いずれ の 御 時に か。 速記講座【63】 「源氏物語−−いずれの御時にか」: 日本語速記講座

いずれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に…...

いずれ の 御 時に か

解釈の決め手 いづれの御時にか:語り手の苦渋と決断 物語冒頭のこの部分は「いつの時代か定かでないが」と訳されてきた。 しかし、これは《時代区分とは天皇の名前である》という古代時間の絶対ルールを無視する点で、意味のない解釈である。 どう言うことか。 例えば、昭和天皇って何時代の天皇ですかという問には意味がない。 昭和天皇という名前の中に何時代かの答えが出ているのだから、質問が成立しないのだ。 天皇は一世一代という特殊な存在であるため、古来、時間を計る基準器であったのだ。 もうすこし、踏み込むなら、古代においては中国の皇帝が時を支配する基準であった。 中国の冊封体制から独立した時に、独自の時間基準を設ける必要が出来た。 その時から帝の在世が時代を区切る基準となったのである。 今日では、2020年等、天皇の名前でない時の表現がある。 しかし、古代日本では帝の在世と、さらに細かい区切りである元号しかないのだ。 元号はむろん、天皇から読りしたものではない。 すべての元号がどの帝の在世のものかわかるのは、天皇の名前と対応があるからにほかならない。 以上の説明を踏まえて、もう一度物語冒頭に戻ろう。 語り手がまさに説き起こそうとしているのは、膨大な物語の主人公である光源氏の父についてであり、誰あろうそれはこの国の支配者である天皇なのだ。 その時代は「光源氏の父帝の在世」に他ならず、「いつの時代か」という設問は成立しないのだ。 いやいや、「どのくらい前か定かでないが」との意味ではないかと解釈する向きもある。 しかし、やはりその説明には無理がある。 物語に則すならば、今上天皇・冷泉・朱雀・父帝とはっきりしている。 それぞれの在位期間は語り手にとっても、その物語内に生きている人々にとっても自明である。 さらに悪いのは、この読み方は、物語を殺してしまうことに気が付いていないからである。 そのことについては、もう少し先で考える。 さて、「いづれの御時にか」という語り手の自問が、時代に関してなされたものでないならば、設問の対象はなんなのか、改めて考え直さなければならない。 実は、ここまでの説明で、その答えは出ているのだがおわかりだろうか(わたしの場合はそれと思い至るまでに十年以上もかかった)。 「時代=天皇の名前」がその答え。 コインの裏表の問題なのだが、語り手を悩ませていたのは、コインの裏側、光源氏の父帝の呼び名をどうお呼びするのかの問題なのである。 天皇の呼び名がどうしてそんなに問題になるのか。 それは王朝人に通底する時間意識から物語時間を引きはがすことがはなはだ困難であったことに起因する。 それを説明する前に「帝と時間」に関する絶対則について触れる。 おそらくこちらが帝と時間の第一原理である。 それは、《在位中の帝には固有名をつけることができない》というもの。 固有名は、退位後の院号、死後の諡号である。 日本史で習う桓武や後醍醐などは、みな諡号である。 在位中の呼び名ではない。 この点を掘り下げると、歴史は過去の出来事を時代区分を以って記すものだ。 「794年平安遷都」を西暦を用いずに記すには、桓武天皇の在位何年に、または元号のこれこれの年にという他にない。 平安遷都当時、桓武は死んではいないので、そんな呼び名はないのだが、平安遷都(過去)を語る際に、その後の呼び名ではあるが桓武という諡号(過去を測る基準時間)を用いるのである。 これに対して物語は、今まさに起きようとしている事柄として語るのであり、時間の流れは現在進行しているのだ。 桐壺更衣を溺愛して政治を投げ出し、国を危うくしているのは現在進行なのだ。 まとめよう。 歴史は今をゼロ基準として時間を遡る(マイナス時間の時間移動)、そこから出来事がプラス向きに起こる。 物語は今を基準としない。 物語時空にワープして、そこから出来事に則して現在(ゼロ時点)が動くのだ。 在位にある父帝を未来の呼び方で呼ぶことはパラドックスを生むことになる。 物語の冒頭で語られているのは、帝が在位にある間は呼び名をつけないという決意表明なのだ。 おやおや、在位時の帝に呼び名がないなら、決意も何もそれ以外方法がないのだから、悩む必要はない。 一方、物語冒頭は確かに悩みを抱えた物言いであり、何かその説明ではくみ取れていない気がするのだが。 紫式部日記の記載に耳を傾ける。 一条天皇といえば、紫式部が仕えた彰子が入内した天皇であり、当時の教養の随一の人物であるが、源氏物語の朗読を聞いて、作者を「日本紀の御局」とあだ名したという。 当時の教養人の意識として、出来事を時間軸に則して語るとは、歴史にほかならないのだ。 過去に時代設定を置きながら現在を語るという濃密な物語時間は、今まさにこの作者によって創造されてゆくのだ。 それがあまりに往時の意識とかけ離れていたからこそ、歴史ではくみ取れない物語の本性を、光源氏が説き起こす必要があったのだ。 「日本紀などは ただかたそばぞかし これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ/蛍の帖」(歴史は物事の片面しか触れない、物語こそ物心両面を詳細に伝えるものなのだ)と。 ここから推すに、作者も含め当時の王朝人に潜在する歴史観・歴史意識・歴史時間等から独立して、物語時空を作り上げる上でのゼロベースが、生きた帝、後宮、人間模様を描くために採用した帝の匿名性であり、その表裏として、歴史時間にない帝を誕生させることができたのである。 これを醍醐天皇をモデルにした等、歴史に還元するのでは、物語時空ぶちこわすことになると思う。 歴史時間から独立できたからこそ、一介の作者が、女色に溺れ政治を遺棄して国を乱す帝の姿を描くことができたのだ。 この点に関しては「物語成功の隠し味」をご参照ください。 院号についてのさらなる仕掛けは「物語時空の特殊性」をご参照ください。 時めき:桐壺の房中術 「時」は好時節、「めく」は視覚・聴覚に訴える。 全体として好時節が到来したようにはたからは見えるとの意味である。 男性社会なら取り立てられて地位が上がるなど、後宮であれば帝の寵愛を集める、とある。 自分を超える存在に取り立てられて、予期せぬ好運がもたらされるのである。 ところが、地位の高くないこの更衣は、帝のおぼえを集めれば集めるほど、周囲の嫉妬にさいなまれてゆく。 ついには皇子を生むという宮仕えする女房にとって最高の栄誉がもたらされると同時に、周囲への気遣いから精神を使い果たし、桐壺更衣は命を失う。 好運と悲運がないまぜとなって、更衣に押し寄せるところに、ドラマ性が生じる。 「桐壺の娼婦性」を参照ください。 けり:物語時間の現在性 「き(過去の助動詞)」や「く(来)」と現存をあらわす「あり」が共存してできた助動詞。 時間や距離を飛び越えて、今ここにという感覚。 早い話が、捜し物が見つかった時に今も「あった」と言う。 置き忘れた瞬間から見つけだした今の瞬間まで、その場にありつづけたとの意味だ。 これが「ありけり」の現在の姿である。 すなわち、この「あった」は形は過去形であっても、意味するところは現在この場・この時の驚き・よろこびなのだ。 「いづれの御時にか」で物語は現在進行すると説明しながら、過去で訳す方が自然なことも多い。 それは日本語の過去形は過去から現在に至る継続を表現できるからだ。 ここがPoint 物語成功の隠し味 帝の匿名化は、歴史時間(すなわち歴代の帝の諡号リスト)に觝触しない(すなわち独立した)物語時間の成立に大きく寄与した。 虚構時間が歴史時間と交わらないからこそ、女色に溺れ政治を投げ出す帝の姿を描くことが許された。 帝の妻が寝取られるという皇統断絶の危機を、描くことを可能にした仕掛けもここにある。 物語時空の特殊性 ここに帝四代七十有余年の大河ドラマが幕を切る。 登場する帝は、上記で触れたように在位中はすべて固有名を持たない。 主な呼び名を整理する。 初代:光源氏と一の宮の父 院号なし 死後は故院など 二代:初代の第一皇子 院号は朱雀院 死後は故院など 三代:初代の第十皇子であるが実父は光源氏 院号は冷泉院 生存中 四代:父は二代帝 在位中のため院号なし 天皇は譲位されると内裏から院という建物に移って余生を過ごす。 その時、上皇を直接呼ぶ名はないので建物の名をもって呼ぶことになる、これが院号である。 ただし、建物名が固有名となるためには、上皇と建物が一対一の対応がなければならない。 ある建物を何代かの上皇が使用した場合、建物名では上皇を特定できないという問題が発生する。 まさしく、歴史上、朱雀と冷泉というふたつの建物がそうであった。 従って、物語の呼称である「朱雀院」「冷泉院」も、朱雀・冷泉の建物(後院という)を利用した上皇の一人というに過ぎない。 すなわち、どの帝もどの院も生前も死後も、特定化につながる固有名を持たないのだ。 語り手が入念に作り上げようとしている物語時空の特殊性が垣間見られる一面である。 桐壺更衣の娼婦性 教室解釈は上のごときだが、本来あるべき自動詞の解釈ではなくなっている点、落ち着きが悪い。 明石入道が娘に、光源氏の出生を説明するくだりがある。 「[桐壺更衣を]宮仕へに出だしたまへりしに 国王すぐれて時めかしたまふこと 並びなかりけるほどに」(「須磨」) 「いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふ」(桐壺冒頭) 同じ内容を、片や自動詞「時めく」を使い、片や他動詞「時めかす」を使って、述べたことはあきらかであろう。 整理する。 一、「時めく」:更衣が主体 二、「時めかす」:更衣が主体、帝は客体 後宮女性にとって一番大切なことは、帝の夜のつとめである。 今宵の伽役に選んでもらうためには、性的魅力を高めておくことが必要だった。 夜が明けても政治を投げ出し更衣を離さなかったなど、帝の尋常ならざる没入度合いからして、二人の性的相性はよほどよかった。 つまるところ、 一、「時めく」:桐壺更衣は性的魅力が抜きん出て高かった 二、「時めかす」:帝を発情させる力が抜きん出て強かった 家格もさほどではなく後見もいない女性が、後宮の中で抜きん出る手段は、女としての魅力以外にない。 蛾眉に顔作り水浴みする楊貴妃の姿がまさしく玄宗皇帝の情意をかき立てた。 後宮の実情を思い描くならば、「時めく」には性的要素が多分に含まれることは論を俟たないと思うが、いかがか。 今、娼婦性として論じたが、娼婦は性交渉のたびに穢れてゆくわけではない。 その都度、処女性を取り戻すからこそ、いつまでも魅力を保持しうるのだ。 従って、娼婦性が主で、その中に処女性を持つと考える方が自然である。 記号化すれば「娼婦性/処女性」とでもなろうか。 この性情を受け継ぐのが夕顔である。 また、桐壺更衣と瓜ふたつとされる藤壺は、光源氏にとって喪失した母性の対象とされるが、処女性の中に娼婦性を宿す「処女性/娼婦性」と考えるべきであろう。 父帝と光源氏を虜にするのは、娼婦と聖女を行き来するからである。 この弁でゆくと、元来聖女であった六条御息所は、反聖女性が強く出てしまうことで、光源氏を辟易させてしまう。 すべての女性にはその両面を共有するであろうが、ことにこの三人は、性において光源氏を虜にして離さないのだ。

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『源氏物語』の現代語訳:桐壺1

いずれ の 御 時に か

四十九日法要は「御霊前」と「御仏前」のどちらを使う? 四十九日法要では「御仏前」を使う 仏教の教えでは霊として存在している間は7日ごとに7回、成仏できるかどうかのお裁きがあるとされており、遺族は故人が成仏できるように7日ごとに追善法要を営みます。 7回目の追善法要である四十九日法要は最後のお裁きの日であり、このときに成仏が許されると霊から仏になります。 四十九日法要で成仏するとされていますから、 四十九日法要での、香典の表書きは原則として「御仏前」を使います。 ただし、どのタイミングで成仏するかについては、「法要のあと、自宅の仏壇に本位牌を納めたときに仏になる」とする考え方もあります。 仏教の御霊前と御仏前の使い分け 通夜・葬儀・初七日 四十九日・初盆・一周忌・三回忌 仏教の場合 御霊前 御仏前 四十九日法要が繰り上げられた場合 四十九日法要は亡くなって49日目に営むのが本来のしきたりですが、法要に招く方の都合を考慮し、49日以前の土日に営むこともありまです。 また、49日ではなく35日に忌明け法要を営むこともあります。 このように亡くなって49日が経っていないときは「御霊前」か「御仏前」か迷うこともあります。 大体の場合は、法要の日に成仏したとされますので、49日以前であっても「御仏前」を使うのがよいでしょう。 宗派による「御霊前」と「御仏前」の使い分け 浄土真宗、真宗、曹洞宗、日蓮宗などは葬儀・通夜から「御仏前」 仏教にはさまざまな宗派があり、宗派によって死生観も異なります。 例えば、浄土真宗や真宗では「霊」の観念がなく、人は臨終と同時に成仏すると考えられています。 そのため、四十九日法要はもちろん通夜や葬儀の際も、香典の表書きは「御仏前」とするのが正式な書き方とされています。 また、浄土真宗とは考え方が異なりますが、曹洞宗や日蓮宗などでも葬儀や四十九日法要の香典の表書きは、「御仏前」を使う場合が多いようです。 仏教 浄土真宗・真宗の場合 通夜・葬儀・初七日 四十九日・初盆・一周忌・三回忌 仏教 浄土真宗・真宗の場合 御仏前 仏式で宗派がわからないときは「御香典」も使える 四十九日までは御霊前が一般的といっても、御仏前を使う宗派もあります。 宗派が確認できる場合はよいのですが、そうでない場合は「御香典」を使う方法もあります。 御香典は「お香やお花の代わりに供えるもの」という意味ですので、仏式の葬儀であれば宗派に関係なく使えます。 ただし、仏式以外の神式やキリスト教式では使えませんので注意しましょう。

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吟鳥子 『いずれの御時にか』 壱

いずれ の 御 時に か

スポンサーリンク 紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた 『源氏物語(げんじものがたり)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。 『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。 『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。 『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。 紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。 参考文献 『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)• 『源氏物語』の現代語訳:桐壺1(現在位置) [古文・原文] いづれの御時(おおんとき)にか、 女御・更衣(にょうご・こうい)あまた侍ひ給ひ(さぶらいたまい)けるなかに、 いとやむごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。 はじめより我はと思ひ上がり給へる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉み(そねみ)給ふ。 同じほど、それより下臈(げろう)の更衣たちは、 まして安からず、朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、 いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ(はばからせ)給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 上達部・上人(かんだちめ・うえびと)なども、 あいなく目を側めつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。 唐土(もろこし)にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、 楊貴妃の例も、引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人の由(よし)あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ花やかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。 [現代語訳] どの帝の御世であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていた中に、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって帝の寵愛を集めていらっしゃる人があった。 入内(じゅだい)した初めから、自分こそはと気位の高い女御の方々は、分不相応な者だと見くだしたり嫉んだりなさっている。 同じ身分やその方より低い身分の更衣たちは、女御たち以上に心が穏やかではない。 朝晩のお仕えにつけても、周囲に不快な思いをさせて、嫉妬を受けることが積もり積もったせいであろうか、ひどく病気がちになってしまい、どこか心細げにして里に下がっていることが多いのを、帝はますますこの上なく不憫なことだとお思いになられて、誰の非難(寵愛する妃の悪口)をもお構いなさることがなく、後世の語り草になりそうなほどの扱いようである。 上達部・殿上人なども、その状況を横目で見ていて、とても眩しくて見ていられないほどの御寵愛ぶりである。 中国の唐でも、このようなことが原因となって、国が乱れ、悪くなったのだと、次第に国中でも困ったことだと言われるようになり、人々が持て余す悩みごとの種となって、(玄宗皇帝を魅了した)楊貴妃の例まで引き合いに出されそうになっていくので、非常にいたたまれないことが多くなっていくが、もったいないほどの帝のお気持ちに類例がないこと(自分を非常に大切にし愛してくれること)を頼みにして何とか宮仕え(後宮生活)をしていらっしゃるのである。 父親の大納言は亡くなって、母親の北の方が古い家柄の出身で教養のある趣味人なので、両親とも揃っていて、今現在の華やかな身分にある方々にも見劣りしない程度に、どのような儀式にも対処なさっていたが、これといったしっかりとした後見人(後ろ盾)がいないので、大事な儀式が行われる時には、やはり頼りとする人もなくて心細い様子である。 スポンサーリンク [古文・原文] 先の世にも御契り(おんちぎり)や深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子(おのこみこ)さへ生まれ給ひぬ。 いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌(おかたち)なり。 一の皇子(みこ)は右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲け(もうけ)の君と、世にもてかしづき聞(きこ)ゆれど、この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、 おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづき給ふこと限りなし。 初めよりおしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき。 おぼえいとやむごとなく、上衆(じょうず)めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、 さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、先づ参う(まう)上らせ給ひ、ある時には大殿籠もり過ぐして、やがて侍らはせ給ひなど、あながちに御前(おまえ)去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれ給ひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。 人より先に参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう、心苦しう思ひ聞えさせ給ひける。 かしこき御蔭をば頼み聞えながら、落としめ 疵(きず)を求め給ふ人は多く、わが身はか弱く、ものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。 御局(おつぼね)は桐壺(きりつぼ)なり。 あまたの御方がたを過ぎさせ給ひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くし給ふも、げにことわりと見えたり。 参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿(わたどの)のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなき事もあり。 またある時には、え避らぬ馬道(めどう)の戸を鎖(さ)しこめ、こなたかなた心を合はせて、 はしたなめわづらはせ給ふ時も多かり。 事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿(こうりょうでん)にもとより侍ひ給ふ更衣の曹司(ぞうし)を他に移させたまひて、上局(うえつぼね)に賜はす(たまわす)。 その恨み、ましてやらむ方なし。 [現代語訳] 前世でも深いお約束(縁)があったのだろうか。 この世にまたとないほどに美しい玉のように光り輝く男の御子までがお生まれになった。 早く早くと待ち遠しくお思いになられて、急いで宮中に参内させて御子を御覧あそばすと、類稀な若宮のお顔だちの良さである。 第一皇子は、右大臣の娘の女御がお生みになった方で、後見がしっかりとしていて、当然のように皇太子になられる君だと、世間も大切に存じ上げているのだが、この御子の輝くばかりの美しさとは比べようもなかったので、一通りの形ばかりのご寵愛であって、この若宮の方を、自分の思いのままに可愛がられて、大切にあそばされていることはこの上もない。 母君は本来であれば、女房並みに帝のお側御用をなさらねばならない身分ではなかったのである。 誰からも身分を尊重され、上流貴族としての気品・風格もあったが、帝がむやみにお側近くに引き留められたために、相当な管弦のお遊びがある時、それ以外のどのような行事でも、趣きのある催しがある度ごとに、まっさきに参上させられてしまう。 場合によっては、夜遅くまで一緒に過ごして寝過ごしてしまわれた時でも、昼間もそのままお側近くに置いておかれるなど、無理やりに帝が御前から離さずにお扱いあそばされているうちに、いつしか身分の低い女房のようにも見えたのだが、この御子がお生まれになって後は、特別に大切にお考えになられるようになったので、東宮(皇太子)にももしかしたら、この御子がおなりになるのかもしれないと、第一皇子の母の女御はお疑いになっていた。 この女御は誰よりも先に御入内なされて、その家柄の良さゆえに帝が大切に扱われていることは並々のことではなく、皇女たちなども産んでいらっしゃるので、この御方の諫言だけは、さすがに無視できないことだと、面倒に煩わしくお思いになっているのであった。 更衣は恐れ多い御庇護をお頼り申しあげてはいるものの、軽蔑したり落度を探したりされる方々は多く、ご自身は病弱でその寿命がいつとも知れぬご様子で、なまじ御寵愛を得たばかりにしなくてもよい悩みを抱えておられる。 住んでいる御殿は桐壺である。 大勢のお妃方の前を帝は素通りあそばされて、ひっきりなしの素通りを繰り返されるので、お妃方が思い悩んでおられるのも、なるほどもっともなことである。 参上なさる場合にも、あまりにその更衣の参上ばかりが度重なる時(更衣だけが帝に寵愛を受けている時)には、打橋や渡殿のあちらこちらの通路に、悪意のある仕掛けを施して、送り迎えする女房の着物の裾がひっかかって傷んでしまうことがある。 またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を締めて通れないようにし、こちら側とあちら側とで示し合わせて、どうにもならないようにして更衣を困らせることも多かった。 何かにつけて、数え切れないほどにつらいことばかりが増えていくので、すっかり悩み込んでいるのを、帝はますますお気の毒にお思いになられて、後凉殿に以前から控えていらっしゃった方々(意地悪をしていた方々)の部屋を他に移させて、上局(桐壺の更衣専用の休憩所)としてお与えになられた。 その恨みは(他に移された更衣たちの恨みは)、なおさら晴らしようがないほどに強くなった。 楽天AD [古文・原文] この御子三つになり給ふ年、御袴着(おはかまぎ)のこと、一の宮の奉りしに劣らず、内蔵寮・納殿(くらつかさ・おさめどの)の物を尽くして、いみじうせさせ給ふ。 それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよずけもておはする御容貌(おかたち)心ばへありがたくめづらしきまで見え給ふを、え嫉み(そねみ)あへ給はず。 ものの心知り給ふ人は、かかる人も世に出でおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかし給ふ。 [現代語訳] この御子が三歳におなりの年に、御袴着の儀式が行われたが、一宮がお召しになったのに劣らないほど内蔵寮・納殿の御物を派手に使って、とても盛大に執り行われた。 そのことについても、世人の非難ばかりが多かったが、この御子が成長なされていかれると、そのお顔だちやご性格が世間に類がないほどに素晴らしいので、憎むことがなかなかできない。 物事の情趣を弁えた有識者たちは、このような素晴らしい完璧な方が、この世に生まれてくることがあるものなんだなと、驚き呆れたご様子で目を見張っていらっしゃる。

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