伊達 輝 宗。 伊達氏

伊達輝宗

伊達 輝 宗

この頃の伊達氏は最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させていました。 しかし、当主・伊達稙宗が相馬顕胤に伊達領の一部をあげようとしたり、越後・上杉家へ を養子として送り込もうとしたことから、伊達晴宗が反対して家中が割れ、天文の乱(てんぶんのらん)となっていました。 伊達稙宗の嫡男が伊達晴宗と言う関係です。 伊達晴宗は、中野宗時・桑折景長・牧野宗興ら重臣の支持を受け、1542年6月、鷹狩りの帰りであった伊達稙宗を捕らえて西山城に幽閉したことから、奥羽諸大名を巻き込む争いとなりました。 1547年には、蘆名盛氏が伊達晴宗に寝返り、1548年9月、将軍・ の仲介を受けて、伊達稙宗が降伏して、丸森城に隠居する形で、伊達晴宗 30歳 が家督を継承し、決着を迎えています。 伊達晴宗は、本拠地を桑折西山城から に移し、城下町の整備も開始した模様です。 この頃、伊達輝宗は5歳ですが、兄・鶴千代丸は、岩城重隆との約束によって岩城家の養子となることが決まっていたため、次男・伊達輝宗が伊達家の跡取りと目されました。 しかし伊達家では中野宗時・牧野久仲らの重臣が課税や軍役に強大な特権を持ったことから権勢を振るっており、1565年、に丸森城に隠居していた伊達稙宗が死去すると、相馬盛胤が丸森城を獲得するなど、伊達家は衰退していました。 そんな中、1564年、伊達輝宗 20歳 は の妹・ 16歳 を正室に迎え、さらには父・伊達晴宗が隠居したことから、家督も継承します。 ただし、伊達家の実権は引き続き父が持っていたようで、伊達輝宗は父・伊達晴宗としばし対立もしていますが、1566年には蘆名盛氏と和睦し、ひとまず伊達家の心配事を排除しました。 1567年8月3日、梵天丸 を義姫 19歳 が生み、 が乳母となり養育をします。 伊達輝宗はは嫡男・伊達政宗の教育にとても熱心だったようで、元亀3年(1572年)には、甲斐・ の の弟子・ 禅師を招いて教育に当たらせています。 他にも、儒学者・僧などを米沢城に招いたほか、さらに ・屋代景頼・湯目景康ら優秀な若手家臣を家中から選んで、早くから伊達政宗に仕えさせました。 この高等教育があったからこそ、のち伊達政宗の活躍があったと言っても過言ではないでしょう。 1570年4月、伊達輝宗は、小梁川盛宗らを処罰して先代の勢力を排除し、謀反の疑いがあった中野宗時・牧野久仲の父子を追放すると、伊達晴宗を杉目城に閑居し、伊達輝宗が権力を掌握しています。 鬼庭良直を評定役に抜擢したほか、謀反をいち早く報告した中野宗時の家来・遠藤基信を直臣に取り立てて外交を担当させるなど、有能な人材の適材適所も行いました。 伊達晴宗との確執も改善されています。 そして、1579年には田村清顕の娘・ 12歳 を嫡男・伊達政宗 13歳 の正室に迎えて、相馬盛胤・相馬義胤をけん制、1583年には丸森城の奪還に成功。 相馬家との停戦をまとめ、伊達家は伊達稙宗の頃の勢力11郡をほぼ回復していますので、伊達輝宗も優れた武将と言えるかと存じます。 1584年10月、伊達輝宗 41歳 は隠居して、家督を伊達政宗に譲ります。 この時、刃傷沙汰により死去した蘆名盛隆の子・亀王丸 生後1ヶ月 の後見となったこともあり、伊達輝宗は隠居して、修築したに移りました。 以後は、伊達政宗が独自の考えで伊達家を成長させて行きますが、伊達輝宗は、そのやり方にあまり口出しをしたようには見受けられません。 父からは実権を握られ、思うように進められなかった苦い経験を、わが子にはしなかったとも言えるでしょう。 そのため、伊達政宗は、父の戦略方針とは異なる、急激な方針転換を図り、強硬に周辺国にも対処して行きました。 特に、伊達家に降伏した 主・畠山義継は恨みが募っており、宮森城に滞在していた伊達輝宗を人質に取ってしまいます。 鷹狩りをしていた伊達政宗は、急ぎ二本松義継を追跡し、高田原にて補足しますが、二本松勢と父・伊達輝宗に対して「鉄砲」を放ち、伊達輝宗もろとも二本松勢をひとりも残さず殺害したとされます。 (粟之巣の変・高田原の変) 伊達輝宗、享年42。 伊達輝宗は壮烈なる死を遂げましたが「自分を気にして家の恥をさらすな。 わしもろとも、こ奴を撃て」と叫び、自らの命を顧みず、伊達家の行く末を心配したと言われています。 伊達輝宗の亡骸は寿徳寺(慈徳寺)で荼毘に付され、資福寺に埋葬されました。 カテゴリー• 126• 761• 110• 108• 128• 115• 113• 208• 161• 153 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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伊達 輝 宗

第十五代當主,享年59歲。 接受幕府第十二代將軍偏諱取一 晴字而改名為伊達晴宗。 繼承其父政略手法以子女過繼聯姻,先後與 岩城家、 留守家、 石川家、 國分家、 蘆名家、 佐竹家、 二階堂家等勢力大名達成政治聯姻,與之友好和睦,娶岩城氏第十五代當主之長女為妻 正室。 生平 [ ] 永正16年(1519年)出生,為第14代當主的嫡長子。 2年(1533年),接受了第12代將軍的偏諱,取名為晴宗。 天文3年(1534年),是岩城氏迫於壓力接受相馬顕胤仲介久保姬與伊達晴宗間的婚事,但重隆之後違反約束又找了結城氏進行緣談相馬氏與岩城氏於木戸川進行合戰,最後談和的結果就是伊達氏與岩城氏和親誕生的長子成為岩城氏之嗣子為條件。 也有一說是天文之亂時岩城氏一開始中立,因為約定好過繼的子嗣沒來所以晴宗只好送出嫡子將岩城氏拉進己方因為遵從了與岳父岩城重隆的約定,將嫡長子親隆過繼給岳父作為重隆的養子。 天文12年(1542年)、父親稙宗為了擴大政略的勢力,決定將弟弟時宗丸送到處當,並准備將伊達家的精兵100騎送到上杉家作爲實元的親衛隊。 但晴宗抱持著反對態度,再加上晴宗也反對割讓伊達領地於相馬顯胤,伊達晴宗認為:「將領地割讓送給相馬家的話,就會分散我伊達家自身的力量,這關系到伊達家族的存亡,決不可行!」同時,反對派的家臣也認爲:「將精兵100騎送到上杉家的話,對伊達家的戰力會造成巨大的損害,這無異于剝去伊達家的外殼!」伊達植宗雖然受到長男晴宗的反對,仍卻無視晴宗的警告,要一意孤行割讓領地與過繼養子,晴宗反對父親這麼做,並用武力加以阻止父親的計畫,於是便與重臣等共謀,將父親幽禁於西山城,並派人追捕前往越後的實元,並也阻止了弟弟實元 即時宗丸 當養子的事情。 但是,父親稙宗被小梁川宗朝由西山城中救出,再加上弟弟實元逃脫晴宗的追捕並站在被救出的父親那邊,爆發了奧州前所未有的大亂即。 一開始是由父親稙宗取得極大的優勢,晴宗這邊的戰況連連失利。 但是在天文16年(1547年),一直支持稙宗方面的與和對立,也因此背離稙宗倒戈投向晴宗,從而逆轉了強弱關係。 在天文17年(1548年)3月,逐漸無戰意的田村隆顯派使者到京都請將軍義輝出面調停,5月,第13代將軍因顧慮到自古以來與(支持著自家幕府將軍家)伊達家相交甚厚,不忍伊達父子相殘而仲介調停發布了停戰命令給伊達家,義輝派出聖後院道僧發出和睦令,由蘆名盛氏協助父子二人停戰為調停仲介者,父親稙宗判斷自己建立起來的政略版圖已經受到崩壞,9月,稙宗向晴宗議和而投降了晴宗,並隱居於丸森城內,伊達家正式結束了長達6年的內亂,而晴宗也正式繼承了伊達家的,成為第15代當主。 但是因為此內亂,伊達氏的家臣內部動搖也很激烈,必須先整合統一家中內部。 首先,必須先消滅仍反抗的家臣懸田氏(懸田俊宗),於是把居城移到了。 天文22年(1553年),整理了在天文之亂中兩邊陣營所濫發的「安堵狀」 指戰爭後保證還會保留原來的官職,土地等之行政文書 ,確定了家臣團以及所領的家格與上下關係(「晴宗公采地下賜録」),坐穩了伊達氏當主的地位。 天文3年(1534年),因為遵從了與岳父岩城重隆的約定,將嫡長子親隆作為重隆的養子,所以次男輝宗作為後繼者。 晚年時,與輝宗的對立也很深。 但為了避免再度發生如同父親稙宗在位時的內亂,在7年(1564年)把家督一職讓給了輝宗並於米澤城隠居。 天正5年(1577年)12月5日,在陸奥國信夫郡福島城死去。 享年59歲。 遺骨埋葬在福島市寶積寺。 法名為乾徳院殿保山道祐大居士。 人物・逸話 [ ]• 與父親稙宗一樣擁有大量子女 6男5女 ,也因此與岩城氏,佐竹氏,二階堂氏等 經由養子或婚姻 結成親戚關係,並擴大了政治上的勢力。 因此,在永祿6年(1563年),認可的全國大名50幾名中,奥州地區只有蘆名盛氏與晴宗被認為奥州的大名。 晩年時,常常在福島城與親屬和家臣們召開宴會,而據說孫子・梵天丸(後來的)曾在此吟唱過和歌。 稙宗、晴宗虽然武力不显,但却都是外交能手,之后的辉宗似乎也继承了此点,因此伊达氏三代以来都只是保持了政治上的版图,实际领土到了政宗时才中兴。 政略婚姻及過繼政策 長幼順序 [ ]• 長男過繼給岳父 岩城重隆作為繼子承繼岩城家家業,成為岩城家第十六代當主。 長女成為須賀川第七代當主正室。 次男留在家中繼承伊達家第十六代當主。 次女成為三弟正室。 三女成為家臣側室。 三男過繼給作為繼子,繼承留守家作為留守氏第十八代當主。 四男過繼給作為繼子,繼承石川家作為角田石川氏初代當主。 五女成為第十八代當主正室。 五男過繼給繼承國分家作為秋田伊達氏初代當主。 六男長年與母親居住,生前無子,死後絕嗣。

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伊達輝宗の最期~そのとき政宗が下した非情の決断とは?

伊達 輝 宗

輝宗の葬儀・埋葬・墓所に関するいろいろ 輝宗の遺骸は10月9日晩、小浜に納められた。 惨劇から1日以上が経っていることになる。 政宗は事変を受けて当日に高田に出陣し、二本松を攻める意思を見せたが、老臣の諫言により、9日未明に小浜に戻っている(貞山公治家記録)。 してみると輝宗の遺骸は8日から9日午後まで高田の陣中にあったものであろうか。 此夜 受心君の尊骸を小浜城に入奉る。 終に信夫郡佐原村寿徳禅寺に於て寿徳禅寺に於て火浴し奉る。 資福寺虎哉禅師導師なり。 覚範寺殿と号す。 御遺骨を羽州置賜郡長井荘夏刈村慈雲寺資福禅寺に葬り給ふ。 日不知。 (貞山公治家記録 天正13年10月9日条) 信夫郡佐原邑寿徳禅寺に於て火葬し、羽州置賜郡長井荘夏刈村慈雲寺資福禅寺に御廟を築て御遺骨を蔵め奉る。 資福寺虎哉禅師導師たり。 奠茶仏事、寿徳寺昌室和尚。 (性山公治家記録 天正13年10月8日条) 信夫郡佐原村(福島市)の寿徳寺で火葬に付され、遺骨は夏刈(高畠町)の資福寺に埋葬された、とある。 地理院地図に加工。 福島市佐原 寿徳寺と慈徳寺 輝宗を荼毘にふした寿徳寺は、小浜城から約40km離れている。 大森から猪苗代へ向かう土湯街道を進み、吾妻山へかかる手前の山すそである。 遺骸を運ぶのに2日はかかったであろう。 小浜での火浴を避けたのは、攻略まもない地であったからであろうか。 米沢まで運ばず、米沢への道からもはずれたこの地が火葬地に選ばれた理由はわからない。 伊達氏ゆかりの寺院、ということであれば、小浜からより近い位置に川俣の頭陀寺、伊達郡の諸寺も考えうるが、選択されていない。 輝宗の葬儀の記録は残っていないが、性山公治家記録には、資福寺虎哉和尚の秉炬法語・寿徳寺昌室和尚の奠茶法語が収録されており、火葬に伴う葬儀が、おそらく寿徳寺で営まれたと考える。 虎哉和尚が夏刈の資福寺から佐原の寿徳寺まで来たとすれば、これにもやはり数日を要する。 寿徳寺は政宗とともに岩出山に移り、さらに仙台に移る。 この時政宗は、輝宗を開基の檀那とし、松音寺第八世喜州詮應和尚を招いて寺院を建立した。 輝宗の位牌は仙台の寿徳寺に祭られている。 上記のとおり、寿徳寺昌室和尚が輝宗の葬儀にあたって導師の1人を務めてもいることから、輝宗が生前から寿徳寺の手厚い保護者であったことは確かであろう。 ただ、「伊達輝宗正月行事」の年頭の礼に、寿徳寺の記載はない。 輝宗の火葬については、その死の異様さから、しばしば陰謀論を付会されるが、当時火葬は決して珍しいものではなかった。 輝宗の火葬骨はおそらく骨壺に納められ、埋葬されたであろう。 寿徳寺の移転後、無住となっていた寺は、寛文年中に再興された。 福島市佐原寺前9の慈徳寺である。 陽林寺の末寺となっている。 現在、佐原の慈徳寺には、輝宗の首塚と称する五輪塔(上部のみ)が残る。 「福島市史 原始・古代・中世」によると、 ところが、慈徳寺の記録には、このような寺歴は一言もふれていない。 むかし、信夫の慈徳寺殿が開基した真言宗の寺であったが、衰微して無住であったのを、寛文年中羽州米沢の曹洞宗林泉寺の役僧一空雲浦和尚が中興して曹洞宗に改め、陽林寺末となったものとしている。 何故、仙台に移った寿徳寺がそれであることを明示していないのであろうか。 前領主との関係を、故意にかくした好例ではなかろうか。 では、輝宗との関わりは一時忘れられていたのか、といえば、そうではないようだ。 江戸期に記された信夫・伊達両郡の地誌に記載された伝承をみてみよう。 「信達一統志」 天保12年(1841) 「福島市史資料叢書第30揖」「岩磐史料叢書」などに収載• 「奥州信夫・伊達二郡略年代記」 安永2年(1773) 「古郷之忘形見」橋本邦男・(自費出版)・昭和59年 に収載• 使用したテキストは、岩磐史料叢書収載「信達一統志」 、古郷之忘形見収載「奥州信夫・伊達二郡略年代記」・「奥州信夫郡佐原村根元記」である。 「信達一統志」 の慈徳寺の項には、輝宗との関わりの記載はない。 「奥州信夫・伊達二郡略年代記」には以下の記載がある。 政宗にげて信夫佐原の寺にて父照宗の死がいをほうむりけり。 昔しは下の大畑に寺有。 この節伊達家照宗の御はか石塔は地に築入候由。 御位牌は陽林寺に納り候由。 仙台様より、古墓所と又御家中方一門親類へ之尋状共は、宝永・享保年迄、度々来り候由。 され共、何も印無之故、用立不申候。 「奥州信夫郡佐原村根元記」 の方はもう少し詳しい記載がある。 政宗は無據、父政宗の御死がいを佐原に持来り、ぢとく寺にてほうむりけり。 追ばら切の侍十九人有之。 御家良のはかに梅を植けり。 大石塔四本立、御位はいも有けるが、後、中興雲浦大和尚上の山を引て寺場を築給ふに、此石塔共を地形に埋給い、御位はいは小倉村陽林寺江納給ふ由。 其後、正徳・享保・元文迄も、度々御尋の状等、足軽衆等参候也。 度々通便有ては費成と申て、中興雲浦大和尚陽林寺江納給ふという。 尤、寛保年間にも冬藤田町六郎兵衛と申人、仙台様より御頼に候と書状遣し、仙台の御石堂を尋候に付、其節ぢとく寺の手付の人々四五人にて寺の南、清宇右衛門持分の畑、からう梅と申所など、二三ヶ所ほりて見申候へ共、炭と大石は多分有之候所、石堂の印何も無之故、右記し事一向無之と六郎兵衛へ返状仕申候。 先年より仙台御城内には佐原の引寺有之由に風聞有之候。 又、仙台様の御はか所は寺より南と申せ共、さだかに知る人なし。 輝宗の墓所があるという伝承はあるが、場所はわからない。 寺は中興の時に北側の山の上に移り、輝宗の石塔は埋めたという。 そのため、輝宗の墓所は今の寺の南側であろう、と2-3ヶ所掘ってみたところ、炭と大石はそれらしきものが発掘されたが、石堂はなかった、ということになろうか。 輝宗の位牌は陽林寺に納めた、とあるが、それは雲浦大和尚の方便のようにも読める文章である。 現在、「伊達輝宗首塚」とされているものは、慈徳寺本堂横の愛宕堂の裏にある大石である。 案内板には、 火葬跡に、もとは五輪の塔であったと思われるが、現在は二輪塔のみ残る。 宝珠に伊達家の略紋「笹に雀」が刻まれている。 古来人々、『首塚」と呼び伝えてきた供養塔なり。 平成13年6月吉日 宝珠山慈徳寺二十五世 祖峰一之誌 とある。 慈徳寺のパンフレット「佐原の山寺へようこそ」(平成24年11月版・国井一之・2014年6月28日、本堂前にて入手)には、 ご遺体の火浴を慈徳寺で行う。 伊達家は灯籠二対建立。 関ケ原に負れた上杉家は米沢に減封。 福島・信夫は上杉領。 仙台に移った伊達家は灯籠を埋める。 最後の灯籠を埋めるとき、上三輪を残し、愛宕堂脇の巨石に載せた。 伊達家家紋『竹に雀』の略紋あり。 とある。 「寺の南」とする地誌の伝承とは異なっている。 「『竹に雀』の略紋」が刻まれているのが風輪であり、かつ菱紋であることに違和感を感じる。 初めに引用した「古郷之忘形見」(昭和59年)収載の地誌を校訂した橋本邦男は、慈徳寺の24世住職であり、詳細な注記をしているが、愛宕堂裏の現在の「首塚」には触れておらず、明治期の地誌「信達二郡村誌」の佐原村の項にも輝宗に関わる記載はない。 一方、昭和45年発行の「福島市史 第1巻」には 佐原の慈徳寺に伊達輝宗の首塚と称されるものがある。 との記載がある。 慈徳寺本堂のすぐ下に、「種まき桜」と呼ばれる桜の古木がある。 昭和45年天然記念物に指定された際の案内板では樹齢200-250年とされていたが、平成21年の案内板では樹齢300年以上とされる。 - から引用する。 内容での違いは、先に樹齢が200~250年とされていたが、300年以上と案内される。 確かに、昭和45年からは、約40年が過ぎている。 福島市ホームページでは、この樹齢が450年とされるが、それとかかわる解説が、新しい案内板に見える。 それは、「伊達輝宗の御遺骸を一晩安置された小浜城から運び込まれたものとすれば」という仮定があれば、それから450年になるという事らしい。 「からう梅」の場所は、「奥州信夫郡佐原村根元記」には「寺の南」としかないが、平成21年に、旧佐原小学校跡地(旧林泉寺木戸口)に、「家老」を遠藤基信とする案内板が設置されている。 なお、 によると梅は現存していない。 筆者も2014年6月28日に訪問したが、桜ばかりで梅は見当たらなかった。 御礼申し上げます。 の慈徳寺関連記事• 高畠町夏刈 資福寺 輝宗の遺骨は夏刈の資福寺に埋葬された、と冒頭に引用した治家記録にある。 埋葬の日付は知られていない 瑞鳳殿のような祖廟形式の御霊屋は、豊臣秀吉の豊国廟を嚆矢とするもので、輝宗の埋葬に採用されたとは考えづらいが、性山公治家記録に、 資福禅寺に御廟を築て御遺骨を蔵め奉る。 とあるのは、政宗~綱宗の葬儀記録に影響されたものであろうか。 夏刈の資福寺跡には、輝宗の墓のほか、九代伊達政宗(儀山)と正室紀氏、輝宗に殉死した遠藤基信の墓とされる五輪塔がある。 写真を見ると、いずれも平坦地に墳丘を伴わない五輪塔と、それを囲む石柵があり、手前に石灯籠がある。 石柵と石灯篭の形式がいずれもよく似ているので、石柵と石灯篭は同時期に整備されたのだと思う。 少なくともこの石柵と石灯篭の整備時は、輝宗・遠藤基信の五輪塔も、九代政宗夫妻のものと同じく、供養塔としての意識を持って整備されたものであろう。 寺の中に大檀那の供養塔があることは自然なことに感じる。 輝宗の五輪塔については、(川崎利男 2007 )に細かい記載があるので引用する。 その中の輝宗墓といわれるものは、高さ88センチ、水輪は球形であるが、安山岩で他の部分は凝灰岩である。 異例なのは、風輪がなく団形の空輪が火輪にすっぼり入るように火輪上部にそれを受ける穴がつくられ、火輪は軒幅3センチと薄く、極端な反転を示している。 これとよく似た笠の反転を 示すものに天正7年(1579)銘の白鷹町鮎貝常光寺の層塔がある。 輝宗が不慮の死を遂げたのは天正13年(1585)である。 第7図 高畠町夏刈の傳伊達輝宗墓(より引用) この塔にみられるように、笠が極端に反転するのは16世紀後半から17世紀前半の石塔に多いようである。 この五輪塔も・変形ながらその頃の年代が推定される(第7図)。 川崎報告では触れられていないが、同地にある遠藤基信の墓も、写真を見る限り、火輪の傘の反転という特徴を持っているように見える。 なお、風輪はあるが、空輪が欠失しているように見える写真とそうでない写真の双方が見られるので、空輪は固定されていないものであろうか。 小説等の創作作品で、遠藤基信が輝宗の墓前で殉死する描写がよくあるが、性山公治家記録には「覚範寺殿御廟の側に葬る」とあるばかりである。 この野手倉墓所の儀山政宗夫妻の五輪塔についても上記川崎報告に記載されている。 輝宗が深く帰依していた夏刈の資福寺は関東十刹に数えられる名刹であり、寺院城郭であった。 2丁四方に二重の土塁と二重の堀を持ち、字切図と遺構を重ねると堀形・土塁などがよく重なるという。 輝宗らの墓がある伊達家墓所は南西端にあり、内堀によって寺域と区画される。 性山公治家記録に「資福禅寺に御廟を築て」とあるが、廟堂を伴っていたかは不明である。 資福寺館の西には、夏刈館がほぼ隣接し、両館は密接な関係にあったといわれる。 (山形県中世城郭遺跡調査報告書第1集 置賜地域) 米沢市遠山 覚範寺 政宗は翌天正14年に、輝宗の菩提寺として遠山村に覚範寺を建立した。 遠山は館山のある斜平丘陵の東麓にあたる。 山を登れば、愛宕山および羽山であり、覚範廃寺の他にも多数の寺院が過去に存在、あるいは現存している。 性山公の為めに置賜郡長井荘遠山邑に伽藍を創造せらる。 覚範禅寺と号し、山を遠山と称す。 即ち資福寺前住虎哉和尚諱宗乙を請して開山初祖として住持せしむ。 (貞山公治家記録 天正14年 此年条) 政宗君 御父性山公の為めに寺を羽州置賜郡長井荘遠山邑に建て給ひて遠山覚範禅寺を号し、資福寺虎哉和尚を請して開山とし給ふ。 寺内に医国院・撑月菴・保福菴を建て、殉死三人の牌所とせらる。 (性山公治家記録 天正15年条) 覚範寺は伊達家の移封に伴って、岩出山、ついで仙台に移った。 米沢の覚範寺は廃寺となっており、昭和62-63年に発掘調査が行われた。 以下、「米沢市埋蔵文化財調査報告書 第26集 覚範寺」(米沢市教育委員会 平成元年)に基づいて、その成果を紹介する。 この発掘調査では、字名「覚盤寺」「門前」「御伊勢林」を覚範寺跡と比定して調査を行っている。 調査地域内には建物があったとみられる平坦地、A~Fの6地点がある。 うち、一番規模の大きいF地点を本堂・庫裏跡と推測しているが、詳しい発掘がなされたのはA・B・Dの3地点である。 クリックで拡大(ブラウザで戻ってください) A地点には礎石の抜き取り痕とみられるくぼみが、平坦面のほぼ中央に六角形を有するように検出された。 一辺約二間(3. 6m)の六角堂を想像する。 B地点からは、平坦面緒ほぼ中央に、墓壙と礎石群・雨落ち溝と思われる溝が検出された。 円形状の土壙墓の上に、九尺四方に切妻風の屋根の建物(墓堂)が想定される。 墓堂正面の石段を降りるとA地点へ続くと理解される参道がある。 D地点の西南コーナー部に墓壙がある。 基壇は方形のマウンドでその中央にレンズ状に掘られた土壙があった。 ここからは多量の木炭を火葬骨が出土している。 ただし、周囲の土に焼成痕はなく、他所で火葬した遺骨を埋納したものである。 D地点南側縁辺部には、一字一石経塚がある。 複数の筆跡が見られるが、その中に、仙台覚範寺蔵の虎哉和尚真筆の筆跡に似たものが見られる。 これらの結果から、本報告書は、A地点を伊達輝宗、B地点を遠藤基信(医国院)、D地点・E地点を須田伯耆(撑月菴)・内馬場右衛門(保福菴)の牌所ではないかと推測している。 この推論を採用するならば、B地点に墓壙が検出され、A地点にも礎石抜き取り痕があることから、性山公治家記録に遠藤基信を「覚範寺殿御廟の側に葬る」とあるのは、資福寺ではなく覚範寺を差すという解釈も可能であろう。 (となると、夏刈資福寺の、「儀山政宗夫妻の五輪塔」も、塔の数だけで言えば、儀山政宗夫妻でなく、須田伯耆・内馬場右衛門と考えても不自由ないような……。 まぁ、いずれも「伝」だし……。

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