カシミール 紛争。 中国

カシミール紛争

カシミール 紛争

現在の北部と北西部にまたがるカシミール(カシュミール)地方は、イギリス統治時代はとされ、 国王はヒンドゥー教を奉じていたが住民は多数がイスラーム教徒であった。 1947年、インド・パキスタンが、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が分離して独立した際、カシミール藩王はインド帰属としたが、住民のイスラーム教がそれに従わず紛争となった。 インド・パキスタン双方が領有を主張し、同年のうちに早くも第1次カシミール戦争が起こった。 その後も、1965年の第2次のの原因となった。 現在も両国の国境線は画定しておらず、対立が続いている。 現代においてますます秘境的なイメージが強まっているが、自然環境が人間を寄せ付けないからなのではなく、国境紛争という人間の争いが人間の自由な往来を拒否している。 しかし、歴史上のカシミールはけして秘境ではなく、狭隘ではあったが山道を通じて周辺の世界に通じていた。 東は、西はと、北はカラコルム山脈を越えればパミールと、南はへとつながり、文化・経済の交流する地域であった。 特に前3世紀半ばの時代に仏教が伝えられ、それ以後は仏教の一つの中心となり、のの時代には第4回の仏典結集がこの地で行われ、の影響を受けた仏像彫刻も盛んだった。 この地方の中心都市スリナガルとは吉祥天の都という意味であり、また中国文献にも箇失蜜として出てくるという。 唐のもこの地を訪れているが、その7世紀ごろにはが盛んになり始めていた。 そして次第にヒンドゥー教が優勢となり、8世紀にはヒンドゥー教を奉じるカシミール王国が形成された。 この地域が大きく変貌したのはムスリムの勢力が及んだ事による。 11世紀初め、イスラーム教のがアフガニスタンから北インドを支配したことによってカシミールのイスラーム化も始まり、14世紀にはイスラームの支配下に入った。 ムガル帝国以後のカシミール の帝は1586年にカシミールを征服し、帝国の一州とした。 ムガル帝国の皇帝は、カシミールを夏の避暑地にして離宮を置いた。 しかし18世紀に入ると西側からが侵攻してこの地を支配するようになり、さらに19世紀にはがパンジャブ地方からこの地域まで勢力を伸ばしての支配下に入ったが、インド植民地支配を進めたイギリスはこの地にも進出、1845年からのでシク王国を倒した。 第1次シク戦争での和平条約である1846年のラホール条約で、カシミール地方にはヒンドゥー教徒であるグラーブ=シングを藩主とする カシミール藩王国が成立した。 は、独立政権とは言え、外交権・軍事権を奪われ、イギリス人駐在官を通じて間接統治が行われ、イギリス植民地支配を補完する役割に過ぎなかった。 インド大反乱が起こったときもカシミール藩王国はイギリスに協力した。 カシミール藩王国の藩王はヒンドゥー教徒であったが、その住民の多く(70~80%)はイスラーム教(ムスリム)であった。 を主導したのは、宗教的寛容を説き、全インド一体としての独立を目指したが、ヒンドゥー教徒主体の運動に対するの不満が高まり、イギリスが分離独立を工作したこともあって、第二次世界大戦後のインドの独立は分離独立という結果となった。 そのため、インドとパキスタンの間でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒がそれぞれの国に移住するという民族移動が一斉に展開され、その過程で衝突や家族離散などの悲劇が多発した。 その中で、から戦争につながったのがカシミール問題であった。 第1次カシミール戦争 1947年、ヒンドゥー教徒はインド、イスラーム教徒はパキスタンとしてとなったが、両教徒は棲み分けしていたのではなく、同一村落で共同生活していた人たちも多かったので、それぞれの居住区に分かれて移動しなければならないという大きな悲劇が生じた。 さらにカシミールは、藩王はヒンドゥー教徒だったのでインド帰属を決定すると、人口の4分の3にのぼるイスラーム教徒は、移動を拒否し、そのままパキスタン帰属を求めたので衝突が開始された。 独立したばかりのインド・パキスタン両軍も軍隊を派遣し、その年10月から第一次カシミール戦争が勃発した。 戦争は発足直後のが調停に乗りだし、1949年1月に休戦が成立した。 国連決議はカシミールの住民投票によって帰属を決定するとしていたが、インドはそれを受けいれず、カシミール帰属問題は棚上げされたまま、両国の軍事占領地域の実効支配の境界が事実上の国境となった。 1954年には中国のとの間でで合意し、紛争の平和的解決への期待が高まった。 しかし、ネルー指導のインドにとって、もう一つの国境問題としてが持ち上がった。 それは1959年のから、が深刻化した1960年代に、中国がインドのチベット支援を警戒する中で持ち上がったもので、東部のマクマホンラインと、西部のカシミールのアクサンティ地方までをインド領とすることに異議を申し立てたことから表面化した。 中国・インド両国は1962年に戦争状態に入ったが、インドはヒマラヤ山地での厳冬期での戦いに敗れ、ネルー政権は窮地に陥った。 パキスタンは好機と捉えて中国を支援、パキスタン=中国の国境問題を解決し経済協力関係を結ぶと、追いこまれたネルーは、非同盟主義を放棄し、アメリカに支援を要請せざるを得なくなった。 第2次カシミール戦争 インドが実効支配しているジャンム=カシミールの完全統合を宣言したことに対して、反発したパキスタンが1965年に攻勢を仕掛けて第2次カシミール戦争となった。 中国がインドに対してパキスタン側で参戦する最後通牒を出すなど、全面対決の危機となったが、国連の場での米ソの働きかけによって停戦となった。 アメリカは当時、の本格化に備えており、インド・パキスタン関係のこれ以上の悪化を望まなかったため、調停を働きかけたとされている。 この停戦によって両国の実効支配している範囲が固定され、停戦ラインが事実上の国境となった。 第3次カシミール戦争 インドとパキスタン両国は1971年に東パキスタンの分離独立問題から、第3次を起こしている。 この戦争で東パキスタンにいたパキスタン軍はインド軍の攻撃によって無条件降伏し、東パキスタンがとして独立することを承認した。 この実質的敗北はパキスタンの軍政批判を強め、75年にはパキスタン人民党のズルフィカール=ブットが大統領となって文政に移管した。 1972年、インドとパキスタンの首脳はシムラ協定を締結、71年12月の停戦ラインを実効支配の境界とすることで合意した。 しかし、それぞれの主張する国境内の主権を放棄することには至らず、カシミール帰属問題は本質的には未解決のまま現在まで続いている。 現在のカシミール問題 グーグルでみるカシミール地方の現状(第3次インド=パキスタン戦争後の実効支配と停戦ライン) 『世界各国史 南インド』山川出版 p. 472を参考に、Gougle Map 上にインド、パキスタン、中国の主張する国境と、停戦ラインを色分けして示した。 ただし概略を示すもので細部は正確ではない。 パキスタンと中国の間では国境協定が成立しており、紛争状態ではない。 両国の核実験 停戦が成立したものの、宗教感情の対立もあって両国関係はさらに悪化を続け、1974年にはを行い、さらに1998年にはインドの再実験とが相次いで実行され、あくまで自衛のためと称しつつ、核武装による潜在的対立が続いている。 その最大の争点が、カシミール帰属問題であり、インド・パキスタン・中国がそれぞれ領土を主張し、複雑に交錯しあっている(上図参照)。 ジャンム=カシミール州の反インド暴動 現在インドのジャンム(ジャム)=カシミール州は、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドで、唯一のイスラーム教が多数を占める州である。 この地は第2次カシミール紛争の際にインドが実効支配したもので、ジャンム=カシミール州として統治しているが、実態は多くの軍隊と治安部隊が「占領軍」として駐留し、イスラーム教徒住民の人権を侵害することが頻発し、しばしば衝突が繰り返されている。 2016年7~8月にも治安部隊と反インドデモ隊が衝突し、40日間で64名が死亡するという事態となっている。 事態を深刻にしているのは、現在のインドの中央政府を握っている(BJP)が、同州に特別な地位を与えている憲法条項を廃止し、完全併合を掲げていることである。 政府はヒンドゥー教徒の居住区建設を進めており、同時にBJPの支持母体である団体である民族義勇団(RSS)はイスラーム教徒に対する暴力とヘイトキャンペーンを続けている。 中央政府はイスラーム教徒の背後にはパキスタンからの越境テロリストが煽動していると非難しており、事態の解決への見通しは立っていないようだ。 NewS インド、カシミールの自治権剥奪 2019年8月5日、のモディ首相は、ジャム(ジャンム)=カシミール州に70年前から認めていた自治権を剥奪することを明らかにした。 ヒンドゥー教徒が8割を超えるインドで、ジャム=カシミール州だけは人口の大半がイスラーム教徒であるため、インド憲法によって一定の自治が認められ、外交・防衛・財政・通信を除く分野では州が独自の政治を行っていた。 今回の措置はこの規定を改正する大統領令をまず発表し、その上で憲法改正のための法案や決議案を議会に諮って可決される見通しで、改定されれば同州はインド中央政府の直轄統治とされることとなる。 インド人民党は「ヒンドゥー至上主義」をかかげ、この春の総選挙でもカシミールの自治を剥奪することを公約に掲げ、その結果として勝利したことから、モディ首相は「公約」を実行するにすぎない、と述べている。 また、インド国民の統合を阻むカシミールの自治権を剥奪するのは国民の悲願である、とまでいって正当化している。 さらにカシミールがイスラーム過激派や分離主義者のテロの温床になっているとして、テロ根絶のため、という理由もあげている。 しかし、カシミールのイスラーム教徒はモディ首相・インド人民党の狙いはインド政府の直轄州とすることによってヒンドゥー教徒がカシミールで土地を取得しやすくし、入植を増やすことにあるとして警戒している。 このインドの措置に対してパキスタンは強く反発、カーン首相はただちに声明を発表して、インドの動きに対しあらゆる対抗措置をとる、と牽制している。 しかし、州都スリナガルなどではインドの措置に反発する元州首相など有力政治家の拘束が始まっており、現地情報では軍と警察が町を制圧し、市民生活も自由を奪われているという。 それに対してパキスタン側のカシミールでは抗議活動が広がり、パキスタン軍も軍事境界線に部隊を結集させている。 パキスタンは国連でインドの措置を強く非難し、中東の友好国などに支援を要請しているが、インド政府は国際社会の批判は内政干渉であるとして一切受け付けないと表明している。 最も憂慮されるのは、核保有国である両国が、核兵器の使用に踏み切るのではないか、ということであるが、両国の防衛担当者も部分的な核兵器の使用の可能性を否定していないので、国際社会も警戒を強めている。

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インド軍と中国軍が衝突!中印国境紛争は激化するのか?

カシミール 紛争

インドとパキスタンの関係は、カミールをめぐる何十年にも及ぶ紛争のため緊迫してきた。 問題の発端は1940年代にまで遡る。 当時、ジャム・カシミール州は藩王国の一つであったが、分割計画と1947年のインド独立法とによって、インドまたはパキスタンへの帰属を自由に決めることができるようになった。 ジャム・カシミールの住民のほとんどはイスラム教徒であるが、藩王自身はヒンズー教であることから、インドへの帰属を決めた文書に署名した。 安全保障理事会は、パキスタンの支援と参加を得た部族民、その他がカシミールへ侵攻し、戦闘が続いているとの苦情をインドから受け、1948年に初めてこの問題を取り上げた。 パキスタンはその申し立てを否定し、ジャム・カシミールのインド帰属は違法であると宣言した。 1949年、 国連インド・パキスタン軍事監視団(United Nations Military Observer Group in India and Pakistan: UNMOGIP)()がインド・パキスタン間の停戦を監視し、同時に、理事会が1948年に設置した国連インド・パキスタン委員会(UNCIP)への軍事顧問を支援する。 1971年末のインド・パキスタン間の戦闘とその年の12月17日の停戦合意以来、UNMOGIPの任務は、ジャム・カシミールの停戦ラインに沿って停戦を監視し、報告することである。 国連はまた、両国間の調和のとれた関係を促進するよう求められている。 2003年、インド首相とパキスタン大統領は両国間の関係を改善する目的で一連の相互措置をとった。 11月、パキスタンは、ジャム・カシミールの管理ライン(停戦ライン)にそって一方的な停戦を実施すると申し出た。 インドはそれに積極的に応じた。 ついには、こうした措置によって、2004年にインドのアタル・ビラリ・バジパイ首相とパキスタンのペルベズ・ムシャラフ大統領、ザハルラ・カーン・ジャマリ・パキスタン首相とによる首脳会談へと発展するまでになった。 平和の強力な表示として、60年近くも引き裂かれてきた家族を再び結びつける機会として、停戦ラインを超える画期的なバスの運行が2005年に始まった。 しかし、2007年2月、デリー・ラホール間の「フレンドシップ・エクスプレス」に対する攻撃によって、67人が死亡、20人が負傷した。 両国間の関係が試されることになった。 事務総長と安全保障理事会は、テロリストによる爆撃を厳しく非難し、犯人の司法の裁きを訴えた。 2008年11月、インドの金融都市、ムンバイで組織テロ攻撃が行われた。 パキスタンに拠点をおくテロリストグループ、ラシュカレタイバ過激主義者による攻撃であった。 攻撃は3日間続き、少なくとも173人が死亡し、300人以上が負傷した。 インドの武装部隊の作戦によって攻撃者はタジマハール・ホテルで殺された。 1人だけが捕らえられた。 パキスタンは攻撃を非難したが、テロリストが行った残虐行為によって二つの隣接国の関係は再び悪化した。 若い分離独立派戦闘員が2016年にスリナガルでインド治安部隊によって殺害されたことから、停戦ラインに沿ってインドとパキスタンとの間にしばしば銃撃戦の応酬が見られたものの、停戦ラインに沿っての治安状況は概して静かであった。 UNMOGIPは、国連はジャム・カシミールの人々や問題が未解決のままにあることを忘れてはいないという証のために、停戦順守を監視し、報告している。 教える•

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民族紛争

カシミール 紛争

印パ戦争 直近でも、2019年2月にパキスタン軍がカシミール地方に空爆し、インド軍の戦闘機2機を撃墜、パイロットを拘束しています。 国際社会もこの状況を憂慮しており、インド、パキスタン両国に緊張緩和を促しています。 しかし、両国の対立は根深く歩み寄りは一向に見られません。 では、なぜこの 「カシミール紛争」という問題は行ったのでしょうか? カシミール紛争の原因 歴史を辿れば、カシミール地方はもともとは イギリスの領土でした。 イギリスの領土であった時代はカシミール地方は 藩王国とされ、その国王は ヒンドゥー教を信仰していました。 しかし、国王はヒンドゥー教を信仰していましたが、藩王国の住民の多数は イスラム教を信仰していました。 (このあたりから、国際問題によくある信仰上の違いでの争いの気配がしてきますね・・・) そのような中で、1900年代半ばに藩王国はイギリスから独立します。 もともと藩王国の国王は インドにもパキスタンにも属さないかたちでの独立を目指していました。 しかし、それが気に入らない パキスタンが藩王国に攻め入ってくるんですね。 藩王国の国王はヒンドゥー教徒ですから、国民の80%以上がヒンドゥー教徒のインドに助けを乞います。 その国王の助けに応じて、インドが参戦。 そして1947年に第一次印パ戦争が勃発します。 第一次印パ戦争 先ほども言いましたが、藩王国の国王は ヒンドゥー教徒、住民の多数は イスラム教徒です。 そこにインドとパキスタンの宗教問題も絡んでくるわけですから、これはもう収拾がつきません。 結果、カシミール地方は ヒンドゥー教の信仰者とイスラム教の信仰者の対立をしめす縮図として、現在まで対立が続いています。 インドとパキスタンの独立と対立 ここまで進めてくるとふと気になることがあります。 「なぜインドとパキスタンは独立したのか?」、また 「なぜインドとパキスタンはここまで対立するのか?」ということです。 ここで本題とは少しそれますが、インドとパキスタンの独立理由と対立理由に考えてみましょう! インドとパキスタンの独立 インドとパキスタンがイギリスから独立したのは 1947年の8月です。 それまでの間に独立運動がなかったかというと、そうではありません。 1857年の東インド会社のインド人の傭兵が起こした反乱 「インド大反乱」以降、インド国内では反英闘争が幾度となく起こっています。 1857年に起こったインド大反乱 では、幾度となく反英闘争や独立運動が起こっているにも関わらず、なぜ1947年に限っては独立することができたのでしょうか? 答えは 「第二次世界大戦」にあります。 第二次世界大戦は1939年から1945年にかけて起こっています。 この第二次世界大戦の結果、イギリスは勝利したものの大きく 疲弊してしまいます。 イギリスを疲弊させた第二次世界大戦 その結果、イギリスは従来の 超大国の地位から転落してしまうのです。 また世界的に 脱植民地化の流れが強まっていきます。 そのような背景をふまえて、イギリスは当時植民地であった イギリス領インド帝国の独立を認めるわけです。 インドとパキスタンの対立 イギリスから独立を果たしたインドですが、独立当時のインドでは 宗教的な対立が激化していました。 具体的には、 多数派のヒンドゥー教徒と 少数派であるイスラム教徒の対立です。 なかでも ジンナーを指導者とする全インド・ムスリム連盟の勢いは著しく、ジンナーが唱えた ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離を強硬に主張する 「二民族論」は社会に大きな影響を与えます。 パキスタン建国の父 「ムハンマド・アリ・ジンナー」 一方でインド独立の父として有名な ガンディーらはこうした分離の動きに強く反対して 統一インドの実現を訴えていました。 インド独立の父「マハトマ・ガンディー」 その他の党派においても 政教分離の立場から、ヒンドゥー教とイスラム教の宗教による分離には慎重でした。 ただ、ジンナーが強固に主張する ヒンドゥー教とイスラム教の分離の勢いはとまりません。 ではこの時、宗主国イギリスの考えはどうだったのでしょうか? イギリスは、当初ヒンドゥー教徒の多い地域に ヒンドゥスタンという国を建国し、イスラム教徒の多い地域に パキスタン、そして 藩王国を残し、この三国を合わせて 「インド連邦」を構成する独立案を描いていました。 ただ、この案の合意は得られません。 そこでイギリスはインドを三国で一体とする計画を諦め、イギリス領インド帝国を インドと パキスタンに分割することによって独立することを宣言します。 これによりに インドとパキスタンの分立による建国が成立するわけです。 このインドとパキスタンの分立によるインド帝国の独立は、 ヒンドゥー教とイスラム教の宗教対立をより加速させることになります。 インドとパキスタンの戦地となるカシミール地方 話を本題のカシミール地方に戻します。 もともと藩王国の領土であったカシミール地方ですが、パキスタンの侵攻に遭い、インドに助けを求めるかたちとなりインドとパキスタンの戦地と化します。 その結果、1947年から1949年には 第一次印パ戦争が、1965年から1966年には 第二次印パ戦争が、1971年には 第三次印パ戦争が起こっています。 三度起こった印パ戦争 気付けばもともとの領主「藩王国」はかたちを消し、 カシミール地方はインドとパキスタンの激戦地となります。 最初に触れたとおり、この争いは現在でも続いており大きな国際問題の一つとなっています。 またインドにおいては、1959年から1962年にかけてカシミール地方を争い中国とも戦争を起こしています。 いわゆる 中印戦争です。 中国がカシミール地方に介入 中国と長年イギリスの植民地であったインドは、ネパールとブータンを挟んで接しています。 その全域がヒマラヤ山脈という高山地帯であったためか、以前は正確な国境は曖昧でした。 また、その間には中国の実効支配が渡っておらず、事実上独立したダライラマ政権の統治下にあった チベットもありました。 中国とインドの位置関係 そのような中で1950年にチベットに対する中国の主権を認めさせるために中国は チベット侵攻を行い、チベットを編入します。 その後、1956年には中国政府のチベット統治、支配に対し反対する チベット動乱が起き、1959年にはチベット亡命政府の長のダライ・ラマ14世が インドに亡命します。 ここで 中国とインドの関係は一気に悪化。 両国は国境の解釈をめぐって対立するようになります。 そして1959年に 中印戦争が勃発。 戦地はカシミールとその東部地域で中国とインドによる激しい戦闘が繰り広げられます。 中印戦争 戦争の結果は中国の勝利に終わるのですが、実はこの中印戦争のさなかにパキスタンがカシミール地方のインド支配地域に侵攻して、 第二次印パ戦争が起こっています。 なんとややこしいことか。。。 いずれにせよ、この 中印戦争をきっかけに、中国がカシミール地方に介入してくるようになります。 核保有国三国による紛争状態のカシミール地方 世界を見渡せば、紛争が起こっている場所は各地にあります。 紛争において、このカシミール地方が注目され、国際問題となっているのは関係国のインド、パキスタン、中国が 核を保有している国だからです。 特にインド、パキスタンは核兵器の縮小を目的にした条約 「核拡散防止条約」に加入していません。 宗教間の対立が深刻化し、国内の世論が傾けば、再びインドとパキスタンの戦争が起こる可能性があります。 その際に、核拡散防止条約に加盟しないインドとパキスタンが核を使用しない絶対的な理由があるかと問われるとどうでしょうか。 インドとパキスタンはお互いに歩み寄ることはできないのでしょうか? 実はパキスタンはインドに歩み寄る姿勢をみせています。 ただ、インド側が国内の世論(選挙)を意識してか、パキスタンの姿勢を相手にしていないんですね。 宗教間の対立に政治的要因も絡むとこれはさらに解決に向けて困難さを増します。。。 果たして、今後カシミール地方は解決に向かっていくのでしょうか!? 世界が注目する カシミール紛争には今後も注意が必要でしょう。 以上「カシミール紛争とは!?わかりやすく解説|国際問題がわかる!」でした。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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