明治 神宮。 【明治神宮】アクセス・営業時間・料金情報

2020年 明治神宮

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「」も参照 『』では、・・ (を指す )のみが「神宮」と記載されていた。 その後、に成立した『』では、大神宮(伊勢神宮内宮)・・が「神宮」と表記されている。 以降、やの祖先神を祭神とする神社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めた。 しかし、を祀るやが神宮ではないように、全てにおいてそうではない。 終戦までは、新たに「神宮」の社号を名乗るためにはが必要であった。 は神社の国家管理は廃止されたため、「神宮」号を名乗る際に勅許は不要となった。 しかし現在でもなお傘下において、「神宮」を公式な社号として名乗る神社は特別の由緒を持つものに限られている。 戦後、神社本庁に属する神社で「神宮」号を公式に称したのは、いずれも神社本庁の特別な承認を受けて改称した(旧札幌神社・)、(旧伊弉諾神社・)、(旧英彦山神社・)の3社のみである。 神社本庁に属さないでは、天皇を増祀することで「神宮」号に改称したの例がある。 (旧出雲神社)も戦後の改称ではあるが、「大神宮」は「神宮」号とは異なる。 また、通称として「神宮」号を冠する神社(、、、)も見られる。 いずれにせよ神社が既に国家の管理から離れている以上、「神宮」号を称すかどうかは各神社の判断に任せられている。 伊勢神宮(皇大神宮)の祭神を分霊し「大神宮」、「皇大神宮」と名乗る神社(、、など)は全国各地にあるが、「神宮」の社号とは異なる。 また、神道系教団の宗教施設に「神宮」号を名乗るものがある(「桜神宮」、「皇祖皇太神宮」など)が、これらも当項目では扱わない。 神宮号を名乗る神社の一覧 [ ] 社名 所在地 祭神等 改称年 旧社格 皇室祖先神 神宮() 祭神:内宮・、外宮・豊受大神 -- -- 祭神:、 (昭和29年) 主祭神: (明治7年) 官幣大社 鹿児島県霧島市 主祭神: (明治7年) 官幣大社 祭神: (明治7年) 官幣大社 祭神: (昭和50年) () (廃社) 祭神:天照大神 (昭和19年) 官幣大社 () (廃社) 祭神:天照大神・明治天皇 (大正14年)(創建時) 官幣大社 () (廃社) 祭神:天照大神・明治天皇 (昭和19年)(創建時) 官幣大社 天皇 祭神: (明治23年)(創建時) 官幣大社 宮崎県 祭神:神武天皇 (大正2年) 官幣大社 主祭神:、副祭神: (明治28年) 官幣大社 主祭神:、 (明治4年) 官幣大社 () 朝鮮(未鎮座) 祭神:、、、 (昭和14年)(創立時) 官幣大社 祭神: (昭和15年)(創建時) 官幣大社 祭神:、 (昭和15年) 官幣大社 京都府京都市 祭神:、 (明治28年)(創建時) 官幣大社 京都府京都市 祭神: (昭和34年) 祭神: (昭和15年) 官幣大社 祭神:、、 (昭和14年) 官幣大社 奈良県 祭神: (大正7年) 官幣大社 副祭神: (昭和39年) 官幣大社 祭神:明治天皇 (大正9年)(創建時) 官幣大社 その他 御神体:の一つの(草薙剣) (明治元年) 官幣大社 奈良県 御神体: (明治16年) 官幣大社 御神体: -- 官幣大社 和歌山県和歌山市 御神体: -- 官幣大社 祭神: -- 官幣大社 祭神: -- 官幣大社 脚注 [ ] [].

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明治天皇 22万(約73)に及ぶ広大な神域は、初めには藩主・加藤家の別邸であり、17年(1640年)より藩主・井伊家のとなっていたもので、この土地が(7年)、井伊家から政府に買い上げられてとなっていた。 (45年)にがし、としては初の君主のであったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。 明治天皇は京都のに葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する民から起こった。 実業家、東京市長といった有力者による有志委員会が組織され、代々木御料地に神宮を建設する建設案が立てられた。 有志委員会は政府の実力者との折衝を重ねるとともに、所属議員によってに神宮建設の建議を行い両院で可決された。 神宮建設の機運の高まりを受け、(2年)に政府は閣議によって内務大臣を長とする神社奉祀調査会を設置した。 (3年)に皇后であったが崩御すると、の裁可を受けて、(大正4年)、明治神宮を創建することが告示で発表された。 造営には全国から11,129人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した。 鎮座祭は(大正9年)11月1日に行われ、翌2日にはの名代として皇太子裕仁親王(のちの)が行啓した。 初代宮司は。 神宮本殿は末期の(昭和20年)4月、によるによって焼失した。 その後全国から復興資金が寄せられ、仮殿が建設されて翌(21年)5月に還座祭が行われた。 現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもので、還座祭は(昭和33年)に行われた。 境内の旧御苑入口付近にはかつて、の地名の起源ともなったの巨木「代々木」があったが、この名木も空襲の折、によって撃墜されたアメリカ軍機・の直撃を受けて焼失している。 (昭和41年)に大鳥居が落雷によって破損したため、新たな鳥居を(昭和50年)に建立。 2代目の大鳥居も初代同様、台湾の連峰の大檜が用いられている。 なお、落雷した鳥居はの二の鳥居として翌年移設された。 (平成20年)-には、明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ「アカリウム」奉納行事は開催された。 後、のとなりに指定された。 (16年)に神社本庁との包括関係を一旦解消し、の宗教法人明治神宮となったが 、(平成22年)、再び神社本庁との包括関係を設定した。 (平成30年-令和元年)の4月30日から5月1日にかけて、元号跨ぎのを求めて参拝者が殺到し、御朱印受付に最長で約11時間待ちの列が作られた。 日本で最も人気の神社であるため当日の御朱印はプレミア化し、直後に数十万円の値を付けた高額転売が開始され、その他の神社の転売事例も併せて御朱印配布の本来の目的との乖離が問題視された。 (2年)に鎮座100年となるのにあわせて記念事業が行われ、(令和元年)10月26日、新たな宝物館として「明治神宮ミュージアム」(設計)が開館した。 境内 [ ] 明治神宮付近の航空写真。 1989年撮影。 隣接する代々木公園を含め一帯は広大な緑地となっている。 を基に作成 内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地のほか日本の統治下にあった、からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。 (昭和45年)の調査時には247種17万本となっており、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、が意図的に化されたものとしても注目されている。 この中には他のなどを除けば広い緑地が少ない東京都心部では通常見られないような生物が生息し続けており、・的にも非常に貴重な例となっている。 2019年時点の樹木数は約3万6000本に減っている代わりに、残った木が巨木化しつつある。 これは参道を掃き清める際に集めたを森に戻す以外は人為的な手を加えず、森の変化をに任せているためである。 明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がなく、はあるものの作物が育ちにくい荒地であった。 そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。 設計に携わった人々を挙げると、では、、、、、中村斧吉(林苑課長)、大溝勇、山崎林志、中島卯三郎。 また、奈良女子高等師範学校(現:)のらが参加した。 折下らは神宮外苑の並木などもデザインする。 こうして集められた明治神宮造営局の技師らは(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。 現在のでいう(サクセッション)という概念がこの時に構想され、林苑計画に応用された。 当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後にはを中心とした(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。 いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。 なお、植林事業そのものは(大正4年)には開始されている。 計画では「永久ニ荘厳神聖ナル林相」を目指すとされ、まずは痩せた土地に強いを多めに植えて森を造れば、次第にが台頭してくると着想。 50年後、100年後、150年後の森の姿を予測して計画に盛り込んだ。 植林開始当初、()から「はよろしくない」と林を目指すよう求められたが、に合わず永続する森にならないと説得した。 神宮御苑 [ ] 明治神宮御苑(通称、神宮御苑)はからの庭園として使われ、明治時代にが所轄するとなり、代々木御苑と呼ばれた。 ここは明治天皇と昭憲皇太后にゆかりの深い名苑であり、この地の風光をこよなく愛された皇太后はしばしばされたほか、明治天皇は隔雲亭という御茶屋を建て、(あずまや)を作り、池にはを植え、回遊歩道を設けて美しい庭園とされた。 隔雲亭はの末期、アメリカ軍によるによって焼失したが、戦後にによって復元された。 現在、苑内には隔雲亭やあずまやのほか、お釣台、菖蒲田、清正井などがある。 菖蒲田の(花菖蒲)は明治天皇が昭憲皇太后のために植えさせられたといわれ、6月が最盛期である。 また、11月下旬から12月上旬には、を愛でることが出来る。 拝観は有料であり、料金は大人500円、16時30分閉門である。 明治神宮会館 [ ] 明治神宮会館は同神宮鎮座五十年を記念して1972年6月に清祓され 、翌73年1月に柿落とされた。 ホールは毎年2月11日の慶祝中央式典や、5月の全国赤十字大会、コンサートや入学式・卒業式などで利用されており、客席数は1914席(1階1340席、2階574席)である。 ギャラリー [ ]• 詳細は「」を参照 明治神宮外苑(通称、神宮外苑)は、・の遺徳を永く後世に伝えるため、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって造営された。 青山練兵場の跡地である敷地は、現在のとに渡り、を中心に、(のちの)・・などがある。 かつて、明治神宮の(裏参道)からを通って明治神宮外苑・外苑橋まで続く道路には、これに沿ってが整備されていた。 しかしながら後にはとなり、現在はに変わっている。 参拝 [ ] の終点にあってを跨ぐ陸橋である「神宮橋」は、鎮座に先立つ(9年)9月に完成した。 橋はRC構造で長さ20. 4メートル、幅員29. 1メートルである。 寄り、境内・南参道鳥居に通じる参道としてが整備されたのに対して、現在の明治通りから北参道鳥居に通じる参道はかつて「裏参道」と呼ばれていた。 祭事 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年8月) 神社を奉祀するとはいっても、現実にその領地確保や建立にはいくばくかの資金が必要である。 いくつかの候補から、領地は東京公園を建設予定だった新宿村代々木御料地と定められた。 当初の理念において、内苑は国が、外苑は国民が造るものとされ、資金は国による税金と国民による寄附金があてられた。 その総額は、国税の納付額などで明治神宮奉賛会によっておおよそ標準額として予め計算されたものがあり、では200万円、東京府以外のでは250万円、(・・・)からは20万円、国外からは25万円とされた。 内地においてはその目標額が公平な負担となるよう各都府県に割り当てられた。 各市町村群へは、各都府県が割り当てられた額面を調整し、その寄附金を募った。 基本的には寄附であるので個人の自由であるが、官吏などはそうではなかったところもある(地位により額面が決められていたが、一部を除いては自らに割当られた額面の寄附は望んでのことであった。 は100円とされた)。 標準額総額は495万円であったが、結果的には想定を大きく上回る約676万円となった。 必要とされた額は670万円とされていたので、目標額は達成できたことになる。 収益事業としては、事業を柱とするならびにを持つ。 そのうち、明治記念館は事業や飲食店経営を担う「明治記念館調理室」(売上高年間49億円)ならびに、事業などを行う「セラン」(売上高15億円)という2つのグループ会社を持つ。 明治神宮外苑は、の他、、、などを有し、年間の売上は60億円程度(2010年時点)である。 逸話 [ ] おみくじ [ ] 明治神宮には、多くの神社にみられる「」が存在しない。 代わりに、を引きや御歌(・が詠んだ)を「大御心」として授かる。 大御心を授けられた参拝者は、これを持ち帰り折に触れ詠み返すものとされており、おみくじのように境内に結んで残すことはしない。 また、御製や御歌とその解説文のみしか記述していない為、吉凶も存在しない。 そのため多くの神社に見られる「みくじ掛」も境内に存在しない。 清正井 [ ] それまで、神宮御苑の一つの井戸であった清正井(きよまさのいど)であったが、テレビ番組にてとして紹介されたことを契機に(21年)から突如、人気を集めるようになり、産経新聞によると、数時間待ちとなることもあったという。 宝物殿中倉 重要文化財 [ ]• 太刀 銘助茂(1972年盗難、所在不明)• 明治神宮宝物殿 13棟• 中倉(附:陳列箱8基、鬼瓦1箇)• 東西倉• 東西廊• 東西橋廊• 東西渡廊• 事務所(本館、附属屋、渡廊下からなる)• 附:土塁 正門東西2所(東西便所、東西掖門、東西通用門を含む) 以上の計13棟が近代和風建築として国の重要文化財に指定されている。 これらの建物は大正4年(1915年)から工事を開始し、同10年(1921年)に竣工した。 伝統的日本建築の意匠を取り入れた鉄筋コンクリート造建築である。 造営は内務省に設置された明治神宮造営局によって行われ、との指導のもと、同造営局のと志知勇次が担当した。 大江が全体計画と基本設計、志知が工事監督に携わっている。 日本における鉄筋コンクリート造の大規模建築物の初期の事例として貴重である。 なお、明治神宮所有の物件としては他に外苑の(東京都新宿区)の建物も重要文化財に指定されている。 宝物殿は屋根修理と耐震工事のため、2017年1月10日より当分の間、閉館している。 宝物類は明治神宮文化館内の宝物展示室で展示されている。 江守賢治『解説字体辞典』は、「宮」の字は、甲骨文以来、「ノ」を入れずに書くのが通常であり、『説文』や『康煕字典』が「ノ」を入れる字体を採用したのが異例であるとする。 一方、は、「ノ」は、建物(「ロ」)と建物(「ロ」)を繋ぐ「廊下」を表し、古くは建物と建物の間に廊下はなかったので「ノ」を入れなかったが、廊下が作られるようになってから「必然的」に「ノ」を入れるようになったとする。 jinjajin. 2020年1月2日閲覧。 『皇紀・万博・オリンピック…皇室ブランドと経済発展』〈〉(原著1998年3月)、pp. 21-59。 233-236. 2017年11月25日閲覧。 2008年8月2日時点のよりアーカイブ。 2008年11月1日閲覧。 2004年7月5日. 2010年2月28日閲覧。 シブヤ経済新聞. 2019年11月11日. 2019年12月5日閲覧。 建築都市設計事務所『明治神宮ミュージアム』(2018年9月26日閲覧)。 山口 智 2004年6月. 民間都市開発推進機構. 2017年11月11日閲覧。 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p230• ではからの1万円の寄附金を受け、市町村郡への割当が合計1万円差し引かれた。 プレスリリース , 明治神宮 , 2011年10月27日閲覧。 2010年2月8日. Business Media 誠. の2010年2月11日時点におけるアーカイブ。 2010年2月28日閲覧。 盗難については、文化庁文化財保護部監修『文化財保護行政ハンドブック 美術工芸品編』(ぎょうせい、1998)、p. 127、ほか諸資料による。 平成23年6月20日文部科学省告示第95号• 宝物殿の説明は以下による。 文化庁文化財部「新指定の文化財」『月刊文化財』574(第一法規、2011)、pp. 28 - 34• (明治神宮公式サイト) 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2012年2月)• 『明治神宮造営誌』、1930年。 『明治神宮外苑志』明治神宮奉賛会、1937年。 『明治神宮五十年誌』明治神宮、1979年。 明治神宮社務所 編『「明治神宮の森」の秘密』、1999年。 今泉宜子『明治神宮 戦後復興の軌跡』明治神宮社務所、2008年。 『神園』明治神宮国際神道文化研究所。 "KAMIZONO"Journal of Meiji Jingu Research Institute. 『明治神宮の出現』(、2005年。 、『代々木の森』、1981年• 『東京都市計画物語』、2001年。 「明治神宮鎮座90周年連続セミナー 明治神宮の創建に尽くした人々 プロフェショナルたちの群像」『神園』第4号、99-123頁、明治神宮国際神道文化研究所、2010年11月。 『鎮座百年記念 第二次明治神宮境内総合調査報告書』(鎮座百年記念 第二次明治神宮境内総合調査委員会編)明治神宮社務所、2013年9月30日発行、510頁 関連項目 [ ] ウィキニュースに関連記事があります。

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