては三十二地獄が延々と描かれていることに圧倒されます。 一番の見どころは、中央部でYamaによる審判を受けている場面と、そこから地獄に突き落とされている人が描かれている部分です。 クルクセートラ戦(西南) インドの二大叙事詩の1つ、「マハーバーラタ」のクライマックスに当たる大戦争場面が描かれています。 この「マハーバーラタ」、ものすごくざっくり言ってしまえば、王族の兄弟同士の壮大な兄弟げんかということになります。 しかも、対立しているのが善人として描かれている5人の兄弟と、一方で悪人として描かれている100人の兄弟。 この数ももはやけた違いなのですが、その両兄弟が繰り広げる一大兄弟げんかの様子が描かれています。 ランカ島戦(西北) こちらも「マハーバーラタ」と同じインドの二大叙事詩に挙げられている「ラーマーヤナ」の一番のクライマックスの場面が描かれています。 この「ラーマーヤナ」もとてもざっくり言ってしまえば、妻のシータ王妃をアスラにさらわれたラーマ王子が、王妃を取り返すため、アスラに戦いを挑んで勝利する、勧善懲悪のストーリーです。 ちなみに、この物語で主人公のラーマはビシュヌ神の化身なのですが、彼と一緒にアスラと戦うのは猿の軍団です。 このため、壁画にはたくさんの猿が描かれているわけですが、この猿たちは「善い者」である点は覚えておくと良いでしょう。 神々とアスラの戦争(北西) こちらは、先ほどの「乳海攪拌」の続編とも言える場面で、アムリタが見つかった後にそれを取り合う神々とアスラの戦いが描かれています。 アニルッダ救済(北東) この彫刻と次にご紹介する「ヴィシュヌ神のアスラへの勝利」は、他の彫刻と違い、16世紀頃、アンコール・ワットの建立よりもかなり後になって造られたもので、やや作風が異なっています。 アルニッダとは、クリシュナ神(ヴィシュヌの化身)の孫にあたる王子で、このアルニッダが恋に落ちた王女と同棲していたことが王女の父であったアスラのヴァーナにばれてしまい、監禁されてしまいます。 それを知ったクリシュナ神が、アルニッダを助けるためにヴァーナに戦いを挑む物語ですが、興味深いのが、このアスラのヴァーナがシヴァ神に帰依していること。 最終的にクリシュナ神が勝利するのですが、ヴァーナをかわいそうに思ったシヴァ神が、クリシュナ神に対してヴァーナの命乞いをするというストーリーになっており、完全にヴィシュヌ神がシヴァ神より卓越した存在として描かれています。 アンコール・ワットの第一回廊に描かれている場面も、クリシュナ神とヴァーナの戦いと、それに仲裁に入るシヴァ神がメインで描かれています。 ヴィシュヌ神のアスラとの戦いへの勝利(東北) こちらも先ほどの「アルニッダ救済」と同様、16世紀と後になって描かれた彫刻です。 内容はアスラ軍と戦うヴィシュヌ神の勇姿が描かれています。 王族行進(南西) 8つの壁画のうち、この「王族行進」のみがヒンドゥー教神話図ではなく、完全な歴史図となっています。 回廊壁画が示すものとは? 以上、簡単に壁画に描かれている題材と場面をご紹介しました。 【世界遺産】アンコール・ワットの驚くべき仕掛けとは? 太陽の動きを計算して造られている! アンコール・ワットを訪れると、多くの人がアンコール・ワットの日の出を鑑賞するツアーに申し込むほど、朝日鑑賞のツアーはとても人気があります。 これはアンコール・ワットが西向きに建てられているからこそのツアーとも言えますが、皆さんは1年の中でも最も人気のある日があることをご存じでしょうか。 それが春分の日と秋分の日。 この2日は、1年で太陽が真東から上り真西に沈む日です。 そして、アンコール・ワットではこの日、中央祠堂のちょうど真裏から太陽が昇り、それはまるでアンコール・ワットの尖塔が太陽を支えているかのような、とても神秘的な光景。 もちろん、これは偶然の産物ではなく、アンコール・ワットを創建した時に計算し尽されていたのでしょう。 その証拠に、1年の間で最も太陽が高く昇る夏至の日と、最も低い冬至の日、太陽はちょうどアンコール・ワットの両端から昇ってきます。 つまり、太陽は1年を通して、アンコール・ワットの両端を行き来しながら昇ってくるというわけなんです。 アンコール・ワットと太陽直下点 もう1つ、アンコール・ワットが太陽周期を意識して造られたのではないか、と考えられる仮説をご紹介します。 それが、「太陽直下点」との関係です。 太陽直下点とは、太陽が地面に対して垂直に来ることを言い、この時、太陽は我々の真上に位置しているため、地面には影ができません。 この特殊な現象は実は地球上の限られた地域(赤道近辺)でしか見ることができないのですが、アンコール・ワットはこの太陽直下点が発生するエリアに含まれており、毎年4月26日と8月10日頃、太陽が垂直に昇ります。 実はアンコール遺跡の中で、アンコール・トムのベイヨン寺院をはじめ、多くの寺院でこの太陽直下点を意識した造りになっていたことが判明しています。 例えば、ベイヨン寺院でも中央祠堂の情報に小さな穴が設けられていて、太陽が直下点に到達した時、まっすぐに太陽光が下に降りてくることが分かっています。 他の寺院でも、この小さな穴を通じて太陽が真上から降り注ぐその先に、リンガが祀られているなど、明らかに太陽の動きを計算して造られていることがよく分かります。 37hat、東西面で189. 00hatの長さがあることが分かりました。 (hatというのはカンボジアの単位で、概ね0. 48メートル) SGMは、この数字を足し合わせると365. 37となり、これがほぼ1年の日数にかなり近似していることを発見したのです。 ちなみに、東西と南北で均等の長さになっていない理由も、「Shatapatha Brahmana」というヒンドゥー教の経典に根拠を見出しています。 緯度をも把握した造り!? さらに、Eleanor Mannikkaという研究者は、アンコール・ワットの緯度と中央祠堂にも隠された秘密があると述べています。 それは、アンコール・ワットの緯度は13. 41度である一方、中央祠堂の石室の大きさも南北で約13. 43 cubitsあり、両者で長さが一致しているというもの。 (cubitというのは長さの単位で、概ね50センチ) 先ほどのhatはまだカンボジアの単位ということで説得力がありますが、こちらのcubitsという単位はやや微妙な気もします。。 それでも、彼はアンコール・ワットを創建したクメール人たちは、自分たちの住んでいる場所の緯度についてもはっきりとした理解をしており、このことは、地球が太陽の周りを公転していることをすでに理解していたことを示すものだ、とも述べています。 いかがでしたでしょうか。 知れば知るほど、その計算し尽された魅力にはまってしまう世界遺産アンコール・ワット。 アジアのみならず、世界でも最も人気のある世界遺産の1つであることも納得ですよね。 皆さんもぜひ一度はアンコール・ワットを訪れ、その歴史の神秘をじっくり味わってみてください! (参考:「アンコールワットへの道」石澤良昭 JTBパブリッシング、「Angkor Temples」Michel Petrotchenko、「Solar Alignments of the Planning of Angkor Wat Temple Complex」Amelia Carolina Sparavigna、「Time, Space, and Astronomy in Angkor Wat」Subhash Kak).

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ジェームズ・ワット

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ジェームズ・ワット( James Watt , - )は、出身の、機械技術者。 の ()へ施した改良を通じて、のみならず全世界のの進展に寄与した人物である。 で計測器製作の仕事に従事していたころ、ワットは蒸気機関技術に興味を覚えた。 そこで、当時の機関設計ではシリンダーが冷却と加熱を繰り返しているため熱量を大量に無駄にしてしまっている点に気づいた。 彼は機関設計をし直し、凝縮器を分離することで熱量のロスを低減し、蒸気機関の出力、効率や費用対効果を著しく高めた。 ワットはこの新しい蒸気機関の商品化を試みたが、1775年にという協力者を得るまでは資金面で大変苦労した。 新会社商会は最終的に大成功を収め、ワットは資産家になった。 引退後もワットは発明を続けたが、蒸気機関ほど影響を及ぼすようなものは完成できなかった。 ワットは1819年、83歳で死去。 彼の栄誉を称え、(SI)における仕事率の単位に「」という名称がつけられた。 生涯 [ ] ワットは、中部のにある沿いの港町で生まれた。 父親は船大工で、請負のほかに船を持つ貿易商人でもあり 、町の役員も兼ねていた。 母親アグネス・ミューアヘッドは名門の出で教養があった。 2人はともに員であり、を強く支持していた。 ワットの祖父にあたるトーマス・ワットはであり、カーツバーン侯に仕える役員でもあった。 ワットは当初あまり学校に通わず母親からを受けていたが、中学からはグリーノックの学校に入った。 彼は、手先の器用さや数学の素質を発揮したが、やには関心を示さなかった。 母が亡くなり父も健康を害した18歳のとき 、ワットは計測機器の製造技術を学ぶために行き、通常4年かかるところを1年で履修を終え 、スコットランドへ戻って機器製造の事業を始めるべく主要商業都市に居を移した。 しかし、グラスゴーのハンマーマン(ハンマーを使う職人)は、スコットランドにはほかに数理的な計測器を製作する職人がいないにもかかわらず、課していた最低7年の徒弟修業を満たしていないと彼の開業申請を却下した。 ワットのこの状況を救ったのは、に導入された機器が専門家の調整を必要としたことだった。 1757年7月、要請に応えてワットが行った調整は大学側を満足させ、この機器はマクファーレーン天文台に設置された。 すると教授3人が、ワットに大学内に小さな工房を設けることを提案し、これは1757年に実現した。 教授の中には、ワットの友人となる物理学者兼化学者のがいた。 また、この背景にはの協力もあった。 1764年、ワットは従姉妹いとこにあたるマーガレット・ミラーと結婚した。 5児が生まれたが、うち成人したのはマーガレット(母と同名、1767年 - 1796年)とジェームズJr. (1769年 - 1848年)の2人だけであり、妻マーガレットも1772年にで亡くなった。 1777年にはグラスゴーの染料工の娘アン・マクレガーと再婚し、2児(ジョージ 1777年 - 1803年、ジャネット 1779年 - 1794年)を得た。 アンはワットの死後、1832年に死去した。 1784年にボールトンとワットが設計した蒸気機関の図面() 初期の実験 [ ] 工房を開いた4年後、ワットは友人ジョン・ロビソン教授を通じて蒸気機関を知った。 それまで蒸気機関が動作しているのを見たことがなかったが、ワットは興味を持ち、設計を試み実験を行った。 ワットが作った模型は満足に動かなかったが、彼は実験を続け、考察に取り組んだ。 そして、熱の基礎的知識をワットに教えた ジョゼフ・ブラックが数年前に至った結論と同じく、動力機関を理解するにはが重要だということに独自にたどり着いた。 グラスゴー大学はニューコメン蒸気機関の模型を所有していたが、当時ロンドンに修理に出されていた。 ワットは大学にかけあって蒸気機関をグラスゴーに取り寄せてもらい、その修理を任されることとなった。 ワットの発見の要所は、ピストン部分とは別に設けたチャンバー(分離凝縮器、復水器)で蒸気の凝縮過程を行い、シリンダーを常に注入蒸気と同じ温度にしたことである。 ワットは1765年に、改良して実際に動作する模型を製作した。 また、熱出力におけるピストンとシリンダーのバランスの悪さにも着目し、適切な寸法比を導き出した。 苦闘を重ね、ワットは性能のよい蒸気機関の設計ができたが、フルスケールの蒸気機関を製作するには多額の資金が必要だった。 ジョゼフ・ブラックや、ファルカーク近郊のキャロン・カンパニー創設者のも協力者となり、多額の資金提供をした。 しかし、主要な困難はピストンやシリンダーの加工にあった。 当時の技術は屋のレベルであり、十分な精度が出せなかったのである。 また資金の多くは数々の特許取得のためにも費やされることとなった。 金に困ったワットは、のちに8年間もとして働かざるをえなかった。 ローバックが破産すると、でソーホー工場を経営していたマシュー・ボールトンがローバックの特許権を取得した。 1775年には、その特許の1800年までの期限延長を首尾よく達成できた。 ワットはボールトンを介して当時の世界で最良の鉄鋼職人と取引することができた。 ピストンと精密に合う大きなシリンダーの製作は、北のレクサム近郊にあるバーシャム鉄工所で製造用に精密中ぐり技術を開発した が実現した。 後述する通り、ワットとボールトンはのちに商会を設立し、25年間にわたって協力関係を続けることとなる。 最初の動力機関 [ ] 1776年、ついに最初の業務用に実働する動力機関が組み上がった。 これらは鉱山の立抗底部に取りつけたポンプロッドに上下運動を伝えるだけのものだった。 それでも、おもにコーンウォールのから揚水用に受注が舞い込み、ワットは機械の組み立てに忙殺された。 これら初期の動力機関はボールトン・アンド・ワット商会で製作されたものではなく、ワットのに基づいて他の製造業者が製造し、ワットは技術顧問の役割を担った。 機関の調整やならし運転はまずワット自身が行い、その後製造業者に引き継がれるようになっていた。 これらは大型なもので、たとえば一番目に製造された機関は直径50インチ(127センチ)のシリンダーを備え、高さ24フィート(7. 32メートル)もあり、専用の建屋が設けられるほどだった。 この蒸気機関を使うことでニューコメン機関よりも節約できたの3分の1に相当する金額を、年額特許料としてボールトン・アンド・ワット商会が受け取った。 ワットの特許に基づいて1848年に製作された蒸気機関(、) ワットの蒸気機関の用途が広がったのは、ボールトンがワットに対してや、などにも使えるよう、ピストンの往復運動を回転運動に変換する機構を開発するように要請してからであった。 機構を使えばこの運動方向変換問題はすぐに解決するように見えたが、これはジェームズ・ピッカードがすでに特許を取得しており(ピッカードが技術を盗んだという説もある )、ピッカードは分離凝縮器特許とクランク機構特許とのを提案した。 ワットはこれに強硬に反対し、1781年にの特許を得て、特許問題を回避した。 その後6年間以上、ワットは蒸気機関に数多くの改良や変更を施した。 ピストンの両面に蒸気を交互に作用させる複動機関(A double acting engine)はその一例で、蒸気を「拡張的に」(大気圧を超える圧力の蒸気を用いるなど)扱う方法だと説明した。 他に、2台以上の蒸気機関を連結した複合機関(A compound engine)も開発し、これらは1781年と1782年に特許を取得した。 製造や組み立ての簡略化を目指した改良も継続的に行われた。 これらの中には、シリンダー内の蒸気容積-圧力の推移を図示する蒸気指圧計(企業秘密扱い)も含まれていた。 ほかにも、ワット自身が誇った重要な発明に、1784年に特許を取得したがある。 これは上下にゆれるビームの円弧運動を、シリンダー棒およびポンプ棒に必要な直線運動に変換する機構であり、複動機関には必要不可欠な技術であった。 1788年には出力調整用絞り弁と遠心調速機(ガバナー)の特許が成立した。 回転のむらを低減するフライホイールもワットの重要な発明である。 このような改善が織り込まれた蒸気機関は、ニューコメン型と比べて最大5倍の燃料効率を誇った。 この当時、の改良は初歩的な段階にあり、爆発の危険性や漏れの問題が伴っていた。 ワットは高圧での使用を禁止し、当時の蒸気機関はほぼ大気圧前後の圧力で運転された。 1794年、ワットとボールトンは蒸気機関製造会社社を設立し、これは大企業へ成長した。 1824年までに製造した蒸気機関の通算台数は1,164台に至り、は26,000に達した。 ボールトンは商才を発揮し、2人は一財産を築いた。 両者の親密な関係は25年間続いた。 特許裁判 [ ] 1781年当時、エドワード・ブルはワットとボールトンの元、コーンウォールで蒸気機関の組み立てに従事していた。 1792年に彼は自ら設計した蒸気機関の製作を始めたが、これが凝縮器分離型であったためワットの特許を侵害していた。 同じ頃、ジャベツ・カーター・ホーンブローアーとジョナサン・ホーンブローアーの兄弟も機関組み立ての仕事を始めた。 ニューコメンの蒸気機関に凝縮器を取り付ける改造を行う者も現れたため、コーンウォールの鉱山主たちはこれでワットの特許が権利行使できないと考えた。 鉱山主たちが支払いを拒んだため、通常21,000のボールトン・アンド・ワット社の収入は、2,500ポンドにまで落ち込んだ。 やむを得ずワットらは法廷にこの案件を持ち込んだ。 ワットらは、まず1793年にブルを訴えた。 この時点で陪審はワットを支持し、侵害者たちに差し止め命令が下されたものの、オリジナルの特許明細書の有効性は判断されずに別のへ持ち越され、特許使用料はエスクロー(第三者預託、供託)に付された。 翌年に行われた特許明細書の有効性を争う審理でも決着はもたらされなかったが、差止命令はそのまま有効であったため、ジョナサン・ホーンブローアー以外の特許侵害者は和解に応じ始めた。 まもなくホーンブローアーは訴えられ、1799年の4件の裁判官の判断はいずれもワット有利となった。 ボールトン・アンド・ワット社は支払われるべき金額全てを回収することはできなかったものの、訴訟は全て判決もしくは調停により解決した。 時間と労力を大きく費やしたものの、最終的にはボールトン・アンド・ワット社の有利に決着した。 動力(仕事率)の単位 [ ] 1765年に蒸気機関を発明した際、単位時間の仕事量を数値的に表せる単位を決める必要があった。 ワットは馬に荷物を引かせ、33,000ポンド(約15トン)の荷物を1分間に1フィート(約30cm)引ける能力を1馬力と定め、動力の単位を設けた。 複写機 [ ] ジェームズ・ワット・アンド・カンパニー社製の複写機(1815年製造) 1780年以前、手紙や絵などをする有効な手段は無く、せいぜい複数のを連結した器械がある程度だった。 ワットは当初この方式の改良に乗り出したが、あまりに煩わしい機構にこれを放棄し、別な解決策を模索した。 彼は、インクが裏まで染み込みやすい薄いを使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案した。 に開発に着手したワットは、インクの成分や紙の選定、薄い紙を濡らしてどのくらいの圧力をかければよいか、などの実験を繰り返した。 何度もの試行錯誤を経なければならなかったが、ワットはすぐに特許取得に充分な手法開発に成功した。 ワットはボールトンの出資と ()の経営による別会社ジェームズ・ワット・アンド・カンパニー社を創設した。 複写技術は一般に使用されるには未だ改良の余地が多かったが、これも数年のうちに成し遂げられた。 ワットとボールトンは1794年には事業を息子たちに引き継いだ。 この複写機は商業的成功を収め、20世紀まで利用されていた。 化学実験 [ ] ワットは若い頃から化学に興味を持っていた。 1786年末、滞在時にがとを反応させてを発生させる実験を見る機会を得た。 既に塩素の水溶液はのに効果を持つことがベルトレーによって発表され、多くの競争相手が高い関心を寄せていた。 ワットはイギリスに戻ると、早速商業的に折り合う事業化を目指した実験へ着手した。 彼は、塩と二酸化マンガンおよびを用いて塩素を作り出すことに成功し、安価な生産手段に繋がる端緒を掴んだ。 そして、薄いアルカリ液に塩素を通し、漂白効果を持つ混濁液を作り出した。 ワットはすぐにグラスゴーで漂白の仕事をしていた義父ジェームズ・マクレガーにこの実験結果を伝えた 製法を秘密にしていたとも言われる。 妻のアンと義父ジェームズ・マクレガーの協力を得てワットは事業を拡大し、1788年3月にはマクレガーは1500ヤードの布地を漂白できるようになった。 しかし、ベルトレーも塩と硫酸を用いる塩素発生法を見つけ、これを広く発表した。 この改良に多くの者が参入した。 塩素の精製には未だ改良の余地があり、中でも難題だったのは液体を輸送しなければならなかった点である。 ワットはやがて競合する開発者に追いぬかれてしまった。 1799年にチャールズ・テナントが、輸送問題を解決する粉末固体のさらし粉()の特許を取り、これによって塩素の精製ははじめて商業的な成功を収めることとなった。 晩年 [ ] 、ハンズワースのワットの家、「ヒースフィールド」 ただし、ワットは完全に発明から手を引いた訳ではなく、を使った新しい計測法の開発や、の改良や、蒸気式絞り器・複写機の開発などに取り組んだ。 のハンズワースにあった彼の家「ヒースフィールド」で、ワットは屋根裏部屋を工房にしてこのような発明に取り組んだ。 ワットは2番目の妻とや旅行も楽しみ、スランウルスル ウェールズ中部の村 から1マイルのところにあった「ドルドウロッド・ハウス」という別荘を購入して大いに手を加えた。 1819年8月25日、83歳の時に自宅で亡くなり、同年9月2日に埋葬された。 彼が使っていた屋根裏の工房は、ワットの伝記を執筆していた作家J. ミューアヘッドがそこを訪れる1853年まで閉鎖されたままであった。 以来この部屋は、時折訪問する人々はいたものの一種の神殿のように扱われており、に移築しようという計画も実行されなかった。 しかし1924年にが取り壊されることになり、部屋とすべての調度品はロンドンのに寄贈された。 そこでは、ワットの工房が完全に再現され 、何年間も展示公開された。 やがてギャラリーの閉鎖とともに封鎖されたもののそのままの状態で保存されており、2011年3月にはサイエンス・ミュージアムの常設展「ジェームス・ワットと現代」でふたたび公開されることとなった。 人物 [ ] ワット製作の分離凝縮機。 用品などを工夫し製作された。 人柄 [ ] ワットは豊かな想像力を持つ熱心な発明家だった。 彼は手先の器用さのみならず、系統的な科学的測定を行うことで自身の開発品を定量的に評価することが出来、その機能を深く理解していた。 はワットについて「ジェームス・ワットのことを実務的な機械屋だと考えている人は、彼のキャラクターをひどく誤解している。 同様にワットは自然哲学者とも違うし化学者とも違う。 発明品を見れば、ワットがこれらの科学分野の豊富な知識と天才的なキャラクターを持っていることを見て取れるし、そしてそれらが合わさって実用化が果たされているのも分かるだろう」 彼は産業革命を押し進めた多くの有能な人物たちから尊敬を集め 、の重要メンバーであり 、仲間と思慮深い討論を行う人物で、いつでも自らの視野を広げることに関心を持っていた。 彼は友人知人と良い関係を長く続けることができた。 ワットはをたくさん書いたことでも知られる。 滞在中の数年間、彼はボールトンへ毎週長い手紙を認め送った。 一方で、例えば王立協会の哲学会報などへの研究成果の発表は面倒臭がり、代わりにでアイデアを表明することを好んだ。 彼は事業家としてはあまり有能と言えず、蒸気機関の使用希望者との費用などの交渉を特に嫌った。 退職するまでいつも収益状況に敏感な心配性の人物だった。 健康にも優れず、神経症の頭痛と鬱屈に悩まされていた。 新技術の妨害 [ ] ワットの下で働いていた技術者のウィリアム・マードックは、に派遣されてこの地方での蒸気機関の設置工事の指導とともに、ワットの持っている特許への侵害の監視にあたっていた。 ワットの蒸気機関はせいぜい2 - 3気圧程度で動作しているものであったが、これより高い気圧で動作させるのは危険であるとして、ワット自身が開発を禁じていた。 しかしマードックは、ワットの目が届かない地方にいるのを幸いに高圧蒸気機関の研究を重ね、さらに蒸気機関で走る車両を開発して、1785年に特許を取得しようとした。 ところが、その噂を聞きつけて様子を見にきたボールトンに見つかってしまい、開発した模型を叩き壊して元の業務に戻されるはめになってしまった。 これに危険を感じたワットが自分のそばにマードックを呼び戻し、以降は自分の蒸気機関の改良作業だけに従事するように命じている。 ワットは既に成功して、自分の開発した蒸気機関が危険であると思われるのを恐れて、新しい技術である高圧蒸気機関の開発を妨害した側面がある。 この妨害により、蒸気機関車ができるのは1804年のによるものを待つことになる。 一方ワットのそばに戻ったマードックは、それまで給排気に2つの弁を用いていたのを1つに統合できる、D形を開発している。 評価 [ ] 詳細は「」を参照 ジェームズ・ワットが改良を加えたニューコメン蒸気機関は、発明後50年間誰も工夫を加えなかった。 ワットは、動力の発生と応用に工夫を加え、労働形態に変革をもたらすことで産業革命を呼び起こす重要な役割を担った。 重要な点は、鉱山で用いられる程度であった蒸気機関をの動力として使われる道を開き、そこで整備士や技術者など多くの人間が効率や能力向上に向けた英知を集める効果が生まれた所にある。 これは何世代にもわたって機関に発明がもたらされる基礎となり、さらなる技術の発展や、やなど手段への導入をもたらした。 これらから、立地や気候など水資源に限定される傾向にあった工場建設地の自由度が高まり 、また小家屋中心であった工業の規模を拡大させる事も可能となった。 投下資本に対して得られる利益は増加し、製造業の生産性は高まった。 そしてこれらがさらに機械の発明や改善に繋がる好循環を生み出した。 これらの呼び水となったものが、ワットの蒸気機関である。 チェンバレン・スクエア、バーミンガム中央図書館前に飾られた、アレキサンダー・マンロ()作ジェームズ・ワットの像 イギリスの(1894年 - 1963年)はワットの発明について以下のように書いている。 「我々にとって、『午前8時17分』という一瞬には意味がある。 この時刻が毎日の電車の発車時刻だとしたらとても重要だ。 我々の先祖にとってはこんな、キリが悪くて中途半端な瞬間などそれほど大切ではなかっただろうし、そんな概念自体がなかっただろう。 ワットとスティーブンソンは、機関車の発明を通して時間の発明にも寄与したのだ。 」 チャールズ・マレーがヒストリオメトリー研究を纏めた書籍『Human Accomplishments』にて、歴史的に重要な発明229件をランクづけしたところ、その1位はと並びワットの発明が占めた。 栄誉 [ ] グリーノックにあるジェームズ・ワット・カレッジ ワットはバーミンガムの聖マリア教会に埋葬された。 後に教会建物が拡張されたため、今や彼の墓は教会の建屋内にある。 バーミンガム市内には、ワット、ボールトンそしてマードックの3人が図面を囲む像があり、他にもチェンバレン・スクエアやの前などワット単独の像が5つある。 彼の名誉はムーンストーンでもゆかりがあり、この地とバーミンガムにはそれぞれワットの名を冠した学校がある。 バーミンガム中央図書館には彼が残した膨大な論文が所蔵されている。 マシュー・ボールトンの家はと呼ばれ、現在は2人の男たちの仕事を記念した博物館になっている。 イギリスで最も古い大学でありワットも教鞭を取った部の本部、機械工学科、航空工学科はジェームズ・ワット・ビルディング内にある。 ワットの生誕地グリーノックにも彼が生まれた土地近郊に像が立ち、彼を記念している。 また、いくつかの住所や通りにも彼の名を由来とするものがある。 1816年に彼から受けた科学の本の寄贈を契機に設立されたワット記念図書館も知られている。 これはワットの息子が設立したワット財団の一部となり、現在ではジェームズ・ワット・カレッジとなっている。 1974年、運営は地方政府に引き継がれ、ライブラリーはの地方史資料館でも保管されるようになった。 そこにも、椅子に座るワットの像がある。 他にも、彼の像はグラスゴーのジョージ・スクエア、のプリンセス通りにもある。 ワットの名を冠した通りはイギリス中で50本以上ある。 ジェームズ・ワット・カレッジは規模を拡大し、のキルウィニング、グリーノックのFinnart StreetやThe Waterfront、スポーツ施設はラーグスにある。 エディンバラ近郊のヘリオット・ワット大学は1821年に設立された世界初の工科学校であり、かつては16世紀に設立された芸術学校を改組したものである。 この他にも、何十もの大学や学校(多くは科学技術系)がワットの名にちなんだ校名をつけている。 また、機械・製造工学棟の講義室に「G31 - The James Watt Lecture Theatre」の名称がつけられている。 ジェームズ・エクフォード・ローダーは、ワットが蒸気機関の改良を思索する姿をモチーフにする絵を数多く制作し、それらはが所蔵している。 また、フランシス・レガット・チャントリーは巨大なワット像を製作し、これは当初に置かれたが、後にに移された。 この像のには以下の碑文が書かれている。 チャントリー製作のジェームズ・ワット像 この碑は 彼の名を永久に刻むためのものではない その名は かの平和な技術が伝えられる中でおのずと残るであろう この碑は ただ示すためにある 人類は 感謝を捧げるべき人を 讃えることを知っている と 王と 王に仕える者と 多くの貴族と 王国国民は この記念碑を捧げる ジェームス・ワットへ 類まれなる才能を傾け 蒸気機関の 改良のため 哲学研究の先駆けとなる 母国の資源拡張に貢献 人類の力を高め より高い段階へと導いた もっとも輝かしい科学の徒にして 世界の恩人 1736年 グリーノックに生まれ 1819年 スタットフォードシャー ヒースフィールドに没す 2009年5月29日、は新しい50ポンドにジェームズ・ワットとマシュー・ボールトン2人の肖像を採用すると発表した。 イギリス紙幣に2人の人物画が採用される事は初めてであり、図案には彼らの蒸気機関もデザインされる。 銀行総裁のメルビン・キングは「彼らのような人々の技術が、今日の豊かさを創りだした」と採用理由を述べた。 特許 [ ] ワットは彼が取得した6つの特許における単独発明者である。 Patent 913:蒸気機関の蒸気消費量を低減する技術。 1769年1月5日受理、1769年4月29日登録、1775年の議会決定により、特許期間は1800年6月まで延長。 Patent 1,244:文書を複写する新しい技術。 1780年2月14日受理、1780年5月31日登録。 Patent 1,306:連続的な回転運動を起こす新しい技術である遊星歯車装置。 1781年10月25日受理、1782年2月23日登録。 Patent 1,321:蒸気機関への新改良。 拡張と複動機関。 1782年3月14日受理、1782年7月4日登録。 Patent 1,432:蒸気機関への新改良。 3軸駆動と蒸気車。 1782年4月28日受理、1782年8月25日登録。 Patent 1,485:炉を建設する新しい技術。 1785年6月14日受理、1785年7月9日登録。 関連書籍 [ ]• Schofield, Robert E. 1963年. The Lunar Society, A Social History of Provincial Science and Industry in Eighteenth Century England. Clarendon Press• Uglow, Jenny 2002年. The Lunar Men. ロンドン: Farrar, Straus and Giroux 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 当時の記録では没日を8月25日、埋葬日を9月2日としているが、信頼できる情報の中にはワットの逝去を8月19日としているものもある。 19日の根拠は、ジェームズ・パトリック・ミューアヘッドが著した伝記『The Life of James Watt』(1858年、p521)にある。 ミューアヘッドはワットの甥に当たるため、きちんと情報が入る情報提供者の立場にいたことが19日説の根拠となっている。 しかしその一方で、ミューアヘッドの著作には別記にて8月25日死去とも書かれている。 当時の記事も要約と遺書の補足とともに25日死去と載せており、例えば1819年8月28日付け3ページでも見られる。 (ワットが埋葬されたバーミンガム、ハンズワースの聖マリア教会には、没日の記録は無い) 出典 [ ]• Thurston, Robert Henry 1878. The International Scientif Series. New York: D. 2010年6月25日閲覧。 Muirhead, James Patrick 1859. 2 ed. John Murray. Klooster, John W. 2009. Icons of invention. ABC-CLIO. Muirhead, James Patrick 1859. 2 ed. John Murray. 4,7. Tann, Jennifer 2004. Oxford Dictionary of National Biography. Oxford, England: Oxford University Press• 工学部. 2010年6月25日閲覧。 2010年6月25日閲覧。 Marshall 1925 Chapter 3• 馬越佑吉. 大学院経済学研究科・経済学部 第23回OFC講演会. 2010年6月25日閲覧。 Hills, vol I, pages 180-293• James Watt's Fire Engines Patent Act, 1775 15 Geo 3 c. 61 , which in those days required an Act of Parliament. 吉賀憲夫. 2010年6月25日閲覧。 Brown, Richard 1991. Society and Economy in Modern Britain 1700-1850. London: Routledge. 末松良一. 2010年6月25日閲覧。 Carnegie, p 195• Hills, vol 3, ch 5 and 6• 三輪誠. 海事科学部. 2010年6月25日閲覧。 Hills, Vol, 2, pp 190-211• Hills vol 3 p 116. Hills, vol 3, ch 4• Press Release. Science Museum London 2011年3月1日. 2011年3月25日時点のよりアーカイブ。 2011年3月25日閲覧。 Carnegie, Andrew 1905. James Watt. Doubleday, Page and Company. の2009年7月8日時点におけるアーカイブ。 Carnegie, Ch. XI: Watt, the Man• Hills, vol I, pages 42-43• Smiles, Samuel 1865 , Lives of Boulton and Watt:A History of the Invention and Introduction of the Steam Engine, London: John Murray, p. 286• 16 - 18(日本語)。 Past Fellows. 2011年12月11日閲覧。 BBC 2009年5月30日. 2010年6月25日閲覧。 Hills, vol 3, p 13 参考文献 [ ]• Thomas H. Marshall、『James Watt』 1925年、 , from [ ] of Department of History. Hills, Rev. Richard L. 、『James Watt, Vol 1, His time in Scotland, 1736-1774』 2002年 Vol 2, 『The years of toil, 1775-1785』Vol 3、『Triumph through adversity 1785-1819』、Landmark Publishing Ltd,. 2001年(初版1913年). James Watt University Press of the Pacific. 「Some Unpublished Letters of James Watt」 『Journal of Institution of Mechanical Engineers』 1915年、ロンドン• Dickenson, H. 1935年. James Watt: Craftsman and Engineer. Cambridge University Press• Dickinson and Hugh Pembroke Vowles 『James Watt and the Industrial Revolution』(初版1943年、新版1948年、再版1949年、スペイン語とポルトガル語翻訳は1944年ブリティッシュ・カウンシル出版)• Hulse David K. 1999年. The early development of the steam engine. Leamington Spa, UK: TEE Publishing. 127—152. Hulse David K. 2001年. The development of rotary motion by steam power. Leamington, UK: TEE Publishing Ltd.. Marsden, Ben 『Watt's Perfect Engine』 Columbia University Press 2002年 ニューヨーク. Muirhead, James Patrick 1854年. ロンドン: John Murray. Muirhead, James Patrick 1858年. ロンドン: John Murray. 『Lives of the Engineers』初版1861-62年 第五版1905年 ロンドン 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。

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【ポケモン剣盾/鎧の孤島】40万ワット(W)の効率の良い稼ぎ方

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