三好長慶 松永久秀。 三好長慶に信頼された松永久秀の壮絶な生涯

三好長慶とは (ミヨシナガヨシとは) [単語記事]

三好長慶 松永久秀

概要 [ ] 初めはに仕えたが、やがて内で実力をつけ、との折衝などで活躍した。 久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代・の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。 また、長慶の長男・と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。 長慶の死後はと時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。 が義輝の弟・を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。 その後、信長に反逆して敗れ、でもしくは焼死により自害した。 茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。 生涯 [ ] 出自と登場 [ ] 5年()生まれ。 出身については、・(現在の)・五百住の土豪出身など諸説がある。 長江正一は西岡出身の商人の生まれで、と同郷であったと断定している。 しかし、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかと思われる資料が発見 されたことから、同郷だと当てはめるのは困難だとされ、2012年からは五百住の土豪出身の説も大きくなっている。 説は、同国市場犬墓村(現・徳島県阿波市)旧家の由緒書に基づくが、長慶父のが阿波国から渡海し畿内入り戦闘時の史料に松永姓の武将はいないし、その諸将は後にほとんどが、に従い、阿波へ帰国しているので、史実性はなくなっている。 2年()か天文3年()頃よりの被官・の(書記)として仕えたと言われている。 史料における初見は天文9年() と言われている。 天文9年(1540年)6月9日、長慶が用の千句田二段を門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀がの官名で伝達している。 同年12月27日、堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵にも久秀が副状を発給しており、このころ奉行の職にあったとみられる。 史料上の初見の時期からも、三好長慶が、それまでの三好勢のように、畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、主として摂津下郡半国の守護になり、初めて畿内での統治を行った際に外様の家臣として取りたてられ活動していたと見られる。 天文11年(1542年)には三好軍の指揮官として、の討伐後なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、山城南部に在陣した記録があり、この頃には官僚だけでなく武将としての活動も始めていた。 長慶がの部下であった頃から、仕えていたようだが、本格的に台頭してくるのは長慶が晴元を放逐して畿内に政権を樹立する頃からである。 久秀の抜擢 [ ] 松永久秀の抜擢は、における人事の特殊さを表していると指摘される。 低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は他の大名家でも見られるが、上杉家はに直江家の後を継がせ直江の城と家臣団を継承させ、北条家はに北条の名字を与え一門に列席させるなど、抜擢するに応じて相応の家格・地位・領地・家臣団を与えている。 やを外様から抜擢したも、家格という観点から秩序維持の為に、光秀やに、の名跡を継がせている。 信長の場合、彼らの出世が従来の織田家譜代を中心とする家格秩序と齟齬をきたすであろうと信長が予測し、その齟齬を未然に防ぐための措置と指摘される。 これらと比較して、三好長慶は久秀やを登用し、彼らは三好政権で枢要な地位につくほどの重臣となったが、彼らが阿波時代からの三好譜代の名跡と家格を継承した形跡はない。 これは三好家の人事登用が従来の家格秩序にとらわれないものであったことの証左と言われる。 例えば、同年、公家のがから所領の利益を押領されたため、これを回復する為に長慶らと交渉を開始するが、その際に度々交渉先の相手として久秀が登場している。 同年12月には久秀は本願寺のから贈り物を受けている。 久秀は長慶に従って上洛し三好家のとなり、弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称する(霜台を称したのは3年()からともされる)。 上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年()にはに攻め込んできた細川晴元方の、らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っている()。 しかし、この戦で両軍の放火の為に相国寺の塔頭、伽藍などが灰燼に帰してしまう。 長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶がを平定した天文22年()に摂津主に任ぜられる(弘治2年()7月とも)。 同年9月には長頼と共にのの籠るを攻める が、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、香西元成に背後から奇襲を受け惨敗を喫する。 この戦いで味方のが戦死を遂げ、内藤家に混乱が生じる。 その後は長頼が国貞の遺子である千勝の後見人をするという形式で内藤家を継承、丹波平定を進めていった。 天文24年()、久秀はの家臣・に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾している。 また長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている。 2年()、に任じられ、6月には長慶と共に堺での二十五回忌に参加している。 同年7月、久秀の居城滝山城へ、長慶が御成し 、歓待された。 久秀が千句連歌で、そしての能で長慶をもてなした。 永禄元年()5月に足利義輝、細川晴元が近江国から進軍して京都郊外のを窺うと、久秀は吉祥院に布陣し 、弟の長頼、三好一門衆の三好長逸、、公家のと共に洛中に突入して威嚇行動を行ったのち 、とで幕府軍と交戦し、11月に和睦が成立すると摂津国へ戻った()。 永禄2年(1559年)3月、三好長慶はで花見を開催する。 この際、久秀も、、、、、らと共に参加している。 また同年、部下の(の子孫)が、北朝から朝敵として扱われているが、これを赦免して欲しいと前から願っており、久秀はこれを聞き入れて、に赦免を許可して欲しいと交渉している。 正虎は赦免された上に河内守にも任官された。 この交渉とそれにおける楠木氏の朝敵赦免には足利義輝も関与しており、彼も赦免に同意し許可した。 しかし、義輝にとって足利家の仇敵であり敵対した南朝の中心人物である楠木氏を赦免することは内心とても不愉快であったろうし、強い危機感を抱いたに違いないという指摘もある。 久秀は同年5月の遠征に従軍し、戦後は長慶の命令を受けて残党狩りを口実に大和国へ入り、1日での本拠筒井城を陥落させ追い払った。 次に平群谷を焼き、筒井方の十市氏を破った。 永禄3年(1560年)にはを破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・義輝からに任じられ、1月20日に弾正少弼に任官。 6月から10月までの長慶の再度の河内遠征では大和国に残り、7月から11月にかけて大和北部を平定し、三好家中の有力部将として台頭していった。 そして同年11月に滝山城から大和北西のに移って居城とする。 やがて信貴山城にを造営した。 永禄4年()2月4日にに昇叙されると、それまで称していたからを称するようになった。 また2月1日には義輝からとの使用を許された(『』『』『伊勢貞助記』)が、これは長慶父子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる。 義輝が参内などをする際、久秀は義興と共に幕臣として随行しており、また義輝の元に出仕して仕事を行う頻度も増えてゆく。 この御供衆任命が、久秀の政治生命・人生における一つの分水嶺とも解釈され 、久秀と義輝が関与する史料がこれ以降増加する。 長慶には多くの被官がいたが、ここまでの出世を遂げたのは久秀一人である。 この頃、久秀は長慶と「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた。 同年からはへの対応のため、三好軍の主力を率いてしばしば交戦している。 永禄4年(1561年)3月、将軍・義輝が三好義興の邸宅に御成し、歓待を受ける。 ここで久秀は、義輝に太刀を献上したり、義輝の側近達を接待したりするなど、三好家の人間として義輝達を接待する 一方で、具足の進上、義輝達への食事の配膳、食事中の義輝に酒を注ぐなど 、御供衆の仕事も務めている。 またこの将軍御成の宴席では猿楽が催されたが、久秀はその際にを運ぶ仕事をしている。 これは義輝を歓待する三好一族と、義輝の側近のみが許可された仕事であり、三好一門ではない久秀は御供衆としてこの仕事を行ったと推測される。 三好政権内における地位 [ ] 将軍御成における久秀の仕事は、彼が御供衆として非常に多くの仕事をこなしていたことを示し、それは、久秀が幕府・将軍と三好家の間を仲介し、両者の関係を取り持ち深化させる紐帯としての役割を持っていた証左でもある。 御供衆への任命によって、久秀は三好家家臣・長慶被官として活動するのと同時に、義輝の側近のような立場としても活動した。 永禄4年(1561年)、足利義輝が三好義興の邸宅に御成した際の、久秀の行動からはそれを如実に伺わせる。 久秀は、三好義興が義輝の相伴衆に任命されるとほぼ同時に御供衆に任じられ、同時期に従四位下の官位を授与され、桐紋の使用を許可されていることから、家中における地位は長慶嫡男である義興と同格に近いものだったとみられる(相伴衆と御供衆の違いはあるが)。 こうした飛躍的な出世、当主の嫡男と同格の地位まで登りつめたことが、彼が三好家に下剋上をして成り上がったと後世で言われる一因ではないかと指摘される。 しかし、三好家の実権は没するまで長慶が握っていた、つまり三好家の実質的なトップは最期まで長慶であり 、久秀は長慶を出し抜こうとしたりその意に反した形跡はない。 また、久秀は三好長慶から大和一国の管理を任され、その権勢は非常に強く、一国の大名のような立場になっていた。 畿内の覇権をめざして [ ] 永禄4年(1561年)11月には三好義興と共にと京都付近で戦う()。 永禄5年()に三好軍を結集させ河内へ出陣し、5月に義賢と結んだ河内国のを打ち破り(、)、へ追放している(6月には義賢と和睦)。 9月に長慶に逆らった幕府執事の伊勢貞孝・父子を討伐するなど功績を挙げていく。 同年に大和と山城の国境付近にを築城・移住し、大和国人・を降伏させ、永禄6年()1月には多武峰衆徒と戦うが苦戦し、足利義輝に仲介を依頼している。 この時、和睦を仲介していた義輝はそれに応じない多武峰側に不快感を示していたという記録(『お湯殿の上日記』)があり、心情的に久秀側擁護に回っているとも解釈できる。 敵対時には久秀が義輝の境遇を「天罰」と罵り、また永禄年間に曼殊院と松梅院との相論を巡り義輝と久秀が激しく口論を行う姿が記録される(『左衛門督局奉書案』)など、当初は険悪な関係にあったと思われる両者だが、義興・久秀が幕臣として義輝と接する機会も増え、決して常に対立していた関係ではなかったとも言える。 この年の12月14日、家督を嫡男・久通に譲ったが(厳助往年記)、隠居したというわけではなく、以後も前線で活躍する。 久秀が勢力を増加させていく一方で、主君・三好長慶は弟の、、嫡男・三好義興の相次ぐ死去などの不幸が重なった。 一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存の死因は落馬、義興は病死とされている。 またに宛てた書状では、義興が病に倒れたことに心を痛め、改めて三好家に忠誠を誓い討死せん覚悟があることを伝えている。 永禄7年()、三好長慶の弟であるの死去により 、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していたのみとなる。 に長慶が死没すると、しばらくは(三好長逸・・岩成友通)らと共に長慶の甥・を担いで三好家を支えた。 永禄8年()、息子の久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、室町御所の足利義輝を襲撃して殺害する()。 この事件は久秀が首謀者のように言われているが、この時期の久秀は京への出仕は久通に任せ大和国にいることが多く、事件当日も大和国におり参加していない。 また覚慶と号し、この当時僧籍に入っていた還俗前のの書状から、久秀は事件直後に義昭の命は取るつもりはないと誓詞を出しており、実際に興福寺での監禁は外出を禁止する程度でさほど厳しいものではなかった。 義継・久通・三人衆ら襲撃犯が義輝の子を懐妊していた侍女や弟のを殺害したことに比較すると温情的な処置であり、久秀は義輝殺害に全く関与していなかった、または消極的だったとも言える。 一方で、久秀は義輝殺害に強く反発した形跡が見られず、殺害そのものは容認していたのではないかとも推測される。 久秀は義輝の死という突発的な状況に、義昭を庇護してそれを将軍に据え傀儡として操ろうとしていたのではないか、とも言われる。 久秀は直後、を追放する。 しかし、同年に弟・長頼が丹波国で敗死して三好家は丹波国を喪失。 やがて久秀は畿内の主導権をめぐり三人衆と対立するようになり、に義継を担いだ三人衆が久秀と断交。 両者は三好家中を二分して争い、これが内乱の幕開けとなった。 永禄9年()にはやら一門衆も三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍・からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立してしまう。 2月に畠山高政・と同盟を結び、とも連携して義継の居城を攻撃するなど何とか勢力の挽回を図ろうとするも、三人衆はを襲撃。 、久秀は畠山軍とともに三人衆と同盟者の大和国人・筒井順慶と堺近郊の上芝で戦うが()、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退する。 久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣し、かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流した。 高屋城では三好義継の被官である金山氏(か)が久秀へ内応を図るが高屋衆に阻止され失敗し 、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため久秀はに堺から逃亡し、数ヶ月間行方不明となった(『永禄以来年代記』)。 高政は三人衆と和睦し、摂津・山城の松永方の諸城は篠原長房・などの援軍を加えた三人衆に次々に落とされ、留守中の多聞山城は久通が守っていたが、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされた。 時焼失した再建の大仏殿模型 ところが、永禄10年()に再び金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、に堺から信貴山城に復帰した。 に三人衆が大和へ出陣。 久秀は長い対陣の末にに三人衆の陣であるの奇襲に成功し、畿内の主導権を得た()。 このとき大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちた。 茶人でもあった久秀は、近辺のの手貝屋敷となっていた茶室・珠光座敷が失われるのを惜しみ、進攻に先立ち、松屋の椿井邸宅に解体して避難させた(『松屋会記』)。 一般的には久秀の命によるとされているが、大仏殿に火を点けたのは誰か(あるいはそもそも放火なのか失火なのか)については諸説ある。 松永久秀軍による兵火の残り火が倉庫に燃えつき、そして法華堂から大仏殿回廊にまわり本殿に燃え移った失火であると、同日の奈良での記録がある(『大乗院日記』)。 その一方、の『』では、この出火は三好方のキリシタンの放火によると記述されている。 三好義継は2月28日付で南山城国人の椿井氏に宛てた書状で、三好三人衆の悪逆無道を鳴らし、また久秀の三好家に対する忠誠心を賞し、これを見離せず鞍替えしたと述べている。 実際これ以降の久秀の行動は義継とほぼ共にあり、三人衆や阿波三好家()とは激しく対立したものの、やはり三好家当主には忠実だったと言える。 しかし、この時点で久秀に味方したのは畠山高政や根来衆、ら一部の勢力だけで、四国に強い地盤を持つ阿波三好家の篠原長房率いる大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力の開きがあり、三人衆との戦いは終始劣勢であった。 永禄11年()になっても三人衆は軍を大和に駐屯させたまま久秀の監視体制を継続、に信貴山城が三人衆に落とされるまでになった()。 多聞山城に籠城していた久秀が打開策として考えていたのがの上洛で、永禄9年(1566年)の段階で既に信長と交信していて、信長も大和国人衆に久秀への助力を伝えている。 10月2日には信長に対して人質と名物といわれる茶器「」を差し出した。 久秀は幕府の有力な構成員となり、大和一国の支配を認められた。 三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、足利義栄も上洛出来ず急死したため義昭が15代将軍となり、畿内は信長に平定された。 この後も三好義継、松永父子は相伴衆や御供衆に任じられた義昭の「幕臣」としての京での活動が記録に残っている。 大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が10月に家臣の、、ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。 一段落したには岐阜へ赴き、さらに「の刀」以下の諸名物を献上した。 永禄12年()も大和平定を継続し、対する順慶は没落を余儀無くされていく。 またこの年の時には岐阜に滞在しており、事件の際には信長と共に上洛し駆けつけている。 元年()、信長の討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が妹婿・の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・を説得して味方にし、信長の窮地を救っている()。 また、同年11月から12月にかけて信長と三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。 以後も信長の家臣として攻めに参加するが、次第にが形成されてゆくにつれて足利義昭に通じたと見られる(義継・久秀共に名目上は将軍義昭の幕臣であり、信長とはあくまで協力関係にあり従属する義理も無かったとも言えるが)。 元亀2年()の時点でのから書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。 また三好義継と共に和田惟政や筒井順慶としばしば争いを起こしているが、8月4日ので筒井方に大敗し、らの有力な家臣を失っている。 元亀3年()、ついに久秀は信長に対する敵意を明らかにし、三好義継、三好三人衆らと組んで信長に敵対した。 しかし翌元亀4年(、天正に改元)4月、包囲網の有力な一角である信玄が中に病死し、武田氏は撤兵。 7月に足利義昭が信長に敗れ追放()。 11月に三好義継も信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死()。 12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。 三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。 翌天正2年()1月には岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属している。 以後、久秀は対石山本願寺戦()の指揮官である信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。 最期 [ ] にある松永久秀の墓 信長は、嫡男・を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。 佐久間信盛は名器・を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した(『川角太閤記』)。 織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。 首は安土へ送られ(『多聞院日記』)、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬った(『大和志料』 )。 68歳(一説に70歳とも)。 10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であった ことから、兵はの神罰(参照)だと噂した(『信長公記』)。 墓所 [ ]• 京都市下京区の妙恵会総墓地• 奈良県北葛城郡王寺町本町の片岡山• 年月日不詳、弾正少忠に任官。 年月日不詳、従五位下に叙す。 年月日不詳、正五位下に叙す。 3年()1月20日、弾正少弼に転任。 将軍の御供衆に列座。 永禄4年()• 2月3日、将軍家御紋の下賜がなされる。 2月4日、正五位下から従四位下に昇叙。 弾正少弼如元。 永禄12年()• 3月28日、『』に山城守の記事あり。 4月3日、『』では、松少(松永弾正少弼の略)の記事あり。 8月20日、『多聞院日記』では、松城州(松永城州=松永山城守)の記事あり。 人物 [ ]• 天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、多聞作りを創始した人物とされている。 城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は非常に革新的であった。 天守の創始者と言われていたが近年、に天守に相当する櫓が存在したことが判明し 、否定されている。 また古代のを破壊して築城した事でも有名だが、これは主君であるに倣ったものともされる。 古墳は高台や水濠を備えていたことから城に改造するには最適な地形であり、また大和国は数多くの古墳が存在する。 は、自著『日本史』において永禄4年(1561年)の久秀の権勢を「天下の最高の支配権を我が手に奪ってほしいままに天下を支配し、五畿内では彼が命令したこと以外に何事も行なわれないので、高貴な貴人たちが多数彼に仕えていた」と記しているほか、「(久秀は)偉大なまた稀有な天稟(てんぴん)をもち、博識と辣腕をもち、腕利きであるが、狡猾である」と評している。 茶人としての松永久秀 [ ]• に師事しており、茶人としての交流は広かった。 の所持者として有名だが、他に(現在所蔵)を一時所持していた。 その他にもを多数所持しており、当時の茶人としての位置づけは高かった。 には、天正3年()1月22日に、久秀自ら作成した「玉椿」が所蔵されている。 逸話 [ ] 松永久秀像• 吝嗇(けち)な性質であったとされ、『足利季世記』に「松永は分別才覚、人にすぐれ、武勇は無双なり、諸人これを用ゆるといへども、天性やぶさかに生れついて、大欲深し」とある。 武将としての力量は高く評価され、宿敵・の家老であったがの際に、「今時の諸侯はや松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。 医師のから性技指南書である『 こうそみょうろん 』を伝授されていた。 67歳で自害するまで壮健であり、自らが相伝した性交規範を遵守していたと考えられる。 久秀は松虫を飼っていたが、それを色々工夫して育てたら3年も生きたため「松虫でも飼い方次第でこんなにも長生きする。 人間は日々養生する事で長い命を得ること間違いない」と述べて養生を心掛けた。 年貢未進などの百姓を処罰するにあたっては、蓑を着せ、火を放ち、もがき苦しんで死ぬ様を「蓑虫踊り」と称して、楽しんで見物したとも伝えられ、久秀の死を領内の民は、農具を売って酒にかえ、大いに祝ったとも口伝えられている。 大和を武家政権で支配しようとした久秀は長らく大和を支配してきた寺社勢力から嫌悪されていたため、多聞院日記などに過分に悪人として描かれている部分も考慮する必要がある。 『芳年武者牙類:弾正忠松永久秀』(筆、明治16年())、平蜘蛛を割る場面• 多聞山城にいた頃、かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人・を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。 果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に変えて久秀に近づいたという。 外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。 実は、この女人の幽霊は久秀の妻(故人)であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。 久秀は三好家重臣として莫大な富を築いたが、その富は朝廷への献金など己の出世のために使ったという。 また永禄7年(1564年)には朝廷に対して改元を迫ったが、2日後のになっても返答が無く無視されたという。 なおその富で当時名器といわれた茶器を多数所持し、後の織田信長時代にも信長のもとで生き延びるために茶器を献上したという逸話もある。 織田信長は通説では家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かった。 3度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったとの見方もある。 また、『常山紀談』で信長が語った久秀の「三悪事(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)」に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であったを討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、を敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成している。 信長は足利義昭を擁して上洛した際、義昭は久秀を兄の義輝暗殺の首謀者として誅殺するように命じたが信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。 武田信玄ので反逆した際も信長は所領の没収だけで許した。 信長とは同じ茶の湯を嗜む同士であり、信長に招かれてその点前で茶を頂いた時に「いつまでもお手前の九十九髪の茶入れで数寄をなされよ」と理解ある言葉を信長からもらい、久秀もその恩返しのためか数寄屋を新しくしている。 一方でが久秀と面会して丁寧に挨拶を交わしているのを見て「天道に背く行為、さほどに心許せる男にあらず」と述べて礼儀正しくする必要は無いと信長が発言したと伝わる(『備前老人物語』)。 の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていた。 自害の直前でさえ、灸の用意を命じ、部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われたが、久秀は「百会(脳天)の灸を見る人は、いつのための養生だと、さぞおかしく思うであろう。 だが我は常に中風を憂う。 死に臨んで、俄かに中風を発し、五体が動かなくなれば、きっと死が怖くてだろうと笑われる。 そうなれば今までの武勇は悉く無益なことになってしまう。 百会は中風の神灸なれば、当分その病を防ぎ、快く自害するためのものである」と語って灸を据えさせた後に自害したという(『備前老人物語』)。 久秀は年老いても自害を見事に果たせる武将でありたいとの思いがあったものと推測されている。 クリスマス休戦の真偽 [ ] 松永久秀が、三好三人衆らと争っていた永禄8年()または永禄9年()ごろ、日本で最初に降誕祭()を理由に休戦を命じた(あるいは応じた)というエピソードが巷間に広く伝えられているが、そのような事実を示す文書は存在しない。 この話の元となったのは、『』の記述である。 それによれば、 降誕祭になった時、折から堺の 市 ( まち )には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。 ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。 その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。 ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。 そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。 彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。 その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。 祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。 とあって、これは単に、松永方に属する兵と三好三人衆方に属する兵のキリシタン計70名が共に仲良くに行ってパーティーを開いたという内容でしかない。 『堺市史』では、このフロイスの記事を永禄9年の出来事として比定している。 しかし久秀本人は、永禄9年(1566年)5月の時点で三好三人衆の攻囲に遭い、堺の街から敗走している。 以後しばらくの間は完全に消息不明となり、この年のクリスマス前後(ごろ)も依然として潜伏逃亡中の状態が継続していたのである。 彼が歴史の表舞台に再び姿を表すのは、翌年の永禄10年()における三好義継との再会を待たねばならない。 そもそも、久秀はの塔頭・戒善院の大檀越であった。 当時の畿内の日蓮宗()の教義からすると、キリスト教のみならず他宗一般に対する彼の態度が否定的なものであったことは容易に推定される。 そして、こうした推定を裏付ける傍証として、永禄8年()により三好義継に宛てて下されたキリスト教宣教師の洛外追放を命ずるが、久秀自身による朝廷への要請と、彼と信仰を同じくしていた公家のの進言に応じて発せられたものであったという事実も近年の研究で明らかとなっている。 久秀本人が永禄8年や9年の時点で「クリスマス休戦」なるものに関与したとの通説は、今のところ何ひとつ明確な証拠が確認されていない話であると言うことができよう。 なお、久秀の甥であるや、当時配下の武将であった・などは永禄8年ごろには既にキリシタンに改宗しており、彼らの率いる軍勢の中には多少のキリシタンが存在していた。 家族 [ ] 父親については全く不明であるが、久秀の母親は史料に名前が見えている。 三好長慶と東寺が相論の裁許の交渉を行っている際、久秀はその仲介をしていた。 東寺はという人物と契約していたが、この宗運の書状の中に、久秀の母親が病であり、堺で療養していること、それを長慶も心配していること、久秀の母のもとに赴いて薬を与えたこと、投薬は奏功して久秀の母親は快方へ向かっていることなどが記されている。 弘治2年(1556年)のことである。 によれば、久秀の母親はこの後も堺で暮らし、永禄11年(1568年)に84歳と言う長寿をもって逝去したという。 妻は二人確認される。 一人は「言継卿記」に登場する。 今村慶満に押領された言継がその回復の為に久秀との交渉をする中で、取次を言継から頼まれている。 名前は不明だが「松永女房」と呼ばれている。 もう一人はであり、公卿・の妹である。 の妻であったが、彼と死別したあと久秀に嫁いだ。 保子は永禄7年(1564年)3月に死去している。 子供は、久秀が「松民」に宛てた書状によると「久通ニ兄弟もなく」とあり、松永久通一人しか確認できない。 ただし、『多聞院日記』によると信貴山城落城前の10月1日に松永金吾(久通)が楊本城で殺害されたとあり、信貴山城で自刃した「松永父子」の息子は久通と別人である可能性がある。 弟のは、その軍事的才能により久秀よりも早く三好家中で頭角を現し、当初は出頭人である弟の名声の影に久秀の名は隠れた状態であった。 長頼の子はのである。 仔細不明ながらもう一人、弟が存在した可能性がある。 以下、士であるが年間に著した『(九州治乱記)』の記述であるが、與賀の蜜蔵寺へ空圓という旅の僧が現れ、はその者を招いて法談を聞くとこれに帰依し、引き留めて光照寺のとした。 この空圓、自らの生国と俗姓を語らなかったのであるが、天正5年(1577年)に隆信がを攻めた際にの本陣に来訪し、その陣が崩壊し掛けると自ら長刀を取って、「我は龍造寺與賀・光照寺が寺僧・空圓。 実は松永弾正が弟なるぞ。 出家とて侮るなかれ」と述べ、敵を四方八方に追い散らして討ち死にしたと記述される。 子孫 [ ]• 俳人のは久秀の甥孫で、儒学者のは彼の甥曾孫に当たる。 後世の評価 [ ] ・と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。 「下剋上の代名詞」 、「謀反癖のある人物」 などのイメージを一般には抱かれており 、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多い が、こうした久秀のイメージは、後世に成立した『』などを典拠として成立したところが大きい。 しかし実際の久秀は主君・三好長慶の存命中は、目立って謀反を起こしたり専横をしたことは一次史料からは確認できない。 また長慶の嫡男・義興や長慶の弟・を暗殺し、長慶の弟・を讒訴して殺させ、三好政権を崩壊へと導いたといわれるが、これらの情報も多くは軍記物などを典拠としたもので、信憑性に乏しい。 天野忠幸は、松永久秀が裏切り癖のある悪人として評価されそれが定着したことについて、幕藩体制が安定化して、家臣が譜代ばかりになったため、久秀のような成り上がり者はただの脅威としてしかみなされなくなった、そういう秩序の安定した社会の風潮が原因ではないかと推測している。 また、長慶の死後、三好家の中核は長慶の弟、実休の家系である阿波三好家(ら)が中核になってゆく。 久秀は、この阿波三好家と対立するようになった。 そうしたことも、「裏切り者」「梟雄」のイメージ醸成に影響したのではないかとも指摘される。 家臣 [ ]• 松永久秀を題材とした作品 [ ] 映画• 『』(1982年、) 小説• 『松永弾正』(1957年、)• 「平蜘蛛の釜」(『天目山の雲』(1975年、)所収)• 『悪霊・松永弾正久秀』(1983年、)• 『野望将軍』(1986年、)• 「ドンジョンのある風景 - 松永弾正久秀」(『おかしな大名たち』(1990年、中央公論社)所収)• 『乱世、夢幻の如し』(1992年、)• 『剣豪将軍義輝』(1995年、)• 『松永弾正久秀』(1996年、)• 『松永弾正』(1998年、読売新聞社)• 『神々に告ぐ』(2002年、角川書店)• 『黎明に叛くもの』(2003年、)• 『弾正星』(2014年、)• 『じんかん』(2020年、) 歌舞伎• 『』(悪役・松永大膳のモデル) 漫画• 『』(2014年 - 、ぼくらのヤングジャンプ) テレビドラマ• (、演:• (、演:)• (、演:) 史料 [ ]• 『言継卿記』• 『多聞院日記』• 『』 肖像画 [ ]• 「松永久秀公画像」 - 死後約200年18世紀後半との推定作、高槻市保管 関連書籍 [ ]• 『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』• 「ドンジョンのある風景」(『おかしな大名たち』)• ・「松永弾正久秀」(『日本史探訪 第15集』)• 『悪人列伝 近世篇』• 「松永久秀の多門山城茶会」(『仮想茶会潜入記 時空を超えた茶人の彷徨』)• 「松永久秀」(『歴史の京都6 悪党と奇人』) 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 父親に武家を継がないのなら摂津の領主の一族である入江の姓でなく祖母実家の松永姓を名乗るよう遺言されて、それを守り、松永姓となった。 天守に火をかけた後、 『』『』では焼死、『』『』『』では切腹したとしている。 『』では切腹後に首と「」を火薬で処理するよう命じた。 「言葉しも相たがわず、頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり」• 史料は「」永禄11年(1568年)2月19日条に「当年六十一歳」と記されている。 道三も西岡出身で、天文年間に守護代からを乗っ取ったという道三の経歴は、久秀の食指を動かしたに違いない、と、長江正一は指摘している。 光秀に惟任、長秀に惟住、に戸次 別喜 、塙直政に原田の姓をそれぞれ名乗らせている。 『』では「内者弾正忠」と記され、『』では第10世・が久秀の存在を認めていた旨が記されている。 「御成」で家臣の邸宅に主君が行き歓待されることで主従関係の良好さと、主君に絶対の信頼されていることを世間に示す。 もっとも、義輝のその内心を裏付ける記録もないため、あくまで一説に過ぎない。 歴史学者のは、松永久秀の御供衆としての立場は、形式だけの名誉職ではない、幕臣としての相応の実体を伴うものであったと指摘している• 義興に関しては久秀の毒殺説もあるが(『』)、一方で当時の史料である『』では「雑説」として否定されている。 冬康の死に関しては久秀が病で半ば狂乱していた長慶に讒言して殺害に追い込んだとする説がある。 理由はから追放の詔勅が出たからだが、そう働きかけたのは久秀だった。 理由はの「六条」という僧院(=おそらく)の僧侶たちが、久秀にそう頼んで多額の金を送ったためである。 後に信長によって宣教師が京に呼び戻された時には「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と進言したが、信長に一蹴されている。 ただし義輝がいた頃は久秀も布教の許可状を出していた事、六条の僧侶たちは始め「京にいる2人の宣教師を殺させようとして」いた事 、当時の法華宗は京でかなり大きな力を持っていた事などから、久秀が個人的にキリシタンを嫌っていたのかは不明である。 なお、甲斐武田氏と松永氏の外交は元亀4年(1537年)段階で確認され、武田氏では親族衆のがを務めており、大和国衆のを通じて交渉が行われている。 『雑々聞撿書丁巳歳』 内閣文庫架蔵写本)による。 この栄典及び翌日の昇叙によって、松永は三好長慶や三好義長に次ぐ三好家中において重要な地位に昇ったといえる。 『雑々聞撿書丁巳歳』によれば、永禄4年1月28日付で正五位下から従四位下に昇叙しているが、このとき、氏は藤原として口宣案が出されている。 ところが、将軍家の御紋下賜により氏を改め、再度、同年2月4日付では源の氏として口宣案が出された。 信長家臣の林通勝()とは別人 出典 [ ]• , pp. 155-156. 156. , pp. 8、25、• 212. , pp. 30-31、中西裕樹「松永久秀の出自と末裔」• , pp. 28-29. 158. 151. , p. , pp. 35-36. , p. 212-213. 152. , p. 177. , pp. 177-178. 178. 159. , p. 213. , p. , pp. 120-121, 152; , pp. 184-186; , pp. 108, 112-113. , p. , p. , 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(1980)• , p. 161. 162. 天野忠幸「松永久秀家臣団の形成」• , p. 163. 146. 157. , p. , pp. 155-156. , pp. 35, 157. , pp. 134, 157; , pp. 158-159. , pp. 159-160. 2020年3月6日毎日新聞大阪版 - 天野忠幸「前歯を描くなど、美化して描かれた一般の肖像画とは異なる表現があり、基になった原画は久秀の特徴を知る人が描いたとみられる。 」2020年3月5日閲覧 参考文献 [ ]• 『三好長慶』〈人物叢書〉、1968年。 『茶道の歴史』〈講談社学術文庫〉、1979年。 『戦国武将の健康法』新人物往来社、1982年。 『戦国武将と茶の湯』(淡交社、1986年)• 『奈良県史11 大和武士』、1993年。 『信長と消えた家臣たち』〈中公新書〉、2007年。 『戦国三好一族』〈MC新書〉、2007年。 『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。 今谷明、(監修)『三好長慶』、2013年。 上記書籍より、田中信司著『三好長慶と松永久秀・長頼』• 天野忠幸・片山正彦・古野貢・渡邊大門編『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年。 天野忠幸『三好長慶』、2014年。 天野忠幸『三好一族と織田信長』〈中世武士選書〉、2016年。 天野忠幸編『松永久秀 歪められた戦国の"梟雄"の実像』、2017年。 『松永久秀』、2017年。 天野忠幸 『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』 〈中世から近世へ〉、2018年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]•

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三好長慶 松永久秀

三好長慶の 下五郡であったの嫡男で、3年()にに属して阿波国より上洛したの曾孫。 、、、の兄。 正室はの娘、継室はの娘。 は孫次郎、は、、後に。 史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。 現代の地元ファンからは、尊敬と親しみを込めての長慶を「ちょうけい」とで呼ばれることもある。 生涯 [ ] 出生・家督相続 [ ] 2年()2月13日、の重臣である三好元長の嫡男として現在ので生まれる。 三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生()では、生母が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。 [ ] 父は細川晴元配下の重臣で、主君・晴元の敵であったを滅ぼした功労者であった。 本国阿波だけでなくにも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の・らの策謀で蜂起したによって、5年()6月に殺害された。 当時10歳の長慶は両親と共ににいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した。 若年期の活動 [ ] 細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなりとなる。 そのため天文2年()に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。 「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」 『本福寺明宗跡書』 とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。 交渉自体は仙熊の名を借りて、叔父のなど代理の者がした可能性もある。 この直後に元服したとされる。 理由は長慶の嫡男・三好義興や13代・、晴元の子のなどが11歳でしているためである。 千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。 ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである。 8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津を奪回した。 翌天文3年()になると本願寺に味方してに細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄()で晴元方の三好政長と戦ったが、でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。 この後の、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。 その後は晴元の武将となり、天文5年()3月にや本願寺武断派のらが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。 この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍をまでに全滅させた(『続応仁後記』)。 勢力拡大 [ ] 天文8年()、長慶は細川晴元の供をした時、のから前年に献上されていた鷹を与えられた。 10日後のに長慶は晴元を酒宴に招き、その席での料所である()の代官職を自らに与えるように迫ったが、晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた。 この料所の代官は元々は父が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである。 幕府のであるは長慶の要求を正当としたが、12代将軍・は近江のを通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる。 長慶は1月の上洛時に2,500の人数を率いていたため、この数と石山本願寺・の後ろ盾を得て入京し、細川晴元は閏に退京してに移り、やら一族を呼び集めた。 義晴はやなどの諸大名に出兵を命じる一方で六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、夫人のと嫡子の義輝を八瀬に避難させた。 この混乱で京都の治安が悪化したため、長慶は義晴から京都の治安維持を命じられている。 長慶に名指しされた三好政長は4月に丹波国に蟄居していたが、細川晴元の意を受けて京都へ進出。 には和談は不首尾に終わり長慶と政長は妙心寺付近で小規模の戦闘を起こしている。 、長慶は六角・武田などの諸大名を敵に回すことを恐れて和睦を承諾し、摂津と山城の国境のから撤退した。 結局十七箇所の代官職は与えられず、8月に摂津越水城に入城した。 これまで三好氏の当主はあくまでも阿波を本拠とし、畿内において政治的あるいは軍事的に苦境に立つと四国に退いて再起を期す事例があったが、長慶はこの入城以降は生涯阿波に帰国することなく、摂津を新たな本拠として位置づけることになる。 この後の長慶は摂津守護代となり幕府に出仕するようになるが、陪臣の身で将軍までも周章させて摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、主君の晴元に脅威を与えるほど長慶の実力は強大なものとなっていた。 天文9年()、の(秀忠)の娘を妻に迎えた。 ただしこれは『三好家譜』の記述であり同書は誤りが多いために必ずしも信頼できないが、によると嫡子の義興は天文11年()生まれであり、天文10年()に長慶が摂津(山下城)を攻めた際に波多野軍も共同しているため、長慶の結婚は天文9年(1540年)から天文10年(1541年)の間と推測されている。 天文10年(1541年)9月頃に名を利長から範長と改名、この年の6月に長慶は独自に都賀荘から徴収を行い、晴元から停止を命じられている。 晴元は自らの側近であるを段銭徴収の責任者としていたためである。 だが、長慶はこれを無視したために彼の影響下にあった摂津国下郡(・南部・・菟原郡・)では長慶と道祐から二重の段銭徴収を命じられる事態が相次ぎ、長慶は晴元との対立を深める要因となった。 だが、下郡の中心都市であった西宮を管轄下に置く越水城を支配する長慶の影響力は次第に下郡のや百姓に及びつつあった。 また、には三好政長と共同して摂津国人の上田某を攻めて自害させ城を奪った。 には細川晴元の命令で細川高国の妹を妻とする一庫城の(国満)を三好政長やらと共に攻めた。 しかし政年の縁戚である摂津国人・や、そして木沢長政らが反細川として後詰したため、長慶は背後に敵を受ける事となってに越水城に帰還した。 この時、伊丹軍が越水城に攻め寄せるが長慶は撃退し、その与党の城である(尼崎市)を逆に落とした。 細川晴元に反逆した木沢長政は上洛して将軍・義晴と晴元を追うなどしたため、河内守護代のは長政が擁立した河内守護のを追放してその兄であるを迎え、長慶に味方することを表明した。 このため翌天文11年(1542年)、長政は稙長のいる河内を攻撃しようとして太平寺で戦ったが、政長・長慶の援軍が加わった長教に敗れ討死した()。 太平寺の戦いから9ヵ月後の12月、細川高国のに当たるが畠山稙長の支援で高国の旧臣を集めて蜂起、翌天文12年()に堺を攻撃したが、細川元常の家臣・松浦肥前守、らに敗れてに逃れた。 長慶はに細川晴元の命令で堺に出陣、氏綱と戦っている。 この頃になると長慶の実力は石山本願寺にも一目置かれており、天文13年()に父の13回忌法要の費用が証如から長慶に送られている。 天文14年()4月、細川高国派のらが氏綱に呼応、丹波から進軍して山城井手城を落とし、元全の父・も槇島まで進出したため、細川晴元は大軍を率いて出兵し、長慶も従軍して山城で戦った。 その直後、岳父の波多野稙通の支援要請に応じて丹波に出兵し、氏綱派のが籠もる丹波をに包囲してに落とした。 氏綱の後援者だった畠山稙長も死去したため当面政権は安泰となった。 しかし翌天文15年()8月、稙長の後を継いだ畠山政国と遊佐長教が細川氏綱を援助し、氏綱と政国、そして足利義晴らが連携して細川晴元排除の動きを見せると、長慶はに晴元の命令を受けて越水城から堺に入った。 しかし堺はに河内高屋城から出撃した細川氏綱・遊佐長教・などの軍に包囲され、準備不足であり戦況不利を悟った長慶はに依頼して軍を解体し、氏綱らも包囲を解いて撤兵した。 この後も氏綱らの攻勢が続いて晴元・長慶は敗北を重ねたが、長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)、十河一存ら四国の軍勢が到着すると一気に逆転し、義晴は12月に近江に逃れて嫡子の義輝に将軍職を譲り、長慶は実休や阿波守護のらと共に摂津やの三宅国村などの将軍方の城を落とし、摂津を奪い返した。 そして天文16年()ので細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、敗報を聞いた足利義晴が閏に帰京して細川晴元・六角定頼と和睦、長慶・実休は8月に河内で氏綱・長教軍と対陣したが、義晴が離脱していたため氏綱らは戦意を喪失、長滞陣の末に翌天文17年()4月に両者は定頼の斡旋で和睦、長慶は5月に越水城へ帰城した。 なお、将軍家が近江に逃れたことで幕府の執事であるは天文16年(1547年)3月に幕臣の所領保護を求めている。 この事から陪臣ながら、さらには将軍と戦おうとしている家の家臣である長慶の実力が認められていたことがわかる。 また、長慶は4月に足利義晴を援助していた六角定頼を味方につけたため、義晴の敗北及び細川晴元の和睦・帰京に繋がり、長慶も定頼の斡旋を受けて遊佐長教らと和睦している。 この直後、長慶は長教の娘を継室に迎えた。 先の和談における政略結婚であったという。 晴元・政長との対立 [ ] 天文17年()以前、あるいは12月以前に孫次郎範長から筑前守長慶と改名、同年7月に三好政長を討とうとした。 理由は「宗三父子の曲事」、つまり政長と息子・の不祥事であるとする説と 、父の殺害の裏で暗躍した政長の存在を遊佐長教から聞いたためとも、政長の婿である摂津国人・池田信正がに晴元に切腹させられ、遺児で政長のに当たるが後継に置かれたことが他の摂津国人達の反感を買い、長慶が反政長派に推されたことも一因とされている。 政長は晴元からの信任が厚く、越水城で長慶が開いた軍議では晴元が政長を庇うのであれば、晴元も敵とする事を決議したという(『細川両家記』)。 8月12日、長慶は細川晴元に三好政長父子の追討を願い出たが、訴えは受け入れられなかったため、にかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び晴元に反旗を翻し、因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝が籠城するを包囲した。 長慶の行為は晴元方の六角定頼から「三好筑前守(長慶)謀反」とされ(『足利季世記』)、『長享年後畿内兵乱記』でも「三好長慶謀反」と記されている。 翌天文18年()2月に長慶の本隊が出陣、4月から晴元・政長が政勝救援のため摂津に向かい、長慶軍と政長軍が摂津で対陣すると、晴元は三宅城へ、政長はに布陣して近江の六角軍の到着を待とうとしたが、長慶は江口城の糧道を絶ち、弟の安宅冬康・十河一存らにに布陣させた。 六角軍は6月24日に山城の山崎に到着したが、その当日に江口城で戦いがあり長慶は政長ら主だった者を800名も討ち取った()。 戦後、細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し六角軍も撤退、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国に逃れた。 長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し、に入京。 6日後のに氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城するを包囲。 天文19年()3月に遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定した。 これによりは事実上崩壊し、が誕生することになった。 主君さらに将軍との対立 [ ] 芥川山城の石碑 近江国に亡命していた足利義晴は京都奪回を図り、天文19年()2月に京都東側のの裏山にを築いたが、5月に義晴が亡くなった後は6月に足利義輝が細川晴元と共に中尾城へ入り、徹底抗戦の構えを見せた。 両軍は小規模な戦闘に終始したが、長慶は近江にも遠征軍を派遣して義輝らを揺さぶり、退路を絶たれることを恐れた義輝は11月に中尾城を自ら放火して、坂本から北のへ逃亡した()。 この間の10月に長慶は義輝に和談を申し込んだが、晴元・義輝らの面目からかこの時は不首尾に終わる。 将軍も管領も不在になった京都では長慶が治安を維持し、公家の所領やを保護しながら義輝・晴元らと戦った。 天文20年()、の2回にわたって長慶は暗殺未遂事件に遭遇している。 1回目の犯人は挙動不審な態度からすぐに逮捕・処刑され、2回目の犯人は将軍近臣ので、『』では賢光の遺恨で長慶を襲撃し手傷を負わせたが、失敗して即座に自害したという。 この混乱に乗じて将軍方の三好政勝とが事件翌日のに丹波宇津に侵入している。 また5月5日には長慶の岳父であるも自らが帰依していた僧侶の珠阿弥にされてしまった。 このような事態を見てか、7月には三好政勝・香西元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、長慶はとその弟の(内藤宗勝、丹波守護代)に命じてこれを破った()。 このため六角定頼が和議を斡旋するが翌天文21年()に死去したため、後継者のが引き継いで交渉を進めた。 そして、細川晴元は細川氏綱に家督を譲って出家する代わりに長慶は晴元の幼児である聡明丸(後の昭元)を取り立てること、足利義輝の上洛を条件にして和議が成立した。 義輝はに上洛し、長慶はに上洛しての格式を与えられ、細川家々臣から将軍家直臣になった。 そして幕府は将軍の義輝、管領は細川家当主の氏綱に、実権を握る実力者である長慶という構図になった。 ところが細川晴元が京都奪回のために軍を興し、これにが加担したため、長慶はに丹波を包囲した所、従軍していたなどが波多野に味方したため、に包囲を解いて越水城に撤退する。 またこれで聡明丸を京都に置いておく事に不安を感じ、に越水城へ移している。 10月に長慶は再度丹波を攻め、晴元に味方する諸将と戦った。 11月にも晴元党の動きはあったが、小規模な戦闘か放火程度で終わっている。 天文22年()閏1月、義輝のらは長慶排除のために細川晴元と通じ、しばらくして長慶は和議を結ぶが、その際に奉公衆から人質をとった。 に長慶は晴元と戦うために丹波へ出陣したが、3月には義輝自身が長慶との和約を破棄して東山の麓に築いたに入城した。 合わせて帰参していた芥川孫十郎が再度反乱を起こして摂津へ籠城、丹波・摂津・山城から三方向に脅威を抱えた長慶は松永久秀に命じて晴元方の軍を破った。 7月に長慶が芥川山城を包囲している最中に義輝が晴元と連合して入京を計画するが、長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると晴元軍は一戦もすること無く敗走、義輝は近江朽木に逃走した。 長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したという。 以後5年にわたって義輝は朽木で滞在をすることになり、京都は事実上長慶の支配下に入った。 長慶は芥川山城を兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城とした。 越水城が摂津下郡の政治的拠点であったのに対して、芥川山城は高国・晴元の時代を通じて摂津上郡の政治的拠点からの畿内支配の拠点に上昇しつつあり、長慶もその拠点を引き継いだのである。 また、禁裏と交渉を行ない、土塀の修理なども行なっている。 以後、三好軍は天文22年(1553年)に松永兄弟が丹波に、天文23年()にが播磨に出兵するなど軍事活動も積極的だった。 元年()6月、義輝は細川晴元や三好政勝・香西元成らを従えて京都奪還に動き、で三好軍と交戦した()。 しかし戦況は叔父のを始め三好実休、安宅冬康、十河一存ら3人の弟が率いる四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで三好方の優位となったため、六角義賢は義輝を援助しきれないと見て和睦を図った。 この時の和談はに成立し、義輝は5年ぶりに帰京した。 この時長慶は細川氏綱・伊勢貞孝と共に義輝を出迎えている。 以後の長慶は幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。 全盛期 [ ] 永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・などにも影響力を持っていた)。 当時、長慶の勢力に匹敵する大名はのくらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。 この全盛期の永禄2年()2月にがわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した。 4月には(当時は長尾景虎)が上洛しているが、長慶は謙信と面識があり、6年前の上洛では石山本願寺に物品を贈りあったりしたというが、この時の上洛では面会は無かったようである。 この頃、河内国では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された(直政)が永禄元年()にをに追放するという事件があった。 これを見て長慶は松永久秀を永禄2年()に和泉国に出兵させたが安見方のに敗北、久秀は摂津国に撤退し、長慶も久秀と合流してに2万の大軍で河内に進出した。 そしてに高屋城、になどを落とし、高政を河内守護として復帰させ、宗房を大和国に追放して自らと通じたを守護代とした。 また、宗房追討を口実に久秀は大和へ進軍、河内と大和の国境付近にそびえるを拠点として大和の制圧を開始した。 細川家家中においても三好氏の権力は頂点を極めた。 この永禄2年(1559年)は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた(後に義興と改名)。 この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈し、永禄3年()1月にはに任命され、に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した。 にはの即位式の警護を勤め、財政難の朝廷に対して献金も行なっている。 このためもあってか、に義興が御供衆に任命されている。 永禄3年(1560年)、長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移した。 芥川山城は息子の義長(義興)に譲渡した。 居城を飯盛山城へ移した理由については、「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、加えて、への進軍も円滑に行える」という根拠が指摘されている。 また、三好氏の本領はだが、飯盛山であれば堺を経由して本領阿波への帰還もより迅速に、楽に出来るという理由もあった。 ただし、芥川山城よりも、京都との距離は離れていたとするの指摘もある。 永原は京都との距離こそ離れるようになったが、大和・和泉・河内方面への強い進撃・進出の意欲を見せた拠点変更であり、そこには長慶の自信が満ち溢れていたとも指摘している。 この他によれば、拠点候補としてと飯盛山の二つがあったが、高屋城は河内国一国の政治的拠点であるのに対し、飯盛山城は河内のみならず、大和と山城を視野に据えて合計三ヶ国に政治的影響を及ぼすことが出来る政治的拠点であり、ゆえにこちらを拠点に選択したと指摘される (ただし、後述のように天野は別の論文で、三好氏の家督と芥川山城についての見解を切り離して表明している)。 一方で飯盛山への拠点移行について、こうした政治的観点とは別に長慶の精神的な観点からの研究もある。 は「長慶の心はこの頃吟風弄月の文の世界へ向けられていた」と指摘 、、は、「長慶の精神には隠者的な傾向が見られる」とも指摘している。 また、天野忠幸は長慶の嫡男である義興が将軍から一字を与えられ、三好氏歴代の官途である筑前守に任ぜられたことを重視して、長慶の拠点移行と三好氏の本拠地の問題は別の問題として捉え、飯盛山への移転によって三好氏の家督は事実上長慶から義興へと譲られ、同時に三好氏の本拠であった芥川山城も新しい当主である義興に継承されたと説いている。 なお、天野はこの時期に家督継承が行われた背景として、将軍義輝と三好氏の長年の対立を収拾させるために新当主・義興が義輝との新たな関係を作るのが構築させ、自分は将軍権威と一定の距離を保つのが望ましいと判断したと推測している。 ところが、この永禄3年(1560年)に河内国の情勢が激変した。 長慶の支援で守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して再び安見宗房を復帰させたためであり、長慶は高政の背信に激怒し高政と義絶、7月に一帯で畠山軍と戦って勝利した。 には一帯で安見軍を破り、高屋城を後詰しようとした香西・波多野軍、根来衆なども丹波から来援した松永長頼が破った。 このために飯盛山城の宗房が、に高屋城の高政が降伏開城して長慶は河内を完全に平定し、高屋城は河内平定の功労者であった弟の実休に与え、自らは飯盛山城を居城にした。 また畠山家の影響力が強かった大和に対しても松永久秀に命じてこの年に侵略させ、11月までに大和北部を制圧して久秀に統治を任せた。 永禄4年()には義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、に義輝の勧告で細川晴元とも和睦、摂津へ迎え入れた。 また嫡子の義興はこの年に従四位下・御相判衆に昇任するなど、三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続いた。 この年までに長慶の勢力圏は先に挙げた8カ国の他、河内と大和も領国化して10カ国に増大し、東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化している。 この長慶の強大な勢力の前に伊予のなど多くの諸大名が長慶に誼を通じていた。 晩年 [ ] 長慶の衰退は永禄4年(1561年)4月から始まった。 弟の十河一存が急死したのである。 このため和泉支配が脆弱となり(和泉岸和田城は一存の持城である)、その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、細川晴元の次男・を盟主にすえ7月に挙兵し、南北から三好家に攻撃をしかけた。 この戦いは永禄5年()まで続き、に三好実休が高政に敗れて戦死した()。 しかし京都では義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも、義興・久秀らは安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、ので畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放、河内を再平定し、六角軍は6月に三好家と和睦して退京した。 なお、この一連の戦いで長慶は出陣した形跡が無く、三好軍の指揮は義興・久秀と冬康らが担当している事からこの頃の長慶は病にかかっていた(病にかかったのは永禄4年(1561年)頃とも)のではないかといわれている。 以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、河内高屋城主には三好康長が任命されて支配圏の再構築が行なわれた。 永禄5年(1562年)8月には幕府の政所執事である伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、9月に松永久秀・三好義興の率いる三好軍によって貞孝は討たれた。 永禄6年()1月には和泉で根来衆と三好軍が激突し、最終的には10月に三好康長との間で和談が成立。 大和でも久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突があり、また細川晴元の残党による反乱が2月からかけて起こるなど、反三好の動きが顕著になってきた。 さらに永禄6年(1563年)8月には義興が22歳で早世、唯一の嗣子を失った長慶は十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えた。 本来であれば一存の死後に十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、彼の生母が関白を務めたの娘でありその血筋の良さが決め手であったとみられる。 12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、この少し前には細川晴元も病死しており、三好政権は政権維持の上で形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になった。 ただし、氏綱については、有力な支持者であった内藤国貞が健在であった天文22年(1553年)までは長慶よりも上位にあり、その後も義輝・晴元に対抗するために長慶に政治的権力を譲る代わりに摂津の守護としての立場を保持したもので、傀儡ではなくむしろ積極的な協力者であったとする見解も出されている。 最期 [ ] 飯盛山城の模型 永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した。 松永久秀の讒言を信じての行為であったとされているが、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、思慮を失っていた。 冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(『足利季世記』)。 このためには嗣子となった義継が家督相続のために上洛しているが、に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている事から、長慶の病はこの頃には既に末期的だったようである。 そして11日後の7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。 義継が若年のため松永久秀と(・・)が後見役として三好氏を支えたが、やがて久秀は独自の動きを見せはじめ、永禄8年()から永禄11年()までの3年間内紛状態に陥った。 その後、久秀の側に鞍替えした義継と久秀は、新たに台頭した織田信長と彼が推戴するに協力、三好三人衆は信長に敗れ、三好政権は崩壊した。 その後、義継と久秀も信長と対立し、滅ぼされた。 年月日不詳 - に任官。 年月日不詳 - に叙す。 天文22年()2月28日 - に昇叙。 筑前守如元。 永禄3年()1月20日 - に転任。 将軍家の相伴衆に列座。 永禄4年()2月3日- 将軍より御紋の下賜がなされる。 長慶は織田信長と同じく堺の経済力に目をつけており、そこでの貿易による富裕な富で莫大な軍費・軍需品を容易に入手した。 また曽祖父の三好之長や父の元長ら以来による細川領国圏での国侍との関係、有能な実弟らの統治する四国の軍事力、特に強力な水軍を擁しており、さらに優秀な長慶の個人的才能が加わって全盛期における三好軍の軍事力は大変強大であった。 また阿波は小笠原を称していた頃から三好家の血族意識が強固であり、そのため長慶時代には弟の実休がしっかり阿波を守ることで他国進出を可能にした。 性格 [ ] 巧みな政治・軍略を展開しながらも下克上の雄ではなく旧来の人物であった と言われる。 保守的・優柔不断と言った評価も多い が、こうした長慶の人物像への評価に対して、「戦国時代の常識への無理解に基づく全く妥当ではない評価だ」という反論もある。 長慶は将軍・足利義輝と長年争ったが、長慶の義輝に対する対応は寛容・微温的であったとされる。 義輝と細川晴元を合戦で破り近江国朽木へ放逐した折、追撃が困難ではなかったにもかかわらず、長慶は義輝へ執拗な追撃をしようとしなかった。 さらにその後5年間、朽木を攻撃した形跡も見られない。 義輝が避難した場所は細川晴元の義兄のの勢力圏内であり、さらに義輝の妹婿であるのの勢力圏からも近かったことも影響していると考えられる が、『続応仁後記』は、敵を執拗に追い詰めない長慶の方針ゆえだと記述しており、長江正一も、敵を徹底的に追い詰めない長慶の性格が反映された措置と推定している。 また長江は長慶の性格について、「下剋上の標本のように言われるが、自己の権益を主張する以外は、古い伝統、秩序を尊重する律義者である」と評している。 はこの長江の寸評を引用し、自らも、長慶が義輝を追及、追撃しなかった理由として、「先祖が戦に起因して斬首や自害で世を去った悲しみを知る彼の性格」の結果として、朽木に追いやられた将軍を過剰に追撃しないという結果を出した、という論拠を提示している。 今谷明はこうした長慶の義輝とのやり取りを「柔弱・果断に欠ける」と評しており 、また後年の織田信長の足利義昭に対する「果断」と比較すれば、柔弱の誹りを受けるのも「さもありなん」と述べている。 一方、天野忠幸は、その信長も、義昭に対しては最終的に追放こそしたが、和睦を提案したり極力寛容であったこと、が追放した旧主・を一時家臣として迎え入れていたこと、が敵対した旧主・を軟禁するにとどめたことなどを根拠として提示し、「敵対したかつての主君を殺さない、執拗に追い詰めないことは、柔弱でも保守的でもない、戦国時代の常識である」と述べ、長慶が義輝に寛容な態度を取ったからと言って、それを根拠に長慶を柔弱・保守的な人物と評価するのは妥当ではないと指摘している。 長慶は大変寛大とされているが 、一方で決断力あるいは非情さに欠けてむしろ甘いとさえ思えるほどであった。 三好政長を討つ際、主君の細川晴元は政長を支持して長慶は謀反人とみなされた。 江口の戦いの際、弟の十河一存は晴元が三宅城にいる事を知り城を落とそうと提言したが長慶は受け入れなかった。 しかも戦後、晴元が帰京する際は弟の安宅冬康配下の淡路軍に警護させている上、その後に晴元と義輝が近江に逃れると圧倒的に優位でありながら和睦を懇望している。 細川晴元一党はたびたび長慶に反乱を起こしたが、長慶は人質である晴元の長男の昭元を決して殺さずに弘治4年()2月に自ら加冠役として元服させており 、永禄4年(1561年)5月に晴元が義輝の仲介で摂津に戻ってきた時には次男の晴之を六角氏に預けながら(この晴之が六角に擁立されて反三好の兵を挙げることになる)、昭元と再会させ隠居料も支払い庇護するという厚遇をした上に長慶が旧主と和睦できて涙を流したとしている(『足利季世記』)。 宗教 [ ]• 長慶は父の菩提を弔うため、3年()、大徳寺派の寺院、龍興山を長慶の尊敬する90世を開山として創建した。 茶人の、が修行し、が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。 長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。 長慶は父の菩提を弔うため、父が最期を迎えたの寺院、を庇護した。 また、長慶の旧主であった細川晴元は法華一揆を鎮圧して法華宗の寺院やその信徒である商人らを京都から追放したが、彼らは堺や尼崎・兵庫津など現在の大阪湾沿岸の諸都市に逃れた。 長慶は顕本寺や同地の商人との関係を重視してこれらの寺院や信徒を庇護したことで、都市に対する影響力を強めることになった。 長慶はキリスト教をよく理解し、畿内での布教活動などを許してキリシタンを庇護している。 このため家臣の(シメアン)など多くの者がキリシタンとなっているが、自らはキリシタンにはなっていない。 ただし長慶は旧体制の人物でありながら信長のように半面は新しさも持っていた。 教養 [ ]• 朝廷との関係を重んじてたびたび会を開くなど、豊かな文化人であった。 大林宗套は、長慶の三回忌に際し「心に万葉・古今をそらんじ、風月を吟弄すること三千」と讃えた。 長慶の正座は日常から正しく、連歌の行跡などは(幽斎)やも敬仰して模範にしたという。 晩年には前半生で成功した理由であった猛々しさを失っていたが、これは長慶が連歌に没頭したためともみなされている。 松永貞徳の随筆集『戴恩記』によれば、同時代にも長慶の教養人としての面を文弱としてあげつらう人もいたようであるが、長慶は「 歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」という和歌でそれに反論している。 長慶の連歌について、細川藤孝(幽斎)は「修理大夫(長慶)連歌はいかにも案じてしたる連歌なりしなり」との評価をに語っている。 長慶は久米田の戦いで弟の三好実休が戦死した時、連歌会を開いていたという。 そして実休の戦死報告が入ると一句を読んで周囲にいた面々をうならせたという。 ただし後代に書かれたものであり信憑性に疑問も持たれている。 には、嘗て長慶が所持したという茶碗、別名「三好粉引」が伝世している。 葬儀 [ ]• 長慶の死後、嗣子の義継が若年である事から松永久秀・・三好三人衆らは喪を秘して重病であるとし、2年後の永禄9年()6月24日に葬儀を営んだが、その際に参列の諸士が涙を流してその死を惜しんだという(『』)。 なお、その2年間で遺骸はかなり傷んでいた(『足利季世記』)。 その他 [ ] 『』によれば、17歳の時、「これより3年、夏の季節に100日間、虚空蔵求問持法の荒行を行い、それによって記憶力を鍛える」と宣言し、3年かけて実行した。 また、修行を達成した19歳の年に、四国を巡礼したという逸話を伝えている。 また同書によれば、息子を松永久秀に殺された、足利義輝の妹を妻に娶った、と記述している。 長慶と精神病 [ ] は『』の中で「老いて病み恍惚として人を知らず」と紹介している。 また今谷明は、の『』のモデルの一つが長慶だと言われていると伝聞の形で指摘している。 ただし、頼山陽の長慶評については、全く根拠がなく、その無根拠な評価を批判されている。 後世の評価及び三好政権の研究史 [ ] 武田・北条・毛利などと比べると、三好氏、及びその主君であった細川京兆家は史料に乏しく 、史料が豊富や分野・大名に研究は偏りがちであった。 また、など、長慶被官が発給した文書は京都の寺社を中心にそれなりに現存しているが 、その多くは活字に翻刻されておらず、文書の多くも京都市に偏っている。 発給文書でさえ全てが解明されていない為、三好政権の政策、長慶の思想などについては未だに不明な所が多い。 昭和43年(1968年)にはがより人物叢書『三好長慶』を刊行、これは先駆的な研究と評され 、も参考にしたという。 今谷は、 その当時 「長江氏のこの書籍以外、参考になるべき図書など殆どなかった」と語っている。 その後、今谷がいくつか三好政権並びにそれと深い関連を持つ室町幕府末期に関する著作を出すが、長らく、長慶、三好政権の研究は停滞していた。 しかし、平成12年(2000年)にが論文集『戦国期室町幕府と将軍』を出し、翌年からは今谷の室町幕府末期・並びに「」を研究した書籍が文庫として立て続けに再版される。 さらにこの頃から、の論文が公の場に発表されるようになり、三好氏の研究がにわかに活気づく。 平成16年(2004年)、「戦国期の政治体制と畿内社会」が日本史研究会のテーマとなり、天野忠幸の論文「三好氏の畿内支配とその構造」が発表される。 これによって、三好長慶、三好政権への学会の注目がより集まるようになっていった。 『』『』『』『』などの書物に三好長慶への言及がある。 これらの書物はいずれも江戸時代初期までに成立したものだが、いずれも長慶に対しては好意的に描いており、『北条五代記』は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉と並び称している。 江戸時代初期までに成立した書物は、長慶を名将として礼賛しているものが決して少なくなかった。 しかし、江戸時代中期以降より、家臣の松永久秀と併せて、根拠の怪しい逸話などを交えて語られるようになった。 その代表が、『』における、「松永久秀の主殺し」を織田信長が紹介した、という逸話である。 そして、所謂「三英傑」と比較していつしか長慶の存在は顧みられることはなくなってゆき、の『足利時代史』『織田時代史』などでは言及すらされなくなった。 現在では、松永久秀の壟断、横暴を許し、下剋上されてしまった凡庸な君主としての評価が、「一般的な評価として」定着してしまっている。 そして、織田信長の「革新的」なイメージと比較され、旧主・保守的・文弱・柔弱というレッテルを張られてしまっている。 しかし、こうした通俗的な見解に対して、「織田信長の先駆者」 「信長に先行する斬新な政策を行った」 「長慶が果たせなかった『下剋上』を、信長が成就した」 という評価もある。 和歌 [ ]• 難波がた 入江にわたる 風冴えて 葦の枯葉の 音ぞ寒けき()• 生駒山 まぢかき春の 眺さへ かぐわふほどの 花ざかりかな()• 歌連歌 ぬるきものぞと 言うものの 梓弓矢も取りたるもなし 墓所・肖像 [ ] 墓所は八尾市の真観寺、の、の南宗寺など。 長慶の肖像は大徳寺のとに存在する。 聚光院のものは他の戦国武将のように不敵さ、鋭さ、泥臭さが欠けており、学問があり風流も解すといった教養人の印象が強い。 聚光院の肖像は昭和9年(1934年)1月30日にに指定されている。 聚光院、南宗寺の肖像は共にによる賛が付記されている。 家族 [ ] 母親の出自は不明だが、長慶が18歳の時に死去した。 法名は「明室保公大姉」。 妻は一人目がの娘、二人目がの娘である。 いずれも政略結婚と考えられ 、一人目の妻とは、長慶がと結託したことが契機で離縁された。 『続応仁後記』は、一人目の妻との離縁について、「不縁の子細有りて、妻女別離」と記述している。 二人目の妻についても、公家や寺社と長慶が交流する過程で交わされた書状に名前が見えず、早くに病没したか、遊佐長教が暗殺された後実家に帰ったのではないかと推定される。 長慶が側室を娶ったことは確認されていない。 子供は義興一人のみで、義興は最初の妻との間に生まれた子だと考えられる。 家臣 [ ]• 三好一族• 阿波からの譜代• 篠原氏(、、、、)• 市原氏• 加地氏(、その他数名)• 塩田氏(、)• 畿内で新たに登用した人物• 摂津国人• (野間康久、多羅尾綱知、池田教正)• 京都近郊の国人• 旧幕臣• その他• (嫡男義興近習)• 出自不明• 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 絹本著色、賛、永禄9年()、蔵、。 大紋に描かれたは、永禄4年()にから許可されたもの。 明るい色彩や面貌の描写からの絵師の作と見られる。 なお、には本画像とほぼ同図様で、2年()7月4日に笑嶺宗訢が別の賛をした作品が伝わっている。 生母については姓名・出身は不明で聚光院に位牌が存在する• 合戦最中に政勝が戦場を放棄して放火したり、政長が長慶の事を細川晴元に讒言したといわれる(『細川両家記』)• 天野忠幸は『』でが述べた、「三好の人々には風流はあったが大志・野望がなかった」という寸評を引用し、こうした司馬の評価が、残念ながら世間一般の長慶や三好政権に対する評価だと述べている。 阿波以来の家臣は多くは阿波を支配した弟の実休に仕えたが、塩田氏の多くはそのまま長慶に随行して畿内で活動した。 ただし、松永久秀、岩成友通ら、畿内で新たに登用した家臣達が台頭して活躍し、その彼らは後塵を拝していたようである。 出典 [ ]• 『国宝 大徳寺聚光院の襖絵』展図録P90、、2003年• , p. , p. の呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 , pp. 11-12. , pp. 1-2, 58-59、, p. 111、, p. , p. , pp. 66-69、, pp. 116-117、, pp. 88-89• , pp. 59-60• , pp. 72-75、, pp. 119-120、, pp. 96-97• , pp. 76-77、, p. 127• , pp. 60-61• , pp. 78-82、, pp. 121-126、, pp. 93-94• , pp. 82-95、, pp. 127-139、, pp. 97-102• , p. , pp. 96-107、, pp. 140-150、, pp. 102-105• , pp. 108-122、, pp. 151-172、, pp. 106-109• , pp. 39-41、62-63• , pp. 123-155、, pp. 172-189, 197-204、, pp. 109-115• , pp. 162-166、, pp. 213-217、, pp. 118-119• 118• 119• , pp. 62-63• , pp. 366、370• , pp. 166-178, 188-195、, pp. 217-226、, pp. 119-122• , pp. 210-213• , pp. 196-230、, pp. 235-242、, pp. 124-126• 馬部隆弘「内衆からみた細川氏綱と三好長慶の関係」『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、680-716頁。 , pp. 228, 254-255、, pp. 250-265、, pp. 132-142• , pp. 179-188. 275. 139• 135• , p. 136. , p. 100. , p. 194. , pp. 105-106, 113. , p. 151、, p. 275• , pp. 193-195. , p. 234. , pp. 248-266• , pp. 276 - 278. , pp. 248-250、, p. , p. 248. , pp. 248-249. , p. 256. , p. 275. , pp. 275-276. , p. 251. , pp. 14-15. , p. , pp. 序2-3. , pp. 序3-4. , p. , pp. 15-16、, p. , p. 301、による解説• , p. 106. 『戦国時代、村と町のかたち』、2004年、56頁。 『日本史のなかの戦国時代』山川出版社、2013年、34-35頁。 257• , p. 276. , pp. 257-258. 140• , pp. 94-95. , p. , pp. 140-141. , pp. 149-145 参考文献 [ ]• 『戦国三好党 三好長慶』〈38〉、1968年。 『三好長慶』〈〉、1968年。 『日本の歴史 11.戦国大名』〈中公バックス〉、1971年。 『戦国の群像』〈集英社版日本の歴史 10〉、1992年。 『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』〈MC新書〉、2007年。 『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。 『コレクション日本歌人選14 戦国武将の歌』、2011年。 今谷明、『三好長慶』、2013年。 天野忠幸『三好長慶』〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。 天野忠幸『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂、2015年。 『新約・』訳〈PHP新書〉、2008年。 関連作品 [ ] 小説• 徳永真一郎『三好長慶』(時代小説文庫、のち人物文庫、2010年5月。 ) テレビ番組• (、演:) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• Web版尼崎地域史事典『apedia』三好長慶• 有志による、三好長慶の再評価と顕彰を目的として設立・運営されている団体• 「公益財団法人関西・大阪21世紀協会」• 「徳島県観光情報サイト 阿波ナビ」• 「高槻市インターネット歴史館」.

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家系図付!松永久秀と三好長慶の本当の関係を相関図で解説

三好長慶 松永久秀

【 1543年】、「三好長慶」は室町幕府第13代将軍「足利義輝」と室町幕府管領「細川晴元」を京都から追放。 三好政権を京都に樹立しました。 公家や京都の寺社と直接つながりを持つことになった「三好長慶」は、その交渉役に「松永久秀」を抜擢したのです。 さらに三好長慶は、松永久秀を家長に代わって家の一切を取り仕切る「家宰(かさい)」という役職につけ、娘を嫁がせました。 それだけ久秀の才能を買っていたということなのでしょう。 公家や京都の寺社と直接付き合う役職に付いた久秀は、「茶の湯(茶道)」に通じていました。 当時の「茶の湯」は茶を点てるだけではなく、茶器や掛け軸などにも詳しくなければならず、造詣が深くなるためには相当な教養が必要だったのです。 身分の低い出身だと考えられている久秀が、どこでそのような深い教養を身につけたのか、今もわかっていません。 もしかしたら三好家に仕えるようになる前に、商業都市「堺」などで身につけたのかもしれませんね。 「織田信長」の姑「斎藤道三」が油商人から一念発起して武芸を身に着けたように、いずれ役に立つと精進して「茶の湯」の技術を身に着けたのかもしれませんし、何かのきっかけで茶の湯に目覚めたのかもしれません。 いずれにせよ「三好長慶」が家宰を任せた頃には、久秀は公家や寺社との交渉役に相応しいと考えられるほどに、教養のある武将として周囲に認められていたということです。 戦でも功績を上げた久秀は、【 1533年】には摂津国「滝山城 兵庫県神戸市 」の城主となりました。 さらに「三好長慶」の家臣としてだけではなく、室町幕府でも久秀は重用されるようになり、将軍「足利義輝」の御供衆(おともしゅう)の1人となったのです。 (御供衆とは、将軍の側近であり最高級の名誉職) 久秀は、三好政権と室町幕府の双方で重臣として重用され、双方の交渉役として政治上にも重要な立場となりました。 【 1559年】、久秀は「信貴山城 しぎさんじょう・奈良県生駒郡 」に移ります。 久秀は信貴山城を改修し、4階建ての天守閣を建築しましたが、この久秀による信貴山城の天守閣が「日本で初めて建てられた天守閣」だと言われているのです。 順風満帆に久秀が出世する一方で、主君「三好長慶」はというと信頼していた弟たちが相次いで亡くなり、更に嫡男まで亡くすという不幸に見舞われました。 精神的にショックを受けた三好長慶は、【 1564年】に亡くなってしまいます。 三好家の家督は「三好長慶」の甥「義継」が継ぐことになったのですが、長慶の死の翌年【 1565年】に「三好義継」は三好家の家臣 三好三人衆 とともに、とんでもない事件を起こしてしまいました。 (三好三人衆とは「三好長逸(ながやす)」「三好政勝(まさかつ)」「岩成友通(いわなり ともみち)」の三名。 義継の後見役) 室町幕府13代将軍「足利義輝」を襲撃し、暗殺してしまったのです。 久秀はすでに嫡男「松永久通」に家督をゆずっており、この襲撃には参加していません。 しかし久秀は「暗殺の陰謀」についてまったく知らなかったということはなく、実は首謀者ではないか・・・とも言われています。 「三好三人衆」と「三好義継」は、14代将軍に義輝のいとこ「足利義栄」をたてましたが、久秀との軋轢が生じ、畿内に混乱が生じました。 久秀は、阿波(徳島県)の三好本家を味方に取り込んだ「三好三人衆」に苦戦。 一時行方をくらましてしまいます。 やがて三好三人衆は、三好家当主である「義継」まで軽んじるようになってしまい、義継はなんとか久秀を探し出して助けてくれるように頼みます。 こうして、主君の子「義継」の頼みを聞き入れた久秀は信貴山城へ帰還したのです 「織田信長」に降伏!しかしその後「信長」を裏切る 【 1567年】、三好三人衆は「久秀と義継」を滅ぼすため、久秀の本拠地である大和国(奈良県)に攻め込んできました。 久秀は三好三人衆の裏をかいて奇襲をかけましたが、その時の戦闘で「東大寺大仏殿」が焼失。 何とか「東大寺の戦い」で三好三人衆に勝利したものの、「信貴山城」を敵に奪われた久秀は「多聞山城(たもんやまじょう)」へ籠もり、(ある人物)に援助を願い出ました。 三好三人衆を倒すためには、13代将軍「義輝」の弟「足利義昭」を保護する武将「織田信長」の力を利用するしかないと考えた久秀は、義継とともに信長に降伏したのです。 こうして久秀から愛用の茶器「九十九髪茄子(つくもがみなす)」を献上された信長は、畿内から「三好三人衆」を追放。 義昭を15代征夷大将軍に就任させました。 信長の援軍によって大和国の支配権を取り戻した久秀は、室町幕府の幕臣でありながら、織田信長の家臣という微妙な立場になりました。 織田信長の家臣としても、浅井・朝倉攻めで窮地におちいった信長を救うなど目覚ましい活躍を果たし、信長と三好三人衆との和睦も取り持ちます。 (信長最大の危機「金ヶ崎の退き口」で、松永久秀は「朽木元綱」という武将を説得して味方につけ、信長の窮地を救っている) しかし徐々に「織田信長」と「足利義昭」の仲が悪化。 信長が石山本願寺を攻め始めた頃には、2人の関係は決定的に悪化していました。 義昭は諸国の大名に「信長を討て」と命令する書状を出し、甲斐国「武田信玄」がその要請に応えます。 久秀は信長に従うふりをしながら「武田信玄」と裏で内通。 【 1572年】に「三好義継」や敵だった「三好三人衆」とともに、信長に反旗を翻しました。 ところが【 1573年】、上洛の途中で「武田信玄」が突如として病没してしまいます。 信長との戦いに敗北した「足利義昭」は追放され、三好義継は戦死。 「三好三人衆」もまた信長に敗れ、「多聞山城」に籠もった久秀はやむなく信長に降伏しました。 裏切り者ではあっても、久秀の武将としての知力・度量・技量を認めていた信長は久秀を処刑せず、大和国の領主に降格する処分のみで許します。 こうして久秀の本拠地「大和国」の支配権は、久秀から信長の家臣が引き継いだのです。 松永久秀ふたたび信長を裏切るも、追いつめられて自刃 こうして信長に許されて一領主となった久秀ですが、【 1577年】の石山本願寺攻めの途中、勝手に戦線を離脱。 本拠地だった「信貴山城」に籠もってしまいました。 久秀は再び信長を裏切ったのです。 久秀の裏切りに信長だけではなく、織田家家臣たちも「なんで?」という思いを抱き、信長は信貴山城に裏切りの理由を尋ねるため使者を送ります。 ところが久秀はその使者を追い返します。 何とか穏便にことを運ぼうと思っていた信長も、使者を追い返されて激昂。 息子「織田信忠」を総大将に立て、4万人の大軍で信貴山城を囲みました。 しかし久秀の立てた名城「信貴山城」を落とすのは容易ではなく、戦闘は長期化。 ところがこの時、信貴山城内に信長の内通者が発生し、信貴山城へ火がつけられました。 信長は久秀に対して 「お前が持っている茶器『古天明平蜘蛛』を差し出せば許してやる」 と提案しましたが、久秀は応じませんでした。 「平蜘蛛を鉄砲の粉(黒色火薬)で粉々にする」 と言って叩き割り、天守閣に放火。 息子「松永久通」とともに自害して果てたのでした。 《蔦紋(つたもん)》 「引用元より」 蔦紋は「日本十大家紋」の1つと言われ、非常に多く用いられている家紋でもあります。 日本十大家紋とは• 片喰紋• 鷹の羽紋• 茗荷紋• 木瓜紋• 沢瀉紋 の10種類の家紋のことで、日本で用いられている家紋の中でも、特に数が多いもののことです。 「藤紋」は「藤原氏」の末裔が多く使っている家紋ですね。 また「柏紋」は三菱グループのロゴマークである「スリーダイヤ」の元なのです。 なぜ「柏紋」が「三菱マーク」の元となったのでしょうか。 三菱創業者「岩崎弥太郎」はもともと「土佐藩・山内家」に仕えた武士でした。 その土佐藩の外部組織「海援隊」は、「後藤象二郎」によって「土佐商会」と改名。 その後「土佐商会」は「岩崎弥太郎」へと引き継がれました。 岩崎は「土佐商会」から「三菱」を立ち上げて事業を行うにあたり、主君の家であった「岩崎家」の家紋「土佐柏紋」を社のシンボルとしてつかったのです。 《三菱マーク》 「引用元より」 皆さんの家紋にも「十大家紋」にあてはまるものがあるのでは? こうしてみると「十大家紋」はそのほとんどが植物を由来にしていますね。 中でも「蔦」は他の樹木や建物にまつわり、どんどんとはびこっていく性質がある繁殖力が非常に強い植物です。 その生命力の強さ、繁殖力の強さは縁起が良いと考えられ、家紋に用いられるようになりました。 また漢字の成り立ちも、「草冠に鳥」と書きますから、大地に根をおろし繁殖する植物と、天空を自由に羽ばたく鳥の組み合わせも、縁起が良いと考えられた理由の1つでしょう。 武将では「松永久秀」以外にも、戦国大名「藤堂高虎」が家紋に用いています。 時代が下ると「蔦紋」は徳川一族の「松平家」でも用いられるようになりました。 葵の御紋は「徳川総本家」や「紀州・尾張・水戸」の徳川家に対して遠慮があり、「蔦紋」に変更したのかもしれません。 さらに蔦紋は他の武家だけではなく、「花柳界」の女性にも広がりました。 こうして縁起が良いとされた蔦紋は、蔦紋だけで【500種類】以上のバリエーションを持つほどに、日本中で身分を問わず幅広く使われるようになったのです。 出自のはっきりしない「松永久秀」は、家紋に縁起のいい蔦を選ぶことで、立身出世と一族の繁栄を願ったのでしょうね。 松永久秀の逸話・エピソード!東大寺を焼いたり、クリスマス停戦したり 松永久秀には、様々なエピソードがありますので、有名なものを一つ一つ見ていきましょう。 室町幕府13代将軍「足利義輝」を暗殺した? 「蘇我馬子」は日本で初めて天皇を暗殺した人物と言われていますが、「松永久秀」は室町幕府将軍「足利義輝」を暗殺した人物として知られています。 しかし隠居して息子「久通」に家督を譲っていた久秀は、事件の当時は大和国におり、この暗殺事件に参加していません。 義輝暗殺を実行したのは、「三好長慶」の子「義継」と「三好三人衆」でした。 暗殺について久秀が全く知らなかったというのは考えにくく、首謀者だったのではないか・・・・と言われていますが、どうでしょう? これについての筆者の考えは、後述します。 クリスマスであることを理由に、敵に休戦を申し出た 【 1565年】か【 1566年】頃、久秀が三好三人衆との戦闘の中で 「クリスマスだから休戦しよう」 と提案したという逸話があります。 しかし実際に休戦を命じた史料は残っていません。 この逸話の元となったのは宣教師「ルイス・フロイス」の著書『日本史』ですが、該当する記述を読むと、このようになっています。 『堺の街に敵対する軍勢がいたが、堺の街で行われたクリスマスのミサに、敵対する軍勢から武士が出席した。 ミサ後には仲良くパーティーに参加した。 』 この記述を信じるならば、久秀側と三好三人衆側の武士が、クリスマスのミサでばったり会った・・・。 しかし互いに争うことなく静かにミサに加わり、ミサの後にはクリスマス・パーティを楽しんだ・・・というだけの話ですよね。 久秀が休戦を命じたとは、どこにも書かれていないのです。 またこのクリスマス休戦は、【 1566年5月】「三好三人衆」に追われた「久秀」が堺を脱出し、一時行方をくらましていた時期に当たります。 面白い話ですが「クリスマス休戦」は、史料からは確認できないエピソードなのです。 日本最初の「天守閣」をつくった 「信貴山城」を改築し、日本で最初と言われる「天守閣」を作ったのも久秀です。 久秀は「茶の湯」だけではなく、芸術全般に優れた感覚を持つ「美的センス」溢れる武将だったのでしょう。 信貴山城の天守閣は、「織田信長」が「安土城をつくる際のモデルにもなっています。 久秀は恐妻家だった?妻の亡霊に恐怖! 松永久秀には、こんな面白いエピソードがあります。 久秀が大和国の多聞山城にいた頃、「果心居士(かしんこじ)」という当時有名だった仙人を呼び出して、こう言いました。 「戦場で一度も恐怖を味わったことがないワシに、恐怖を味わわせてみよ」 と命令したのです。 果心居士は快諾し、人払いをした後に部屋の明かりを消し、自身の姿を女性の幽霊に変え、久秀に近づいていきました。 実はこの女性の幽霊は「久秀の亡妻」だったのです。 久秀は、幽霊が消えてからもしばらく震えが止まらなかったそうですよ。 その亡妻の幽霊が、主君「三好長慶」の娘だったのか、あるいは公家出身で久秀の妻となった「広橋保子」だったのかはわかりませんが、もしかしたら、久秀は恐妻家だったのかもしれませんね。 『松永久秀』について「ひとこと」言いたい! 戦国時代の武将の中では、悪役としてのイメージが強い「松永久秀」ですが、久秀は「足利義輝暗殺」を本当に首謀したのでしょうか? 私は違うのではないか・・・と思っています。 主君「三好長慶」の子「義継」が「三好三人衆」と暴走し、義輝暗殺計画を実行したそのあとで、久秀はすべてを知ったのではないでしょうか。 義輝暗殺後、「足利義栄」が14代将軍となりますが、久秀は「義栄」や「義継」「三好三人衆」と軋轢が生じたため、一時行方をくらませています。 もし義輝暗殺を久秀が首謀したのなら、暗殺後に誰か将軍に据えて世情を安定させるか・・・そこまで考え、実行に移していたはずです。 三好政権と室町幕府の交渉役でもあり、戦でも功績を上げ、出世を果たした武将「松永久通」ならば、事後の世情も予想して行動したでしょう。 しかしこの時期の久秀は、「義継」と「三好三人衆」への対応がつぎつぎと後手に回った印象があります。 おそらく久秀は「義輝暗殺」を首謀しておらず、事がおわった後にすべてを知ったのでしょう。 畿内の混乱の中で身を潜めた久秀は、「三好三人衆」に軽んじられるようになり、自身を探し出して泣きついてきた「義継」を連れて、大和国へ帰還。 「織田信長」に援軍を要請しました。 「浅井・朝倉攻め」で窮地に陥った信長を救うなど、織田家家臣としても目覚ましい活躍を見せた久秀でしたが、最後には信長を裏切ります。 そのきっかけになったのは、信長が15代将軍「足利義昭」と不仲になり、追放したことでしょう。 義昭は久秀の主君「足利義輝」の弟です。 義輝の御供衆であった久秀は、義輝の弟「義昭」に対して、信長よりも親しみを抱いていたはずです。 こうして信長に反旗を翻した久秀でしたが、頼みの「武田信玄」が病没。 またしても信長の軍門に下ることになりました。 しかし、心の中では鬱屈したものを抱えていたでしょう。 将軍「義昭」を追放して室町幕府を崩壊させ、大和国の支配権を奪い、よりにもよって自分と不仲である「筒井順慶」にそれを与えた信長に対して抱えていた鬱屈が、石山本願寺攻めのときに爆発。 兵を引き上げて信貴山城へ籠城する、という行動へと走らせたのです。 久秀は再三の信長の降伏勧告にも応じず、愛用の茶器を叩き割り、天守閣に放火。 自害しました。 その日は奇しくも、東大寺大仏殿が三好三人衆との戦いで消失した日から、ちょうど10年目の出来事だったのです。 「日本で初めて爆死した人」と言われる久秀ですが、実は爆死していません。 茶器に火薬を詰めて爆発させる・・・・と久秀が死の間際に発言したことで、小説でそのような描写が用いられ、世間一般にそのイメージが広がってしまったのです。 実際には信貴山城落城後、久秀の首は安土城に送られ、胴体は宿敵「筒井順慶」の手によって達磨寺に埋葬されました。 健康に非常に気を使い、中風予防のために毎日頭頂部に「お灸」をすえていた久秀は、こうしてその生涯を閉じたのです。 享年、68歳 一説には70歳 でした。 この記事を短くまとめると、以下の通り 「松永久秀」の出自はよくわかっていません。 戦国大名「三好長慶」に仕えるようになり、メキメキと頭角を現し、遂には大名にまで上り詰めました。 家紋には縁起が良いと言われる「蔦紋」を用い、立身出世と一族の繁栄を願ったようです。 しかし主君「三好長慶」の死後、その嫡男「義継」が後見役「三好三人衆」とともに将軍「足利義輝」を暗殺。 身の安全を図るため一時姿をくらます状況に追い込まれました。 その後「織田信長」の援軍を得て三好三人衆を京都から追放。 久秀自身も織田家の家臣となり、一時期は信長とも良好な関係を築いたのです。 しかし信長が15代将軍「足利義昭」と不仲になり、久秀は信長に反旗を翻しました。 1度目は「武田信玄」の死により頓挫し、再び信長の軍門に下ります。 しかし「石山本願寺攻め」の最中、再び信長に反旗を翻した久秀は、信貴山城で壮絶な最期を遂げました。 その日は10年前に、「三好三人衆」との戦いで「東大寺大仏殿」が消失したのと同じ月・同じ日だったのです。

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