小河内ダム 貯水率 リアルタイム。 順位表[全て] 総貯水容量順

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五ケ山ダム 所在地 左岸: 大字五ヶ山字東小河内・大字松隈字小川内、大野 右岸: 福岡県那珂川市大字五ヶ山字倉谷、大野 位置 河川 那珂川 ダム型式 堤高 102. 5 堤頂長 556. 0 m 堤体積 935,000 湛水面積 130. また那珂川支流の大野川()からも注ぐ。 なお、堤体所在地は「五 ヶ山」(小さい「 」)であるが 、ダム名は大きい「五 ケ山」(大きい「」)である。 概要 [ ] 下流の、上流のに続いて那珂川に建設された3つ目のダムである。 福岡県が維持管理する。 五ケ山ダムの用途はこれらの2つのダムの用水目的とは大きく異なり、対策と異常対策を主目的とする。 上水道用水および流水維持対策が副目的となる。 また、ダム規模としては福岡市や福岡・筑後・佐賀東部の水がめとして地元で有名なを大きく上回り、2018年10月時点で福岡県内 最大の総貯水容量を持つ。 建設に伴い、湖底に沈むなど影響を受ける、、那珂川市道大野橋東小河内線、倉谷七曲線等の各道路については、それぞれ付替道路 が新たに建設された。 2017年時点でダム湖周囲の主要付替道路は完成している。 ダムは竣工したが、2019年6月現在、試験湛水でサーチャージ水位に達していないため供用開始には至っていない。 2019年2月14日からは渇水のため供用開始に先立って放流が行われており 、試験湛水はさらに遅れる見通しである。 なお、異常渇水時には福岡市水道局、、春日那珂川水道企業団が取水予定である。 なお、流域の・からは福岡市水道局がそれぞれ6. 5万・8. 経緯 [ ]• 度 ダム事業の実質的着手である実施計画調査を開始。 度 建設事業採択。 度 公共事業再評価等監視委員会による事業再評価。 国のダム事業の検証において、事業継続が決定される。 ダム本体工事に着手。 にはほぼ竣工。 試験湛水開始。 満水には1年半程掛かる見通し。 竣工式典実施。 住民移転 [ ] ダム工事や付替道路建設に伴い、福岡県筑紫郡那珂川町(現・那珂川市)大字五ヶ山字東小河内、網取、道十里、桑河内、大野(この5字を以て五ヶ山の地名の由来となっている)や大字松隈字小川内、大野などに点在した集落の住民は、補償妥結の上で、下流の福岡県の那珂川町平野部や、佐賀県の佐賀平野部等に集団移転した。 その他 [ ] 佐賀県側の小川内地区にあった山祇神社 やまづみじんじゃ 境内に佐賀県天然記念物指定の高さ39m、樹齢700年以上の「小川内の杉」があり、地元住民に「ご神木」と呼ばれていた。 ダム工事に伴い水没するため、事業者が工費約7. 8億円を全額負担の上で、山腹斜面にコンクリート製路盤および移動用レールを建設するなど大掛かりな工事が行われた。 杉と根元、移動鉄枠含めて総重量560トンで、2016年4月に21日間をかけて元の場所から43m上方の山腹(付替道路そば)へと移植された。 また、ダム工事の一部に自動振動ローラー(地ならし用)、自動ブルドーザーが使われている。 なお、五ケ山ダム北方の手前の網取地区には、縄文時代から中世までの集落跡である五ヶ山網取遺跡がある。 ダム左岸が福岡県にあるもの。 五ヶ山バイパスと呼ばれていたようであるが、詳細は不詳(公共発注工事名には存在する)• 福岡県五ケ山ダム建設事務所. 2018年7月28日閲覧。 福岡県県土整備部河川管理課 2019年2月12日. 2019年7月10日閲覧。 www. pref. fukuoka. 2018年10月14日閲覧。 2018年4月7日閲覧• プレスリリース , 福岡県 県土整備部 河川開発課, 2016年10月20日 , 2018年7月28日閲覧。 - (2017年2月2日アーカイブ分)• 2018年4月7日閲覧• 佐賀新聞. 2016年11月12日. 2018年7月28日閲覧。 佐賀新聞. 2015年6月19日. 2018年7月28日閲覧。 - (2017年3月13日アーカイブ分)• 佐賀新聞. 2016年5月2日. 2018年7月28日閲覧。 佐賀新聞. 2015年9月7日. 2018年7月28日閲覧。 福岡県五ケ山ダム建設事務所、「」、第27号、p. 2「 」、2016年6月発行• 長町基 2017年1月16日. Building IT. ITmedia Inc.. 2018年7月28日閲覧。 [ ]• 島津翔 2016年8月2日. 日経ビジネスオンライン. 日経BP社. 2018年7月28日閲覧。 今井涼子; 岡寺未幾; 岸本圭; 佐々木隆彦; 飛野博文; 吉田東明 2013-03-31. Report. 九州歴史資料館. 2018年7月28日閲覧。. 関連項目 [ ]• ・ - 当ダムは、実施計画調査開始から竣工まで35年を要する長期化ダム事業となった。 外部リンク [ ]• , - 福岡県• - (佐賀新聞社提供、2018年6月27日公開).

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多摩川の「はじまりの場所」へ 東京に潤沢な水を供給するため、戦前に竣工し、昭和年に完成した小河内ダム。 私、特にダムマニアではないのですが、この小河内ダムには必ず行かねばならないと強く思っていました。 なぜならば・・・ 多摩川は「小河内ダム」からはじまるから!! いつも自分が愛でている多摩川の 「はじまりの場所」がどんな場所なのか気になる! ということで、妻と、生まれたばかりの娘(4ヶ月)を説得して、「小河内ダム」がある奥多摩湖(小河内貯水池)に行ってみることにしました。 はじまりの場所はここ 私が住んでいる場所は多摩川の中流(ほぼ下流)域。 小河内ダムがある奥多摩湖までは約70km、車でだいたい2時間弱という感じですね。 東京都の最西端ですが、意外と短時間で行けるみたい。 公共交通を利用する場合はJR青梅線に乗って奥多摩駅からバスを利用するのが良さそうです。 今回は車で行ったのですが、思ったよりも細いくねくね道がなくて、意外と簡単に来れるんだなー!という感じでした。 (道中の様子は記述するのが面倒なので端折ります。 ) というわけで、いきなり到着です。 ここが奥多摩湖、小河内ダムがある小河内貯水池だ!! 一面に広がる水面と碧々とした山肌。 人造湖なんだけど、なぜか自然を感じてしまう不思議さ。 周囲には小河内ダム建造に関する資料が掲示されています。 こういう情報はオンライン上に存在しないものが多いので、必ず写真で抑えておきましょう。 ダムの真上に展望台があるので、そこを目指すことに。 ダムの真上にやってきた 小河内ダムの看板、格好いい!奥に見える塔が展望台です。 この道の右側が 小河内貯水池、左側が 多摩川の起点。 ここで、展望台に行くまで我慢できず、多摩川の起点を見下ろしてみることに。 ダムの上からゆっくりと下を覗き込んで見る。 見えた! ここが多摩川の「はじまりの場所」! 一人で興奮してしまい何枚も写真を撮る。 一眼でもiPhoneでも撮る。 Twitterでも自慢する。 みなさん、ここが の始点です!! — 多摩川を愛でる会通信 TamagawaLovers だって、ここが多摩川の「はじまりの場所」なんだもの。 奥多摩湖の水は、ここから流れ落ちて羽田まで行くんだ! 『さっさと展望台に行くぞ』と言いたげな顔をしている妻と、いつの間にか寝てしまった娘の存在に気づき、 気を取り直して展望台へ。 階段でしか上に上がれず、ベビーカーで寝ている娘は連れていけないね、交代で上に行こうかと妻に相談していたところ、 警備員のおじさんが 「いいよ、見ているから二人で上にいっておいで」と言ってくれた。 超いい人! お言葉に甘えて妻と二人で階段を登り上に行ってみる。 最上階に行くまでの間の階に、小河内貯水池全景の模型が設置されていました。 よくできてるよね。 自宅にこれがあったら晩酌しながら永遠と見ていられそう。 最上階に到着!海外のお客様が二名いらっしゃいました。 床全体が小河内貯水池の地図に。 鳥瞰図っぽくて、見ていて楽しい。 そして、さっき見ちゃったけど、もう一度多摩川の「はじまりの場所」を見下ろしてみる。 うーん!相変わらずいい! 反対側を向くと、貯水池側も一望できます。 ・・・来てよかった(涙)。 さて、 いつ娘が目覚めて号泣するかわからないので(警備員のおじさんを困らせたくない)、あまり長居せずに下に降りることに。 初めて両親以外の人に娘を預けたので、『もし下に降りて誰もいなかったらどうしよう』という不安もあったんだけど、ちゃんと娘はいたし(まだ寝ていた)、警備員のおじさんも相変わらずいい人でした。 奥多摩は、平和です。 実は、奥多摩にやってきたのはまだ目的があり、それはまた別の機会にお伝えするとして、 ひとまず今回の「多摩川のはじまりの場所」に行くという目的は無事達成できました。 初めてダム上から多摩川のはじまりの場所を見下ろした感動は一生忘れないだろうな。 まだまだあるぞ、小河内ダム この他にも小河内貯水池には様々な見どころポイントがあるので、以下に淡々と解説して今回のレポートと終えようと思います。 ドラム缶浮き橋 奥多摩湖には2つの浮き橋があるんですが、昔は浮き橋にドラム缶が使われていたんだそう。 ダムを渡り終わって、奥の方に何気なく展示されていました。 慰霊塔 ドラム缶の近くに慰霊塔もありました。 小河内ダム建造の際には87名の尊い命が犠牲になったそうです。 格好いい水門 小河内ダムの脇にある水門。 格好いいので思わず見入ってしまいました。 はしごじゃなくて、螺旋階段なところがいいです。 堰とか橋架って質実剛健な建築だと思うんですが、たまに設計者の好みみたいなものが垣間見られるときがあって非常に興味深い。 巨大で重厚な水門は左右のワイヤー6本で上げ下げできるみたいでした。 意外とシンプルなんですね。 リアルタイム小河内ダム 管理事務所的なところには、今の小河内ダムの情報が掲示されていました。 貯水率88. 小河内ダムカレー 小河内ダムの向かいには「水と緑のふれあい館」という展示施設があって、中には食堂もあります。 ここで食べておきたいのはなんといっても「小河内ダムカレー」でしょう。 さっき紹介した浮き橋もちゃんと表現されています。 湖底の故郷石碑 こんな石碑も発見。 湖底に沈んでしまった故郷のことを謳っています。 歌の解説は長くなってしまうのでまた別の機会に。 奥多摩の旅はまだまだ続きます。 ***.

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河川 天竜川 ダム湖 佐久間湖【】 ダム型式 堤高 155. 5 堤頂長 293. 5 m 堤体積 1,120,000 流域面積 4,156. 5 湛水面積 715. J-POWER が管理する高さ155. 日本第9位の高さ と第8位の を有する日本屈指の巨大ダムであり、戦後日本の土木技術史の原点となったに刻まれる事業である。 佐久間発電所とにより最大147万5000キロを発電するを主目的とし、副次的にの水源にもなっているほか、(平成16年)より目的を付加してとするがによって進められている。 ダムによって形成されたは 佐久間湖と命名され、に選定されたほかに指定されており、地域の主要な観光地になっている。 地理 [ ] ダムのある天竜川はを水源とし、との間を縫うようにして南に流れる。 上流より、が建設されており、佐久間ダムはその下流に建設された。 ダムは天竜川が大きくするとの合流点の直上流部、とのに建設されている。 ダムが建設された当時の所在地はであったが、ダム完成直後でとなり、によって 浜松市に編入、となったことから現在は 天竜区となっている。 高さ100メートル以上のダムがある政令指定都市は浜松市のほか(・)と(・)がある。 なお、佐久間湖を含めた場合には静岡県・愛知県のほかにも掛かっており、3県にまたがるダムも日本では稀少である。 沿革 [ ] 天竜川は赤石・木曽の両山脈に挟まれており、夏季の多雨と冬季の降雪によって年間を通じて水量は豊富であり、かつ中流部の長野県から静岡県浜松市天竜区、旧付近に至る約80キロメートル区間はなどを始めとして険阻なを刻む急流となる。 このため水力発電を行う上で理想的な河川であることから、時代より水力発電開発の構想が持たれていた。 天竜川の水力発電開発 [ ] 佐久間ダム完成までは天竜川最大の発電用ダムであった 最初に水力発電所が建設されたのは、が設立したによる (出力1,500キロワット)であり 、(2年)に完成した。 続いて(2万4100キロワット)が(昭和4年)、泰阜ダム・泰阜発電所(5万2500キロワット)が(昭和12年)にそれぞれ完成、天竜川の水力発電事業は加速してゆく。 しかし、(昭和14年)、国家による電力統制を目論むの意向で、がを施行したのに伴い、が発足。 天竜川の水力発電所を逐次接収しながら、(昭和15年)より、当時としては天竜川最大規模のダムであった平岡ダムと平岡発電所(4万1000キロワット) の建設を開始するが、の激化に伴い中断を余儀なくされた。 戦時中は民需への電力供給が制限されていたが、敗戦後その制限が解かれ、一挙に電力需要は増大した。 しかし発電所やなどの送電施設は、による破壊や酷使による設備故障で従前の発電能力を発揮できず、また新規開発事業の中断もあって電力供給が著しく衰微した。 このため電力需給のバランスが崩壊し、日本は極端な電力不足に陥り、頻繁にが起こった。 ではにより平岡発電所の建設が再開されていたが、(昭和23年)に日本発送電がの対象に指定され、(昭和26年)にはに基づくにより9に・され、天竜川水系の発電用と水力発電所の一切はに移譲された。 しかし中部電力を含む9電力会社は発足間もないため経営基盤が弱く、電力不足を根本的に解消するだけの大規模な電力開発を行うだけの余裕がなかった。 大ダム構想 [ ] このため当時経済政策全般を管掌していたは、慢性的な電力不足による停電が及ぼす産業復興阻害や治安悪化を懸念し、当時課題であった頻発と食糧不足にも対応するため、戦前が提案したを軸にした河川開発でと電力・食糧供給の改善を図ろうとした。 天竜川流域では長野県が知事(当時)により支流ので治水と発電を目的とした三峰川総合開発事業を(昭和24年)より着手 し、下流では(のちの)によりやへのを目的とした土地改良事業を計画するなど、多方面にわたる開発が企図されていた。 はこのような河川を利用した大規模を推進するため1951年(昭和26年)にを施行し、全国22地域を対象にした「特定地域総合開発計画」を発足させた。 天竜川水系もこの22地域に選ばれ、と、そして水力発電開発を軸とした が(昭和29年)に決定された。 この計画は天竜川上流部には・(三峰川)を建設して治水・発電及びへの灌漑を行い、中流部では大規模なを建設して大出力の水力発電を行う一方で、ダムを水源としてやなどを通じ静岡県西部と愛知県東部の灌漑を行うことが骨子であった。 このため天竜川中流部に大規模なダムを建設する必要が生まれ、が立ったのがダム地点である佐久間地点である。 この地点は両岸が険しい断崖でを形成し、地質も良好であったため大規模ダム建設には理想的な地点であった。 既に(大正10年)より当時のが水利権を獲得し、同社を吸収したや日本発送電が継承して調査を行い、戦後は中部電力がと共同で開発計画を立てていたが 何れも陽の目を見なかった。 佐久間地点が着手に至らなかった原因には、以下の理由がある。 ダム地点の両岸は絶壁に近いで以外に到達できる手段がなく、やを利用していた当時の土木技術では施工が不可能だったこと。 天竜川の流量は特に春季から夏季にかけての流量が膨大である。 ダム本体を建設する前段階として川の流れを現場から迂回させる仮排水路を建設するが、天竜川の洪水期流量 に対応できる大口径のトンネル工事を非洪水期(秋季 - 冬季)の短期間に完成させることが当時の土木技術では困難であり、仮に洪水が襲来すれば再建にかなりの時間を要すること。 川底に堆積したが深さ25メートルにも及び、1の要因もあって掘削・除去するのが困難であること。 日本発送電分割・民営化後に誕生したばかりの電力会社は経営基盤が脆弱(ぜいじゃく)で、単独で佐久間地点にダムを建設だけの資金調達に耐えられないこと。 以上の理由、すなわち土木技術的な問題とそれを支える資金面の問題が複合し、これを解決しない限り佐久間地点のダム建設は不可能であったことから、何れの事業者も結局構想のままで終わっていた。 電源開発への移管 [ ] しかし電力不足解消と天竜東三河特定地域総合開発計画の根幹として佐久間地点のダム建設計画は避けて通ることが出来なかった。 このため政府は(昭和27年)に発足したである 電源開発に天竜川中流部の水力発電開発を委ねる。 その根拠となったのが同年に施行された 電源開発促進法の第3章第13条である。 この条目では• その他の河川等に係る大規模な又は実施の困難な電源開発• 国土の総合的な開発、利用及び保全に関し特に考慮を要するその他の河川等に係る電源開発• 電力の地域的な需給を調整する等のために特に必要な、、又はその他の河川等に係る電源開発 の何れかに合致した地点を電源開発が開発すると定めている。 同法に基づきや、に電源開発は電気事業者として参入するが、天竜川中流部・佐久間地点もこの1と2に該当するため電源開発の開発対象地域となり天竜東三河特定地域総合開発計画に参入、発電用水利権を中部電力より移管した上で同年、会社が発足してわずか1ヵ月後に 佐久間ダム・佐久間発電所の建設を正式に発表した。 補償 [ ] 佐久間ダムは(只見川)・(庄川)と共に電源開発発足当初から主要な計画として進められた。 だが、計画通りダムが建設されると上流の平岡ダムの直下流まで水没範囲が広がる。 この付近は山あいのわずかな平地を利用して集落が点在しておりダムによって248が直接水没、工事用用地建設により48戸が移転、合計で 296戸が移転を余儀なくされる。 また宅地76、農地446ヘクタール、山林4,408ヘクタール が水没するという大規模補償事案となった。 しかも水没物件が多い上に静岡県だけではなく愛知県豊根村・、長野県天龍村と三県にまたがる広範囲な水没地域となることから、補償交渉は難航が予想された。 補償交渉の経過 [ ] (昭和28年)1月電源開発は元副総裁で、当時は電源開発補償担当理事の平島敏夫 を本部長とする「 佐久間補償推進本部」を設置。 補償交渉の下地となる補償基準の作成に取り掛かった。 だが、水没住民の抵抗のみならずの問題から、静岡・愛知・長野三県の当局者はダム建設に対し冷淡な姿勢を取り、積極的な協力体制を見せなかった。 また、ダム建設に伴い天竜川沿いを走るの約18キロメートル区間やが水没するほか、が盛んであったことで流しによる流木が途絶する。 このため住民への補償のほか鉄道補償、発電補償、流筏(りゅうばつ)補償も山積し、平島以下補償推進本部の所属員は「血の小便を流す」ほどの苦難であったと伝えられている。 政府は同年5月、 電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱を閣議決定し、発電用ダム建設に伴う補償対策について電力行政を所管する通商産業省(のちの)が援護する施策を採った。 翌(昭和29年)1月より、まとめられた補償基準を元に住民との補償交渉が始まった。 水没住民はダム建設の重要性を知っていたことから「一等地並みの地価で補償しろ、そうでなければよそでダムを造れ」 というように難題を持ちかけた。 父祖伝来の土地が水没する瀬戸際であることから、住民も真剣勝負であった。 これに対し平島は概ね住民の要求に沿った補償を行う姿勢を採った。 まず佐久間村、豊根村、富山村、天龍村の各町村にそれぞれ対策委員会を設置して団体交渉を行い、個人交渉による不透明な補償を排して透明性の高い交渉を基本とした。 その上で家屋補償では建築技師に1軒ごとの測量と製図、家屋の材料を吟味させて補償価格を決定。 農地と山林については作柄に応じて坪単価・用材別単価で価格を算定した。 また流筏業者を始め、ダム建設によって転業や廃業を余儀なくされる住民には推進本部に所属する社員が木目細やかな対応を行い、就職先斡旋や生活設計相談に応じた。 さらに公共補償については学校、道路、橋梁などの公共物の新築・移築・増築を全て電源開発が請負い、当時の額で17億円を投じて整備を行った。 この佐久間ダムにおける電源開発の補償姿勢は同時期のと同様に高額な補償額での妥結を主としており、河川行政を担当し建設を各地で進めていた(のちの)は、補償額高騰による事業費の圧迫を嫌う立場から特に異議を唱えた。 当時の建設省による水没補償に対する姿勢は、例えば1953年に建設された()における水没住民への態度が(昭和38年)に(現在の)発行の『石淵貯水池の水没補償における実態調査報告』において、「国益を強調し自らの立場を高める権威主義と強制収用をちらつかせる強圧的態度を貫き、水没住民を思い遣る態度は全く見られない」と厳しく批判されており 、同時期施工中だった()や()などでも住民との軋轢が生じた。 だが電源開発は建設省の異議に対し「 補償交渉は一片のペーパープラン通りには進まない」 として住民本位の補償交渉を進めた。 電源開発の補償に対する姿勢は当時総裁であった の強い意志によるもので、御母衣ダムにおける「幸福の覚書」やの移植などダム・発電所建設における基本方針となり、(昭和43年)に施工された()において「 補償交渉が完了するまではダム工事には着手しない」という「九頭竜補償方式」が確立された。 一方国による水没住民への明確な補償指針が示されるのは、 を経た(昭和48年)のを待たなければならなかった。 補償交渉の妥結 [ ] 国鉄飯田線付替についてはを参照 住民本位の補償交渉を行った電源開発の姿勢は次第に住民の態度を軟化させ、同年11月に富山村の141世帯との補償交渉が妥結したのを皮切りに、(昭和30年)には296世帯全ての補償交渉が妥結した。 漁業補償や流筏補償も妥結。 飯田線については従来天竜川沿いを走っていた路線をから峰トンネルで(秋葉街道)沿いに大きく迂回させ、(静岡県浜松市天竜区水窪)中心部を経て大原トンネルで再度天竜川沿いに戻し、に通じる代替路線を整備した。 新しい飯田線は1953年12月から1955年11月までの約2年間を掛け、佐久間ダム総工事費の6分の1にあたる60億円を投じて 付替え工事を終了した。 豊根発電所については発電所建屋と取水口を移設した上で運転を継続したが、(昭和47年)に廃止され代替施設としてが建設されている。 住民の一部は新天地を求め、電源開発が斡旋した愛知県の代替地に41戸が集団移転した。 ダムは(昭和31年)10月完成したが、296戸の住民の犠牲の上に高度経済成長の礎が築かれたことも事実である。 ダム完成の翌(昭和32年)、・が佐久間ダムに行幸した。 この際天皇・皇后は・御歌を認めたがその内容はダム建設に関連して苦労を重ねた水没住民・事業者など全ての関係者を労わる内容のものであった。 佐久間ダムの建設は地元佐久間村を始め周辺地域に対し、父祖伝来の土地を沈めるという痛みを与えたが一方で公共施設や道路整備、補償や政府の自治体財政支援による経済効果をもたらした。 この一連の状況は日本国内委員会の要請で日本人文科学会が編集した『佐久間ダム - 近代技術の社会的影響』という報告書で詳述された。 さらにダム完成の半年後、佐久間村は、、と合併して新制佐久間町となったが、この合併も佐久間ダムの建設が間接的な影響を及ぼしている。 施工 [ ] 佐久間ダム竣工まで日本一の高さを誇った(男鹿川) 佐久間ダム・発電所の構想は先述の通り1921年名古屋電灯が最初に発案したが、当初は現在の佐久間湖区域を三分割して佐久間・山室・小汲発電所を建設する計画であり、佐久間発電所の出力も3万5000キロワットと小規模であった。 大ダム計画に変化したのは(昭和22年)に日本発送電東海支店が発表したダム案からであり、この時には高さ140メートル、出力42万キロワットの計画に上方修正されている。 そして電源開発による正式な開発が決定した段階で高さ160メートル、出力36万キロワットとなり、後に高さを4. 5メートル低くした現在の規模となった。 それでもこの規模は当時工事中ではあるが日本一の高さであったの(男鹿川) の112メートルを一挙に43. 5メートルも上回り、当時としては世界第7位 、日本最大の高さを有する巨大ダム計画となった。 従来の工法では少なくとも完成までには10年は必要とされたが、当時の日本はにひた走る時期であり、電力需要は急上昇の一途をたどっていた。 従って電力開発は国家の至上命令でもあり、当時の電源開発は昭和30年度において国鉄の約240億円、の約75億円、やの約10億円に比べ約269億円が融資されており 、佐久間ダムは一刻も早い完成を求められた。 国際入札の導入 [ ] ()。 ここで使用された重機が佐久間ダムで活躍した。 であったは大規模なを駆使した近代化工法の採用が、ダム建設を最短で終わらせる唯一の策と考えた。 日本におけるダム技術はのにおいて近代的な打設工法が導入されていたが、大型重機運用の導入はまだ緒についたばかりだった。 日本においてはのにおいて日本国産とによる大型重機の機械化工法が導入されていたが、日本人の操作技術が未熟だったため故障が続出。 導入した重機のは半分程度であった。 このため高碕は当時最先端の土木技術を有していたに活路を見出そうとした。 1952年11月に渡米した高碕は当時建設されていた ()を視察する。 が施工していた高さ130メートル、総貯水容量約12億3300万立方メートルの巨大ダムであるが、ダム本体規模が佐久間ダムと同程度でありながら重機が整然と動いており、これを佐久間の参考とした。 その後の保証を得てから3年期限・無担保で総額900万の借款を得た。 その資金援助を背景に、アメリカの土木業者・コンサルタントと提携しアメリカ製大型重機を使用する条件を以って 国際を翌(昭和28年)に発表した。 この結果最も入札額が安く、かつ先に視察したパインフラットダムで使用されていた重機をそのまま移送して使用するという条件提示をした・・連合が落札し、ダム本体工事を間組、発電所工事を熊谷組が担当することになった。 一方、佐久間発電所で使用されるについても高碕は国際入札を導入した。 発電所で使用される水車発電機は9万6000キロワットの出力を有する水車と9万3000キロの出力を有する発電機を各4台導入する計画であり、何れも当時最大規模の設備だったことから日本国内の電機メーカーはその行方を注視していた。 しかし高碕が国際入札を導入すると発表したところ、電機業界は外資導入に強く反発。 さらには政府や与党であるも反対した。 当時のであったは高碕に国際入札を中止するよう圧力を掛けたが、高碕は総裁就任時に吉田と交わした「会社の方針に政府は介入しない」という約束を盾にこれを突っぱね、入札を行った。 参加したのは・・・・の国内企業連合、・連合、社などの外資連合の三つであったが、最終的に社内見積りよりも入札額が安い国内企業連合が落札した。 この国際入札について当時・電源開発顧問で、後に委員長となった は高碕の態度について「を避けて真剣に入札させるには、毒(外資)を以って毒(談合)を制する以外にない。 しかし日本が勝つ。 賭けてもいい」という趣旨の話をしたと証言している。 事業費が国民の税金である以上、経費圧縮は必要であり、企業家精神は特殊法人であっても不可欠という高碕の強い信念がうかがえる。 また日本の河川開発の見本であった(TVA)の創始者、は1953年の自著『TVA - 総合開発の歴史的実験』において「(TVAは)民間企業の融通性と独創力を併存させた特殊法人」と力説しており 、高碕の目指す電源開発の企業像もTVAと軌を一にしていた。 だが一連の国際入札問題が尾を引き、高碕はによって電源開発総裁職を1954年に更迭させられた。 なお高碕はダム完成式典において、のとして出席している。 工事の進行 [ ] 佐久間ダムにおいて活躍した重機の一つ、の例 入札を含む工事の開始は、水没住民に配慮し佐久間補償対策本部による補償交渉が開始されたのを見計らって着手された。 まず大型重機や建設用資材を運搬するための工事用の建設に着手した。 ダム現場のすぐ近く、約3キロメートルのところに国鉄飯田線があり、遠方からの運搬は輸送で賄えたが工事現場は先に述べた通り両岸が絶壁に近い峡谷であるため、右岸の川沿いと左岸の山中に道路を敷設する計画が取られた。 しかし一刻も早く工事に着手する必要があったことから、道路が完成するまでは大型重機を川舟に乗せて工事現場まで輸送する策が取られた。 幅員6. 5メートル、全長3キロメートルの道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材運搬はきわめて円滑に行われるようになり、工期の短縮に貢献する。 この工事用道路のうち左岸部の道路は佐久間ダム連絡道路として現在でも利用されているが、右岸の道路は廃道となりダム直下流にあるにその痕跡を留めているのみである。 道路完成後天竜川の流路を変更する仮排水路工事が1953年より開始されたが、や大雨による洪水被害を回避するために翌年までの完成が必須だった。 春季以降にずれ込めば最大で毎秒数千立方メートルのが工事現場を襲い、現場復旧に時間が掛かり工期が遅れるためである。 しかしアメリカから導入された製 などの大型重機は1日最大掘削量872立方メートルという当時世界第二位のトンネル掘削となり、製の大型ダンプカーと製の による土砂運搬もあいまって予定通り翌1954年3月には完了した。 天竜川の河水はトンネルを通って工事現場下流に迂回され、水が無くなった工事現場では川底の深さ25メートルにも及ぶ膨大な砂利堆積物をビサイラス・エリー社製の大型油圧ショベル などで掘削・運搬。 堅い基礎地盤が露出したことでダム本体のコンクリート打設が(昭和30年)1月より開始された。 このコンクリート打設もウィスコ社製の高速度ケーブルクレーンやコンクリート運搬車など の大型重機が威力を発揮し、1日のコンクリート打設量5,180立方メートルは当時の世界記録として、日本国外の雑誌にも紹介された。 コンクリート打設中の1955年12月には貯水が開始され、翌(昭和31年)には佐久間発電所で23万キロワットの一部運転が開始された。 7月にはダムのによる巨大なエネルギーを相殺するために建設される副ダムが完成した。 この副ダムは高さ30メートルであり、独立したダムとして認められているの()に匹敵する規模の大きさである。 そして同年9月、5門からなるゲートが閉じられてダムは完成。 佐久間発電所も出力35万キロワットの全面運転を開始した。 巨大なダムでありながら工事に着手して、わずか 3年という短期間で完成しているが、その原動力となったドリルジャンボは佐久間ダムにおいて日本で初めて導入され 、また日本国外製の大型ダンプカーやブルドーザー、油圧ショベルなどといった重機を始めとした土木の最新技術が日本人技術者に伝えられ、以後急速に日本国内で普及した。 栄光と犠牲 [ ] 佐久間ダム竣工記念切手() 佐久間ダムの建設は日本の土木史において「 金字塔」と称えられる。 その理由はダムを始めとする大型土木構造物の近代的機械化工法を確立したこと、この後建設される(只見川)や(中津川)などの大規模や九頭竜ダム、()など大規模建設の基盤となったこと、また土木技術や電気設備技術において発展途上だった日本企業に影響を与え、日本国外に日本の技術の優位性を示す契機になったことなどである。 先の水車発電機国際入札に反対した当時の日立製作所社長・も「(入札で)赤字は出したがその後色々勉強をし、技術にも自信が持てた。 それが日本国外への輸出につながったので、安い授業料だった」旨の述懐をしている。 またダムの完成は敗戦の影響を引きずっていた日本国民の注目を浴びた。 一例として製作・監督によるダム建設の『 佐久間ダム』がある。 当初は単なる記録映画だったが、佐々木良作がに映画制作を交渉したところ却下されたため劇場公開用に変更したという経緯がある。 音楽を、解説を兄弟が担当したこの映画は三部作として劇場公開されたが、観客動員数が第一部300万人、第二部250万人、第三部25万人と三部作合計で575万人を動員する大ヒットを記録。 上映終了後も各地の学校や企業などから貸し出し依頼が殺到した。 また当時のは佐久間ダムの完成を記念して1956年の完成式に合わせて「 佐久間ダム竣工(しゅんこう) 記念」を発行。 折からの切手ブームもあって多くの売り上げがあった。 ダム完成を記念して発行されたは、佐久間ダムのほかは()しかない。 佐久間ダムは文学や芸術の世界にも影響を与え、はダム工事現場を題材とした小説『満ちて来る潮』を発表。 絵画ではが『佐久間ダム』を発表し、は映画『佐久間ダム』の影響を受け実際にダム工事現場の飯場に住み込んで絵を描いている。 しかしこうした栄光の一方で、ダム建設中におけるが原因で 96名の労務者がしている。 要因としては豪雨や台風による天竜川の洪水や、険阻な峡谷が建設現場だったことによる転落や落石などであるが、最も問題になったのは安全意識の欠如であった。 佐久間ダムより以前の土木工事現場では、本来着用が必須である保安帽、すなわち頭部を守るがほとんど着用されていなかった。 佐久間ダムにおいても保安帽を被る労務者は皆無に等しく、これが死亡事故増加を助長しでも問題になった。 これを受けて安全対策向上の指導がアトキンソン社の技術者により繰り返され、労務者全員が保安帽を着用するに至った。 工事現場における安全管理対策の先鞭となったのも、佐久間ダムであった。 高度経済成長を支えるという大義の下で天竜川に命を落とした96名の冥福を祈るため、PR館であるの傍にはが建立されている。 目的 [ ] 佐久間ダムの目的は 水力発電であり、 佐久間発電所・ 新豊根発電所により合計147万5000キロワットを生み出すが、副次的に灌漑や・の供給も行う。 正式な目的は水力発電しかないが、天竜東三河特定地域総合開発計画の根幹事業でもあり、事実上多目的ダムとして利用されている。 以下、目的について詳述する。 佐久間発電所 [ ] 下流にある佐久間発電所。 近傍にはもある。 ダムと同時に運転を開始した 佐久間発電所は、最大出力が35万キロワットと日本においてを除いた一般水力発電の中では、の56万キロワット、の40万キロワットに次いで日本第3位の出力を有する。 この出力は完成時において、東京電力の総出力の14、中部電力の23パーセントに相当するものであり、当時如何に巨大な水力発電所であったかが分かる。 また年間発生電力量は年によって差はあるが平均して 約13億であり、この記録は運転開始以降破られていない日本一の電力量である。 その要因は天竜川の豊富な水量と湖から発電所まで133メートルもある高落差である。 佐久間発電所で生み出された電力は中部電力と東京電力に送電されるが、中部電力へは佐久間発電所から愛知県にある名古屋変電所までを結ぶ、東京電力へは同じく佐久間発電所から東京都にある西東京変電所までを結ぶがあり、超高圧で送電され、それぞれの電力会社へ供給される。 供給比率は中部電力が年間6億3500万キロワット時、東京電力が年間5億7245万キロワット時で両者折半という配分になった。 佐久間発電所は送電線を通じて東の奥只見・田子倉両発電所、西のと連結されており、夏季の電力消費ピーク時など電力需要が急増する際に連携することで不測の事態に対処している。 一方佐久間発電所で利用された水は放流量が多く、そのままでは不均衡な流量となって下流に様々な影響を及ぼす。 このため佐久間発電所の下流に逆調整池を建設して、放流された水を逆調整池で貯水し、河川流量が均等になるよう水量を調節して放流することで下流への影響を抑えることとした。 この目的で建設されたのが であり、旧に高さ89メートルの重力式コンクリートダムを建設。 佐久間発電所の放流水逆調整を行うほか秋葉第一・第二・第三発電所を建設して水力発電を行う。 この秋葉ダム完成によって、天竜東三河特定地域総合開発計画における水力発電事業は一応の区切りを付けたが、引き続き佐久間ダムを有効利用した水力発電計画が進められた。 (昭和43年)には支流に合流する戸中川にが電源開発により完成したが、水窪ダムは水窪発電所を介し佐久間ダムとの間に導水路を設け、発電所で発電した後の水を佐久間ダムに供給する。 これにより佐久間・秋葉第一・秋葉第二発電所の年間電力発生量を1億2300万キロワット時増強させる。 その後も天竜川本流の電力開発はを機に国産である水力発電の見直しにより再開され、船明(ふなぎら)発電所とが本流最下流部のダム・発電所として(昭和52年)建設された他、(昭和57年)には、佐久間発電所と秋葉ダム間の残った落差を有効利用するために佐久間第二発電所が運転を開始し、出力32,000キロワットの発電を行うなど天竜川の膨大な水量と落差を余すことなく利用している。 なお天竜川流域はちょうどが50と60ヘルツに分かれる境界線付近にあり、とに電力を供給するためには各地域に応じた周波数の変換が必要となる。 新豊根発電所 [ ] 詳細は「」を参照 一方、 新豊根発電所は佐久間ダム建設後1962年(昭和37年)より電源開発促進法に基づき、計画された。 建設当時は火力発電が主体となっており、これらとの連携を図り易い揚水発電が注目されていた時期であった。 同発電所は佐久間ダムを下部調整池として利用し、上部調整池は佐久間ダム直下流で天竜川に合流するの支流、にを建設、そして中間に発電所を建設し、双方の貯水池を利用することで最大112万5000キロワットを発電する。 ダムと発電所は(昭和48年)に完成したがこれに伴い、佐久間ダム建設によって取水口が水没するために発電所建屋と取水口を移転して運転を継続していたが、新豊根ダム建設に伴い取水ダムと取水口が水没するために廃止されている。 なお、新豊根ダムは当初電源開発により発電専用ダムとして計画されたが、(昭和43年)の台風10号と翌(昭和44年)の佐久間町浦川を中心とした2年連続の大災害を機に愛知県が治水目的で事業に加わり、さらに建設省に事業が移管され以後建設省(国土交通省)と電源開発が共同管理する多目的ダムとして完成・運用されている。 利水 [ ] 佐久間ダムの水は発電に利用される一方で、正式な目的ではないものの天竜東三河特定地域総合開発計画に基づき1949年より農林省が施工を開始した 豊川用水の水源として利用されており、慢性的な水不足に悩む、及びなどへの農地灌漑、上水道・工業用水道供給を行う。 すなわち、佐久間ダム右岸に取水口を設け、 佐久間導水路として天竜川水系と水系を結ぶ流域変更を行い、豊川の支流であるにダムの水を放流する。 放流された水は宇連川本流に建設されたと、宇連川支流のに建設されたの水と共に下流にある大野頭首工より取水され、豊川用水となる。 用水は東西に分かれ、東部幹線水路は静岡県西部や豊橋市、渥美半島まで延伸、西部幹線水路はまで延伸して灌漑や上水道、工業用水道に利用される。 またこれとは別に豊川本流にある牟呂松原頭首工より取水された水は牟呂用水・松原用水として豊橋市の水需要に供されている。 豊川用水は・の管理を経てが管理を行う。 佐久間ダムはからの農繁期限定で、かつ年間総取水量が5000万立方メートルを超えない範囲で水を豊川水系に導水している。 なお、佐久間ダムの逆調整池として建設された秋葉ダムは、天竜東三河特定地域総合開発計画の主要事業でもある三方原用水の水源として、船明ダムは国営天竜川下流用水事業の根幹事業である天竜川下流用水の水源としてそれぞれ利用されており、浜松市をはじめ静岡県西部地域の農業用水・上水道・工業用水道を供給する。 水力発電を主目的として建設された佐久間ダム・秋葉ダム・船明ダムではあるが、静岡県西部・愛知県東部の水がめとしても重要な役割を担っている。 詳細は「」を参照 天竜川は古くは(元年)に上流の高遠地域で、下流ではの(3年)に大を起こした記録があり 、古くから洪水の被害が絶えない河川であった。 しかし天竜川は戦後経済安定本部の諮問機関である治水調査会が示した河川改訂改修計画の対象10水系 には当時たまたま大水害がなかったため選ばれず 、かつ大正時代以降天竜川本流には発電専用ダムが階段式に建設され、大規模ダム建設の適地が工事難易度の高い佐久間地点程度しか残っていなかったため、・のような多目的ダムによる広域治水計画は検討されず整備を細々と行っていた。 治水目的を有するダムは支流三峰川に美和ダムが(昭和34年)完成したのが最初であり、その後も支流を中心に建設省または長野県により多目的ダムが建設されたが、天竜川本流には治水目的を有するダムが今もって建設されていない。 発電専用である佐久間ダムはその規模の大きさから発電や利水のみならず、佐久間湖の莫大な貯水量を利用した洪水調節の期待も持たされていた。 これはダム計画が発表された後に電源開発が作成した『佐久間発電所計画概要』の中にも、建設の有利な条件として明記されている。 (昭和39年)にはが改訂されてダムに対する様々な基準や規則が定められたのを機に、発電・灌漑・水道専用のいわゆる利水ダムについても河川管理者である国や地方自治体が河川を一貫して管理するという法改正の趣旨の下、治水に対する責務を明確化させる必要が生じた。 佐久間ダムは先に述べたとおり天竜川水系最大のダムであり、地域に及ぼす影響は大きい。 特に洪水時の放流操作は下流への水害防止という観点から重要で課題であった 佐久間ダムの治水目的に関して、明確な指標が出されたのはまず(昭和40年)に出された (第14号)がある。 同政令第1章第23条では利水ダムの対策としてダム・人造湖の規模に応じ第一号から第三号までに分類され、それぞれに応じた洪水調節対策が定められた。 佐久間ダムについては指定基準である「洪水吐ゲートを有し、ダム湖の湛水区域が11キロメートル以上(佐久間ダムは33キロメートル)のもの」、すなわち第1号に該当するため施行令第24条に基づき、ダムを建設する前の河川機能を維持しなければならないと同時に、放流に伴う増加流量を調節するための貯水容量を設けなければならないとされた。 さらに翌(昭和41年)には、当時の建設省長が出した通達・ における利水ダムの分類で、 第一類ダムの指定を受けた。 第一類ダムとは「設置に伴い通常時に比べて洪水流下速度の増大などが発生し下流の洪水流量が著しく増加するダムで、結果発生する水害を防止するために増加流量を調節することができると認められる容量をダム湖に確保することで、洪水に対処する必要があるダム」のことを指す。 河川法施行令・河川局長通達の規定は何れも、換言すれば大規模な利水ダムについては多目的ダムやの治水容量に類似した空き容量を持たせて、洪水の際には可能な限り洪水を空き容量に貯留して流入量をそのまま放流しないよう放流量のピークを遅らせて水害の発生を防ぐというダムのことであり、放流操作において治水目的を有するダムと同様の細かい操作規定作成が要求された。 河川法施行令と河川局長通達の違いは対象となるダムが名指しで指定されたか否かであり、通達には第一類から第三類まで指定ダム名が記載されている。 ちなみに第一類に指定されたダムには巨大なものが多く、天竜川では水窪ダムが第一類に指定されたほか中部地方では御母衣ダムを始め・()、()、・()、(王滝川)といったダムが指定されている。 この政令と通達により佐久間ダムは利水ダムでありながら治水に対しても責務を負うことになったが、多目的ダムや治水ダムのように明確な洪水調節目的を持たされている訳ではない。 佐久間ダム再開発事業 [ ] 佐久間ダム再開発で検討されている対策の()。 写真はダム下流の出口側。 こうして佐久間ダムは事実上多目的ダムとして天竜川の治水・利水の要になった。 しかし天竜川の治水において大きな問題になっているのが ダム湖の(たいさ)である。 天竜川に注ぐ・を水源とする支流は近辺の脆い岩質を流れており、絶えず大量の土砂を排出している。 ダムがない頃の天竜川はこれら大量の土砂がそのままに到達し、などを形成した。 しかし天竜川にダムが階段状に建設されたことで流砂連続性が途絶。 ダムには大量の土砂が堆積していった。 特に深刻なのが泰阜・平岡の両ダムで堆砂率はそれぞれ80パーセントを超えている。 (昭和36年)のでは飯田市など天竜峡より上流部が深刻な浸水被害を受けたが、その原因に挙げられたのが泰阜ダムの堆砂だった。 また佐久間ダムについても堆砂が進行しており、無策で放置すれば巨大な貯水池といえど埋没する危険性がある。 また下流に砂が運搬されなくなったことで遠州灘のが進行、中田島砂丘の面積縮小や付近の林が枯死する被害が発生している。 電源開発も湖内搬送や搬出などの対策を行っており、加えて業者による資材用の砂採取も行われているが、平岡ダム・泰阜ダムを越えて来る膨大な土砂はそれらを凌駕しており、堆砂は進行する一方だった。 こうした問題を解決するため、佐久間湖の(しゅんせつ)実施やスラリー輸送による堆砂対策が検討されたが 、天竜川を管理する中部はより効率的な堆砂対策として(平成15年)より天竜川ダム再編事業に着手した。 具体的には今まで利水専用だった佐久間ダムに正式に洪水調節目的を持たせて多目的ダムとし、天竜川水系に建設された他のである美和ダム、(小渋川)、新豊根ダムと連携することで天竜川下流の治水を強化するとともに、佐久間ダムの堆砂を除去して下流に流すことで佐久間湖の貯水容量確保と遠州灘の海岸侵食を防止するという流砂連続性の改善を目的とする。 以上の目的を踏まえ(平成16年)より根幹事業である 佐久間が着手された。 土砂排出の方法として既に美和ダムや小渋ダムでも着手されている による堆砂除去が検討されているが、今後下流の秋葉・船明ダムとの連携を含め事業をどのように進めるかが検討されており、完成時期は未定である。 しかし(平成21年)に政権のが決定した未完成ダム事業の見直しに、佐久間ダム再開発を含む天竜川ダム再編事業は対象とされていない。 なお直下流の天竜区佐久間町はバイパストンネル建設に反対している。 観光 [ ] 佐久間ダムの(てんば)。 が上を通る。 ダムと佐久間湖はに指定され、佐久間湖は(平成17年)に旧佐久間町の推薦でが選ぶ に選ばれた。 遠州地域の主要な観光地の一つで、展望台からは巨大なダムの姿が一望できるほか、佐久間湖では新緑やが楽しめる。 (平成7年)3月リニューアルオープンした「さくま電力舘」では佐久間ダムの歴史や最新のバーチャルゲームをはじめ、体験しながら電気の科学を学ぶことができ、入場閲覧は無料である。 また毎年10月の最終日曜日には「 佐久間ダム竜神まつり」 が開催される。 天候にもよるが丁度紅葉の始まりの頃でもあり、景色も良く見ごろである。 竜神まつり時のダム湖では竜神の舞の演舞や花火が行われ、ダム堤内に入ることもできる。 普段はダムへの公共交通手段は無いが、このまつり開催中は中部天竜駅や佐久間協同センターなどから無料シャトルバスが運行される。 佐久間湖ではやが釣れるが、は佐久間ダムが管理しているため、釣る際には入漁券の購入が必要である。 アクセスとしては公共交通機関では・が最寄の駅となる。 中部天竜駅からは佐久間ダム竜神まつり時以外の常時はダムへの公共交通機関はない。 そのため約2. 5キロメートルの徒歩かになるが、タクシーは現在では旧にないため旧から呼ぶことになり、呼ぶだけで相当の時間と料金を要する。 徒歩でも歩道や誘導標識はあるため、行くことは十分可能である。 またかつてはを歩くと、放流写真の様にダムがそびえ立つ姿を見ることができた。 現在は悪路・未整備、かつ落石多発の危険性が高く通行止めであり、柵で閉鎖されている。 自動車では、佐久間ダムの(てんば)を通るを利用することになる。 3県を通過する珍しい県道として知られるこの道路だが、生活道路や移動経路としてはほとんど利用されておらず、新豊根発電所近傍までダム湖から採取した砂を運搬するダンプトラックが頻繁に通るのみである。 ・・・方面からは、からに入り、終点からを経由して県道1号にアクセスできる。 一方方面からは、国道151号・経由でに入り、そこから県道1号を走るルートがあるが、当該区間の県道1号は30km以上にわたって延々続く山中のワインディングロード、途中に集落といえば富山地区(旧)があるのみという険しいルートである。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• (昭和33年)に7万5000キロワットの出力となる。 地点におけるは毎秒5,700立方メートルに及ぶ。 九頭竜ダムは建設省との共同事業であるが、補償と施工は電源開発が実施した。 水系の・建設に際し、建設省の強引な土地測量に端を発した1958年から13年間にわたる日本最大のダム反対闘争。 流血沙汰にまでなった。 完成したダムとしては98. 2メートルの丸山ダムが高さ日本一であった。 この場合佐久間ダムは高さが一挙に57. 3メートル上回ることになる。 電源開発促進法第3章第21条では総裁の任期は2年だが、高碕は1年10ヶ月で辞職している。 総裁任免権は内閣にある。 北上川、・、、利根川、、、、淀川、、の10水系。 この他に第四類ダムがあるが、第四類では治水に対する責務が特に規定されていない。 出典 [ ]• 2010年2月13日閲覧• 『電発30年史』p. 485• 2010年2月12日閲覧• 2010年2月12日閲覧• 『10年史』p. 2010年2月11日閲覧• 『天竜川 治水と利水』p. 275• 『電発30年史』p. 『河川便覧 2004』p. 『電発30年史』p. 472• 『電発30年史』pp. 86-87• 『湖水を拓く』pp. 11-13• 『電発30年史』pp. 220-221• 『電発30年史』p. 『日本の多目的ダム 1963年版』p. 125• 『多目的ダム全集』p. 152• 2010年2月13日閲覧• 『10年史』p. 『電発30年史』pp. 85-86• 『電発30年史』p. 『電発30年史』p. 253• 『電発30年史』p. 119• 2015年6月12日閲覧• 『水資源開発公団30年史』pp. 179-180• 『天竜川 治水と利水』p. 242• 『天竜川 治水と利水』pp. 239-245• 『天竜川 治水と利水』p. 109• 『電発30年史』p. 2010年2月15日閲覧• 2010年2月11日閲覧• 2010年2月13日閲覧• 2010年2月11日閲覧• 2014年より「佐久間ダムまつり」から改称• 2010年2月11日閲覧 参考文献 [ ]• 建設省河川局編『多目的ダム全集』国土開発調査会、1957年• 建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』、1963年• 30年史編集委員会編『電発30年史』電源開発、• 中部建設協会編『天竜川 治水と利水』建設省中部地方建設局浜松工事事務所、• 社団法人日本河川協会監修『河川便覧 2004』国土開発調査会、2004年• 高崎哲郎『湖水を拓く 日本のダム建設史』、• 電源開発企画部編『10年史』電源開発、• 編『水資源開発公団30年史』財団法人水資源協会、 関連文献 [ ]• 土田茂「佐久間ダム」『コンクリート工学』第40巻第1号、日本コンクリート工学会、2002年、 151-154頁、 :。 関連作品 [ ]• 曽野綾子「無銘碑」講談社 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - ・・• - ・・・・・• - -• - ・• - ・• 外部リンク [ ]•

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