津国汽船。 津国汽船とは

1 第20课课时检测夯基提能

津国汽船

江戸を中心の4大海路とは別に、 古くから神話に書かれた神武天皇ご東征以来、 大和、 奈良時代の遣隋使(ケンズイシ)船、 遣唐使 ケントウシ 船と、 その後室町時代の遣明朝貢 ケンミンチョウコウ 船など数多く海外との文化交流や、 商業交易等により頻繁な通行が行なわれ、 或いは平安時代後期の源平合戦の時には瀬戸内水軍の活躍の舞台ともなり、 瀬戸内海中心の交通路は元来わが国の最も重要な海路の一つである。 徳川幕府が実施した参勤交代制度によって、 西国の諸大名は競って豪華絢爛な 「御座船 ゴ ザフネ 」 を建造して、 盛大な 「御船行列 オフネギョウレツ 」 を連ね各藩の威力を競っての往来は、 瀬戸内海交通の急速な発展につながり、 参勤交代の諸大名はその途中の港で散財を繰り返し各地にそれなりの経済的な潤いを齎らしたであろう、 と思われるが同時に瀬戸内海各地には船主業や、 廻漕業など海運企業の急速な興隆と発展に結びついたのである。 特に江戸末期から明治時代初期にかけて九州と阪神間に就航していた、 由宇 ヨシウ 船主団の船隊は由宇帆船或いは岩国船とも呼ばれ、 九州の筑後米や肥後米などを阪神へ運び、 帰り荷には阪神から雑貨を満載して往復航海共満船の盛況を誇っていたが、 この由宇船主と呼ばれる船主団体は山口県東部、 岩国市南方にある由宇浦で安芸灘に面し点在する大小の島々に囲まれた平穏な泊地を基地として、 活躍していた大和型千石船の船主群団である。 元来北海道航路の北前船が下関から瀬戸内に入り大阪への途中に、 補給と休養のために立ち寄った寄港地として有名で、 木ノ江、 鞆の浦、 牛窓等と共に知られており、 北前船乗組員の中には由宇出身の若者達がたくさん乗組んで修業したと言われ、 大成して由宇の船主に名を残した成功者も居たのである。 由宇船主の中で頭角を現した嶋谷徳右衛門は、 若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得し、 その才知と能力は常に他を抜きんじ、 長じては主家に認められ明治10年、 徳右衛門40歳の時に、 中尾本家の持船2隻・昌栄丸と昌宝丸を譲り受け、 更に生家の父親所有船若宮丸を嶋谷家屋号 「やまじょう」 ; 「 」印と共に継承して所有船3隻の船主となって独立し、 嶋谷海運業の始祖となった。 当初は自らも船に乗り込んで九州産筑後米や肥後米を買い入れ、 神戸に運んで 「兵庫米商会所」 に持ち込み米の売買取引に参加して、 格別な手腕を発揮したと伝えられている。 因みに神戸市史の中の記述によれば、 明治10年に創設された 「兵庫米商会所」 で嶋谷徳右衛門名義の扱いは、 同11年に670万石、 翌12年には760万石の取引高と記録されている。 嶋谷家海運業の創始者徳右衛門は、 創業10年余にして頗る順調な成果を上げて、 安定した家業発展の基盤を確立したが、 惜しいことに明治22年 6 月28日享年52歳にして逝去となり、 嗣子嶋谷徳三郎が弱冠22歳で二代目として家業を継承し家督を相続した。 徳三郎は慶応 3 年 (1867) 11月 7 日の生まれで、 若年の時分から父親の手許で直接家業見習いの特訓を受けて、 20歳前既に米穀の取り引きや米相場、 船舶の配船業務などに精通し、 その聡明で温厚な人柄は由宇船主の間では頗る評判となっていた。 嶋谷海運業の近代化と本格的な発展は二代目徳三郎によって成し遂げられた訳で、 その最初の事業は先代の没後社業を継承した明治22年の 8 月に、 所有船の改造により速力の増加と積高の増量を計画して、 持ち船の大和型・昌宝丸を 「合の子船」 (和洋折中型帆船) に改装を実施した結果、 積載量900石積みとなり速力も 3 割増しに成功したのである。 続いて明治 28 年に至り、 当時幾多の由宇船主が大和型帆船から汽船に転換することに反対し、 由宇帆船の名前と共に消えて行った中で、 二代目は先代徳右衛門の遺志を受け継いで汽船志望を実現させ、 先ず最初に船齢30、 総トン数517の中古鉄製蒸気船浦門 ウラト 丸を、 四国坂出の浜田某より購入して三菱長崎造船所で改造修理工事を施工、 更に同年末には500総トンの木造汽船周洋 シュウヨウ 丸を買船し、 その 2 年後の30年初頭に650総トンの鉄製汽船常盤丸を買い入れ、 蒸気船 3 隻を揃えて嶋谷汽船部と名乗り、 若津・阪神間の九州米の輸送業務を開始し、 煙突には嶋谷家屋号 「 」 を掲げて見事な出発となった。 因みに所有汽船第 1 号浦門丸は、 明治 8 年に郵便汽船三菱会社が購入した英国建造の当時船齢10年の優秀船で、 当初西南戦争で御用船として活躍し、 同18年に三菱会社から日本郵船会社の創立に移籍された船であった。 順風満帆の嶋谷家事業も、 好事魔多しの喩えの如く同33年 5 月15日に北清事変勃発の影響により、 徳三郎が仕入れた米の売買が大失敗となって可なりの損失を蒙ったがこれを最後に徳三郎は米相場から手を引いて、 専ら海運業に全力を集中、 九州筑後川河口の若津事業所を引き上げ郷里の由宇に本拠を移した、 と同社 「嶋谷汽船略史」 に記述されているのである。 嶋谷汽船部の当初は蒸汽船三隻で九州・阪神間米輸送を実施していたが、 元来北前船航路に関心を持っていた徳三郎は、 明治30年春先から浦門丸と常盤丸の 2 隻を裏日本の北陸に配船し、 三国港と伏木港から北陸米を積載し、 更に漁業用資材の縄 ナワ 、 筵 ムシロ 、 叺 カマス 等藁製品を積んで北海道に運び、 帰り荷には北海道から鰊粕 ニシンカス 肥料を大宗貨物とし、 昆布、 干し魚、 木材等を積んで北陸各地に運び、 往復航海共満船となって高運賃を穫得、 長い歴史を誇る当時の北前船主の中に穏やかに割り込み大成果を収め、 秋の終わりと共に北陸米を積んで阪神へ運ぶ航海を実施、 その後も夏季には毎年この配船を続けた。 その後明治34年から40年にかけて、 大和型帆船や木造、 鉄製汽船を処分し堅実第一主義の経営に徹底したと言われ、 日露戦争後の同43年 5 月に至り 2 隻の海外買船を行い、 翌44年更に 2 隻計 4 隻の千トン級鋼製汽船を購入して、 従来の九州航路と北前船航路の運航を継続し充実した海運業を謳歌したのである。 大正 3 年 7 月28日勃発した第一次世界大戦の影響で海運界は未曾有の好況を迎え、 嶋谷汽船部では船齢25年の中古外船 3 隻を好条件で売却し、 同 6 年 5 月に至り従来の個人営業を改めて嶋谷汽船株式会社を設立し、 法人組織に改め同 8 年には営業の拠点を神戸に移して活躍したが、 同12年に至り会社本店を由宇から神戸明石町に移転し本格的な海運業の経営を推進した。 大正 5 年から13年 3 月までの間に国内で建造中の新造船を購入し、 更に国内や海外の買船で一挙に10隻の優秀船隊を増強したが、 当時の船腹需要の好機を選び非能率船を適宜に処分し、 同14年に至り北海道・朝鮮・大連線の新航路を開設して嶋谷汽船の一大転換期を迎え、 その後も続いて北海道・表日本・大連線や、 北海道・青島・天津線、 ほか国内航路の新潟・北鮮線、 北鮮・北海道線など各航路を積極的に開設し、 北海道・裏日本と中国間航路は嶋谷汽船の独占舞台と言われるようになった。 昭和 12 年7月の日中戦争勃発で陸海軍徴用船が急増し、 深刻な船腹不足となり日本政府は同年 9 月、 臨時船舶管理令を制定して内地船籍容認の変態輸入船許可を実施し、 嶋谷汽船でも早速中古外国船 4 隻と国内船 2 隻を購入したがその後全部、 同15年中に他社に売船となった。 嶋谷汽船建造の新造社船第一号は大正15年 5 月三井玉造船所に発注し同年末、 大正天皇の崩御で改元となった 4 日後の昭和元年12月29日に完成し引き渡しを受け鮮海丸と命名された、 珍しい昭和元年の稀少登録船として知る人ぞ知る船で、 船名は嶋谷が新規開設した朝鮮航路に因んだと伝えられている。 竣工と同時に北海道・朝鮮・大連航路に就航した鮮海丸の後、 所有船一覧表の如く三井玉造船所において新造船 8 隻を建造したが、 その中で昭和 3 年と 6 年に竣工の太平丸と昌平丸は、 七千トン級の超高速大型貨物船で完成と同時に三井物産船舶部に委託運航となり、 その後同社との長い親密な関係の始まりとなったと、 「三井船舶七十年史」 に書かれている。 昭和初期の世界的な金融恐慌のなかで同 3 年 5 月20日、 嶋谷家二代目徳三郎が61歳で海運業伸展の志半ばにして逝去され、 長男の武次が37歳で家督を相続し嶋谷汽船三代目社長に就任、 先代の遺業を継承して益々の発展に繋げてその名を海運界に残したのである。 嶋谷汽船の新造船は三井造船所で 8 隻、 函館船渠で 4 隻建造したが、 社船の命名は主として就航航路の海に因み、 朝海丸、 日本海丸、 黄海丸、 玄海丸等と付けられ、 記念すべき嶋谷海運創業時の持ち船 2 隻、 昌栄丸と昌宝丸の名前は中型の新鋭姉妹船に命名されたが、 両船共太平洋戦争中海軍に徴用され南洋方面で活躍していたが、 共に米潜の魚雷を受け沈没した。 太平洋戦争開戦直前の昭和16年10月嶋谷汽船の船腹は合計22隻、 65,632総トンの有数な船主となって居たが、 戦時中には海軍徴用船として11隻、 陸軍に 6 隻提供、 残りの自社運航船の殆どが船齢25歳以上の老齢船 5 隻で活躍して居り、 同18年10月26日に戦時海運管理令の特例による政府の指導で三井船舶に合併されたが、 その時は既に戦災による喪失船もあって保有船は減少し、 18隻が三井船舶に移籍され船列に加わった。 戦時中の昭和17年 6 月20日三代社長嶋谷武次が51歳の若さで逝去し、 当時嗣子の文雄は慶応義塾大学に在学中で、 叔父の嶋谷勇が四代目社長となり翌18年の三井船舶に合併の時を迎えたが、 二人とも戦時中には招集され外地で軍務に服したが、 幸いにも 2 人は無事戦後に復員帰国することが出来た。 戦後となって嶋谷汽船では父祖伝来の海運業再建の強い要望が起こり、 昭和26年10月に至り、 旧嶋谷汽船の所属で唯一の戦後残存船、 多聞山丸 (旧常盤丸) 一隻を継承して新規再建の嶋谷汽船株式会社を設立、 嶋谷家後継者文雄が初代社長となり直ちに政府の計画造船に応募して保有船隊を獲得、 同34年現在の所有船は僅か 5 隻とは言え、 将来に大きな期待がかけられた。 創業時に継承 明20. 頃解体 しょうえい 昌栄丸 700 石積 (大和型) 不 明 明10. 創業時に中尾家より購入 明28. 他へ売却 しょうほう 昌宝丸 500石) 900 石積 (大和型) 不 明 明10. 創業時に中尾家より購入 明22. 8 「合の子船」 に改造 明41. 他へ売却 うらと 浦門丸 (オリッサ) 517 (鉄汽船) 1865 (慶応元) 英 国 明28. 8 四国船主より購入 三菱長崎で帆装撤去 明治末解体 しゅうよう 周洋丸 500 (木汽船) 不 明 明28. 購入 明治末解体 ときわ 常盤丸 650 (鉄汽船) 明25. 6 大阪・小野造船 明30. 購入 明治末解体 さんよう 山陽丸 (J. デリックソン) 998 (鋼汽船) 1892 (明 25) 独 逸 明43. 5 海外買船 大正初期売船 たいよう 太陽丸 (トリンガヌ) 997 (鉄汽船) 1890 (明 23) 英 国 明43. 5 海外買船 大正初期売船 てんせい 天成丸 (メグナ) 1,254 (鋼汽船) 1889 (明 22) 英 国 明44. 海外買船 昭19. 5 小野造船 建造中、 国内船主より購入 昭18. 7 大阪鉄工 建造中、 日本汽船より購入 昭20. 22 三菱長崎 建造中、 鈴木商店より購入 昭18. 海外買船 昭18. 海外買船 昭18. 20 浦賀船渠 建造中、 山下汽船より買船 昭18. 11 小野造船 建造中、 国内船主より買船 昭19. 戸上山丸と改名 昭19. 29 播磨造船 建造中、 帝国汽船より買船 昭19. 戦没船第1号 昭17. 7 ラバウル沖洋上で米潜と交戦、 被雷沈没 たいへい 太平丸 6,285 (ディーゼル) 昭3. 30 三井玉 三井物産船舶部に委託運航。 昭12. 25 三井玉 三井物産船舶部に委託運航。 昭19. 10 比島リンガエン沖で被雷沈没 ちょうかい 朝海丸 2,685 (貨客船) 昭3. 3 三井玉 昭15. 30 三井玉 昭19. 8 三井玉 昭18. 2 函館船渠 昭19. 15 三井玉 昭18. 30 函館船渠 昭18. 28 マリアナ、 リタ島沖で被雷沈没 ひぜん 肥前丸 944 (汽 船) 1891 (明 24) 独逸 昭13. 海外買船 昭15. 北海道船舶に売船 しゅんめい 春明丸 (ザイダ) 1,999 (汽 船) 1900 (明 33) 英国 昭13. 海外買船 昭14. 他社に売却 ちょうせい 長成丸 (ファンサムド) 2,040 (汽 船) 1901 (明34) 独逸 昭13. 海外買船 昭14. 他社に売却 とうかい 東海丸 (アルスターン) 3,099 (汽 船) 1905 (明38) 昭13. 東海汽船より購入 昭15. 大図汽船に売船 たかおか 高岡丸 (ベストノージ) 1,281 (汽 船) 1908 (明 41) 諾威 昭15. 海外買船 昭14. 他社に売却 わかみや 若宮丸 2,217 (汽 船) 大正8. 3 小野造船 昭13. 国内船主より購入 昭15. 他社に売却 かさと 笠戸丸 1,418 (汽 船) 大正11. 11 笠戸船渠 昭13. 国内船主より購入 昭15. 3 函館船渠 昭19. 11 三井玉 昭18. 日本鋼管 K 型改造応急油槽船 昭19.

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津国汽船

津国汽船

航路 [ ] 経営破綻時点での航路 [ ]• - (風戸港)• 1日8往復、航路距離3. 5km、所要15分。 日曜日・祝日は運休。 車なしの徒歩客の利用は不可(同区間を並行するのフェリーも同様)。 半数の4往復は優先便のため乗用車の利用はできない場合がある。 航路ではないが、の産業廃棄物を直島の中間処理場へ輸送する船の船員も派遣していた。 過去の航路 [ ]• - () に開設、と提携の上、「 日通フェリー」として運航する(それ以前も個人事業として車を運んでいた)。 最盛期は4隻32往復で運航していた。 競合するが当初から車なしでの利用も認めていたのに対し、後年まで車なしの徒歩客は利用できなかった。 6月に日本通運から航路の免許を引継ぎ自社の運航となり、「 本四フェリー」の名称に改めた。 からは津国汽船は自社船を売却し、の船(第八十玉高丸)を使用して共同運航化。 しかし、高速道路の割引で利用者が減少したことからをもって航路から撤退した。 就航船 [ ] 同社の船は「日通丸」の名前が付けられていた。 第十一日通丸:総トン数628t、旅客定員30名、積載台数トラック15台、就航(改造)、新浜一雄(新浜造船)建造 建造後40年以上が経過した船を使用していた。 過去の在籍船 [ ] 2004年の四国フェリーとの共同運航化により宇高航路の船は引退となった。 1990年建造の第十八日通丸を除き古い船が主体であった。 第三日通丸:総トン数199. 18t、就航、今治造船建造• 第五日通丸:総トン数381. 61t、旅客定員85名、積載台数トラック15台、就航、浮田造船建造、日本船舶明細書より削除。 第八日通丸:総トン数591t、旅客定員85名、積載台数トラック19台、就航(改造)、浮田造船建造、2004年四国フェリー共同運航に伴い引退• 第十三日通丸:総トン数629. 79t、旅客定員250名、積載台数トラック22台、就航(改造)、神原造船建造、2004年四国フェリー共同運航に伴い引退し、2005年フィリピンへ売却。 第十五日通丸:総トン数693. 43t、旅客定員280名、積載台数トラック30台、就航、西大寺造船所建造、2004年四国フェリー共同運航に伴い引退。 第十八日通丸:総トン数975t、旅客定員285名、積載台数トラック30台、就航(改造)、西大寺造船所建造、2004年四国フェリー共同運航に伴い引退し、加藤汽船「ふじ丸」となり宇高国道フェリーで予備船として運航。 2008年にインドネシアに売却。

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津国汽船とは

津国汽船

江戸を中心の4大海路とは別に、 古くから神話に書かれた神武天皇ご東征以来、 大和、 奈良時代の遣隋使(ケンズイシ)船、 遣唐使 ケントウシ 船と、 その後室町時代の遣明朝貢 ケンミンチョウコウ 船など数多く海外との文化交流や、 商業交易等により頻繁な通行が行なわれ、 或いは平安時代後期の源平合戦の時には瀬戸内水軍の活躍の舞台ともなり、 瀬戸内海中心の交通路は元来わが国の最も重要な海路の一つである。 徳川幕府が実施した参勤交代制度によって、 西国の諸大名は競って豪華絢爛な 「御座船 ゴ ザフネ 」 を建造して、 盛大な 「御船行列 オフネギョウレツ 」 を連ね各藩の威力を競っての往来は、 瀬戸内海交通の急速な発展につながり、 参勤交代の諸大名はその途中の港で散財を繰り返し各地にそれなりの経済的な潤いを齎らしたであろう、 と思われるが同時に瀬戸内海各地には船主業や、 廻漕業など海運企業の急速な興隆と発展に結びついたのである。 特に江戸末期から明治時代初期にかけて九州と阪神間に就航していた、 由宇 ヨシウ 船主団の船隊は由宇帆船或いは岩国船とも呼ばれ、 九州の筑後米や肥後米などを阪神へ運び、 帰り荷には阪神から雑貨を満載して往復航海共満船の盛況を誇っていたが、 この由宇船主と呼ばれる船主団体は山口県東部、 岩国市南方にある由宇浦で安芸灘に面し点在する大小の島々に囲まれた平穏な泊地を基地として、 活躍していた大和型千石船の船主群団である。 元来北海道航路の北前船が下関から瀬戸内に入り大阪への途中に、 補給と休養のために立ち寄った寄港地として有名で、 木ノ江、 鞆の浦、 牛窓等と共に知られており、 北前船乗組員の中には由宇出身の若者達がたくさん乗組んで修業したと言われ、 大成して由宇の船主に名を残した成功者も居たのである。 由宇船主の中で頭角を現した嶋谷徳右衛門は、 若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得し、 その才知と能力は常に他を抜きんじ、 長じては主家に認められ明治10年、 徳右衛門40歳の時に、 中尾本家の持船2隻・昌栄丸と昌宝丸を譲り受け、 更に生家の父親所有船若宮丸を嶋谷家屋号 「やまじょう」 ; 「 」印と共に継承して所有船3隻の船主となって独立し、 嶋谷海運業の始祖となった。 当初は自らも船に乗り込んで九州産筑後米や肥後米を買い入れ、 神戸に運んで 「兵庫米商会所」 に持ち込み米の売買取引に参加して、 格別な手腕を発揮したと伝えられている。 因みに神戸市史の中の記述によれば、 明治10年に創設された 「兵庫米商会所」 で嶋谷徳右衛門名義の扱いは、 同11年に670万石、 翌12年には760万石の取引高と記録されている。 嶋谷家海運業の創始者徳右衛門は、 創業10年余にして頗る順調な成果を上げて、 安定した家業発展の基盤を確立したが、 惜しいことに明治22年 6 月28日享年52歳にして逝去となり、 嗣子嶋谷徳三郎が弱冠22歳で二代目として家業を継承し家督を相続した。 徳三郎は慶応 3 年 (1867) 11月 7 日の生まれで、 若年の時分から父親の手許で直接家業見習いの特訓を受けて、 20歳前既に米穀の取り引きや米相場、 船舶の配船業務などに精通し、 その聡明で温厚な人柄は由宇船主の間では頗る評判となっていた。 嶋谷海運業の近代化と本格的な発展は二代目徳三郎によって成し遂げられた訳で、 その最初の事業は先代の没後社業を継承した明治22年の 8 月に、 所有船の改造により速力の増加と積高の増量を計画して、 持ち船の大和型・昌宝丸を 「合の子船」 (和洋折中型帆船) に改装を実施した結果、 積載量900石積みとなり速力も 3 割増しに成功したのである。 続いて明治 28 年に至り、 当時幾多の由宇船主が大和型帆船から汽船に転換することに反対し、 由宇帆船の名前と共に消えて行った中で、 二代目は先代徳右衛門の遺志を受け継いで汽船志望を実現させ、 先ず最初に船齢30、 総トン数517の中古鉄製蒸気船浦門 ウラト 丸を、 四国坂出の浜田某より購入して三菱長崎造船所で改造修理工事を施工、 更に同年末には500総トンの木造汽船周洋 シュウヨウ 丸を買船し、 その 2 年後の30年初頭に650総トンの鉄製汽船常盤丸を買い入れ、 蒸気船 3 隻を揃えて嶋谷汽船部と名乗り、 若津・阪神間の九州米の輸送業務を開始し、 煙突には嶋谷家屋号 「 」 を掲げて見事な出発となった。 因みに所有汽船第 1 号浦門丸は、 明治 8 年に郵便汽船三菱会社が購入した英国建造の当時船齢10年の優秀船で、 当初西南戦争で御用船として活躍し、 同18年に三菱会社から日本郵船会社の創立に移籍された船であった。 順風満帆の嶋谷家事業も、 好事魔多しの喩えの如く同33年 5 月15日に北清事変勃発の影響により、 徳三郎が仕入れた米の売買が大失敗となって可なりの損失を蒙ったがこれを最後に徳三郎は米相場から手を引いて、 専ら海運業に全力を集中、 九州筑後川河口の若津事業所を引き上げ郷里の由宇に本拠を移した、 と同社 「嶋谷汽船略史」 に記述されているのである。 嶋谷汽船部の当初は蒸汽船三隻で九州・阪神間米輸送を実施していたが、 元来北前船航路に関心を持っていた徳三郎は、 明治30年春先から浦門丸と常盤丸の 2 隻を裏日本の北陸に配船し、 三国港と伏木港から北陸米を積載し、 更に漁業用資材の縄 ナワ 、 筵 ムシロ 、 叺 カマス 等藁製品を積んで北海道に運び、 帰り荷には北海道から鰊粕 ニシンカス 肥料を大宗貨物とし、 昆布、 干し魚、 木材等を積んで北陸各地に運び、 往復航海共満船となって高運賃を穫得、 長い歴史を誇る当時の北前船主の中に穏やかに割り込み大成果を収め、 秋の終わりと共に北陸米を積んで阪神へ運ぶ航海を実施、 その後も夏季には毎年この配船を続けた。 その後明治34年から40年にかけて、 大和型帆船や木造、 鉄製汽船を処分し堅実第一主義の経営に徹底したと言われ、 日露戦争後の同43年 5 月に至り 2 隻の海外買船を行い、 翌44年更に 2 隻計 4 隻の千トン級鋼製汽船を購入して、 従来の九州航路と北前船航路の運航を継続し充実した海運業を謳歌したのである。 大正 3 年 7 月28日勃発した第一次世界大戦の影響で海運界は未曾有の好況を迎え、 嶋谷汽船部では船齢25年の中古外船 3 隻を好条件で売却し、 同 6 年 5 月に至り従来の個人営業を改めて嶋谷汽船株式会社を設立し、 法人組織に改め同 8 年には営業の拠点を神戸に移して活躍したが、 同12年に至り会社本店を由宇から神戸明石町に移転し本格的な海運業の経営を推進した。 大正 5 年から13年 3 月までの間に国内で建造中の新造船を購入し、 更に国内や海外の買船で一挙に10隻の優秀船隊を増強したが、 当時の船腹需要の好機を選び非能率船を適宜に処分し、 同14年に至り北海道・朝鮮・大連線の新航路を開設して嶋谷汽船の一大転換期を迎え、 その後も続いて北海道・表日本・大連線や、 北海道・青島・天津線、 ほか国内航路の新潟・北鮮線、 北鮮・北海道線など各航路を積極的に開設し、 北海道・裏日本と中国間航路は嶋谷汽船の独占舞台と言われるようになった。 昭和 12 年7月の日中戦争勃発で陸海軍徴用船が急増し、 深刻な船腹不足となり日本政府は同年 9 月、 臨時船舶管理令を制定して内地船籍容認の変態輸入船許可を実施し、 嶋谷汽船でも早速中古外国船 4 隻と国内船 2 隻を購入したがその後全部、 同15年中に他社に売船となった。 嶋谷汽船建造の新造社船第一号は大正15年 5 月三井玉造船所に発注し同年末、 大正天皇の崩御で改元となった 4 日後の昭和元年12月29日に完成し引き渡しを受け鮮海丸と命名された、 珍しい昭和元年の稀少登録船として知る人ぞ知る船で、 船名は嶋谷が新規開設した朝鮮航路に因んだと伝えられている。 竣工と同時に北海道・朝鮮・大連航路に就航した鮮海丸の後、 所有船一覧表の如く三井玉造船所において新造船 8 隻を建造したが、 その中で昭和 3 年と 6 年に竣工の太平丸と昌平丸は、 七千トン級の超高速大型貨物船で完成と同時に三井物産船舶部に委託運航となり、 その後同社との長い親密な関係の始まりとなったと、 「三井船舶七十年史」 に書かれている。 昭和初期の世界的な金融恐慌のなかで同 3 年 5 月20日、 嶋谷家二代目徳三郎が61歳で海運業伸展の志半ばにして逝去され、 長男の武次が37歳で家督を相続し嶋谷汽船三代目社長に就任、 先代の遺業を継承して益々の発展に繋げてその名を海運界に残したのである。 嶋谷汽船の新造船は三井造船所で 8 隻、 函館船渠で 4 隻建造したが、 社船の命名は主として就航航路の海に因み、 朝海丸、 日本海丸、 黄海丸、 玄海丸等と付けられ、 記念すべき嶋谷海運創業時の持ち船 2 隻、 昌栄丸と昌宝丸の名前は中型の新鋭姉妹船に命名されたが、 両船共太平洋戦争中海軍に徴用され南洋方面で活躍していたが、 共に米潜の魚雷を受け沈没した。 太平洋戦争開戦直前の昭和16年10月嶋谷汽船の船腹は合計22隻、 65,632総トンの有数な船主となって居たが、 戦時中には海軍徴用船として11隻、 陸軍に 6 隻提供、 残りの自社運航船の殆どが船齢25歳以上の老齢船 5 隻で活躍して居り、 同18年10月26日に戦時海運管理令の特例による政府の指導で三井船舶に合併されたが、 その時は既に戦災による喪失船もあって保有船は減少し、 18隻が三井船舶に移籍され船列に加わった。 戦時中の昭和17年 6 月20日三代社長嶋谷武次が51歳の若さで逝去し、 当時嗣子の文雄は慶応義塾大学に在学中で、 叔父の嶋谷勇が四代目社長となり翌18年の三井船舶に合併の時を迎えたが、 二人とも戦時中には招集され外地で軍務に服したが、 幸いにも 2 人は無事戦後に復員帰国することが出来た。 戦後となって嶋谷汽船では父祖伝来の海運業再建の強い要望が起こり、 昭和26年10月に至り、 旧嶋谷汽船の所属で唯一の戦後残存船、 多聞山丸 (旧常盤丸) 一隻を継承して新規再建の嶋谷汽船株式会社を設立、 嶋谷家後継者文雄が初代社長となり直ちに政府の計画造船に応募して保有船隊を獲得、 同34年現在の所有船は僅か 5 隻とは言え、 将来に大きな期待がかけられた。 創業時に継承 明20. 頃解体 しょうえい 昌栄丸 700 石積 (大和型) 不 明 明10. 創業時に中尾家より購入 明28. 他へ売却 しょうほう 昌宝丸 500石) 900 石積 (大和型) 不 明 明10. 創業時に中尾家より購入 明22. 8 「合の子船」 に改造 明41. 他へ売却 うらと 浦門丸 (オリッサ) 517 (鉄汽船) 1865 (慶応元) 英 国 明28. 8 四国船主より購入 三菱長崎で帆装撤去 明治末解体 しゅうよう 周洋丸 500 (木汽船) 不 明 明28. 購入 明治末解体 ときわ 常盤丸 650 (鉄汽船) 明25. 6 大阪・小野造船 明30. 購入 明治末解体 さんよう 山陽丸 (J. デリックソン) 998 (鋼汽船) 1892 (明 25) 独 逸 明43. 5 海外買船 大正初期売船 たいよう 太陽丸 (トリンガヌ) 997 (鉄汽船) 1890 (明 23) 英 国 明43. 5 海外買船 大正初期売船 てんせい 天成丸 (メグナ) 1,254 (鋼汽船) 1889 (明 22) 英 国 明44. 海外買船 昭19. 5 小野造船 建造中、 国内船主より購入 昭18. 7 大阪鉄工 建造中、 日本汽船より購入 昭20. 22 三菱長崎 建造中、 鈴木商店より購入 昭18. 海外買船 昭18. 海外買船 昭18. 20 浦賀船渠 建造中、 山下汽船より買船 昭18. 11 小野造船 建造中、 国内船主より買船 昭19. 戸上山丸と改名 昭19. 29 播磨造船 建造中、 帝国汽船より買船 昭19. 戦没船第1号 昭17. 7 ラバウル沖洋上で米潜と交戦、 被雷沈没 たいへい 太平丸 6,285 (ディーゼル) 昭3. 30 三井玉 三井物産船舶部に委託運航。 昭12. 25 三井玉 三井物産船舶部に委託運航。 昭19. 10 比島リンガエン沖で被雷沈没 ちょうかい 朝海丸 2,685 (貨客船) 昭3. 3 三井玉 昭15. 30 三井玉 昭19. 8 三井玉 昭18. 2 函館船渠 昭19. 15 三井玉 昭18. 30 函館船渠 昭18. 28 マリアナ、 リタ島沖で被雷沈没 ひぜん 肥前丸 944 (汽 船) 1891 (明 24) 独逸 昭13. 海外買船 昭15. 北海道船舶に売船 しゅんめい 春明丸 (ザイダ) 1,999 (汽 船) 1900 (明 33) 英国 昭13. 海外買船 昭14. 他社に売却 ちょうせい 長成丸 (ファンサムド) 2,040 (汽 船) 1901 (明34) 独逸 昭13. 海外買船 昭14. 他社に売却 とうかい 東海丸 (アルスターン) 3,099 (汽 船) 1905 (明38) 昭13. 東海汽船より購入 昭15. 大図汽船に売船 たかおか 高岡丸 (ベストノージ) 1,281 (汽 船) 1908 (明 41) 諾威 昭15. 海外買船 昭14. 他社に売却 わかみや 若宮丸 2,217 (汽 船) 大正8. 3 小野造船 昭13. 国内船主より購入 昭15. 他社に売却 かさと 笠戸丸 1,418 (汽 船) 大正11. 11 笠戸船渠 昭13. 国内船主より購入 昭15. 3 函館船渠 昭19. 11 三井玉 昭18. 日本鋼管 K 型改造応急油槽船 昭19.

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