ビルマ 文字。 ビルマ語(ミャンマー語)の入力方法

ビルマ文字

ビルマ 文字

最大の都市 政府 () () 第二副大統領 総計 () 水面積率 3. 独立したからまでの国名は ビルマ連邦、通称 ビルマ。 (ASEAN)加盟国、通貨は、人口は 5,142万人(2014年) 、は(までは)。 南西は、南はに面する。 南東は、東は、北東と北は、北西は、西はと国境を接する。 インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾を挟んで相対している。 で 、の6割をが占め、がである。 ほかに、、カヤー族、ラカイン族、チン族、、、北東部に中国系の族 などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い (参照)。 「」も参照 正式名称の表記は、。 通称は、Myanmar Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。 ビルマ語では、口語的な呼称としてBurma(、バマー)、文語的な呼称としてMyanmar(、ミャンマー)があり、ミャンマーでは古くからこの2つの呼称を使い分けている。 2010年以降の公式の英語表記は Republic of the Union of Myanmar。 通称は Myanmar。 2010年以降の表記は ミャンマー連邦共和国。 通称は ミャンマー。 1948年から1974年まで ビルマ連邦。 1974年から1988年までは (公式の英語表記は Socialist Republic of the Union of Burma )。 1988年から1989年までは ビルマ連邦、1989年から2010年までは ミャンマー連邦(公式の英語表記は Union of Myanmar )。 通称は、独立以前からビルマ連邦まで一貫して ビルマ。 統治()の間通称()にされる。 ビルマは、末期にによって(由来説もある)からもたらされた。 に「」(SLORC)は、国名の表記を Union of Burma から Union of Myanmar に改称した。 変更したのは英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。 軍事政権が代表権を持つと関係は「ミャンマー」に改めた。 は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。 のは多くがの決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧つきで「ビルマ」を使い続けるもある。 『』は長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年のごろに「(ビルマ)」を削除している。 また、は「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については「ビルマ」表記も容認している。 軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めていない。 ただし、「ビルマ」が時代にイギリスにより利用された名称であり、より的であるとされる「ミャンマー」表記を擁護する意見もある。 名称変更を認めていない立場から、や(NCGUB)のほか、は「ビルマ」とし、イギリス、が両表記を併記する例もあった。 諸国、日本、インド、中国、オーストラリア、政府などは「ミャンマー」表記を採用している。 マスコミも対応が分かれている。 タイの英字紙、『』、(VOA)、『』は「ビルマ」を用い、、『』『』、、、は「ミャンマー」を採用している。 軍事政権の否定からビルマを使用していた人権団体は民主化してから併記を採用している。 歴史 [ ] 王朝の支配領域(1572年) 、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してを樹立した。 は最初小さな城市であった。 王統史のいう「44代目」の(在位 - )が初代国王とされる。 、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。 パガン王朝はにを受け、ので敗北し、1314年に滅びた。 には、モン族が ( - )を建国し、には、ミャンマー東北部に住むのが( - )と( - )を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。 から ()が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。 、に流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってが建国された。 タウングー王朝はの傭兵を雇い入れ、の治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のの治世には1559年には現東インドのを併合し、やなどタイ族小邦や、 ()が住むのを支配した。 しかしにはムガル皇帝のもとで、 ()が支配していたを除く現地域がの統治下に入り、にはさらにムガル皇帝が現に存在した支配下のを奪った。 にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が ()を興した。 3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、が王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。 にビルマを再統一した。 これがである。 に助けを求めたシャン族がとともに興した国土回復戦争が ( - )である。 しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。 タイは1767年の滅亡以来ビルマの属国だったが、に率いる( - )が独立し、その後に続く(-)は、ビルマと異なった親イギリスのをとって独立を維持することに成功した。 イギリス統治時代 [ ] の旗(1937年 - 1948年) 一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対するを発端とする3度に渡るを起こした。 国王 ()(在位:—)治下の初期には、英緬間に緩衝国家として(—)が存在していたが、 ()(—)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。 ビルマは、を支配するに対して の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて ()(-)が勃発した。 ビルマが敗れ、1826年に ()が締結され、 、、、をイギリスに割譲した。 イギリスの挑発で引き起こされたの ()で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王 ()(在位:—)が廃されて新国王に ()(在位:—)が据えられた。 徒の・を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(など)をにさせての統治に利用し、民族による政策を行なった。 インド人がを、華僑がを、山岳民族がとを握り、ビルマ人は最下層のにされた。 この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。 下ビルマを割譲した結果、ビルマはを喪失したために、からをし、ビルマはを経由で清へすることになった。 からにかけて中国の雲南省・で ()と呼ばれる雲南( ())によるが起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。 からにかけて新首都を建設して遷都。 イギリス領インドとの反対では遅れていたが、7月にイギリス側もを締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。 11月の ()で王朝は滅亡。 6月、 ()でイギリスは清にビルマのを認めさせると、ビルマはに併合されて、その1州となる。 国王(在位:—)と王の家族はインドのの南に近い ()に配流され、その地で死亡した。 建国の父(1940年代) ビルマ人の対英は中に始まり、の以後若い知識層の間に広まった。 には、 ()が結成された。 また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、と呼ばれる反植民地運動が全域に広がったが、半ばに鎮圧された。 、インドから独立して内の自治領となり、は返還されたが、・はインド領(インド独立後に分割され、と呼ばれる)となった。 、 ()が CPB を結成した。 の激化に伴い、ビルマはの政府をイギリスなどが支援する「」の一つとしても使われた。 12月、日本はイギリスやなどに対して開戦()。 はの一環として、進駐に続いて英領ビルマに進撃した()。 、がを率い、日本軍と共に戦いを駆逐し、に日本の後押しでを元首とするが建国された。 しかしの独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 のの失敗など日本の敗色が濃厚と見るや、8月に秘密会議で(AFPFL、-)が結成され、率いる、アウンサン率いる、率いる PRP が三派合同した。 3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。 がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本にした。 日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。 2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、 ()の率いるビルマ共産党 CPB から、 ()の率いる ()が分裂した。 独立 [ ] にアウンサンがの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。 にを離脱して として独立。 初代首相には、ウー・ヌが就任した。 独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。 現ミャンマー連邦共和国政府はその建国を ビルマ連邦が成立したとしており、 ビルマ国との連続性を認めていない一方で、については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。 が物資やを援助し、タイへのの運び出しも行った。 ヌ政権はでと米国の策動に抗議した。 一方で政権はと連携し、シャン州の一部におよび国軍部隊を展開し、半ばまでに国民党軍 KMT 勢力を一掃した()。 しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いや、など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党 CPB がの産業を支配下において、事実上の支配を継続した。 一方、 ()(羅星漢)の Ka Kwe Ye KKY が、ビルマ共産党 CPB に対抗させる狙いを持つの後押しで結成された。 また、中国国民党残党から独立した率いる ()も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。 ヌ首相の優遇政策は、の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。 独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。 軍事政権時代 [ ] 将軍(1959年6月8日) 、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで ()(-)が組閣された。 1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、にを組閣した。 12月、(-)が勃発。 にネ・ウィン将軍が ()を起こし、(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して(—)となり、を掲げた。 ネ・ウィンは、中立を標榜しつつを行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍 KMT への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 CPB の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。 から始まった中国のの影響がビルマに及び、にビルマ共産党 CPB は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。 8月、ロー・シンハンが、 () SSA に協力した容疑でに拘束された。 この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。 に ビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは二期目に就任。 に中国の最高権力者であるが死去すると、支援が減らされたビルマ共産党 CPB は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。 、ロー・シンハンはでされた。 にネ・ウィンが大統領職を辞した後もまでは軍事を維持したが、の失敗から深刻なを招く等、ミャンマーの状況を悪化させた。 にはネ・ウィン退陣とを求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く()。 同年9月18日にを離反した国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度 ビルマ連邦へ改名した。 総選挙の実施をしたため、全国で数百のが結成される。 軍部はを結党し体制維持を図った。 民主化指導者らは NLD を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前のにされた。 以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。 1月、ビルマ共産党 CPB 内部で、インド系上層部と・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、に ()が結成された。 この時、が、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。 、中国でが勃発。 に軍政側は ミャンマー連邦へ国名の改名を行った。 12月、。 に実施された ()ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。 前後して一部の総選挙当選者はに逃れ、亡命政権として NCGUB を樹立した。 に将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。 軍事政権は以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。 同1994年6月から中国が ()を賃借し、中国は基地とをした。 こうした中国の海洋戦略は、や、、などへの進出と合わせてインドを包囲する「」と呼ばれている。 11月、国家法秩序回復評議会(: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が(: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。 9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。 12月、ネ・ウィンが死去。 8月、キン・ニュンが首相に就任。 キン・ニュンは就任直後にを発表し、保守派と対立。 10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。 後任の首相には、派のが就任。 同年、 ()の協議が中国との間で開始され、翌2005年に(PetroChina)との間でが成立し、中国のミャンマー進出が加速した。 この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下で経営を行っていた ()(羅星漢)率いる ()社が独占的な契約を結んでいった。 11月、政府機関がヤンゴンから中部近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、に行政首都への遷都を公表。 、のがの取材中に射殺された。 に首相が死去したことに伴い、軍出身のがに首相へ就任すると、軍政主導の体制の改革が開始される。 5月、 (、)についてのが実施・可決されが計られるようになる。 、がエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。 、国旗の新しいデザインを発表。 には新憲法に基づくが実施される。 また、政府はの自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。 、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集されたの議決を経てに就任。 同月 SPDC は解散し、その権限は新政府に移譲された。 、アウンサンスーチー率いる NLD は政党として再登録された。 選挙と民主化 [ ] 2015年11月8日、が実施され、NLDが圧勝した。 NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、 (、)の規定との反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近のを自党の大統領候補に擁立した。 ティン・チョーは2016年3月10日にで大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。 ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人 及び軍出身者 による統治が終結した。 さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。 宗教上の対立 [ ] ミャンマーの紛争地域(1995年 - 現在) ミャンマーの()の起源は一様ではなく、古くは1000年ほど前に遡るところからのインド(現在のバングラデシュを含む)人漂流民、あるいは16世紀以降の諸王朝における、新しいところでは19世紀から20世紀前半のイギリス植民地時代にインドから流入したなど、その事由は様々である。 また地域的には、とりわけにおける比率が高く、同州内にはムスリムが多数派という町もある。 長らく続いた軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかったが、にはラカイン州でムスリムのと仏教徒との対立が激化( ())。 2013年3月20日にはでも死者が多数出るやが発生、政府によりが出されている。 ロヒンギャ問題 [ ] 2016年のミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、(UNHCR)により非難されている。 2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている。 2017年8月25日には、反政府武装組織がラカイン州内の治安組織を襲撃。 軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した。 同年9月、アウンサンスーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたることとなった 政治 [ ] この節のが望まれています。 ネ・ウィン将軍が、に軍事クーデターを起こし、とを廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていた。 軍政以前の議会は、の国民議会(英語で People's Assembly、ビルマ語で Pyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。 485議席。 議員は、民選で任期4年。 しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、の移譲を拒絶し続けた。 その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、に NCGUB を組織し、軍事政権への対抗勢力として活動していた。 には新憲法制定のための国民会議が招集されたが、NLDはボイコットした。 軍事政権はからにかけて、新憲法制定に向けての基本原則や内容を審議する国民会議を断続的に開催してきた。 しかしに民主化運動が高揚した際に、軍事クーデターを決行して1000人以上のを虐殺しを加え、翌にはにが設立されている。 そのトップはアウンサンスーチーのの()であった。 仏教僧を中心とした数万人の規模のが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、・を含める多数の死傷者を出した。 、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた SPDC 議長および国家元首であったと長らく行動を共にしてきたが新首相に就任。 前首相まで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。 及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、が一歩一歩と計られるようになる。 当時国家元首であったタン・シュエは表向き「私は一般になる、民主政権なのだから」と発言している。 、政府は最大・国民民主連盟 NLD の2003年5月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した。 同年、のトマス・オヘア・キンタナ(Tomas Ojea Quintana)特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた。 、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、にを結成。 、国旗を新しいデザインに変更すると発表。 には2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った。 に政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除される。 拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ。 「」も参照 、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。 、テイン・セインはに就任。 軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 SPDC は解散し、権限が新政府に移譲された。 これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた。 軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意。 にはを含む6359人がによってされた。 11月4日、テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認。 また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。 、国民民主連盟 NLD は全国代表者会議を開き、長年認められなかった(野党)としての再登録を完了した。 年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。 その後、にが選出したティンチョーが54年ぶりの文民大統領に就任した。 元首・立法・行政 [ ] は、3月よりとなっている。 同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出された。 さらに、2016年3月にはNLDのティンチョーが大統領に就任した。 それ以前の国家元首は国家平和発展評議会 SPDC 議長だった。 国家平和発展評議会は、のにより国家権力を掌握したが創設した 国家法秩序回復評議会 SLORC を、に改名した組織である。 とを行使。 は評議会メンバーの1人であったが行政府の長ではなかった。 同評議会は2011年3月に解散した。 ただし、NLDがティンチョーを大統領に擁立したのは、軍事政権下で制定された憲法の規定ではNLD党首のアウンサンスーチーが大統領就任資格を奪われている(アウンサンスーチーはイギリス国籍の息子を持つのであるが、憲法では外国籍の配偶者や子を持つ者は大統領になることはできない)ため、アウンサンスーチーの「代理」としての意味合いであった。 アウンサンスーチー自身も、新大統領は何らの権限を持たない傀儡であって全てを決定するのは自分であると明言していた。 新政権ではアウンサンスーチーは外務大臣兼大統領府大臣、さらには新設の「国家顧問」に就き、政権の実権を掌握する体制を整えた。 国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は、事実上は大統領への「指示」となると予想されている。 議会 [ ] 詳細は「」を参照 に制定された新憲法により、の( Pyidaungsu Hluttaw)が創設された。 連邦議会は上院(民族代表院、 Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、 Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。 議員は両院とも任期5年。 議席数は上院が224議席、下院が440議席。 各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接で選出される。 、新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された。 軍事政権の翼賛政党 USDP は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。 アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 NLD の分派である NDF は、140人にとどまった。 NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された。 総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得し 、NDFの議席は少数にとどまった。 、総選挙後初の連邦議会が開幕し、による議会としては49年ぶりの開催となった。 にはミャンマー連邦議会が実施された。 NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った。 2015年11月8日に行われた総選挙でNLDが単独過半数の議席を獲得した。 国際米作研究所が1966年から30年間にわたり、52種の米を全土で試験栽培し、収量向上に貢献した。 また、の産出量も多く、世界のの9割を産出し、タイがそのほとんどを購入している。 も品質の高さで知られる。 しかし、採掘はほとんどが国営で、労働環境の悪さからなどのは不買を呼びかけている。 ミャンマー政府やミャンマー観光連盟は、外国人観光客の誘致に力を入れている。 入国に必要な観光の免除対象は、ASEAN諸国(を除く)に加えて、2018年10月から日本とも1年の試行措置として追加された。 一方で、ロヒンギャ問題での国際的な批判が支障になっている。 経済史 [ ] ビルマはかつて東南アジア有数の大国であり、イギリス統治下においても東南アジアで最も豊かな地域の一つであった。 など木材をはじめ天然資源が豊富で、の生産・輸出も盛んに行われていた。 また人的資源も優れており、率は高く、独立後は東南アジアでも早く成長軌道に乗るだろうと考えられていた。 に経済開発計画が立案されたが、内乱や事情の悪化から4年ほどで破棄される結果に終わった。 からまで、軍事政権はという国家基本要綱に基づき、主導のによる開発を行なった。 この間、主要産業の企業・貿易は国家の管理下に置かれ、土地もされた。 また、工業化政策によって1960 - 1970年代において、は一応の発展を遂げた。 また、鎖国的な経済体制によって、と認定される程にビルマ経済は著しく停滞し、他のアジア諸国と大きな差をつけられる結果となった。 のによる軍事クーデター後、ビルマ援助国の大部分が経済援助を凍結した為、 SLORC はの放棄と経済体制への転換を決めた。 SLORCは、豊富なと安価な労働力を基とした民間企業主導型の輸出指向型の政策を打ち出し、外国人によるの大幅な許容、近隣諸国との国境貿易合法化や国営企業の等、改革が実施された。 21世紀初頭には工業部門が飛躍的に成長し、工業化が進展しているように見えた。 しかし、これは、天然資源開発中心の国有企業主導型の工業開発によるものであり、民間製造業主導型の工業開発ではない。 天然資源開発は急速な早さで環境を破壊している。 また、天然資源採掘地域においては、・強制移住などのが行われているという事実がある。 以上の事実から、欧米諸国はミャンマー製品の輸入禁止や、新規海外直接投資禁止などの経済制裁を行った。 特にアメリカのミャンマー製品輸入禁止と送金禁止はミャンマー経済に大きな影響を与えた。 近年、民間製造業において急速に発展してきた縫製産業は、そのほとんどがアメリカ向けの輸出産業であったため、経済制裁発動後は多くの工場が操業停止状態に追い込まれ、そこで働いていた多くの労働者が職を失った。 このように、ミャンマー経済は政治的要因により、離陸の機会を失ってきたと考えられた。 や、、など、周辺国はになって以降、衣類生産など軽工業の発達で経済成長の緒に就き、ミャンマー(当時はビルマ)と同じように80年代~90年代に経済低迷を経験したも2000年代からコールセンターなどサービス業の台頭で経済的な飛躍が見られるが、ミャンマーは諸事情で取り残されているとされていたが、最大都市のヤンゴン周辺では工業化も見られ後述で述べるとおり 「アジア最後のフロンティア」と呼ばれることもある。 欧米が投資や貿易を控えてきたのに対し、中国とインドは軍事政権時代から関係強化に努めた。 投資をしている国は中国、、韓国、インド、タイなどである。 特に中国はを通らずに石油を自国に運ぶため、ミャンマーから原油とガスを輸入するための ()(・間771 kmを結ぶ石油パイプラインと、・間2,806 kmを結ぶガスパイプライン)とのに大型船が寄港可能な港湾施設、やを建設しようとしており 、 ()(羅星漢)率いる ()社が建設・エネルギー関連事業を独占的に受注している。 2010年にミャンマーは民政移管を果たし、2011年に就任したテイン・セイン大統領が経済開放を進めたことにより、ミャンマー経済は再び国際社会に復帰。 「アジア最後のフロンティア」と呼ばれるまでに経済成長が有望視される国家へと変貌を飛げた。 や国軍系列企業以外に、民間企業も育ちつつあり、一部は多角化でを形成しつつある(など)。 2015年の総選挙結果を受け民政移管後の経済発展を見越したが、日本のや、の支援で発足。 2016年3月25日、取引を開始した。 日本との交易 [ ] 欧米諸国が軍事政権下のミャンマー製製品を輸入禁止にしてきたのに対し、日本は特に輸入規制などは行わず、日本はミャンマーにおける製品輸出先の5. ミャンマー製のカジュアル衣類なども日本国内で販売されている。 しかし、の資料によると、民政移管の2010年前後の時点でミャンマーに進出している企業は、中国が約27000社、タイが約1300社に比べ、日本はわずか50社に過ぎなかった。 この背景には、ミャンマーに経済制裁を科していたアメリカの存在があり、アメリカとビジネスをしている企業は、アメリカでどのような扱いを受けるかを恐れ、ミャンマーに進出することがしたくてもできない状態であるという。 ただ、中国の賃金水準上昇と、の存在が日本企業に広く認識されるようになり、米国向け輸出品が多く日本企業には不利なや、日本企業の誘致に消極的なやなどの代わりに、「アジア最後の経済未開拓市場」との呼び声も高いミャンマーに対する日本の注目が2010年前後から集まった。 の約3分の1(ベトナムの賃金は中国の約6割)の賃金で従業員を雇え、中国と比較すると労働力の安さが特段際立っていた。 しかしながら、が飛び回るような不衛生な食品工場が多数存在していたり、また、労働環境の苛酷さや、そして何より、ミャンマー独特の政治的事情などの課題も多かった。 だが、2010年ので形式的ながら民政移管を果たし、2011年に就任したテイン・セイン大統領が経済開放を進めたことにより、ミャンマー経済を取り巻く環境は大幅に改善された。 2012年に入って以降、アメリカが民主化を評価し、ミャンマーへの政策を改める見通しが出始めており、これまでアメリカの顔色を伺って現地進出したくてもできなかった日本企業にとっては明るい兆しと言える。 また、ミャンマー側にとっても経済発展は悪い話ではないし、ベトナム、カンボジア、バングラデシュに大きく遅れをとったが、が進む21世紀の世界において、安いコストで衣類などの軽工業品を生産できることは、企業側にとっては良いビジネスになりうる。 また、結果として多くのミャンマー国民の雇用を生み出すという点でも重要である。 2014年10月1日、ミャンマー政府が2011年の民主化後初となる、外銀6ヵ国9行に支店開設の仮認可を交付したと発表。 日本の銀行では、、のメガバンク3行が仮認可を取得している。 その後、2015年4月2日に三菱東京UFJ銀行、、三井住友銀行の3行が正式認可を取得し、2015年4月22日に三菱東京UFJ銀行が、同23日にオーバーシー・チャイニーズ銀行と三井住友銀行がそれぞれ支店を開業した。 自然災害 [ ] で会談するアメリカの大統領と大統領(2012年) ビルマは中立的な立場による等距離を基本方針としているが、10月にはを起こしたとを断絶した(に国交回復)他、7月には(ASEAN)に加盟している。 また、諸国とは、ビルマ国内の問題や政治のをめぐる問題で対立しており、や(EU)からはを受けている。 その一方で、方面への進出口を求めている中国からは多額の援助を受けている他、インドとは経済的な結びつきを強化しているなど、近隣の大国とは比較的良好な関係を築いている。 また、軍事面から北朝鮮との関係が改善している。 歴代のタイ政府は、タイ・ビルマに展開する反軍政民族武装勢力の存在を基本的に黙認し、ビルマ国軍とのとして利用してきた。 また1990年代の(、両政権)はビルマ軍政の政策に批判的な立場を取り、軍政との関係も決して良好ではなかった。 しかし1990年代後半にはらが提唱する「建設的関与」論が力を持った。 タイ政府はビルマとの距離を縮める方向に傾き、1997年のビルマのASEAN加盟にも賛成した。 これは軍事政権の長期化を踏まえた上で、に向けた努力を後景に退かせ、国境地域の天然資源確保や国境貿易の拡大による経済効果を優先した結果である。 ASEAN加盟後のタイの政権やマレーシア政府の取り組みの積極性は、少なくとも主観的には、ビルマを地域政治の枠組みに入れた上で、民主化を促す点にあった。 ビルマへの「建設的関与」策が成功すればASEANの国際的地位を飛躍的に高めるはずだったが、ビルマ軍政は自らの支配を危うくするあらゆる改革に反対する姿勢を貫き、この舞台に乗ることは決してなかった。 アウンサンスーチー襲撃事件と同氏の自宅軟禁の継続、キンニュン元首相の更迭劇、首都移転、ASEAN側が派遣した特使への丁重とはいえない処遇といった一連の政治的動きは、ASEANの「建設的関与」策が短期的には奏功しないことを示した。 チャワリットに代表される経済優先路線を拡大したのが政権である。 同政権は国境の反政府武装勢力への圧力を強め、タイ国内の反政府活動家やへの取締を強化している。 、アメリカとイギリスは軍事政権にアウンサンスーチーを始めとする全ての政治犯の即時釈放を求める非難決議を提出し、で採決した。 しかし、中国とがを発動し、否決された(賛成は米、英、など9カ国。 反対は中、露、の3カ国。 棄権は、、の3カ国)。 ASEAN諸国では、軍事政権への非難には慎重論が強い。 2007年10月11日、国連安全保障理事会は、僧侶やらによるに対する軍事政権の実力行使を強く非難する議長声明案を、全会一致で採択した。 旧来は中国や北朝鮮といったと親密であったミャンマーであったが、2011年以降急速に進んだ民主化により、それまで冷え切っていた欧米との関係が改善した。 アメリカの国務長官はネピドーを訪れた際、北朝鮮と縁を切るよう公式にミャンマー大統領との会談で要請した。 対日関係 [ ] 詳細は「」を参照 ビルマは11月の(サンフランシスコ講和条約)締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。 特にネ・ウィンは的な政策をし、このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしたともいわれる。 日本は欧米諸国とは対照的に、の軍事後に成立したをいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けた。 ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、から停止されている。 ビルマの軍歌には『』の旋律を流用したものがあり(ただし、歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られる)、ビルマ軍部の親日的傾向を示す根拠として提示されることがある。 1981年4月、ミャンマー政府は独立に貢献したのら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」の授与を行った。 日本ではのに日本国内最大のコミュニティが存在し、店や教室などが集中している。 在日ビルマ人は約8千人(2010年)。 2012年2月、日本政府は郊外のの・・・、次世代といった最先端の整備を請け負った。 実際の開発はミャンマー側が日本企業を誘致して行う。 ミャンマー側も、日本に開発を委ねる意思を大統領が示していた。 軍事 [ ] 詳細は「」を参照 は1942年に創設されたビルマ独立義勇軍をその起源とし、国軍最高司令部、陸軍司令部、三軍情報司令部、空軍司令部と海軍司令部などからなる。 現有兵力は約41万人で、陸軍37万5千人、海軍1万6千人、空軍1万5千人からなる。 この他に警察部隊7万2千人と3万5千人が存在する。 陸軍は13の軍管区を中心に編制されている。 海軍基地、空軍基地が各6個ある。 長年、志願兵制であったが、2011年に徴兵制が敷かれた(詳細は不明)。 1950年代にに巻き込まれた経験から対外的な軍事同盟締結を拒否し、原則的に外国に対して軍事基地を提供していない。 ただし、中国は例外で、6月から ()を賃借しており、中国はレーダー基地とを建設している。 この中国の海洋戦略はと呼ばれ、アメリカ・英国・インドのインド洋における制海権に対して挑戦するものとの見方もあるが、中国にとってもとのを守るエネルギー戦略上の拠点となっている(を参照)。 近年ではこの中国の支援に対抗する形で、小規模ながらインドからも航空機や中古戦車の装備の導入が始まっている。 1990年代までは「反共」を標榜する独自の社会主義であるビルマ式社会主義を取っていたため、旧からの支援はほとんど行われず、にしてものようなケースと異なり限定的に装備の提供を行ってきた。 1990年代以降はアメリカからの支援は断絶状態となった。 代わって台頭しつつあるのが中国やロシア、インド、ベトナム、、(制裁によって直接製造国からサポートできなくなった旧西側製装備の修繕など)であり、や、等の導入はその表れである。 さらに以降冷え切っていた北朝鮮との関係が1996年頃から軍事・政治面で改善した結果、・などの武器購入や基地建設の技術支援交流や軍人交流訪問等が行われている。 その一方で、中国はなどのミャンマー・中国国境に展開する反政府勢力への支援も継続しているといわれている。 また、外交関係が不安定であることから、古くから軍備の国産化が進んでいる。 既に(や等)や弾薬、暴徒鎮圧用の軽などは国産での調達が可能と言われる。 海軍が保有しているもミャンマーにて建造されたものである。 ミャンマー軍のは迷彩柄で、形はがかつて採用していたヘルメットで(通称フリッツヘルメット。 同型のヘルメットを軍で使用している中国からの輸入であると考えられる)あり、ヘルメットの中央部に白い五角星があしらわれている。 少数民族の民兵組織 [ ] 2009年現在も、 () KIO の軍事部門である KIA 、旧の流れを汲む () UWSA 、の軍事部門である、 SSA 、の組織である MNDAA などがあり、なかにはカレン民族解放軍の分派 DKBA のように親政府の民兵組織まで存在する(その後、反政府に転向。 同項参照)。 1990年代初頭にビルマ共産党が内紛で崩壊した事により、キン・ニュンが同党の後身組織であるワ州連合軍との停戦を成立させたのを皮切りに、カレン民族解放軍や(都市部での学生運動を端緒としており他の民兵組織と異なるが、弾圧により地下組織化した) () ABFSU などを除いてほとんどの組織は政府軍との停戦に応じている。 ただし、この停戦は投降には程遠く、いずれの組織も武装解除にはほとんど応じず独自の解放区を維持し続けている。 政府側は解放区における民兵組織の既得権益を追認し、その一方で解放区内に政府軍や警察部隊を進駐させるなど「飴とムチ」の構えをとっている。 特にUWSAやSSA、MNDAAは製造を続けている一方で国内でや銀行などの合法も行なっており、現在でも中国などから入手した高度な装備を保有している。 UWSAなどシャン州の民兵組織は中国・ミャンマー国境の軍事的に重要な地域に支配地域が存在しており、で中国偏重になっているミャンマー経済の生命線を握っているともいわれる。 これらの民兵組織は現在も停戦を続行しているものの、軍事政権内で和平推進派であった派の失脚や停戦条件である自治拡大が実行されていない事などから反発を強めているともされている。 とくに最近では和平推進派が軍事政権内で減退した事から強硬派が強まっているとされ、2009年には麻薬を発端としてMNDAAとミャンマー政府軍が交戦状態に発展した。 このほかの各民族の私兵にも自主的に解散もしくは国軍指揮下のへ編入するかを要求したが、全民兵組織から拒否されて頓挫した。 2013年1月現在、国軍とカチン独立軍は交戦状態にあり、カチン州では難民が発生している。 かつて麻薬王として知られた率いるモン・タイ軍は自主的に解体されたものの、同軍の将兵はUWSAなどに流れていった。 旧ビルマ共産党は同項目に書かれている経緯から分裂して消滅しており、の残党も高齢化や国際支援の消滅、クン・サなどの分派の登場などから既に過去の存在となっている。 核兵器開発疑惑 [ ] 詳細は「」を参照• (旧称: シリアム) -• (旧称: アキャブ)• (旧称: タヴォイ)• (旧称: メルギー - : Mergui) 軍事政権が変更した町の名称 [ ] 軍事政権はにビルマをミャンマーに変更し、それと同時に町の名称などを1000以上変更した。 ここでは軍事政権が変えた町の名称を紹介する(日本語表記は、などを参照)。 陸では中国、タイ、ラオス、インド、バングラデシュと国境を接し、境界線の総延長距離は約4,600kmに達する。 最高地点は北部国境の 海抜5881m)。 の北西部をタイと分かつ形で約400km南方に国土が延びる。 海側はとに面し、海岸線の全長は約2,000kmである。 両海の境となるとはどちらもインド領である。 気候 [ ] 国土の大半が熱帯又は亜熱帯に属するが、気温や降水量は地域による差異が大きい。 ベンガル湾やアンダマン海の沿海部は年間降水量が5000mmを越える有数の多雨地域で、ケッペンの気候分類によれば典型的な熱帯モンスーン気候 Am を示す。 マンダレーやバガンが位置する内陸部は熱帯サバナ気候 Aw で、年間降水量が1000mmを下回る地域がある。 またシャン州、カチン州やチン州といった山岳地帯は、温暖冬期少雨気候 Cfw に分類される。 最寒月の平均気温が18度を下回る地域があり一部では降雪も見られる。 人名 [ ] 一般的に姓は持たない。 必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。 また、名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決める。 命名は、ビルマの七曜制や月の名前、土地の名前等から付けられることが多く、このため同じ名前を持つ者が多い。 従来は、のような1語やなどの2語の名がほとんどであったが、独立後からアウン・サン・スー・チーのような4語や5語の名前が見られるようになった。 アウン・サン・スー・チーのように、子の名前に父祖の名前を組み込むこともある。 いずれにせよ、マオ・マオ・リンのように1語として呼称することが一般的であり、一部ののように英語名がない限り一部だけを読むことはない。 外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められるような状況)で、便宜的に敬称や尊称や謙称を使って、とする場合もある。 男性敬称のウー(ウ)や女性敬称のドオ(ドー)が用いられ、国連事務総長を務めたウ・タントなどがその例である。 ビルマ語でのウーは英語のミスターなどと違い、自称もされる。 なお、結婚しても婚姻相手の名前を名乗ることは稀で、が原則である。 教育 [ ] 11月(伝統暦では8番目の月ダザウンモン)の灯祭りで打ち上げられる熱気球(: ミーボウンビャン あるいは ミーボウン)。 伝統暦8番目の月( )にあたり、が打ち上げられる。 竹山道雄『』• 『』監督• 『』 脚注 [ ] []• 2018年10月. 2019年2月5日閲覧。 南部、ミャンマー南部沖には、領のが位置する。 原田正春・大野徹 編『ビルマ語辞典』日本ビルマ文化協会 1979 1990改訂版• 加藤昌彦 2016. 『ICD NEWS』 第69号: 8-26. アムネスティ. 2020年5月27日閲覧。 によるのひとつ。 当時、 ()(-)には・・・が含まれていた。 当時のには現在の、、、が含まれていた。 後に各州は分離され、北東部はで知られるとの係争地となり、に ()として分離され、にとなった。 後にになった。 Ka Kwe Ye means "defence" in , and is used as the name for regional defence forces. Smith, Martin 1991 Burma - Insurgency and the Politics of Ethnicity Zed Books, London, p. 221• Asia Pacific Media Services, March 2000. 2009年1月6日閲覧。 2010年10月22日. 2011年1月9日閲覧。 2016年3月30日閲覧。 AFPBB News. 2013年3月22日. 2013年3月24日閲覧。 (2017年9月20日)2017年10月4日閲覧• 『』(2017年9月13日)2017年10月4日閲覧• Asia Times Online. 2009年7月15日. 2012年1月2日閲覧。 (英語) "I will be an ordinary citizen, a lay person, and my colleagues will too because it will be a civilian government. MSN産経ニュース 2010年2月14日. 2011年1月9日閲覧。 MSN産経ニュース 2010年2月15日. 2011年1月9日閲覧。 MSN産経ニュース 2010年10月22日. 2011年1月9日閲覧。 『朝日新聞』2010年11月15日• asahi. com 朝日新聞社. 2011年3月30日. 2011年4月3日閲覧。 MSN産経ニュース 産経新聞社. 2011年3月30日. 2011年4月3日閲覧。 『朝日新聞』. 2011年8月12日. 2011年8月17日閲覧。 2011年10月12日. 2011年10月13日閲覧。 MSN産経ニュース 産経新聞社. 2011年11月5日. 2011年11月7日閲覧。 『毎日新聞』2010年8月31日• 在ミャンマー日本国大使館. 2012年1月2日閲覧。 2010年11月には制度に基づく総選挙を20年ぶりに実施した結果、連邦連帯開発党 USDP が連邦及び地方議会の双方で8割近くの議席を獲得して圧勝しました。 [ ](読売新聞 2012年4月2日)• 外務省 2017年6月. 2019年2月5日閲覧。 【アジアFocus】ミャンマー「危険」印象払拭に奔走/日韓観光客、今月からビザ免除/官民で対策日本の「ゆるキャラ」を活用『』2018年10月8日(グローバル面)。 Graeme Jenkins. , Telegraph, 2008年1月14日(2010年6月20日閲覧)• 2012年3月19日時点のよりアーカイブ。 2014年1月7日閲覧。 一般社団法人日本貿易会. 2016年4月27日閲覧。 『』朝刊2018年6月27日(国際・アジアBiz面)2018年6月29日閲覧。 2011年2月7日. 2011年2月8日閲覧。 『日本経済新聞』. 2014年10月1日. 2014年10月25日閲覧。 2014年10月22日. 2014年10月25日閲覧。 「教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章」『』2014年2月26日• 2012年2月29日. の2012年2月29日時点におけるアーカイブ。 2015年8月25日閲覧。 International Institute for Strategic Studies IISS , The Military Balance 2008• 2010年6月4日. 2010年6月5日閲覧。 アル・ジャジーラ. 2010年6月4日. 2010年6月5日閲覧。 『産経新聞』. 2010年12月10日. 2010年12月11日閲覧。 メルグイとも• 英語版 の数値• Department of Population Ministry of Labour, Immigration and Population MYANMAR July 2016. The 2014 Myanmar Population and Housing Census Report Volume 2-C. Department of Population Ministry of Labour, Immigration and Population MYANMAR. 12—15• 『物語 ビルマの歴史 王朝時代から現代まで』中央公論新社、2014年• Daw Mi Mi Khaing,• 『朝日新聞』夕刊2018年4月12日(2018年5月6日閲覧)。 , p. 佐滝 2006 『旅する前の「世界遺産」』〈〉、p. 203• 『ビルマ ミャンマー 語辞典』大学書林、2000年、490頁。 関連文献 [ ]• 元杉 昭男「ビルマの農業」『農業土木学会誌』第54巻第6号、農業農村工学会、1986年、 570-573頁、 :、 2016年12月4日閲覧。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 ミャンマーに関連する および があります。 に関連の辞書項目があります。

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ミャンマー語文字(ビルマ語文字)を学ぼう!「あいうえお」 は「カカガガンガー???」

ビルマ 文字

以前の1990年代は、ほとんどのビルマ語フォントはアルファベットの領域に直接文字を割り当てていた。 ビルマ語フォントは国による標準も国際標準もなかい無法状態だったったので、文字の配置もフォント作成会社が各社独自に決めていた。 当然、フォント毎にキー配列が違っていた。 2000年以降、UNICODEがだんだんと使えれるようになってきて状況がちょっと変わってきた。 UNICODEでは世界中の多くの言語と同じように、ビルマ語も特定の領域を割り当てられた。 やっと国際標準の仲間入りができたのだ。 ただ、英語以外の文字は入力するために何らかの仕組みが必要だ。 日本語だとUNICODE以前からキーボードには標準でJIS日本語キーボードがあり、WindowsもMacもOSの中に標準でカナ入力とローマ字入力という2種類の日本語入力システムを提供していた。 どんなフォントを使おうが入力方法はこの2つから選べばいい。 タイやインドや中国など多くの国で同じように標準の入力システムがあった。 でも、ミャンマーは違った。 WindowsやMacがビルマ語をサポートしていないので、OSの中にビルマ語の入力システムがない。 フォントを作成している会社が入力用ソフトをセットにして提供しないといけないのだ。 国による標準があればまだよかったのだが、それもなかったため、フォント作成会社がまたもや各社毎にキーボードの文字配置を決め、その入力システムとフォントをセットにして提供した。 その結果、UNICODE以前と同じようにフォント毎に入力方法が違ってしまった。 ただし、違うといってもビルマ式タイプライターの流れを汲むものがほとんどなので、基本文字の位置は大体同じだ。 ビルマ語は基本文字に符号が付随して合成文字を構成するのだが、その符号や合成文字の書き順が各フォントで違っている。 今まではフォントと入力システムがセットになっていたが、最近入力システムだけのものも出てきた。 そのひとつがという入力システムだ。 ここのサイトはオンラインビルマ語入力になっていて、 ブラウザとネット環境さえあればWindowsでもMacでもUnixでもすぐに利用できる。 ビルマ語フォントはあらかじめインストールされていないといけないが、, , , , などを使用できる。 Burglishの入力方法で面白いのは、日本語のローマ字入力と似ているところだ。 日本語のローマ字入力のようなBurglish myanとタイプすれば、myanと発音するビルマ語の候補が9種類出てくるので、その中から選択する。 日本語のローマ字入力と似ている。 これなら新しいキー配列を覚える必要がないし、ビルマ語を多少しゃべれるが文字を覚えていないという外国人には使いやすい。 ミャンマー人でもビルマ語入力の初心者には好評だ。 Burghishという名前自体、BurmeseとEnglishを合体した造語みたいだ。 また、Burglish式以外にも文字リストからマウスで選択する方法と、ビルマ式タイプライターの方法も使える。 実際に使うときは、ブラウザに表示されたビルマ語をコピー&ペーストでワープロやメール等のソフトに貼りつける。 ソフトをインストールしなくていいので、気軽に使うことができる。 Burglishはオンラインだが、オフラインでも使えるのが、パソコンにインストールするだ。 残念だが、Windows用しかない。 こちらもWaitZarタイプと称しているローマ字入力式があり、myanと入力すると候補が出てくる。 ただ、Burglishの場合は候補が9種類出てきたがWaitZarは2種類しか出てこない。 どちらがいいのかビルマ語のよくわからない私にはわからない。 また、WaitZarにもビルマ式タイプライターの入力方法もある。 Burglishと似ているが候補の数が少ないWaitZar ローマ字式ではというのがある。 インストールするとMyanglishとかMyRomanという名前のローマ字入力式が可能だし、タイプライター式も使える。 ただし、注意が必要。 3年くらい前にWindows XPにインストールしたらいくつかのソフトで日本語が文字化けするようになった。 どうもMyMyanmarが原因だったようだ。 MyMyanmarのWEBサイトにも、システムレベルまで変更を加えているというような記述がある。 インストール時にビルマ語での説明しかなかったため、適当にクリックしてインストールしたのが悪かったのかもしれない。 今のバージョンがだいじょうぶかどうかは不明だが、十分注意が必要だ。 最近知ったのは、というオープンソースの入力システムだ。 ローマ字式はないがビルマ式タイプライターは, , , と各種揃えている。 それに、Windows, Mac, Linux用と対応しているのがすごい。 それになんといっても、オリジナルのキー配列を作れるのだ。 これを利用すると、WindowsでMac式もできてしまう。 キー入力タイプが選べる 他には、各フォントが用意している入力システムがある。 多くのビルマ語フォントはダウンロードするとフォントだけじゃなくて入力システムもインストールするようになっている。 ただ、フォントによってはこの入力システムがPCに悪さをする。 **をインストールしたらPCの調子がおかしくなったというミャンマー人も多い。 それに、使用フォントを変えるたびに入力方法も変えるなど日本人からするとありえない。 ということで、フォントはフォントのみインストールするのがいいだろう。 最後の入力方法はだ。 これはタイプライター式とローマ字式のいいとこ取りをした入力システムだと思う。 来年発売されるWindows8ではビルマ語がサポートされる。 現在の開発者版ではキー入力はタイプライター式であるMyanmar3とほぼ一緒だ。 正式発売のときはどうなるか楽しみだ。 ここで、各入力方法をまとめてみた。 ビルマ語の入力が多い人の場合、WindowsならKeyMagicがおすすめ。 インストールが必要だけど安全性が高いし、やる気さえあれば自分でキー配列を作ることだって可能だ。 Macの場合はLionに採用されたMac式が一番。 ただ、従来のタイプライター式に慣れている人だったらWindowsと同じくKeyMagicだ。 そして来年Windows8が出たら、一気にWindows方式が標準になりそうだ。 ここに書いたビルマ語の入力方法、自分で実際に使ったりネットで情報を集めたが間違っているところもあるかもしれない。 詳しい方、教えてください。 次回はUNICODE編を予定しています。

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【ミャンマー語の数字記号】覚える書き方&読み方(発音/音声付き)ビルマ語基本文字

ビルマ 文字

その点をご了承ください。 なお、Unicode対応ビルマ文字フォントの入手に関しては、次のリンク集が有用です。 はじめにお断り。 当サイトでは(少なくとも私は)ミャンマー語という呼称を用いず、 伝統的な「ビルマ語」という呼称を用いることにする。 ついでに国・地域名を言うときもビルマということにする (ああ、昔朝鮮半島にかかわっていたとき、 言語の名前について何度こういう不毛な争いをしたことだろう)。 目下サンスクリットに力を入れている私がビルマ語に浮気している暇などまったくないのだが、 なぜビルマ文字を打ちたく思うかには理由がある。 実はこっそり「まんどぅーかのパーリ語ページ」を準備しているのだが、 そこで使う文字が問題になる。 ご存知のとおりパーリ語はスリランカ、 ビルマ、 タイ、カンボジア、ラオス、 各国でめいめい異なる文字で書かれており、 統一した文字がない。 そのうちのどれを使おうかというわけである。 もちろん基本的にはローマ字だけでいくつもりである。 統一した文字がないということはローマ字だって立派なパーリ語を表記する文字といえるのだ。 ここでは、ホームページなどに使う画像のような、お遊び、飾りとしての文字の話。 サンスクリットページではローマ字とデーヴァナーガリー、 ウルドゥー語/ヒンディー語ページではデーヴァナーガリーとペルシア文字で書いてあるでしょう。 あれをどうするかということである。 実は「まんどぅーかネット」はサンスクリットでもパーリ語でもまったく同じ、 になってしまうから、 デーヴァナーガリーやローマ字じゃまずいんだな。 Unicodeでは スリランカの シンハラ文字、 ビルマ文字、タイ文字、ラオ文字がサポートされているようであるが (クメール文字サポートしなくていいのかな?)、 このうち目下Windows XPで入力できるものといえばタイ文字だけである。 他の文字はコードを打ってもArial Unicode MSに入っていないので表示されない。 タイ文字を使ってもいいんだけど、いまいちあれはインドっぽくないんで、 できればシンハラ文字を使いたい。 ただ、私の力ではシンハラ文字のフォントを配布しているサイトを発見できず、 ビルマ文字のフォントは発見したので、とりあえずこれでいくことにしたというわけである。 その後次のサイトからシンハラ語のフォントは入手できた。 現在いろいろ調査中である。 私が見つけた無料ビルマ語フォントは次のサイトで配布しているものである。 これは、英数字部分をフォントを変更することによって擬似的にビルマ語に見せるというしかけである。 一昔前、Windows95の時代あたりまでは、 Windows自体が、またその上のブラウザや各種ソフトがまだ多言語に対応しておらず、 そういうころに出たKorean Writer 高電社 のような朝鮮語ユーティリティは、 日本語のコードにハングルをわりあてて、 フォントを切り替えることによって擬似的に韓国語に見せていた。 ちょうどその要領というわけである。 まず、キーボードレイアウトは次のようになる。 これは英語用の101キーボードでの話である。 日本語キーボードの場合、特殊記号の位置が違うので、次のようになる。 私はビルマ文字の読み方はなかなか覚えられないと思うので、 次のような表を頼りにしないと入力できない。 それにしても、似たような字形の文字を同一にしてしまったり、 組み合わせでできてしまうものは組み合わせで入力するようになっていたり、 論理的には後にくる音素でも物理的に左に来るものは先に入力しなければならなかったり、 なかなかやっかいではある。 念のため書くが、 の文字はデーヴァナーガリーの みたいに左からかぶせる方式。 それから は左右からかぶせる。 と の2文字用、1文字用というのは、 2文字用の記号をマル1つ分の文字に使っちゃうと、 たとえば の文字に の記号をつけちゃうと、 の文字になってしまうので、 マル1つ分の文字には1文字用のやつを使うのである。 と の記号は、 のあとでは長いやつを使う。 具体的にはシフトKとシフトLを使って入れる。 は独立形の と同じだが、ホントは最後がちょっとハネる感じになる。 これは用意されていないようだ。 現代ビルマ語では のほうの字形を使うからだろうか。 それから 、 は、 下の横線が短くなる。 これもちょっと処理のしようがない。 だからメールなどに用いても無駄である。 まあ相手も同じフォントを用意してあり、 かつホントの英数字とまぜたりしないとか、 ここからここまでがビルマ語だよという範囲を指定するなどすりゃ別だけどね。 ましてやWEB作成になんか使えないので、 あくまでローカルにこのフォントを使って作ったものを画像ファイル化して使うことになる。 思いもよらないことも起こる。 最初Microsoft Word上で使っていたら、 なぜかスペースキーを打つと文字が入力されるのだ。 具体的には、左側があいた輪、 上の表では日本語キーボードの_(下線)の位置にある文字(対照表にナシ)である。 何かと思ったら、半角スペースの表示記号だった。 そう、私はWordではスペースだの改行記号だのをすべて表示するようにして使っていたのだが、 それらの記号類までがこのフォントの使用によって別の文字になっちゃったわけだ。 このフォントを使うときだけは半角スペースを非表示にすればいいわけであるが、 こんなことは他のフォントでは起こりえないだけに、びっくりしてしまった。 システム的にしっかりサポートされていない文字の使用はつらいものがある。 将来(ないと思うが)もしパーリ語をローマ字以外の文字で書かねばならなくなったら、 タイ文字かデーヴァナーガリーのほうが楽だね、これは。

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