山背大兄王 系図。 古人大兄皇子

崇神天皇〜仲哀天皇の系図

山背大兄王 系図

古人大兄皇子 続柄 第一皇子 出生 不明 死去 元年() 子女 父親 母親 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、 - 元年() )は、の。 の第一皇子。 母はの娘・(ほほてのいらつめ)で・とはに当たる。 娘は(の)。 古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称される。 生涯 [ ] 大臣・蘇我入鹿は、古人大兄皇子をの次期に擁立しようと望んだ。 そのため、有力な皇位継承資格者・(『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子()の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。 厩戸皇子自身が蘇我氏の一族であり、山背大兄王の母は入鹿の叔母()であり入鹿とは従兄弟に当たる)の存在が邪魔になり、11月、入鹿はを襲い山背大兄王とその一族を滅ぼした。 6月、から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。 古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子()、中臣鎌子()らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。 古人大兄皇子は私宮()へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。 私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。 入鹿の父・も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った()。 事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、してへ隠退した。 しかし、同年9月12日 (きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子がを企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させた。 実際に謀反を企てていたかどうかは不明である。 脚注 [ ]• ここでは、吉備笠垂の密告日(9月12日)の内に、中大兄が討伐命令を出し、古人大兄が死亡した場合の日付を採用している。 日本書紀には、密告記述に引き続く一文で、「中大兄、 即(すなは)ち…古人大市皇子等を討たしむ。 」(訓読文)と在る。 (校注本には「即ち」の意味については注釈されていない。 ) - 「巻第二十五 孝徳天皇 大化元年八月-九月」 『日本書紀(四)[全5冊]』 坂本太郎 他校注(岩波文庫)1995年、252頁• 「ある本」一書に、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させたむね記されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁• 複数の共謀者の具体的名前を挙げ古人大兄が謀反を企てた(9月3日)むね断定的に記述された後、共謀者の吉備笠垂の密告(9月12日)の記述がなされるが、その検証の記述が一切無いまま、中大兄による討伐命令に至っている。 ここで「検証の記述云々」とは、例えば、がに皇太子中大兄への謀反を讒言されたとき、側から謀反の企てについて石川麻呂本人に問い合わせが何度もなされた記述が在るが、古人大兄の場合には謀反の企ての有無について問い合わせ等検証の記述が無いことを言う。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死 および 蘇我倉山田麻呂冤罪」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164、184頁.

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皇室の系図一覧

山背大兄王 系図

即位36年春2月27日。 天皇は病に伏せました。 3月2日。 日蝕で太陽が尽きたことがありました。 (3月)6日。 天皇は痛みがひどくなって、忌まわしい事態…つまり死が避けられない状態になりました。 すぐに田村皇子(タムラノミコ=後の舒明天皇)を呼び寄せて語って言いました。 「天位(タカミクラ=天皇位)に登り、鴻基(アマツヒツギ=天から任された仕事)を治め、整え、万機(ヨロズノマツリゴト=すべての政治)を治め、国民を養うことは、もとより容易く言うものではない。 常に重く捉えるものです。 お前は慎しみ、明らかにするのだ。 軽々しく言ってはいけない」 その日のうちに、山背大兄(ヤマシロノオオエ=聖徳太子の子)を呼び寄せて教えて言いました。 「お前はまだ未熟ものだ。 もし、心に望むものがあっても、やかましく言ってはいけない。 必ず、群(マヘツキミタチ=臣下たち)の言葉を待ち、従いなさい」 (3月)7日。 天皇は崩御しました。 その時、年齢は75歳。 南庭(オオバ)に殯(モガリ=遺体を仮に安置すること)しました。 事情 田村皇子は母親が敏達天皇の娘の糠手姫皇女。 父親が同じく敏達天皇の息子の押坂彦人大兄皇子。 つまり田村皇子は血統では実に申し分ないわけです。 この人物を次の天皇に指名したことは、筋から言えば、問題ないのです。 しかしながら、聖徳太子が皇太子であり、まで行っていましたし、人望も能力も十分ありました。 このページでは故人ですが、明らかに「次の天皇は聖徳太子」としていたのです。 だから、次の天皇は、聖徳太子の子の山背大兄王で決まりでしょう。 また聖徳太子は蘇我の血も引いているのです。 聖徳太子は皇族でありつつ蘇我の血を引く。 つまり山背大兄王も皇族と蘇我の血を継いでいる。 山背大兄王は血統も政治基盤も、何の問題も無い、はずなんです。 田村皇子は蘇我の娘を嫁にもらっていましたから、蘇我の影響は受けるでしょうが、そうは言っても、田村皇子当人はバリバリの皇族。 蘇我の血は継いでいません。 もしも推古天皇が蘇我の関係者で、蘇我の影響下の人物を選ぶのならば、山背大兄王で良いハズです。 仏教からの揺り戻し? 聖徳太子vs蘇我氏という図があって、聖徳太子を排除したのではないか?とも思います。 そういう仮説も成立します。 しかし聖徳太子は間違いなく蘇我関係者です。 推古天皇・蘇我馬子・聖徳太子は、蘇我の血縁者です。 だから対立なんてしない、とは思いませんよ。 でも、聖徳太子と蘇我馬子は共同で仕事をしてきたいわば戦友。 理由としては弱いのではないかと。 私は全然別のことを考えています。 このページではこの三者が全員死ぬことになりました。 また、これ以前のページから天変地異が続いていますし、これからも続きます。 推古天皇はこう考えたのではないでしょうか。 仏教は失敗だったと。 思えば、最初に仏像を祀ったのが蘇我稲目…馬子の父で推古天皇の祖父にあたる人物です。 仏像を祀り、寺を建て、その結果どうなったかというと、疫病が蔓延し民が死んでいきました。 そこで寺は廃棄、経典や仏像を捨てることになりました。

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崇神天皇〜仲哀天皇の系図

山背大兄王 系図

第10代 崇神天皇(すじん)/御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえ) 三輪山の神を祀り、四道将軍を派遣するなどして統治した。 子 五十日鶴彦命(いかつるひこ) 『古事記』では伊賀比売命(いがひめ)(女性)。 妃 遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ) 妃の母 荒河戸畔(あらかわとべ) 子 豊城入彦命(とよきいりひこ) 上毛野君・下毛野君の祖。 崇神天皇の夢占いにより、東国を治めた。 孫 八綱田(やつなた)/倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた) 垂仁天皇の時代に、反乱を起こした狭穂彦王を攻めた。 子 豊鍬入姫命(とよすきいりひめ) 崇神天皇の命により、笠縫邑で天照大神を祭った。 子 渟名城入姫命(ぬなきのいりびめ) 崇神天皇の命により、倭大国魂神を祭ろうとしたが能わなかった。 子 十市瓊入媛命(とおちにいりびめ) 垂仁天皇の系図 第11代 垂仁天皇(すいにん)/活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさち) 殉死を禁止して埴輪に代え、農業のために池や溝を多数作らせた。 皇后 日葉酢媛命(ひばすひめ) 野見宿禰の進言により、葬儀の際には殉死に代えて埴輪が作られた。 また、河内国に高石池・茅渟池を作った。 子 倭姫命(やまとひめ) 天照大神を伊勢に遷し、社を建てた。 日本武尊が東征する際に草薙剣を授けた。 子 稚城瓊入彦命(わかきにいりひこ) 妃 渟葉田瓊入媛(ぬはたのにいりひめ)/沼羽田之入毘売命(ぬばたのいりひめ) 子 鐸石別命(ぬてしわけ)/沼帯別命(ぬたらしわけ) 孫 稚鐸石別命(わかぬてしわけ) 子 胆香足姫命(いかたらしひめ) 妃 真砥野媛(まとのひめ) 『古事記』では、醜さを理由に国元に帰されることになり、それを恥じて自殺した。 景行天皇・成務天皇の系図 景行天皇 第12代 景行天皇(けいこう)/大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけ) 日本武尊に熊襲征伐や東征をさせ、多くの子女を諸国に赴かせた。 80人の子どもがいた。 天皇に東征を命じられたが、恐れて草の中に隠れた。 大碓皇子は、天皇の命で兄遠子・弟遠子を探しに来たが、自分のものとした。 子 五百城入彦皇子(いおきいりひこ) 太子(ひつぎのみこ)の一人。 子 忍之別皇子(おしのわけ) 子 稚倭根子皇子(わかやまとねこ) 子 大酢別皇子(おおすわけ) 忍之別皇子と同一人物か。 妃 五十河媛(いかわひめ) 子 神櫛皇子(かんぐし) 子 稲背入彦皇子(いなせいりひこ) 播磨別の祖。 孫 御諸別命(みもろわけ) 妃 高田媛(たかたひめ) 妃の父 阿倍木事(こごと) 子 武国凝別皇子(たけくにこりわけ) 妃 日向髪長大田根媛(ひむかのかみながおおたねひめ) 子 日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこ) 妃 襲武媛(そのたけひめ) 子 国乳別皇子(くにちわけ) 子 国背別皇子(くにそわけ)/宮道別皇子(みやじわけ) 子 豊戸別皇子(とよとわけ) 妃 御刀媛(みはかしひめ) 襲の国を平定した時に妃とされた。 子 豊国別皇子(とよくにわけ) 日向国造の祖。 成務天皇 第13代 成務天皇(せいむ)/稚足彦尊(わかたらしひこ) 国や県などに首長を置き、区画を定めた。 妃 弟財郎女(おとたからのいらつめ) 妃の父 建忍山垂根(たけおしやまたりね) 子 和訶奴気王(わかぬけ) 妃 吉備郎姫(きびのいらつめ) 日本武尊の系図 日本武尊(やまとたける)/小碓命(おうす)/日本童男(やまとおぐな) 太子の一人。 熊襲を討ち、東国を平定した。 妃の父 穂積忍山宿禰(おしやまのすくね) 子 稚武彦王(わかたけひこ) 子の妻 飯野真黒比売命(いいののまぐろひめ) 孫 須売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこ) 妃 宮簀媛(みやすひめ) 尾張氏の娘。 日本武尊が尾張に立ち寄った際に妃になった。 妃 山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ) 子 蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけ)/足鏡別王(あしかがみわけ) 天皇に献上される白鳥を奪ったことで誅殺された。 仲哀天皇の系図 第14代 仲哀天皇(ちゅうあい)/帯中津日子尊(たらしなかつひこ) 熊襲の征伐に向かい、その途中で崩御した。 子 忍熊皇子(おしくま) 麛坂皇子とともに、皇位をめぐり反乱を起こした。 妃 弟媛(おとひめ) 妃の父 大酒主(おおさかぬし) 子 誉屋別皇子(ほむやわけ).

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