ちはや ぶる 神 の 誓 ひ の 違 はず は 親 の 敵 に 逢 ふ 瀬 結ば ん。 Full text of

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ちはや ぶる 神 の 誓 ひ の 違 はず は 親 の 敵 に 逢 ふ 瀬 結ば ん

御參拜と御會釋。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 7月13日 月 00時36分21秒• 然りとて官人等の、天皇の命を僞り、神社の神位を我が心任せにして、神の尊卑を談じ、貴神を墮して賤神に贈位するなどは、幽冥界に入りては、其の罪、重し。 親に不敬をする等の罪は、之より輕きと、又た重きとの二つあり。 されど天皇を輕蔑し、高官として命令を僞り作りたるは、神の赦さゞる處にして、其の罪科、尤も重し。 又た現世天皇の御爲め、次で人民の爲めには、心をも盡すべしと、常に宣り給ひき」と。 したがつて天皇をはじめとし、皇族やその代理の神拜方式は、一般人の參拜所作とは、全く異なる。 今上陛下が、皇太子のころに外遊したことがある。 その歸朝報告の儀として、名代(使者)が伊勢神宮に詣でた時、たまゝゝ私(大鳳翁)は、外宮參拜の途中だつた。 衞視の注意で、參道わきに控へた私は、外宮の御饌殿に神拜をさゝげる使者の一行を目にする光榮に浴した。 お使ひの人の參拜を見て驚く。 人間界の方式では無く、神界の玉串奉奠の禮式だつたからである。 私の同行者は未熟で、つい、短見を口にした。 『間違つた作法ではないか。 『皇室には、皇室の方式があるんだ。 みだらな事は言ふなよ』とたしなめたが、承知しない。 數年後、その男は、玄道(神道)修行から脱落した。 具體的な作法を公表することは出來ないが、 皇室の神拜方式は、神界の正式作法で行はれる。 それには少なくても二とほりある。 天皇や皇族方は、現界の神社より上位に在ると云ふ、何よりの證明である。 但し神宮では、皇室の參拜方式は、内宮・外宮とも同一と説明してゐる。 祕儀をやたらに漏らさないと云ふ配慮からか、或は末端の神職は知らないかの、いづれかであらう。 天皇や皇族が、現界で下位になるのは、唯一、伊勢の大宮(内宮)だけである。 たまゝゝ師仙(紫龍仙)から、神界の方式を聞いてゐたから分つたことである。 『現世では、第一に天皇のために、第二に國民のために盡せ』と云ふのは、神界の意向である。 水位仙も、何箇所か、このことを記してゐるし、紫龍仙も、口頭では、機會あるごとに、天皇第一の道(天皇爲本之大道)を説いてゐた。 そのときの儀禮は、實に嚴重そのものだつたさうである。 神界の正式の禮法は、宮中のそれ以上であらう。 神界や宮中のことは、我々凡俗にはうかゞひ知れないが、非常に複雜、且つ丁重であると云ふ事實だけを、認識してゐればよい」と。 愚案、「御門(みかど)の御位は、いともかしこし。 竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき」(『徒然草』第一段)とは、徒らなる言葉、空理虚論では無いのである。 一口に「御拜」と申しても、天皇陛下が、天下統御の淵源である所の、皇祖に坐します天照日坐皇大御神(天皇陛下よりも上位)を拜し奉る「御拜」、と、天皇陛下が、皇祖の勅命翼贊を奉行する所の、下位の神明を拜する「御拜を賜ふ」御作法あるを、御承知いたゞきたいものである。 なほ之に據れば、外宮の御祭神の御地位も、遙かに恐察し奉るに足れり。 畏し矣。 亦た曰く、 「(昭和天皇の)神社御參拜の時などのご樣子を、お後ろから拜見してをりますと、いつも非常にご丁寧に、本當に目の前に神樣がいらつしやる、その神樣に對する御拜禮のご態度であると感じてをりました。 愚案、「天皇樣の、(靖國神社)ご親拜のご作法は、手水をお使ひになり、祓ひをお受けになり、それから本殿にお進みになつて、大きな玉串をおもちになつて、敬虔な祈りをお捧げになる」(松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』)と仄聞する。 然らば天皇陛下の行幸を忝ふする所の靖國神社は、大内山に於る「御參拜」の御形式に相當し、思ふだに、實に畏き極みである。 但し下々の立場から恐察すれば、「參」とは餘りに畏れ多し、必ず「御拜を賜る」と申し上げる可きであらう。 所謂る古史古傳なる者は、人神論にして僞書の典型と謂ひつ可く、光陰を失する勿れ。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 7月11日 土 01時04分1秒• 昭和四年九月・美甘政和門下同志會再版の文庫版)卷之第五 先年、余(美甘大人)が同縣人黒住教副管長なりし森下景端氏、未だ大分縣令たりし時、彼の地より得たりと云ふ異體文字の古書『上記』と名づくるものには、鵜葺草葺不合尊より神武天皇迄、御同名を以て七十三代の世を重ね玉ふことありと聞き、其の書を一見せんとするも、容易にこれを借り得ることを得ず。 偶々吉良義風氏が、これが要を摘んで譯したる『上記鈔譯』の出版あるに及びたるを以て、速かにこれを求めて一見するに、全く信を置きがたく、一度び原書に就いて、これを質さんとせしに、幸ひ森下氏の子息、余が鄰郡の郡長の任を受くるに至りたれば、これに乞ひて、其の原書を得、書記に托して、先づ神代の部十八卷を書寫せしめ、再三これを熟讀するに、吾が古傳書に載する所のものは、諸書の説を採りて、これを載せたるものにて、其の他、古傳に無き異説、全篇中、半を越え、中には他書に漏れたる眞の古傳には非ざるかと疑はるゝ程の説あるを以て、先づ試に他の古傳書に存するものを除き、『上記』の外、他に無き所のものをのみ集めて、これを閲するに、全く信を置きがたきによりて、余は、終ひにこれを採らず。 然れ共も余が原書を閲したるは、全部四十卷の内、漸く開闢より十八卷、則ち御三代目の鵜葺草葺不合尊迄のことにて、其の他は、未だ原書を得ざれば、吉良氏の『鈔譯』に就いて見たるのみなりしが、『鈔譯』にては、太古の所よりも、却つて鵜葺草葺不合尊七十三代の傳、聊か見る所あるものゝ如くなれ共、余は更にこれを信ぜざるなり。 こは贅言ながら、此の書を見ん人の爲めに、こゝに一言を加へ置くのみ。 三十八年一月・神道天行居『全集』第二卷所收) 『富士古文書』の記事等も、種々の發掘物と符合したりして、相當の參考となるべきものを混入しては居りませうが、少し極端に言へば、大部分は何等かの事實による創作であります。 『富士古文書』にある秦の徐福に關係ある消息等は、或る程度まで承認出來ますが、其れは別個の問題であります。 數年前から流行してゐる大衆文藝なるものゝ、我が幕末頃の空氣を取扱つた小説にも、多少の史實は交ぜ合してありますので、それでなければ、讀者としても作者としても、興味がないからであります。 斯うした心理は、昔も今も、人間の通有性であります。 『富士古文書』の記事が描寫せる太古の世界は、神界の實相と合致して居る點が稀少であります。 又た現界に殘されたる事實とも合つて居りませぬ。 たゞ 『富士古文書』とか、『上記』のやうな傳へは、異傳と云ふよりも、寧ろ古人の創作だといふことを主張することを明かにしておきます。 『富士古文書』の研究に就いて、近年、また多數の學者や名士が協贊して、相當の運動を起す豫定だとかの噂も聞きましたが、閑人の多い世の中であります。 【囘答(大鳳翁)】本田靈學式のサニハは、要注意である。 神懸かり状態になつた對象(これを神主といふ)に、いろゝゝ質問して、降りてきた神靈の次元を吟味するのであるが、神靈を體内に招き鎭めることは、非常に危險が伴ふ。 靈物を神靈と錯覺して、體内に入れてゐると、いづれは外道に陷るからである。 もつとも 正眞の神靈を體内に招き入れること自體が困難である。 【問ひ】古史古傳・野史・稗史などの信憑性は。 【囘答】古史古傳・野史・稗史と稱するものは、すべて「人神論」である。 これらの書物は、神界の實相や實在の神眞(神・神仙)の消息は、全く傳へてない。 神靈と神界の實在を認めない野史・稗史は、基本から間違つてゐる。 『秀眞傳』・『上記』・『富士文獻』・『竹内文獻』・『九鬼文獻』などは、登場する神が、みんな人間として描かれ、多くは過剩な天皇中心説(ひいきの引き倒し)か、あるいは逆に皇室に對する怨念の思想が盛り込まれてゐる。 幽冥觀と神觀を伴はない宗教書は、ある種の歴史書、あるいは娯樂小説として、それなりの價値はあるが、玄學的には、無價値である。 神なき神學であるからして、靈的不毛の荒野で、僞書といはざるをえない。 【問ひ】僞書は、どのやうにして成立したのか。 またその靈的背景は、どのやうになつてゐるのか。 【囘答】修理固成の反動として、狗賓妖魔や惡鬼・邪靈たちは、常に人間界を亂さうと、隙をうかゞつてゐる。 妖魔界には、優秀な作家がおほぜいをり、地上のめぼしい人物を見つけ、靈的に操つて代筆させたといふのが實情である。 幽眞諸界の修理固成を妨害して、自らの勢力を擴大し、神界に對抗したいからである。 世の中には、いろゝゝな遺傳子、換言すれば業(ごふ)や因縁を持つた者がゐる。 例へば先祖代々、皇室に對して反感を抱いてゐたり、體制側(幕府など)から追ひやられた怨念を、潛在意識にたくはへてゐたり、あるいは千年以上前の歸化人の子孫で、被差別の感情をそのまゝ繼承してゐたりと、無意識ではあるが、複雜な心境の國民は、いつの時代にも存在する。 いくら倫理道徳にかなつた善人であつても、皇室や體制側(政府や勤務先)に對して、憎惡やひがみ、上司や師匠に對する反抗心や下剋上の傾向を持つてゐると、日常の言動や思考・視座が、ついゝゝ反體制的になりやすい。 妖魔は、そのやうな未熟な魄につけ込むわけである。 古史古傳に、 天之御中主神をしのぐと稱する神を登場させたり、『古事記』より由緒正しいと力説したり、正系の皇統はとだえてゐると喧傳したり、現在の神々に替はつて壓迫されてゐた神が復活してくるといつたり、あるいは世の建て替へ立て直しが始まると煽動したりと、だいたい妖魔の手口は決まつてゐる。 神々の世界に抗爭があるわけでもないし、封殺された神が存在するわけでもない。 したがつて今まで隱れてゐた神が登場するなどといふのは、茶番劇である。 正眞神仙之大道(天皇爲本之大道)も、常に危機にさらされてゐる。 玄道を、單なる興味本位の技術論や御利益信仰にすり替へ、いたいけな若者を、神仙道(神道)オタクに仕立て上げようとする風潮があるが、これなども妖魔界と密接な關係がある。 もつとも甘い宣傳文句に釣られる讀者にも、半分の責任がある。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 6月18日 木 22時47分54秒• 昭和四年九月・美甘政和門下同志會再版の文庫版)卷之第四・開闢第四期・造化大成・幽顯分政世記之部 『古事記』に曰く、兄八島士奴美神、云々。 此の神、刺國大神の女、名は刺國若比賣に娶(みあひ)て生みませる子・大國主神。 亦の名は大穴牟遲神と謂し、亦の名は葦原色許男神と謂し、亦の名は八千矛神と謂し、亦の名は宇都志國玉神と謂す。 併せて五名(みないつゝ)有り。 さて前に擧げたる明文は、『古事記』の本傳を中略して、講究の目的を示したるものなるが、大國主神は、須佐之男命の御神業を繼がせられ、第四期・大地造化の大主權を宰り玉ふ大神なるを、此の神の御系統のことに就いては、種々の傳ありて、未だ何れか非と云ふことの知られざる程のことなれば、先づ御系統にかゝはることより論究すべし。 前に掲げたる明文に、「云々」と中略したる所の『古事記』本傳の全文は、 「兄・ 八島士奴美神、大山津見神の女、名は木花知流比賣に娶ひて生みませる子・ 布波能母遲久奴須奴神。 此の神、淤迦美神の女、名は日河比賣に娶ひて生みませる子・ 深淵之水夜禮花神。 此の神、天之都度閇知泥神に娶ひて生みませる子・ 淤美豆奴神。 此の神、布怒豆奴神の女、名は布帝耳神に娶ひて生みませる子・ 天之冬衣神。 此の神、刺國大神(おほのかみ)の女、名は刺國若比賣に娶ひて生みませる子・ 大國主神。 云々」 とあり。 此の傳に由る時は、大國主神は、八嶋士奴美神の六世の孫にして、須佐之男命の七世の孫の如く聞ゆるなり。 又た『書紀』の正書には、須佐之男命と櫛名田比賣命の御間の、直の御子と傳へたり。 又た一書には、八嶋士奴美神の五世の孫、或は六世の孫ともあり。 『古語拾遺』には、『書紀』の正書と同じく、須佐之男命の御子と傳へたり。 然るに平田先哲(大壑先生)の『(古史)成文』には、『神祇譜』の傳を採りて、須佐之男命の四世の孫(愚案、『神名祕書』に『神祇譜天圖記』を引きて曰く、「國作大己貴神。 此の神は、素盞鳴尊の孫の子。 天之冬衣神の子也」と。 如此く大國主神の御系統は、傳々皆な異なるものなれば、何れを是として可ならん考ふるに、こは全く須佐之男命の御孫にして、三世の孫に當り、則ち八嶋士奴美神の御子と窺はるゝなり。 如何となれば、神代の六世の孫、或は七世の孫と云ふは、後世の何世と云ふ如き代數の經年と違ひ、數千歳とも數萬歳とも云ふべきものにて、既に皇孫降臨の後と雖も、神武天皇の御代に至る迄、御三代の間は、未だ幽顯相近き氣運なるを以て、神仙界の如きものにて、御三代を以て、凡そ二千五百年を經る程のことにて、後世にても、神仙の年數は量り無き程のものなれば、神代の六世とあるは、特に長きことなり。 神武天皇以後に至りて、頓に年壽の縮みたるは、全く造化大氣運の變遷に由るものなれば、第五期の末に至り、其の然る所以を講述すべけれ共、こゝに神代の何世と云ふは、特に長き年數なることを知らしめんが爲めに、一言、比較を申し置くなり。 皇孫降臨後、御三代の間、尚ほ此の如し。 況んや第三期より四期に至るの間は、特に太古のことなれば、須佐之男命より大國主神迄、七世も立つべきに非ず。 故に平田先哲は、其の中を探り、『神祇譜』の傳によりて、四世の孫と云ふを正傳なりとし、『成文』とせられたり。 然れ共も記紀共に數傳あるに、皆な五世の孫、六世の孫とあるを思ふに、『日本書紀』撰集の時には、必ず家々に傳へたる古傳の中にも、『古事記』の如く、「此の神、何の神に娶ひまして生みませる子・某神」などの傳ありしを、其の神名を略きて、五世の孫、或は六世の孫と略して、一書の傳に擧げられたるならんと思はるゝなり。 故に深く神典前後の明文に照らし、道理を推して考ふるに、こは全く『古事記』を以て正傳とすべきことゝ窺はるゝなり。 然れ共も須佐之男命の七世の孫と云ふに非ず。 『古事記』の傳によれば、大國主神は、全く須佐之男命の三代の孫に當らせらるゝ傳なり。 如何となれば、此所の八嶋士奴美神の御系統は暫く置き、此の次、大國主神より以下の御系統を合せて考ふるに、『古事記』の明文にては、 「故れ此の 大國主神、胸形奧津宮に坐す神・多紀理毘賣命に娶ひて生みませる子・ 阿遲鉏高日子根神。 次に妹 高比賣命、亦の名は下光比賣命。 此の阿遲鉏高日子根神は、今ま迦毛大御神と謂す也。 大國主神、亦た神屋楯比賣命に娶ひて生みませる子・ 事代主神。 亦た八島牟遲能神の女・鳥耳神に娶ひて生みませる子・ 鳥鳴海神。 此の神、日名照額田毘道男[神の女]・伊許知邇神に娶ひて生みませる子・ 國忍富神。 此の神、葦那陀神、亦の名は八河江比賣に娶ひて生みませる子・ 速甕之多氣魂波夜遲奴美神。 此の神、天之甕主神の女・前玉比賣を娶ひて生みませる子・ 甕主日子神。 此の神、淤迦美神の女・比那良志毘賣に娶ひて生みませる子・ 多比理岐麻流美神。 此の神、比比羅木之其花麻豆美神の女・活玉前玉比賣神に娶ひて生みませる子・ 美呂浪神。 此の神、敷山主神の女・青沼馬沼押比賣に娶ひて生みませる子・ 布忍富鳥鳴海神。 此の神、若晝女神に娶ひて生みませる子・ 天日腹大科度美神。 此の神、天狹霧神の女・遠津待根神に娶ひて生みませる子・ 遠津山岬多良斯神」 とありて、都て大國主神の御系統の神十一世にして、此の中、阿遲鉏高日子根神と事代主神と鳥鳴海神の三神は、皆な大國主神の御子なれば、十一世とあるは、全く九世と云ふべき御世系なり。 然るに『古事記』の傳に、「右の件より八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、十七世の神と稱ふ」とあるは、全く十五世とあるべき理りにて、此の世數に相違あることは、既に先哲も論じ置かれたることなるが、此の世記は、たとひ十五世にもせよ、十七世にもせよ、此の傳を正傳なりとする時は、皇孫降臨の時には、事代主神も、未だ御若君とも申すべき時なれば、其の御弟神たる鳥鳴海神は、尚ほ御若く坐すべき理りなれば、鳥鳴海神より以下、七世の神は、全く皇孫降臨後の御世系に當れば、神武天皇迄、皇孫の御系統と同じく御三代とするも、尚ほ四代は、神武天皇より後、懿徳天皇の御代に及ぶ理りにて、如何に考ふるも、此所に是れ丈の御代數の立つべき理りに非ざるが故に、平田先哲は、此所の御世系は信じがたしとて、悉くこれを除きて、鳥鳴海神以下は、『成文』には擧げられざりしなり。 然れ共も『古事記』の明文に、如此く迄で明瞭なる傳のあるを、全く除き去られたるは如何あらんと、考へらるゝ旨もありて、尚ほ講究するに、先づ大國主神には、庶兄弟八十神坐すとの傳なれば、此の八十神は、必ず八十柱と云ふにも非ざるべけれ共、數多き庶兄弟の神坐すこと、明かなり。 如此く多くの異母兄弟坐ますを以て考ふる時は、其の御父たる神には、必ず多くの后神坐すべき理りなるを、天冬衣神には、多くの后神坐したることも、更に聞えず。 然れば大國主神を、天冬衣神の御子としては、八十神と云ふ多くの庶兄弟坐すこと、聞えがたし。 夫れのみならず、大國主神には、御子神百八十一神も坐すとの傳ありて、特に多くの御子神坐すことなるに、『古事記』の傳にては、阿遲鉏高日子根神と高比賣神と事代主神と鳥鳴海神と八上比賣の生み坐せる御井神と建御名方神等の外には、あまり多くの傳へも無く、其の中にも、阿遲鉏高日子根神と事代主神とは、全く御同神の御別名と聞ゆれば、如何に簡略なる傳にもせよ、百八十一神も坐すべき御子神等の御系統も、更に知れがたきことなるは、如何なることならんと、能く考ふれば、こは全く『古事記』の傳にある八嶋士奴美神と云ふより、次々の御系統にある「此の神、何の神に娶ひまして生み坐せる子・某神」とある 「此神」と云ふ二字は、全く次々へ送るの文に非ず。 本の八島士奴美神に返すべき文にて、「此神」と云ふ下に、「又」と云ふ字を加へて見れば、能く聞ゆることなり。 都て『古事記』の文例は、同神の他の比賣神に娶ひ坐す時は、「亦云々」と傳へられたる例なれ共、八嶋士奴美神と大國主神は、特に多くの比賣神に娶ひ坐したる神なるが故に、五柱、或は十柱と云ふ比賣神に娶ひ坐すに、「亦云々、亦云々」と傳ふれば、文の體を失するが故に、記紀撰集以前より早く「亦」と云ふべきを、 一神にして三柱以上の比賣神に娶ひ坐せるは、「亦」の字を用ひず、「此神」に二字を以て、「亦」の字に換へ傳へられたるものにて、八嶋士奴美神の御系統の次々にある「此神」の二字は、全く皆な八嶋士奴美神の娶ひ坐したる比賣神のみにて、大國主神の御母・刺國若比賣神は、八嶋士奴美神の五度び目に娶ひ坐したる後神に坐すべきなり。 然れば天冬衣神は、八嶋士奴美神の四度び目に娶ひ坐したる比賣神の生みませる御子なれば、大國主神の異母の御兄神にして、所謂る庶兄弟に坐す理りなり。 此の理りを以て、次の大國主神以下の御系統を考ふるに、是れ亦た同じく十世計りも、次に數へ來りたる「此神云々」と云ふ「此神」の二字は、全く本の大國主神に返すべき理りにて、「此の神、又た」と云ふ意なれば、其の多くの比賣神等は、正・後には非ざるも、皆な大國主神一柱の後神のみなり。 如此く考へ渡して見れば、大國主神に庶兄弟の神等、多く坐すべき理りも明かにして、亦た御子神の多く坐すことも、能く窺はれ、『古事記』前後の明文に照らして、能く聞ゆることゝなるによりて、余が一家講究にては、 明文と道理に訴へて、『古事記』兩所にある八嶋士奴美神の御系統と、次の大國主神の御系統の、「此神云々」とある「此神」の二字は、次々に送るべき文に非ず、本の神に歸るべき文なりとするなり。 然るを記紀撰集の時には、「此神」の二字を、次へ送る文として算へられたるにより、終ひに前後にて十七世神と數へられ、『書紀』にも五世・六世と數へ傳へられたるものと窺はるゝなり。 如此く 道理を推して考ふれば、『古事記』の傳こそ正傳にして、大國主神は、全く八嶋士奴美神の五度び目に娶ひ坐したる後神・刺國若比賣神の御子なれば、須佐之男命の御爲めには承祖の御孫に當り玉ふなり。 故に能く『古事記』本傳の明文に照らして、此の理りを講究あるべし。 愚案、堀秀成翁『神名考』(明治十九年六月)に、 「八島士奴美神。 八島士奴美の、士は知り、奴は主、美は稱へ名、耳の略なり。 此の御名は、後に大國主神、國造りて、天下をうしはき坐す時に、遠祖なる故に、如此く稱へしにや。 若し然らずは、八島知主とは云ふまじくこそと、『古事記傳』にあるが如し」 とあり。 八島士奴美神は、大國主神の遠祖に非ずして御父なりとすると雖も、須佐之男大神の神業承祖の御子なれば、「八島知主」と申し上ぐるに妨げ無く、實に相應しき御名なる可し矣。 八島士奴美神は、高天原に於ける正勝吾勝勝速日天忍穗耳尊に當つる可き、地球主宰の大神に坐しまさむ。 神宮教院版『神史』• 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 5月25日 月 16時35分11秒• 但し『神典採要通解』本文と、相違する所あり。 今、其の宜しきに從ふ。 『合册・神典採要通解』平成二年六月・山雅房刊に所收)の試訓 (題辭) 史中之經 二品熾仁親王 『神典採要』引用書目 古事記 日本書紀 古語拾遺 祝詞式 『神典採要』例言五則 [一]鴻蒙の世、未だ史乘有らず。 當時の事、口授家傳なり。 是を以て傳説、一ならず。 後の史を修する者、載せて以て疑ひを存す。 愼しみの至り也。 然して其の大綱至要、天神・天祖の鎔造化育、天孫の降臨統一の若き、凡そ建國の基、皇統の源に係る者は、昭々然として日星の如し。 故に此の書を編むは、專ら古典に就いて、大綱を擧げ至要を採りて、其の細目は之を略す。 學者、宜しく先んずべき所を示す所以ん也。 [一]此の書の大意、建國の基を明かにして、皇統の源を示すに在り。 故に採擇は、專ら紀元以前に在り。 紀元後は、則ち史典、大いに備はる。 故に復た贅せず。 [一]此の書の事を紀すは、專ら『書紀』成文に因る。 而して『古事記』等に採る者の如きは、則ち填むるに、支那字を以てし、務めて『書紀』の體に合す。 但し其の成文と雖も、字句繁冗なる者は、一二、之を訂さゞるを得ず。 讀者、諒せよ焉。 [一]闕字は、公文、自ら其の格有り。 私書は、則ち否らず。 近人、意に任せ之を爲す。 往々其の當を失す。 此の書、一(もつぱ)ら史傳の體に効ひ、言、至尊に渉ると雖も、敢へて闕字を用ゐず。 亦た之を愼しむの意也。 [一]此の書、稿を起すの初めは、題して『古史採要』と曰ふ。 後に更に『神史』と稱するは、二品親王の題辭を賜ふ所以ん也。 其の今の名に改むる者は、教部省の命ずる所に由ると云ふ。 明治六年夏八月日。 浦田長民、神宮教院の本局に識す。 『神典採要』 神宮少宮司兼少教正・正七位・浦田長民、謹輯 古へ、未だ天地有らざるの時、神聖有り焉。 大荒に生ず。 其の始めを知る莫し。 名を天御中主尊と曰ふ。 次を高皇産靈尊と曰ふ。 次を神皇産靈尊と曰ふ。 實に造化の元始也。 然して後、清陽の氣、漸く開けて天と爲る。 之を高天原と謂ふ。 此の時に當りて、土壤、未だ凝らず、漂蕩、浮油の如し。 其の萌動するや也、神有りて生ず焉。 名を可愛葦牙彦舅尊と曰ふ。 次を天常立尊と曰ふ。 次を國常立尊と曰ふ。 次を豐雲野尊と曰ふ。 皆な一氣獨化す矣。 次に耦生の神有り。 曰く埿土煮尊・沙土煮尊。 曰く角杙尊・活杙尊。 曰く大戸道尊・大苫邊尊。 曰く面足尊・惶根尊。 曰く伊弉諾尊・伊弉冊尊。 凡そ十神、皆な神徳を繼承し、以て造化の功を贊く。 天神[天御中主尊以下を謂ふ]、伊弉諾尊・伊弉冊尊に詔して曰く、「下土、漂蕩、定まらず、汝、宜しく徃きて修理固成すべし焉」と。 因て天瓊矛を賜ふ。 二神、詔を奉じ、共に天浮橋に立ち、矛を以て之を探る。 鋒頭の露、滴り結びて島と爲る。 名づけて磤馭廬島と曰ふ。 二神、降り居る焉。 此の島を以て、國之中柱と爲し[即ち天柱なり]、國土を生成せむと欲す也。 伊弉諾尊、伊弉冊尊に問ひて曰く、「汝の身、何の成れるところ有りや耶」。 對へて曰く、「吾が軀、具成りて、一つの陰の元めの處ろ有り」と。 伊弉諾尊の曰く、「吾が軀も、亦た具成りて、一つの陽の元めの處ろ有り。 意ふに吾が元めの處を以て、汝が元の處に合はせむと欲す」と。 乃ち將に天柱を巡らむとして、約して曰く、「汝は右より旋れ。 吾は當に左より旋るべし」と。 既にして分れ巡り相ひ逢ふ。 伊弉冊尊、先づ唱へて曰く、「妍にゑや哉、可愛し少男を也」と。 伊弉諾尊、之に和して曰く、「妍にゑや哉、可愛し少女を也」と。 遂に夫婦と爲り、二子を生む。 皆な意の如くならず。 故に復た天に昇りて、具さに其の状を奏す。 天神、詔して曰く、「婦人の言、先づ揚ぐるか乎。 宜しく更に降りて改めて祝すべし」と。 是に於いて二神、詔を奉じて降り、分れて天柱を巡る。 伊弉諾尊、唱へて曰く、「妍にゑや哉、可愛し少女を也」と。 伊弉冊尊、和して曰く、「妍にゑや哉、可愛し少男を也」と。 然して後、宮を同じくし共に住む。 先づ國土・山川、及び風水草木の諸神を生む。 伊弉諾尊・伊弉冊尊、共に議りて曰く、「吾れ已に國土・諸神を生めり。 何ぞ天地の主たる者を生まざるや也」と。 是に於いて天祖大日孁貴を生む。 號して天照皇大神と曰ふ。 斯の子、光華明彩、六合を照徹す。 二神、大いに喜びて曰く、「吾が息、多しと雖も、未だ此の若く靈異の兒有らざる也。 宜しく久しく此の國に留むべからず。 當に早く天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし矣」と。 因りて親ら其の玉佩を解き、之を授けて曰く、「子は、宜しく高天原を御すべし也」と。 乃ち天柱を以て、之を天上に擧ぐ焉。 天祖、天を御すの後、造化の功を集めて、以て之を大成し、生成の徳を統べて、之を主宰す。 是に於いて乎、神道、大いに盛んなり。 次に月讀尊を生む。 其の光彩、日に亞ぐ。 曰く、「日に配せて治す可し焉」と。 即ち又た之を天に送る。 次に素戔鳴尊を生む。 將に以て下土の主と爲さむとす也。 是に於いて伊弉諾尊、功成り徳至る。 故に天に昇りて報命し、留まつて日稚宮に宅る。 是より先、火神迦具土命の生まるゝや也、伊弉冊尊、傷む焉。 因つて請ひて曰く、「上國の事は、吾が夫の君、之に任ぜよ。 吾は、將に下國を治めむとす矣」と。 乃ち根國に就く。 天祖、高天原に在つて、勅して曰く、「聞く、葦原中國に、保食神有り、と。 汝、月讀尊、往きて之を候へ」と。 月讀尊、勅を受けて降りて、保食神の所に到る。 保食神、首を囘して國に嚮へば、則ち百穀、其の口より出づ。 海に嚮へば、則ち鱗介、山に嚮へば、則ち禽獸、皆な其の口より出づ。 乃ち悉く其の物を取りて、之を百机に列ねて奉饗す。 月讀尊、以て不潔と爲し、曰く、「穢きかな哉、敢へて吐餘を以て、我を饗するや乎」と。 乃ち之を戮す。 既にして天祖、復た天熊人を遣はして、徃きて之を視せしむ。 此の時に當りて、保食神、既に死して、百穀・蠶繭、及び牛馬、其の屍に化生す。 天熊人、悉く取り去つて、之を上る。 天祖、大いに悦びて曰く、「是れ此の庶物、以て我が蒼生を養ふ可し也」と。 乃ち粟・稗・麥・豆を以て、陸田種子と爲し、稻を以て、水田種子と爲す。 其の稻を以て、天狹田、及び長田に種ゑ、又た口の裏に繭を含み、便ち絲を抽くことを得。 衣・食の源、是に於いて乎、開く矣。 素戔鳴尊、性強悍、慈訓を奉ぜず、常に啼哭を爲す。 伊弉諾尊、讓めて曰く、「汝、甚だ無道、以て下土に君臨す可からず也」と。 遂に之を根國に謫す。 素戔鳴尊、請ひて曰く、「願はくは且に高天原に到りて、姉と相見えて後、永く退らむとす矣」と。 之を許す。 其の將に天に昇らむとするや也、山嶽震動、凕渤皷盪す。 天祖、素より其の暴行を知る。 驚きて曰く、「吾が弟の來たる、豈に善き意を以てせんや乎。 須く威武を示し、以て禍心を消すべし耳」と。 乃ち丈夫の裝ひを爲し、天安河を隔てゝ、相見て問ふ焉。 素戔鳴尊、の曰く、「弟、固より野心無し也。 今は、嚴勅有り。 將に根國に赴かむとす。 故に阿姉と、相見て訣れむのみ已」と。 天祖、復た問ひて曰く、「果して然らば、何を以て其の他無きを明かさむ」と。 對へて曰く、「請ふ、阿姉と共に誓はむ。 誓盟の中、當に必ず子を生むべし。 弟、如し禍心を包藏せば、則ち生む所、必ず女ならむ矣。 否らざれば、則ち男ならむ矣」と。 是に於いて天祖、素戔鳴尊の佩ぶる所の十握劍を取り、折りて三段と爲す。 之を天眞名井に濯ぎて、咀嚼して噀す焉。 氣息の感ずる所、三女を生む。 曰く田心姫命、曰く湍津姫命、曰く市杵嶋姫命。 既にして素戔鳴尊、天祖の御する所の八阪瓊五百箇御統玉を乞ひて、亦た之を天眞名井に濯ぎて、咀嚼して噀す焉。 氣息の感ずる所、五男を生む。 曰く正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、曰く天穗日命、曰く天津彦根命、曰く活津彦根命、曰く熊野櫲樟日命。 是に至りて、天祖、方に其の他無きを知る。 勅して曰く、「玉は是れ朕が物なり。 故に彼の五男は、皆な朕が兒也」と。 取りて子とし養ふ焉。 又た曰く、「劍は是れ卿の物なり。 三女の如きは、則ち卿の子也」と。 之を素戔鳴尊に授く。 素戔鳴尊、既に勝驗を得て、驕心、復た生ず。 馬を皇田に放ち、其の畔を毀め、其の溝を埋め、稼を害して、以て笑樂と爲す。 天祖、嘗て新穀を御すや、竊かに糞を其の牀に置き、以て天祖を陵侮す。 天祖、彜親の故を以て、優容して尤めず。 温言、之を誨ゆ。 然れども猶ほ悛めず。 織女の御衣を織るに方りて、生駒を剥して、之を其の殿に投ず。 織女、驚倒、機より墮ちて傷す。 是に至りて、天祖、大いに怒り、天石窟に入り、戸を閉ぢて居る焉。 斯の時に當りて、六合、常に闇く、萬妖、悉く發す。 諸神、憂悶、爲す所を知らず。 高皇産靈尊、八百萬神を天安河原に會へ、共に奉謝の方を議す。 思兼神、深思遠慮、議して曰く、「宜しく石凝姥命をして、天香山の銅を取り、以て日御形八咫鏡を鑄せしめ、櫛明玉命は、八坂瓊五百箇御統玉を作り、長白羽命は、青和幣を作り、天日鷲・津咋見の二神は、白和幣を作り、天羽槌雄命は、荒布を織り、天棚機姫命は、和幣を織り、手置帆負・彦狹知の二神は、天御量を以て、大峽・小峽の材を伐り、瑞殿を造り、笠及び矛楯を作り、天目一箇命は、刀・斧・鐸を作り、天香山の眞賢木を堀りて、之を窟前に樹て、其の上枝には玉を懸け、中枝には鏡を懸け、下枝には青・白の和幣を懸け、天兒屋命・太玉命は、相共に之を捧げて、稱讚祈謝せよ焉。 又た常世の長鳴鷄を聚め、互ひに相鳴かしめ、天鈿女命は、葛を以て鬘と爲し、蘿を手繦と爲し、竹葉を手草と爲し、茅纏之矛を持ち、誓槽を蹈み、庭燎を擧げ、功に俳優を作して、唱歌舞蹈せよ。 庶幾くは、以て天怒を慰めむ矣」と。 諸神、之に從ふ。 各々設備する所ろ有り。 乃ち燕を窟前に張る。 天祖、聞きて恠しみて曰く、「朕、此の中に居りしより也、天地は、必ず長夜ならむ矣。 群神は、何ぞ復た歌舞笑樂するや也」と。 微かに戸を開き、之を窺ふ。 天手力雄命、進みて御手を接り、引きて新殿に幸し奉る。 天兒屋命・太玉命、乃ち八咫鏡を奉り、又た界するに、端出之繩を以てす。 奏請して曰く、「願はくは復た還幸すること勿れ」と。 大宮賣命をして、御前に侍らしむ。 豐磐窗・櫛磐窗の二神は、殿門を守衞す。 是に於いて、六合、再び清明を得、萬物、各々其の所に復す。 八百萬神、素戔鳴尊の罪を議し、科するに、千座の置戸を以てし、髮及び爪を拔き、之を贖ひ、其の罪を解除し、之を根國に逐ふ。 素戔鳴尊、既に謫せられ、降りて出雲簸川上に到る。 毒蛇、人を食ふ者有り。 素戔鳴尊、爲めに之を斬殺す。 寶劍を其の尾に獲、乃ち之を天祖に高天原に獻ず。 蓋し蛇の居る所、其の上に常に雲氣有り。 故に其の劍を天叢雲と號す。 後に更に之を草薙劍と稱す。 素戔鳴尊、國神の女奇稻田姫命を娶り、大己貴命を生み、後に遂に根國に就く。 大己貴命は、賢徳有り。 少彦名命と、心を同じくし力を戮せて、國土を經營し、人物を愛護し、災を禳ひ病を療し、醫藥・禁厭の方を定む。 民、今に至るまで之に頼る。 天祖、已に天窟を出でて、群神に勅して曰く、「葦原中國は、是れ朕が子の王たる可きの地也」と。 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊を立てゝ、太子と爲し、高皇産靈尊の女萬旙豐秋津姫命を娶りて、之を妃と爲す。 將に之を下土に降さむとす。 此の時に當りて、中州、猶ほ未だ平かならず。 國神、互ひに相雄長す。 天忍穗耳尊、天浮橋に立ちて之を覽、還りて具に之を奏す。 天祖、高皇産靈尊と、共に天安河原に御し、八百萬神を會して之を議る。 乃ち天穗日命を遣はして、平定せしむ焉。 穗日命、降りて且に三年、大己貴命を憚りて、遂に命を報ぜず。 又た其の子大背飯三熊大人を遣はして、至れば、則ち父と共に留まりて、復た還らず。 是に於いて、又た八百萬神に議す。 僉な曰く、「天國玉の子天稚彦、用ふる可し也」と。 天祖、乃ち之を召し、天鹿兒弓・天羽羽矢を賜ひ、以て之を降す。 天稚彦、陰かに自立の意有り。 國神の女を娶り妻と爲し、僭居偸安すること、八年なり矣。 天祖、其の久しく報ぜざるを恠しみ、無名雉を遣り、以て之を伺はしむ。 雉降りて、天稚彦の門に集まり、鳴きて曰く、「天稚彦、汝、何故ゑに命を報ぜざる」と。 天稚彦、聞きて之を惡む。 乃ち賜ふ所の弓・矢を取りて、之を射る。 矢、雉を洞して、高天原に達す。 高皇産靈尊、見て恠しみて曰く、「此の矢は、昔、天照大神の、天稚彦に賜ふ所ろ也。 今、血、之に染む。 豈に國神と戰ひて、然るや乎」と。 乃ち取りて、以て投げ下す。 其の矢、落ちて天稚彦の胸に中り、立ちどころに之に死す。 事、天上に聞ゆ。 是に於いて又た大いに八百萬神を會し、議りて其の人を選ぶ。 衆、僉な經津主命を薦む。 時に武甕槌命、慨然として進みて曰く、「命を辱めざる者、何ぞ獨り經津主命のみならむや哉」と。 天祖、大いに喜び、二神に命じて往かしむ焉。 二神、降りて、出雲の五十田狹の小汀に到り、大己貴命に問ひて曰く、「天祖・天神、天子を降し、以て萬邦に君臨せしめむと欲す。 故に先づ使者を遣はし、歸順する者は之を撫し、抗拒する者は之を誅せむ。 汝、將た何か取らむ」と。 大己貴命、對へて曰く、「臣、謹みて命を奉ぜむ。 但し臣に、二子有り。 未だ其の意の何如を知らず」と。 乃ち之を問ふ。 亦た皆な命を奉ず。 是に於いて大己貴命、二神に就いて奏して曰く、「臣、父・子、既に命を奉ず矣。 普天の下、敢へて復た天詔を拒ぐ者有る無き也。 今よりして後、顯世の政は、天子、宜しく之を治むべし。 臣は、則ち去りて八十坰に隱れて、永く皇室を護り、以て幽冥の事を知らむ矣」と。 因つて其の平國矛を獻つて曰く、「臣、嘗て此の矛を用ゐて、治功有り。 天子、之を用ゐれば、則ち天下、必ず定まらむ矣」と。 又た岐神を薦めて曰く、「此れ臣に代りて、從ひ奉らむ者也」と。 言ひ訖りて、遂に隱る。 是に於いて二神、岐神を以て郷導と爲し、順を撫し叛を誅し、下土、悉く定まる。 乃ち天に昇りて、之を奏す。 是より先、皇太子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、皇孫天津彦彦穗瓊瓊杵尊を生む。 是に至り奏請し、皇孫を以て代り降して、中國の天子と爲す。 天祖、高皇産靈尊と議して、之を許す。 皇孫に勅して曰く、「葦原千五百秋之瑞穗國は、是れ吾が子孫、王たる可きの地也。 爾皇孫、宜しく就きて治むべし焉。 行け矣。 寶祚の隆んなる、當に天壤と窮り無かるべし矣」と。 乃ち八阪瓊曲玉[即ち櫛明玉命の作る所、五百箇御統玉也]、及び八咫鏡[即ち石凝姥命の鑄る所、日御形鏡也]・草薙劍[即ち素戔鳴尊の獻る所、天叢雲劍也]を授け、以て天璽と爲す。 勅して曰く、「吾が兒、此の寶鏡を視ること、當に猶ほ吾を視るがごとくすべし。 與に牀を同じくし、殿を共にして、以て齋鏡と爲す可し」と。 復た勅して曰く、「吾が高天原に御す所の齋庭之穗を以て、亦た當に吾が兒に御すべし矣」と。 是に於いて、天兒屋命・太玉命・天鈿女命・石凝姥命・玉屋命が五部の神に命じて、配侍せしむ焉。 特に勅して曰く、「汝、天兒屋命・太玉命は、宜しく常に殿内に侍し、防衞を爲すべし焉。 諸部の神は、宜しく其の職に供奉すること、天上の儀の如くすべし焉」と。 是に於いて乎、天忍日命・天槵津大來目命、仗を帶びて前驅し、諸神も、亦た與に陪從し、天磐座を離ち、天八重雲を開き、降下りて天八達に至る。 途に一神有り。 状貌魁岸、其の名を問へば、即ち猿田彦命也。 奏して曰く、「天孫の、將に降らむとするを聞く。 故に奉迎啓行す」と。 又た曰く、「天孫は、宜しく筑紫日向高千穗槵觸峯に到るべし。 臣は、當に伊勢五十鈴川上に至るべし」と。 其の言に從ひ、降りて筑紫に至り、都を奠め宮室を作り、永く中國の天子と爲る。 群神、職を奉じ、歴世相承け、失無き也。 皇孫天津彦彦穗瓊瓊杵尊、大山祇命の女木花開耶姫を納れ、后と爲す。 一夜にして娠むこと有り。 皇孫、信ぜず。 后、乃ち無戸室を作り、入りて其の内に居る。 誓ひて曰く、「妾、娠む所、天神の胤ならば、則ち火も害する能はざらむ。 否らざれば、則ち焚死せむ矣」と。 即ち之を火く。 火、始めて起りて、生む所、火闌降命と曰ふ。 炎、熾んにして、彦火火出見尊、及び火明命を生む。 而して后、亦た遂に害無し。 是に於いて、彦火火出見尊を立てゝ、皇太子と爲す。 之に久しうして崩ず。 筑紫日向可愛山陵に葬る。 彦火火出見尊、嘗て遊幸に因つて、海神豐玉彦の所に至り、其の女豐玉姫を納れ、后と爲す。 其の海神宮に幸するや也、異寶を獲て還る。 是を以て威徳、大いに行はる。 之を日向高屋山上陵に葬る。 四男を生む。 曰く彦五瀬命、曰く稻飯命、曰く三毛入野命、曰く神日本磐余彦尊。 磐余彦尊を立てゝ、皇太子と爲す。 之を久しうして崩ず。 日向吾平山上陵に葬る。 神日本磐余彦尊、生まれて聖徳有り。 年十五にして、立ちて太子と爲る。 長に及びて、皇后吾平津媛を納れ、高千穗宮に在り。 此の時に當りて、天孫の降臨を距つること、已に遠し。 而して時運草昧。 王化、未だ洽からず。 長髓彦の諸賊、東北に跋扈す。 是に於いて天皇、六師を帥ゐ、親ら之を征す。 數年ならず、盡く掃蕩す焉。 乃ち都を大和に奠め、位に橿原宮に位く。 在位七十餘年。 天皇、祭祀を謹しみ、有徳を擧げ、政理を察し、黎元を安んず。 其の鴻業偉烈、丕いに天祖の徳を承け、而して人皇の祖と爲る。 爾して後、聖子神孫、繼々承々、統を無窮に傳へ、以て天地と終始す。 于嗟、至れるかな矣哉。 之を畝傍山東東北陵に葬る。 追謚して神武天皇と曰ふ。 蓋し天孫降臨以來、一百七十九萬二千四百七十餘年を歴て、天皇、始めて位に即くと云ふ。 即位の後、二千五百三十三年、今上の明治六年、始めて天皇即位の年を以て、元を紀す。 跋 神宮祭主・大教正・正二位・近衞忠房 愚案、明治初年、神宮の國學者の神史なり。 固より國文學者流の編纂に非ざれば、心安かにして、素直に拜讀し得よう。 平田大壑先生の『古史成文』と共に、大いに活用す可し矣。 素讀音誦、口に甘うし畢つた有志には、神宮主典中講義・山口起業大人『神典採要通解』(明治七年一月官許・神宮教院藏版。 『合册・神典採要通解』平成二年六月・山雅房刊に所收)に進まれむことを。 神典は、天道の眞傳なり矣。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 5月13日 水 17時13分45秒• 神典は、固より神の手より出づるに非ず、人を待つて後に成る。 其の成るや也、人、一人に非ず、代、一代に非ざれば、則ち其の載せる所、互ひに異同有り。 既に異同有れば、則ち取捨する所ろ無きを得ず。 今、其の大なる者を擧げ、以て之を論ぜむ。 天地の成る、實に造化三神の力に由る。 三神有りて、後に天地有り。 天地、固より神に先だちて成るにあらず。 故に今、『記』を取りて、『紀』を取らず。 「天祖」及び「月」・「素」二尊は、父有り母有り。 陰・陽二神は、實に之を生みたまふ。 陰神、去りて、陽神、獨り之を化生したまふに非ず。 故に今、『紀』を取りて、『記』を取らず。 「諾」・「冉」二尊が黄泉の談は、本より徴信し難し。 故に今、『祝詞』を取りて、『記紀』を取らず。 「天祖」の天窟に隱れたまふは、禮典、是に由り、以て興る者、實に多くして、『拾遺』に載せる所、獨り詳かなり。 故に今、『拾遺』を取りて、『記紀』を取らず。 此の四者は、道に關係すること、少小ならず。 故に取捨せざるを得ざるなり焉。 然りと雖も神典、固より崇重せざる可からず。 故に妄りに取捨を作すを許さず。 「舍人親王」の才を以て、中古の世に在つて、天下萬姓の家牃・舊説を網羅して、猶ほ之を愼重にし、悉く異同を録し、取舍する所ろ有らず。 況んや庸常の人においてをや。 百世の後、家牃・舊説を見る能はざるの時に生れ、乃ち臆斷を以て、妄りに取捨を作すは、是れ誠に神典の崇重す可きを知らざる者也。 其の罪を爲すや也、大なり矣。 道を奉ずる者は、決して妄りに取捨を作すこと勿れ。 若し已むを得ざること有らば、則ち宜しく之を識者に質すべく、又た宜しく之を『祝詞』に折衷すべき也。 取捨の説は、業已に之を辨ぜり。 請ふ、又た誦讀の祕訣を述べむ。 四典を分ち、以て之を言へば、則ち『紀』を讀む者は、須く其の該博詳明にして、能く史體を得るを看るべし。 『記』を讀む者は、須く其の質朴、華無くして、能く古語を存するを看るべし。 『祝詞』を讀む者は、須く天上の文、既に成章の美有るを看るべし。 『拾遺』を讀む者は、須く神裔の家、猶ほ相傳の説有るを看るべし。 又た一端を掲げ、以て之を言へば、則ち産靈の義を觀て、以て神の靈魂を賦與するを知る可し。 「豐姫」の天孫に從ひて降るを觀て、以て靈魂の永遠不滅なるを知る可し。 天原と底國との事を觀て、以て靈魂の歸宿、實に二所有るを知る可し。 又た通義を擧げ、以て之を言へば、則ち宜しく沈潛反覆、以て其の意を玩味するべし。 宜しく其の己に切なる者を取り、以て志氣を憤悱すべし。 宜しく書を以て己の龜鑑と爲し、以て其の理に合ふを求むべし。 宜しく視て、以て眼前の事と爲して、上古の談と爲すこと勿かるべし。 宜しく尊信敬重、眷眷服膺し、其の旨を奉じ、其の道を守つて、終身、變はること勿かるべし。 夫れ四典を分ち、以て之を言へば、則ち其の要領を得たりと爲す也。 一端を掲げ、以て之を言へば、則ち其の本原を究むと爲す也。 通義を擧げ、以て之を言へば、則ち其の標準を知ると爲す也。 此の三者は、皆な誦讀の祕訣と爲す。 道を奉ずる者は、當に唯だ此の祕訣に遵ひ、以て神典を誦讀すべし。 然らずんば、烏ぞ以て道を奉ずる者と爲すに足らむや哉。 抑も神典なる者は、經にして史、史にして經、誠に最上至極、宇内無比の寶書と爲す。 人、能く之を誦讀するは、特に皇家の舊章に通ずるのみならず、亦た以て天道の眞傳に明かなる可し矣。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 1月28日 火 18時01分36秒• 即ち我が國の神道説は、中世以來、或は佛教の、或は儒教の影響を受ける事、甚大であつた。 それは影響を受けたといふよりは、むしろ佛教もしくは儒教が、時代の空氣をなし、世間の常識となつてゐたので、神道を説く者も、時代の空氣を呼吸し、世間の常識で説明するの外は無かつたとさへ云つて良いであらう。 古くは北畠親房もそれであり、後には山崎闇齋もそれである。 從つて近世國學の發展に伴ひ、その解釋の方法が改められなければならないのは當然であつて、それを從前の神道説が拒否すべき理由は無い。 同時に新しく興つた復古神道は、それまで長らく神道を擔つて來た先達、たとへば埀加神道に、感謝しつゝ、當番を交替すべきであつて、それを非難して烈しく排撃するのは間違つてゐるであらう。 しかも事實は、さうなつて居らず、埀加神道は、復古神道によつて、妄誕の説として、強く排斥せられたのであつた。 しかるに今、本書の著者は、埀加神道の中心をなす、 (一)、天壤無窮の國體の讚嘆敬仰、 (二)、皇統を永遠に守護し奉る志、 (三)、その志の堅固不退轉なるべきを強調する精神、 是等の精神は、宣長に於いても(たとへば『直毘靈』に)、また篤胤に於いても(たとへば『古道大意』や『氣吹於呂志』、また『玉だすき』に)、強く説かれてゐるのであつて、兩者に貫通があり、脈絡の存する事、つまり内實の生命に於いて傳承のある事を、重視し、強調せられたのである。 かくの如く大いなる流れ二つを公平に見渡すと共に、その二つの流れを一つにまとめる力は、著者の着眼が一部局に偏するを許さゞる博大なる精神と、更に云へば 事實の究明の終極の目的を、道の闡明に置く求道者の心、それから得られたものであらう。 是れは本書の重大なる特色であり、私共の珍重して止まない所以である」と。 高天原の説。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年12月20日 金 17時39分39秒• 中士は、道を聞きて存するが若く亡するが若し。 下士は、道を聞きて大いに之を笑ふ。 笑はずんば、以て道と爲るに足らず」と。 予は俗士の爲めに笑はるゝことを樂しむ。 「高天の説」を作る] 高天原と云ふ事は、大日本帝國の元氣也。 高天原なきときは、是れ大日本帝國なき也。 問者の曰く、「高天原は、神官社會の言のみ耳、教職者流の談のみ耳。 子、何ぞ惑へるの甚だしきや也」と。 曰く、惡(あゝ)、是れ何の言ぞや。 滔々たる滿天下に、只だ汝が流の人のみ有つて、以て我が神州を覆滅せんとす。 汝が言をして擴充せしめば、神州の覆滅すること、遠きにあらじ。 豈に必ずしも外寇に由らん哉。 物は必ず先づ朽ちて、後に蟲、之に生ず。 國は必ず先づ毀(やぶ)つて、後に人、之を毀る。 汝が言の如きは、是れ國家の蠧蟲と謂はんのみ耳。 夫れ水には源あり、木には本あり。 我が天皇陛下の御系統は、高天原に起り、而して神州の國基も、亦た高天原に剏(はじ)まれり。 豈に高天原を執つて、之を蒼々漠々の烏有に付すべけんや。 然るに是れをしも措いて學ばざるは、俗學也。 笑つて之を嘲毀するは、俗論也。 見て之を度外視するは、俗眼也。 聞きて察せず之に雷同するは、俗耳也。 予は俗學・俗論の士の、俗眼・俗耳を以て、我が神州帝王の神系統を汚衊するを慨す。 以て辨ぜざる可からざる也。 憤りを發して食を忘れ、信じて古へを好むは、學者の事なり。 而るに今の學者は、温飽の爲めに學に志し、其の古へに於るや、信ぜず好まず。 語に曰く、「國の大事は、祀(まつり)と戎(いくさ)とに在り」と。 又た曰く、「郊社の禮禘嘗の義を明かにして國を治めば、其れ諸れを掌に示(み)るが如きか乎」と云へり。 其の天を敬し祖を祀るの義、詩・書・易・禮・春秋等に昭々たり。 然るに神州に生れて、支那の古書を鴰舌(さへづ)り、嘗て我が天皇陛下の御本源たる高天原の事をば、之を不問不學に附す。 是れ猶ほ稚兒の、隣家の老父あることを知つて、我が家の父母あることを知らざるが如し。 是れ俗學に非ずして、何ぞや。 中古以來、王綱解紐、いはゆる神道者流起る。 降つて徳川氏の代に及びて、其の弊、愈々甚だしく、祠官の徒、高天原を唱ふるを以て事とす。 衆人俗士、其の聲を習聞して、嘲笑の話柄とせり。 維新以降、神官、徒らに其の面を革めて、其の弊を革めず。 平田翁の所謂る乞食神道の醜態を免れざる者ありと聞けり。 果して然らば似道、汝を侮るに、亦た宜(む)べならずや乎。 然りと雖も之を以て高天原を擯斥するは、譬へば路頭の芝居小屋に、天照皇太神宮の札あるを見て、伊勢の神明を拜することを羞づるが如し。 是れ俗論に非ずして、何ぞや。 維新以前、朝廷式微の際、山城天皇と稱する者之れあり、共主と唱ふる者之れあり、幕府を指して王と呼ぶ者之れあり。 嗚呼、蒲生君平・高山彦九郎等に非ざるよりは、誰か朝廷を度外視せざる者あらん。 今の高天原を言ふことを愧づる者、其の勢、殆んど是れに殊ならず。 是れ俗眼に非ずして、何ぞや。 方今、天下の人、囂々然として、口を開けば上帝と呼び、舌を皷(なら)せば耶和華(エホバ)と唱ふ。 其の言、不經、其の説、怪誕。 然れども恬として之を怪しまず。 かくて苟くも一言の高天原に及ぶことあれば、驚擾、啻だならず。 其の之を嘲ること、馬群に鈞天の樂を奏するが如し。 是れ俗耳に非ずして、何ぞや。 嗚呼、天下の曠(ひろ)き、人衆の夥き、人の俗學ならざるは無く、人の俗論ならざるは無し。 世に珠玉は少(ま)れにして、瓦石は多し。 其の俗眼・俗耳なるも、亦た何ぞ異(あや)しむに足らん。 抑も亦た孔丘、言へることあり。 曰く、「君に事ふるに禮を盡くせば、人、以て諂へりと爲す也」と。 今や、邪説流行の秋に當つて、心ある者は、宜しく君に事ふるの禮を盡くすべし。 何ぞ人言を恤るに遑あらん。 故に予、今、斷然、徴を引きて、俗學・俗論の士の俗眼・俗耳を警醒せざることを得ざるなり。 謹みて按ずるに、『古事記』には、開卷第一に、「天地の初發めの時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神云々」とあり。 『日本紀』一書にも、「高天原に生(な)りませる神の名を、天御中主神と曰ふ云々」とあり。 『古語拾遺』には、「天地剖判の初め、天中所生の神の名を、天御中主神と曰ふ」とありて、三書湊合すれば、高天原、即ち天中にて、天中、即ち高天原なること疑ひなし。 然らば則ち我が天皇陛下の御系統は、天之御中主神より出でさせられて、高天原の本源たること、是れ亦た疑ひ無き物ぞ[『唐書』・『宋史』などに、我が神州のことを記載して、「初主を天御中主と號す」と出でたるは、支那にも正しく聞き傳へて書きたりしことゝ見えたり。 孔丘、言へることあり。 曰く、「天子、官を失へば、學、四夷に在り。 猶ほ信なり」とは、此の事なるべし]。 右の如く論じ來たらば、人、必ず言はん。 「是れ通常の話柄のみ」と。 然らば則ち猶ほ徴を引かざることを得ず。 看よ、々ゝ。 『續日本紀』一之卷・文武天皇御即位の條なる宣命に、「高天原に事始めて、遠ほ天皇祖(すめろき)の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐さむ彌や繼々に、大八島國知らさむ次てと、天都神の御子隨らも云々」とあり、又た九之卷・聖武天皇御即位の條なる宣命に、「高天原に事はじめて、四方の食す國、天の下の政を彌や高に彌や廣に、天つ日嗣と高御座に坐して、大八島國知ろしめす云々」とあり。 又た十七之卷の宣命には、「高天原より、天降り坐す天皇が御世を始めて、中今に至るまでに云々」とも見えたり。 右の外にも、高天原に事始めし趣き、餘多(あまた)見え、『延喜式』なる祝詞にも、數々見えたれども、擧ぐるに遑あらず。 此れに由りて之を觀れば、 高天原と云ふ事は、皇祖天神の坐します神の朝廷(みかど)にして、巫祝輩の得て私しすべき物に非ず[巫祝輩の得て私しすべき物に非ざるときは、官有物なること、固より論を待たず]。 孔丘、言へることあり。 曰く、「夏の禮は、吾れ能く之を言へども、杞、徴するに足らざる也。 殷の禮は、吾れ能く之を言へども、宋、徴するに足らざる也。 文獻、足らざるが故ゑ也。 足らば則ち吾れ能く之を徴せん矣」と。 縱令ひ世に、賢人・學者の徴すべき者なくとも、豈に古書の徴證すべき物なからんや。 右の如く文書の徴すべき物有つて、徴證することを知らず、概して之を雲霧に付せんと欲す。 豈に慨歎の至りに非ずや。 昔者(むかし)、漢の劉邦・唐の李世民等、何處の賤奴なることを知らず。 而るに漢は唐堯の後と稱し、唐は老子の後と稱して、世に誇耀せり。 況んや吾が天皇陛下の御系統は、更に々ゝ二氏の比に非ざるを、漠然抹殺し去らんと欲するは、殆んど人心ある者とも思はれず。 嗚呼、今の世に當つて、吾と此の憂ひを同じうする者は、復た誰か在る。 憂世の君子、深く慮らざる可けんや哉、深く考へざる可けんや哉。 神界の幽事。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年12月 7日 土 22時30分56秒• 幽界は、此の世界に在る人の耳目に觸れぬ處をいふ。 例へば狐狸などの人に憑らんとするに、眼前に來居ても見えず、また鼬(いたち)・蝦蟇などの、人に追ひ迫られて身を隱せるも、隱せる處は眼前に在れども見えず、然る處をうちまかせて神界といふ。 犬の、時として人の耳目には觸るゝ物も無き空所に向ひて、右走左奔して吠ふる事あるは、犬には、何か神界の怪物の見えたるなり。 神界には、神境あり、仙境あり、龍宮あり。 先輩の説には、方丈・瀛洲・蓬莱の三神山も、神界に在りて人界に在らねば、神仙にあらざれば、到る事能はず。 彼の秦の徐福の如きも、不死の藥を求めて本邦に來たりしと雖も、五百の童男童女と倶に、みな仙化し去りたるなりといへり。 其れかあらぬか、甲斐國に傳へたる徐福の説には、徐福は三羽の鶴と化(な)りて、富士山を翺翔して、其の一羽は死亡せりといへり。 また先輩の説には、龍宮・仙境なども、海陸の間、處として無きは無し。 春の日などに、蜃氣楼とて、空中に現はるゝ楼閣・人馬は、龍宮・仙境の影なり。 俗説には、近傍の城郭・人馬の映れるなりといへれど、近傍に決して無き物も映り、殊に山中樹木の間に見ゆるもあれば、影の遠方より映り來たるやうはあらず[『吾妻鑑』に、建長三年三月十四日の條に、「去る頃、信濃國諏訪社頭に、島竝びに唐船等出現。 片時の間、消失す」と]。 松浦靜山公の『甲子夜話』には、空中に葬禮の状(さま)を現出せしをいへり。 其は文化年中の事にて、陸奧國會津にて、空中を二箇の柩を舁(かつ)ぎて、扈從の人も數多にて行くを見て、諸人、驚きて仰ぎ視たりといへり。 是れ決して他の影の映りたるにはあらざるべし。 また湖海池水の底などにも、時として屋宇(いへ)の見ゆる事あるは、同書に、箱根の山頂に在る湖水は、大旱の時は水の減る事ありて、其の時、水底に屋の脊見ゆるを、土人は龍宮城の屋根といふ。 此の屋根見ゆる時は、必ず雨降るとぞ。 また日光山中禪寺の湖中にて、天氣晴朗の日には、堂宇の如きを水底に見る事あり。 是れ中禪寺の堂宇の映れるにはあらぬは、下の屋根を上から見たる状なればなりといへり。 また水底に見ゆる楼閣は、一時の事なれども、水底ならぬ山上などにも、宮殿、忽然として現出して、久しく人目に映りしもあり。 『日本後紀』に載せたる、淳和天皇の天長九年五月には、伊豆國賀茂郡に、伊古奈比咩神の神宮二院を現出し、仁明天皇の承和七年九月には、伊豆國の上津島に、阿波神の神宮四院を現出し、清和天皇の貞觀七年十二月には、駿河國淺間明神の神宮を現出せしなどは、宮殿の形の微妙、名づけ難しとも、眩曜の状(さま)記す可からずとも、彩色の美麗なる、擧げて言ふ可からずといへるは、當時、國司の其の状を見て奏聞せしを、國史にも記されたるなれば、年久しく在りけんを、今は神界に收められしもの、全く見えずなりき。 また『慶長見聞集』に、後村上天皇の正平十七年二月、近江の湖水の干(ひ)る事、十丈許りなりしに、白鬚明神の前なる沖に、周圍十尋(ひろ)許りなる瑠璃の柱、立ち竝び、五町許りの反(そり)橋、水上に浮かび、水底澄みわたりて、竹生島より續きて、一連に龍宮ありて、七寶の莊嚴、明らかに現はれ、龍神の往來も、鏡を取りて見るが如くなりしかば、諸人、みな見物せりといひ、また『後太平記』に、嘉吉元年二月、三浦介元久といふ武人、長門國渡川といふ地にて鷹狩りせしに、鷹反れて渡川の雄淵に飛び入りしかば、元久も尋(つゞ)きて飛び入りしに、其の水、兩方に裂(さ)けて、忽ち水底に一世界を現出し、金殿楼閣、軒を竝べたりといへり。 此れは水底なれども、山上にも地下にもあり。 山上なるは、『信濃淺間嶽記』に、弘安四年六月九日の暮れ方より、西方に黄なる雲現はれ、人物草木、みな金色の光を映ぜり。 諸人、山上を仰ぎ見れば、石とも木ともわからず、光り輝ける楼閣・門戸など見えけるが、其の夜、亥刻より燒け出して、追分・小諸より南方四里餘の間、砂灰降り、火石、今に在りといひ、また同記に、山上の戌亥の方に、林の深く茂れる處ありて、土人は魔所といふ。 此の處にては、時としては美しき宮殿の霞に映りて見ゆる事あり。 また雞(にはとり)の聲を聞き、琴笛の音を聞く事もあり。 また時としては、其の地の神人を見る事ありて、身の長(たけ)は一丈許りにて、太刀を佩き黒髮を長く埀れたりといへり。 また地下なるは、『狗張子』に、太田道灌、江戸城を築きしに、水の乏しかりしかば、舟木甚七といふ者に命じて、掘り拔きの井戸を造らんとて、金掘りを雇ひて地下を掘らせしに、半町四方、百丈許りも掘りしかども、水無かりしに、金掘りは困じ果てゝ、地下に坐して休み居て聞けば、地中に犬の吠ゆる聲、雞の鳴く聲、幽かに聞こえければ、訝りながら、また四五尺許り掘り續けて在りしに、傍らに石門あれば、入りて見るに、暗くして何も見えわからねば、猶ほ道を求めて一町許り行きたるに、俄かに明らかになりて、上を見あぐれば、青天に白日かゞやき、下を見おろせば、大山の峯に續きたり。 峯に上りて四方を眺望すれば、別天地、別世界の如くなれば、山に續きて谷に下り峯に上り、一里許りも行きて見れば、山間には宮殿楼閣あり。 大木ども茂りあひたるが、木の状は竹の如く、色は青くして節あり。 葉は芭蕉に似て紫の花あり。 大きさ、車輪の如し。 また鳥も飛び蝶も飛べるが、常のと異にて、草木、いづれも見馴れぬものなり。 辛うじて山を下りて一町許り行きたるに、楼門あり。 番の者二人居て、金掘りを見て驚きたる面もちにて、其の來たる故を咎めしかば、有りの儘を答へたるに、門内よりまた人出て來て、諸方を見めべらしめて、後ち還したるが、其の間、百年をも經たりけん。 還りて聞けば、今は弘治二年なりと告げたるに、驚きたりといへり。 六人部是香は『坤輿圖識』を引きて、西洋にも神界の在るを證せり。 其の要をいへば、ギブス山といふ山には、陷空の處ありて、時としては四壁、みな寶石にして、水液點滴して、其の聲、絲竹の音の如く、殆んど仙境に到るかと疑はしむといひ、またバサル山といふ山には、天然の大都府政廳の形を現出する事ありといへり。 神界には、年季・年齡の事なきは、前にいへる三浦介元久の、長門國渡川の水底なる仙境に入りしは、嘉吉元年なりしに、仙境の宮殿の七寶を鏤めたる御座には、安徳天皇のおはせしを見奉りしに、猶ほ八歳ばかりなるに見えさせ給ひたりといふ。 安徳天皇の御入水の歳は、文治元年にして、嘉吉元年までには、二百五十餘年を經たりしなり。 近く明治三年、上野國前橋にて、長壁明神の御事を記したる書中に、十四五歳の童子にて、寅吉といふが來たりと記せるが、此の仙童は、文化九年、七歳にて仙境に入りし人にて、平田先生の許に來たりし時は、十四五歳ばかりなりきといへば、明治三年には、六十四五歳にもなりてあるべきに、猶ほ十四五歳なりと記し、また寅吉の同僚なる左司馬といふは、元祿十三年三月三日より、仙境の人となりたるに、其の時、二十歳ばかりなりしが、文政三年頃にも、猶ほ二十歳許りに見ゆといへり。 元祿より文政までは、百二十年許りを經たり。 然れば神界にては、神界の人と爲りし時の年齡に定まりて、其の後は、幾年經ても變らぬものなるべし。 神界は、大國主神の主宰り給ふ處なれども、大國主神は、至貴至尊の大神にておはしませば、唯だ萬機を聞食すのみにて、國郡村里には、其の地の大地主神、即ち産土神おはしまして、産子の事は掌り給ふなり。 産子(うぶすな)神の外にも、種々の事を執らせ給ふ神たちおはすべし。 聖徳太子は、世には佛法のみに偏任せられし状にいへれど、『志斐賀多理』に、六人部是香の説なりといへるには、聖徳太子の斑鳩宮を造り給ひし時には、明日香の神南備社の産土神を、宮に近き龍田の神南備山に迎へて齋ひ奉れりといへるを見れば、世にいふばかり、佛にのみ仕へ給ひしにはあらざりけん。 産土神は、顯界の人の、顯界の事畢りて幽界に歸入するも、幽界より出でて顯界に生るゝも、みな其の事に預り給へば、顯界の人の親しみ仕へ奉るべきは、産土神なり。 次の一部は、矢野玄道翁の書中に見えたれば、近世の事なるべし。 飾屋米藏といふ者、遠江國秋葉山の異人に伴なはれて、陸奧國の或る山に在りし時、光り物照り輝きて、象頭山の神おはしたりしが、何事か童子の事を告げ給ひし故に、米藏は異人に其の事を問ひたれば、異人のいふには、人の生涯のことは固より死後の事までも、産土神の御惠みを蒙むらざる事無ければ、人は一日も其の御恩を忘る可からずと教へたりといふ。 産土神に續きては、家々の祖神、即ち氏神は、其の氏人を守らせ給ふ事、産土神の産子を惠み給ふが如くなれば、現在の親に事ふるが如くにてあるべきなり。 『雲根志』といへる一話には、加賀國に、一村、飢饉の年ありしに、村民歎き憂へて、氏神の社に集ひて救助を祈りし程に、一天、俄かに搔き曇りて、白色の石の如き物を降らせたれば、諸人、拾ひて食らひ試みたりしに、其の味甘くして、米に代へて命を續(つな)ぐ事を得たりしが、其の後は、今も時々其の物の降る事あるに、此の物は白臘の如くにて柔らかなりといへり。 氏神は氏人を守れる事は、亂世にも知られたるが、『安西軍策』に、大友氏の支族戸次入道道雪は、毛利氏と筑前にて戰ひし程に、敗軍せば、大友氏の瑕瑾なりとて、氏神を陣中に勸請して、打ち立ちて勝利を得たることありき。 總べて神は、産土神・氏神のみにもあらず、親しく近傍に候ふ者は、みな惠ませ給ふ事と見えて、『日吉山利生記』に、眞源法橋といふ僧の夢に、既(はや)く亡(う)せたる嚴算阿闍梨といふが、見て語りしには、自身は修學に力を盡したれど、名利貪着の心ありて、既に惡道にも落ちんとせしを、吾が權現に、方便をもて救はせ給ひて、當社の邊(ほとり)に召し置かれて扶持し給へり。 權現は、社檀へ歩みを運ぶ輩は、禽獸に至る迄も遺し給はず、況んや社司・寺官の輩は、みな此の奧の山八王子谷の邊に召し置かれて、晝夜加護せさせ給へりとて、眞源を率て加護を蒙むりて居る者などをも見せたりといへり。 神界には、産土神・氏神の外にも、人世に一日も無かる可からざる水火風土、飲食禁厭醫藥の神たちもおはしませば、能く信念を凝らして、平安無事を祈り奉るべき事なりかし。 總べて神と申せば、一樣の如くなれども、神には其の所生に依りて、善事を好ませ給ふもあり、また然らぬもありて、善神の善事に福(さひは)ひせさせ給ふ如く、惡神は禍害に遭はする事あれども、其の惡神も、時として御心和めば、亦た善事に導かせ給ふ事もあり。 また惡神の爲させ給ふ禍害をも、直日神と申すがおはして、直し給ふ事もあり。 神の御上の事は、爾か奇すしく妙なる者なれば、言葉をもては説く可からざる事なれど、然りとて、説かでもあらねば、説き得べき程を説くべきなり。 神には一柱にても、種々の御名あり。 暴(あら)く猛くおはします時の御名は 荒魂と申し、和み柔らび給ふ時の御名は 和魂と申し、奇すしく妙なる時の御名は 奇魂と申し、幸はひ惠み給ふ時の御名は 幸魂と申し、此く御魂の別るゝを 別魂と申せり。 また神は一柱におはしましても、此の別魂は百千萬にも別るゝ故に、一柱の神を、甲乙丙丁と幾所に祀りても、其の靈徳神驗の異ならぬは、一所の火を數所に分けても、本來の火を減ずる事無くして、火の効の同じきが如し。 此の別魂は、神の別れて、また神と化(な)り給ふのみにはあらず、人にも化り給ふ事あるか、長壁明神の御事を記したる書中に、現在の人を指して、吾が分身なりといひし事あり[下にいへる、一人の人の、人と蟲とになりて生れたるをも考ふべし]。 然れば神人には、其の事の多き時には、自ら其の口下の髭を拔きて、前後左右に居きて、吾と同じ神人を現はれしむといへり[此の事、『仙境異聞』に見えたり]。 顯界の人は、もと神界の神の、一時、人と爲りて出でたるなれば、歸り來たりては、また本の神と爲りて神界に居る事なるが、其の居る地は、其の神の功績に依り、分限に依りて、一樣ならざる可きが、多くは墳墓の在る處にて、墳墓は顯界の人の設けたる者なれば、唯だ些かなる所なれども、既に居住の地と定めたる上は、其の神靈の心の儘にて、廣くも大きくもなる事なれば、顯界の人の見るが如き事にはあらぬは、前にいへる水底にも山上にも、神境の廣大にて在るを見て悟るべし。 また此の神界に歸入せる神靈は、其の儘ま神界に在りて、神界の事に使はるゝもあるべく、更に顯界に出でしめらるゝなどもあるべし。 『聞見雜録』に、上總國望陀郡戸澤村の農に作兵衞といふが子に何某といふは、五歳の時、父母に語りたるは、自身は、前身は相模國矢部村の六右衞門といふが子なりしに、七歳の時、馬に踏まれて死にたるが、今度は此の家に生れたるなりといひしかど、小兒の言にて、何を言ふかと聞き流して在りしに、其の後ち相模國より出でたりといふ廻國者を宿したれば、何となき物語りの便りに、小兒の事を語りしに、此の廻國者は、矢部村の近所の者にて、六右衞門をも知り、また其の子の、馬より落ちて怪我せし事も聞きたりと語りたりといへば、五歳の小兒の言にはあれど、疑ひなく再生せしなるべし。 また『再生記聞』に、文化十二年十月十日、武藏國多摩郡中野村の農・源藏といふが子に勝五郎といふが生れしに、勝五郎、八歳の時、姉兄などに語りていふには、自身は、前身は同郡程窪村の農にて、久兵衞といふ人の子なりき。 名は源藏と呼ばれしに、六歳の時、疱瘡を煩ひて死にたりしかば、此の度びは此の家に生れたりと語りし程、父母も聞きて、いたく怪しみ、後には人にも語りて、竟ひには官邊にも訴へ出でしに、程窪村を尋ねたれば、久兵衞の家もあり、總べて勝五郎の言の如くなりし間、世上にも聞こえて、珍しき事と言ひはやして、諸人には其の顛末を知らんとて、種々にこしらへて、其の物語りを聞きたるに、四歳許りの頃までは、能く覺えて在りしを、今は全く忘れたり。 然れども今も覺えたるは疱瘡にて、息の絶えたる時は、何の苦も無くて、死骸を桶に納れらるゝ時は、旁らに見て居たり。 葬りての後は、家に歸りて机上に居たれど、人も見ず、聲をかけても聞きつけざりしに、白髮の老人、出で來たりて、此方へと誘へば、老人に隨ひて、小高き芝生に往きて遊び居たるが、花なども咲きて美しき地なりき。 此く遊びて在りし間に、或る時、老人と此の家の向ひの路を通る時、老人の言ふには、汝は彼方なる家に生れよと言はれしかば、老人に別れて庭の柿の木の下に三日ばかりたゝずみて、其の後ち窗の穴より家内に入り、竈の側にて三日ばかり居たるに、母なる人の、何方にか往かんとて、父と語り居たるを聞きたるが、やがて母の胎内に入りたりと思はるれど、其のことは能く覺えず。 されど胎内にては、母の苦しからんと思はるゝ時は、片側に寄りて居たりと語れりとぞ。 源藏の亡せて勝五郎と生れたる迄には、其の間、六年を經たれど、勝五郎は、死後幾日も經ずして生れたるやうに思ひて語りしなり。 再生には、稀には一人にて、人と蟲とに生れたるもあり。 『因果物語』に、寛永年中の事なりとか、近江國高野の永源寺の末寺の僧に、片目にて疵(あざ)ある者ありて、字を疵坊主と呼ばれて在りしに、死後に生れたる孫女は、片目にて疵も在りしに、習はぬ經をも讀みて、音聲も疵坊主の如くなりしが、女は何に感じけん、自身は祖父の再生なりといひたりしとぞ。 然るに其の頃、家の邊を離れぬ蛇ありて、此れも片目なりしが、女の母は、此の蛇も疵坊主なりと、人にも語りたりといふ。 再生の事は、和漢古今、其の例も多き事なれど、學者などは信ずる者稀れなるは、人智を以て其の理の知られぬが故なり。 されど聖人と崇むる孔子の靈は、宗代に王子の夢に入りて、曾參を汝の子に生れしむべしとて、王曾といふ子を生ましめたりといひ、蜀漢の關羽の靈は、宗代に高宗の夢に入りて、張飛を岳家の子に生れしむと告げたるに、果して岳飛を生ましめたりといへり。 されば曾參・張飛は、倶に死後久しく、其の神魂は、幽府に留まり居たりしならんか、幽府の神議にて、再び人間に生れしめしなり。 凡そ人に舍(やど)れる魂魄は、生兒の體と倶に、漸く生長して人と成りての後は、仙童寅吉の言の如く、其の人の念力の凝結するに依りて、亦た強大なる物ともなれど、然もあらぬは、老衰すると倶に漸次に減少して、死後は有るか無きかに成るもあり。 或は減少して小さく成れる者は、鳥獸の魂の如く散亡するもあるべく、或は蟲類などに化生し行くもあるべし。 齋藤實盛は、死後に蝗蟲と化れりといひ、播磨國の尼は、橘の蟲と化れりともいへるが、『沙石集』には、我れ優婆塞は、死後に其の妻の鼻中の蟲と化りて、妻の洟(はな)をかむにつきて出でたる物語りを載せたり。 神界には、また神人といふがありて、時としては顯界に現はれて、人の耳目にも觸るゝ事あり。 是れを世には仙人と稱すれども、仙人は、多くは現身ながらに神通を得て、神界にも出入する事を許されたる者なるが、此こに神人といふは、未だ全く人間に出でざる神をいひ、また一旦、人體は受けたれども、人體は死滅して神靈のみなるをいふなり。 然るは清和天皇の貞觀十七年十一月五日には、富士山の麓にて、淺間大神の祭禮を行ひしに、正午の頃に至り、天氣清朗と晴れわたりたるに、吏民ども、不圖、山上を仰ぎ觀たれば、白衣の美女二人、山の巓の上を一尺許りはなれて、舞を舞ひてありきといひ、また或る人、淺間嶽の麓にて、一人の異人を見たる者ありて、其の言には、身長一丈許りにて太刀を帶びたるが、黒髮を長く埀れてありきといへり。 また天明年中、輕井澤驛の山犬權十とて名を得たる荒男、鶉網を張りて居たるに、右の如き異人、小屋の前にて、權十と呼ぶまゝに出て見れば、草鞋の紐を結べといふに、言ふ儘に結び居たる間、異人は片手を權十の頭上に突きて在りしに、其の痛み堪へ難かりしを、忍びて結び終りて見れば、三本の指の痕、頭上に深く凹み入りて、生涯、直らざりきといふ。 此は、權十の驕慢なるを懲したるなるべし。 因みにいふ、此の神人は、身長の一丈許りといふは、今人より思へば、餘りに長大なるが如くなれど、神人にしては珍しからず。 總べて上代の人は、人身、極めて長大にて、日本武尊も、御身長一丈と申し、また御叔母倭姫命の小袖を借り着し給ひきといへば、叔母君の御長も、同じ程なりしなるべし。 また日本武尊の第二の皇子・仲哀天皇も、御身長一丈と申しゝなり。 然れば東山天皇の元祿十五年四月二十四日、阿波國勝浦郡大原浦にて掘り出したる石棺中の髑髏は、頭の廻り三尺七寸ありきといひ、また靈元天皇の延寶三年、鎌倉深澤の洪水の時、現はれたる髑髏は、徑(わた)り三尺許りなりきといひ、また中御門天皇の享保年中、陸奧國半田村の古塚より出でたる髑髏の、徑り三尺四寸ありといひ、また櫻町天皇の元文年中、飛彈國大原郡内の山といふ地より出でたる石棺中の髑髏は、四斗樽の如くなりきといへば、上代の人は長大なりしに、後世になりて、漸く短小になりたるは、人口増殖して地域の分量よりも、人の數の多くなりし故にはあらぬか。 人口の稀薄なる國の人は、人も猶ほ多少、軀幹の長大なるもある事なり。 また文化十三年八月、烏帽子・直埀の老翁、白馬に乘りて永代橋の上流を泳がせ來たりて、橋下を出づると倶に、空中を南方に馳せ上りたるなど思ふべし。 仙人は、現身ながら神通を得て、神界にも出入する者なるが、陽勝仙人・久米仙人などは、能く空中をも飛行したれど、浦島の子・若狹の八百比丘尼などは、長壽を得たるのみにて、神通の事は聞こえず。 また源義經の郎黨なる常陸坊海尊は、陸奧の阿武隈川の邊にて、神人より賜はりたる仙藥を飲みしに、長生して今も猶ほ殘月とも殘夢とも稱して存在せりといふ。 また京の白河の山中に住みたる白幽先生も、安房國の岩田刀自も、長生しては在りしが、神通の事は聞こえず。 霧島山の雲居官藏は、長生の外にも、些かなる神通を得たるが如し。 また鎌倉公方の頃なりれん、東海道の興津驛に、由比源藏といふ者ありて、仙術を學び得て在りし間、三人の昔の友を誘ひて、足柄山の仙境にして、山海の珍味をもて饗應し、三人の友の親しくする街道の遊君十人ばかりをも呼びて宴席に侍らしめて、酌をも執らせ歌舞をも爲させて、一夜遊興して慰めたりしに、宴はて夜あけて、三人の友は別れを告げて、其の家を出でたるに、半町許り離れて後の方を顧みれば、霧ふたがり雲とぢて、今まで在りし楼閣も見えずなりて、一面の山中なりしかば、大きに驚きて、さては遊君どもは奈何なりしか、何方を通りて歸りしか。 歸るさに遊君の家を訪ひたれば、遊君どもは、みな家に居て、昨夜の事は夢とも現とも無くて覺えて在りと語るを聞きて、益々驚きたりといふ。 此の仙人は、神通力をもて、遊君どもの游魄を招きて宴席に侍らせしなるべし。 抑も神界には、神界の掟ありて、濫りに顯界の人に接し、或は人を誘惑するなどは爲すべきにはあらねど、(妖魅は)神の監視を潛りて、あらぬ所爲をする事あり。 神界の掟といふは、例へば國郡には國郡神、町村には町村の神おはして、國郡の神は國魂神と申し、町村の神は地主神とも産土神とも申せり。 國郡の國魂神は、町村の地主神・産土神及び諸家の氏神たちと倶に、其の地の人を鑑視して、神界の大主宰とまうす大國主尊に仕へ給ふなるべし。 毎年十月には、天下の諸神、出雲に參り給ふ趣(さま)に、古くより言ひ來たれるは、先輩の説の如く、諸神、其の主管せる地の年中の事を申告し奉るにはあらぬか。 神には、種々の事を掌り給ふ神おはします。 例へば火神は火を掌り給ひて、人に其の用を爲さしめ給ひ、水神は水を掌り給ひて、人に其の用を爲さしめ給ひ、年神は耕作を守らせ給ひ、保食神は衣食の事を守らせ給ひ、また大己貴・少彦名神は醫藥禁厭の事を教へて、人を惠ませ給ふが如くにて、みな人の爲めに議らせ給ふ事なるが、其の神たちには、隨從の神もおはす事とて、幾柱ともなくおはせば、自ら高下尊卑の品もありて、其の往來し給ふ空中の道も、幾條もありと覺しくて、神人に伴なはれて空中を行きし寅吉なども、其の行く道よりも遙かなる上空に、幣帛の如くにて金色の光ある物の閃くを見て、路傍に跪きて拜みたるが、此は貴き神の御幸なりきといふ。 また寅吉の言に、其の行く道より下空に、頭巾やうの物を頭に載せたる人の鶴に駕(の)りたるが、歌をうたひて過ぎたるを見たりともいへり。 神たちは神界におはしまして、何事を爲させ給ふかといふ事は、凡夫にして窺ひ知るべきにはあらねど、天孫の降臨に依りて、顯界を置かせ給ひしより、顯界を守らせ給ふべきは、幽契おはして、萬事につきて人を惠み守らせ給ふなるべし。 然るに神界に在る妖魅どもは、神の御目を偸みて、自己の欲望を逞しくせん爲めに、種々の障碍を爲す事あるをもつて、神は、また妖魅の爲めにも御心を勞はらせ給ふ事ありげなり。 然るにまた 妖魅どもは、神の穢れを惡ませ給ふを知り、また神は穢れの在る處は避け給ふをも知りて、穢れをもて神を遠ざけ奉らんとして、人を誑かして穢れに觸れしむる事あり。 然れば心あらん人は、心身ともに穢れさせじと用意すべきなり。 大凡そ世間の惡事災難は、悉く穢れより來たる。 穢れあれば神の守護なきからに、其の虚に乘じて、妖魅どもの跋扈跳梁する故なり。 妖魅は、神界に居て顯界の人に禍ひする故に、神は、顯界を兼ねて御心を勞づかせ給ふなり。 然るに神は、また妖魅の外にも、顯界より歸り來たる人の靈どもをも、或は賞し、或は罰し給ふ事もあるべく、或は神界に留め、或は更に顯界に出でしむるなどもあるべし。 上にもいへる如く、人の魂は、善にも惡にも凝り固むれば、堅まりて滅(き)ゆる事なけれども、凝る程の事も無きは、衆くの魂、相混じて、人にも物にも生れ、或はちひさくなりて、漸く減りて行くもあり。 鳥獸などは種々の物に生れ替り、或は終ひには消失するなり。 かゝる事は、みな其の方の神おはして爲させ給ふ事なれば、神は、人の唯だ汲々として衣食の事にのみ勞づくが如くにはあらで、多事多忙におはする事は察し奉るべき事なり。 凡そ人世に起る善惡、種々の事は、みな神たちの御心より來たるなれば、人は能く神の御上を思ひ奉りて、其の御惠みを蒙むらん事を願ふべきなり。 神の奇びなる御事は、全く人智をもて窺ひ知るべきにはあらず。 人智は事物に就いてのみ知る事なれば、事物を離れたる上に就ては、人智は用ひらるべきにはあらず。 例へば神魂の人身中に在るは知らざる者なけれど、影も捉ふる事能はざれば、全く知る事能はざるが如し。 猶ほいへば神は、人の未だ言(ことば)には出さゞるをも、其の念の胸中に生ずる時は、直ちに知食せども、人は言を聞かざれば、知る事能はず。 神は年の豐凶、事の吉凶をも未然に知食せども、人は其の事に會はざれば、知る事能はざるが如し。 然れば矢野翁も言はれたるが如く、深源法印は僧なれども、其の詠める歌の意は、今、此こにいふ事適へり。 其の歌は『新拾遺集』に載せられて、人も知れる歌なり。 幸魂奇魂守給幸給。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年11月17日 日 23時55分10秒• 神代に大國主大神、少彦名命と共に、此の國を經營(つく)り給ひし時に、少彦名命は、中途にして海外の國に渡り給ひしかば、大國主大神、甚(いた)く憂ひまして、「自今以後(いまよりのち)、孰れの神と共に、此の國を相造らん」と詔り給へる折しも、海上(うなばら)を照らして寄り來座せる神あり。 是れ即ち「大神の幸魂・奇魂の神なり。 吾を齋(いつ)きまつらば、共與(ともゞゝ)に國土經營(くにつくり)成さん」と、告げ給ふまにゝゝ、重く祭らせ給ひて、其の事業をなし整ひ給ひ、終(つひ)に大國主大神となり、又た幽冥の大主宰(つかさ)と座して、八百萬神を率ゐて、所謂る總産土神とたゝせ給ひて、國土・人民(くにひと)を愛護し給ふ事となれり。 これ、大神の天凛無比(もとよりたぐひなき)の靈徳(みたまのふゆ)に因るといへども、幸魂・奇魂の贊成(たすけ)し給へる功績(みいさを)も、亦た大いなり。 然れば百般(もろゝゝ)の事業を創(はじ)め成さんには、まづ此の神績を熟(よ)く知りて、幸魂・奇魂の神護を蒙らん事を肝要(むね)とすべし。 たゞに事業を作(な)さん時のみならず、行住座臥(ねてもさめても)に忘れず、神助を仰ぐべきなり。 抑々此の神語は、天照大御神の勅(みことのり)にて、吾が家の祖神(おやかみ)天穗日命を、出雲の大社の祭主と定め給ひければ、大神の傳へ給ひし靈驗無比(たぐひなきしるしある)の神語にして、世にかゝる尊き神縁ある事を知る者なければ、方今(いま)、神教を實際に施し、普く同心の人に知らしめて、靈徳を蒙らしめむとするなり。 然れば有信(まことある)の人々は、此の大神の大造(おほいなる)の功業(いさを)を立て、大國主の神たる榮位(くらゐ)を保ち給ひ、幽冥の大主宰となりて、國土・人民を愛護(いつくしみまもる)し給ひ、威徳(みいつくしみ)を具へ給ふも、皆、この幸魂・奇魂の贊成け給へるによる事をうかゞひ奉りて、其の神語をして、普く天下の信者に蒙らしめ給ふ、仁愛無比の神慮を戴き奉り、旦暮(あさゆふ)、精誠(まこと)を凝らして、常に唱へなば、唯だ現世の癒病攘災(やまひをゝさめわざはひをはらふ)等の靈驗のみならず、幽冥永遠の靈魂の幸福を得るも、幸魂・奇魂の幸へによる事なり。 愚案、「幸魂・奇魂、守り給ひ幸ひ給へ」の神語は、出雲大社の國造家に、神代より傳はりし「大社日氣目(ひきめ)」の教理なり。 幽冥神語には、 幽世(かくりよ)の大神、憐み給ひ惠み給へ。 幸魂・奇魂、 守り給ひ幸ひ給へ。 となり。 「十言の大御名」と共に、尊み仰ぎて、日常奉唱すべきなり。 穴賢、々々。 仰ぎ奉る可し、大國主大神。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年10月30日 水 16時03分6秒• 夫れは申すまでもなく、天孫降臨に先立つて行はれたところの幽顯分界である。 此の變革は、我が日本に於ては、天孫降臨以后の日向御三代・二千四百六十餘年を經るの間、尚ほ幽顯相通の事實ありて、所謂る神人雜居の儘に推移したが、人皇第一代神武天皇の御世に及びて、造化氣運の向ふところ、遂に神人分居の隔世期到來し、以來、仙風は地を拂ひ、人は仙骨を帶びざるに至り、人壽、また頓に短縮して、略々今日の如き人間の世と一變したのである。 幽顯分界は、素より高天原に事始め給ひし、高皇産靈神の御意圖に本づくもので、造化大元の神機に出づるところである。 此の時まで地上は、幽顯の別なく、草の垣葉も言語を發し、人、また素より靈異にして、神人同居し、地界即神界であつた。 幽顯分界とは、地上の神政を、顯幽の兩政に分ちて、其の顯事に屬する所治を、天照大御神の神孫・邇々藝命に分任せしめ給ひ、其の幽事に屬する所治を、須佐之男神の神孫・大國主神に分任せしめ給ひ、顯事と幽事に關する分治の原則を定め給うたことで、之を專ら人間の側より謂へば、人を神より分離して、一つの人界を立てゝ、之を顯界とし、神及び顯界を去りたる人靈の世界を幽界として、明かに神人分離の制を布かれたことで、造化の氣運も、亦た此の神制に伴うて變化し、玄妙靈異の氣線は、極めて低下したのである。 神武天皇の御宇に當りて、幽中の一界として、山人界が創立せられ、地上靈異の人物が、多く此の界に入つたのも、幽顯分界の一餘波と見らるべきである。 何の故に幽顯分界が行はれたかは、素より深き造化大元神の幽旨より出づることで、人智の測り得るところではなく、たゞ吾人の生棲せる地上鴻濛の世に、斯かる大變革ありしといふ事實を、古傳承によりて智識し得るに止まるが、 太陽神界の天神を降し給ひて、地界の顯事を治めしめ給ひ、地界の國神を昇遷して、幽中の神政を始めしめ給ふ、天地交流・陰陽交叉の玄理の開合を拜するとき、青人草の上に何物かを期待し給ふ、造化大元神の御意圖を窺ひ得て、深遠なる御神諭の、自づからに流光神感し來るを覺ゆるのである。 凡そ地上に生を享けて、生きとし生き、在りとしてあるものゝ限りは、期到りて身亡の後、必ず靈魂は幽中に入るのであるが、太古より幾十世紀を經過し來りて、其の數、歳月と倶に累加すること、幾千萬億兆なるを知らず、殆んど算ふるに堪へ難い天文學的數字に及ぶ、歸幽靈の出自、進退集散に關する神政こそは、幽事中の最大幽事に屬するものであらう。 蓋し幽事を統べ給ふ主權の神は、餘程、大徳靈威の大神に坐しまさゞれば、克く其の大任に堪へ給ふ可からざることは、想像に難からざるところである。 此の御大徳は、天性の御神性も然ることながら、温厚御正實なる誠徳を貫き給ひて、兩度に亙る生死の關門をさへ潛り給ひ、堪へ難く忍び難きの御耐恐を經て、大造の功績を全うし給ひし至誠貫徹の御成果の然からしむる所と、拜察し奉る次第である。 吾が神典古事記に於ても、國津神第一位の大立物として、此の大神に關する記述は、他の何れの神に關するよりも多い。 其の一事を以てしても、這間の御消息を窺ふに足るものありと信ずる。 大國主神が、幽顯分治の詔命を承け給ひて、國土を皇孫命に讓り給ひ、隷下の國津神等を率ゐ給ひて、神隱り給ひし後の御蹤跡は、杳として我が神典には傳へられてゐない。 美甘大人は、宮地嚴夫先生と深き親交ありて、其の神典講究上の見解には、確かに水位先生の神仙道の影響ありしものと、私は、故ありて夫れを信じてゐるものである」と。 以て水位派神仙道と大國主大神の御關聯深き一斑を窺ふに足るべし。 其の何れの年より、管長に就任せられたるやは、未だ確め得ざるも、本稿を執筆中、偶々右辭典中より之を發見せるを以て、筆の序でに誌しおくなり」と。 愚案、「宮地水位先生は出雲大社教管長」は、正しくは「 管長代理」ならむ。 蓋し美甘政和大人も、「出雲大社教一等輔教にして美作分院長。 東京分院在任中は 管長代理。 後考を俟つと云爾。 愚案、地球の現在、 顯界は、天照大御神の皇孫たる天皇陛下、之を治め給ひ、 幽界は、須佐之男大神の神孫たる大國主大神、之を治め給ふ。 嗚呼、尊きかな哉、敬みて仰ぎ奉る可し矣。 なほ天皇陛下には「知(し)らす」と用ひ、大國主大神には「領(うし)はく」と稱へて、其の相違差別を、殊更に唱道する向き、段々あるものゝ、例へば、 「(天之御中主大神の)「主」は、本居先哲の説に、「のうしの約言なり」とあり。 「のう」を約(つゞ)むれば、「ぬ」となる。 又「ぬ」と「う」とは、横に通ふ言詞にて、「うし」と云ふも「ぬし」と云ふも、同じ意ありて、近く通ふ言詞なり。 此の本語の意は、物の主宰たるを云ふ語にて、 古言にも「宇斯波久」と云ふ語は、其處の主として宰り居る事なりとは、先哲等、一定の説なり。 然れば天之御中主神と云ふ御名は、大宇宙の眞中に坐して、其の大宇宙間を、悉くうしはき玉ひ宰り玉ふとの意にて、全世界の大主宰と坐す事は、多言を用ひずして、此の御神名にて明かに傳はりたるものなり」(『天地組織之原理』卷一) とあれば、「うしはく」と云ふ言葉を、特に貶めて、之を低く見る説には、些か疑念を存する。 蓋し井上梧陰博士に出づ(『梧陰存稿』卷一)と雖も、漢字に引つぱられて、論を立てたるかも。 また件の南岳翁の御文は、小生の愚鈍なる、美甘政和大人の御名を識るの始めにして、南岳翁に對して、感謝に勝へざる所なり。 大人の神典解説『天地組織之原理』全五卷は、神道人の必ず讀まざる可からざるの書にして、之を廣く知らしめんと欲するものなり。 吾が神典は、天地組織の大歴史にして、天地自然の大經書なり。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年10月 9日 水 22時43分27秒• 如此ものは、他なし、顯を主とすると幽を主とするとにあるものなれ共、其の實、吾が神典なるものは、聖賢有りて後ち作爲したる經書・教書の類とは、大に異なるものにて、造化自然の神傳、顯幽兼備のものなれば、これを講ずるも、亦た人爲を離れ、本傳の明文に隨ひ、顯幽相兼ねて講ぜざるべからず。 然る時には、 吾が神典は、天地組織の大歴史にして、又た天地自然の大經書とも云ふべきものなり。 如此く古事記本傳、僅々紙數百枚未滿の書にして、此の内に天地萬物を網羅して漏らす事無きは、神傳の神傳たる所以にして、余が常に論ずるが如く、世界無二の寶典と云ふべきなり。 然るに御一新以來、專ら斯道を擴張せんが爲めに、宣教師を置かれたるも、時勢の變遷と共に、教導職と一變し、次で各教會なるもの起り、終ひに他の宗教と對峙せんと欲するが爲めに、其の教旨は、宗教と異なるも、これが擴張の方法、宗教類似の組織を成すに至り、政府も、亦たこれを認めて、他の宗教と同視し、信仰自由の部に屬せらるゝに至りたるは、斯道の爲め歎ずべき事にて、各教會なるものも、又た四分五裂の勢ひを成し、未だ教旨も一定せざるは、最も慨歎の至りと云ふべし。 故に甲乙論じて曰く、「如此なるものは、一定の教書なきに因る所なれば、各教とも則とるべき大教書、編集あらん事を望む」と云ふに至る。 其の衷情、然るべき事なれ共、 吾が神道は、人造のものに非ざれば、如何なる聖賢、世に出る事ありとも、神典を除きて、他に教書を編集すべきものに非ず。 一向、神典の明文に隨ひ、これが講究を明かにするにあり。 これを明かにするに至れば、神典は其の儘、全地球上の大歴史にして、又た天地自然の大教書たるべし。 何ぞ神典の外に、教書あるを要せんや。 又た國民一般に斯道を教示せんとするには、各教會の微々たるものあるのみなるに、是れとても未だ完全なるものに非ず。 其の組織も宗教類似のものなるが故に、政府はこれを度外に措かるゝに至る。 然るに近時に至つては、神祇官再興の建議起り、既に此の擧あらんとするも、是れ又た暫く中止となりたるものゝ如し。 如此く吾が神國にして、神道と國家との關係を薄からしむるは、時勢の然らしむる所と雖も、全く神道の各教會なるもの、宗教類似の組織なるが爲めに、他の宗教と軋轢を生ずる等の事あれば、云ふべからざる困難を引起す事あるも計りがたしとの點より、漸々神道と國家との關係を斷つに至りたるものならんとも窺はるゝ事なれば、神祇官の再興を謀り、神祇と國家との關係を厚からしめんと欲せば、必ず神官と教職を分離せざるを得ざるは、勢ひ止むべからざる事なれば、速かにこれを分離し、且つ神道の各教會も、其の組織を改め、宗教的の神道を全廢し、各教を合併して、帝室・國家と密着したる國家的の神道たらしむるを、目下の急務と存ずる事なるが、此の儀に就て御意見のある所を、一應伺ひ置きたし。 御最もの御意見なり。 余に於ても、神祇官の再興あらん事を懇願するものにて、神道をして一の宗教の如くならしむるは、甚だ遺憾とする所なれ共、片はを又た時勢の如何をも察せざるべからず。 先づ吾が國、開國以來、太古神代は暫く措き、神武天皇以後、孝徳天皇の御代に至る迄は、別に神祇官と云ふもの無く、自ら祭政一致にして行はれたるものなるを、唐制を學ぶに隨ひ、神祇官を以て太政官の上に置かるゝに至りたるは、神祇の最も重んずべきを明かにするの制にして、昔時、政體改革の美擧とも申すべき事なれ共、其の神祇官の組織なるものは、祭典儀式を宰るを專らとして、更に國民をして斯道の何物たる事を講明する活用の方法無かりしが爲めに、佛教は日一日より盛んにして、上、帝室より、下、萬民に至る迄、尊信の歸する所、神道の上に出るに至る。 如此なるものは、他なし、佛者は專ら説法を盛んにし、斯民をしてこれを吾が版圖に導くの活用を行ひ、神道は神祇官たる體あるも、單に神祭儀式にのみ止まり、更に斯道をして斯民に教ゆるの活用無かりしが故に、終ひに斯民の精神をして、擧げて佛教の版圖に歸せしむるに至りたるものと云はざるべからず。 此の時に當り、神祇官の組織にして、斯道を宣教する組織あるか、又た他に神道を講明する活用の方法あらしめば、何ぞ國民の精神をして外教の爲めに奪ひ去らるゝ事あらん。 是を以てこれを見れば、方今、神祇官の再興あらんには、單に神祭儀式にのみ止まる事無く、其の組織に於て、必ず斯道を講明し、斯民を導くの活用を行ふべき方法を設けざるべからず。 たとひ神祇官の再興ありとも、此の官に掌る所、只に祭典儀式にのみ止まり、斯民を導くの教へ無くんば、中古、神祇官の下に有りて佛教の盛んに行はれたるが如く、再び新來の外教が宣教の活用を行ふが爲めに、國民の精神を奪ひ去られ、其の尊信の向ふ所、吾に非ずして彼にあるに至り、三拜九拜、外教版圖の奴隷と成るに至らん。 然れ共も佛教は、一二の宗教を除くの外は、全く國民をして神祇を崇敬するの道を廢せしめざりしが爲めに、其の害、少しと雖も、新來の耶蘇教は、大にこれに異なるものにて、「他神、敬する勿れ」の教規を以て、終ひに 報本反始の正道たる天神地祇を崇敬するの道を全廢せしむるに至らん事、必せり。 これを以て見る時は、 吾が衆神崇敬の國體を變ぜしむるもの、獨一眞神の理説、耶蘇教より甚だしきもの無し。 一神教の理説を推せば、「舜も人なり、吾も人なり」と云ふに至り、終ひには君臣の大義をも忘るゝに至らん。 既に方今、神祇崇敬の道を明かにし、神道と國家との關係を厚からしめんが爲め、神祇官の再興を謀る人ありと雖も、其の事、行はれず。 吾が神國にして、神祇崇敬の道を明かにせんと欲する神祇官の再興を不可とするが如きものあるに至りたるは、專ら獨一眞神の推理説・一神教、人心を犯し、造化・分靈・分擔の正理原則を辨へざるが故なり。 吾が神傳に隨ひて、造化・分擔の神祇と國家との關係、相離るべからざる造化の眞理を明かにするに至れば、たとひ外邦の制度に於て、比較すべきの制無しと雖も、神世相承、萬世一系の君上を奉戴して、萬國無比なる國體を維持せんとする吾が國に於ては、又た萬國無比なる大典を擧げ、國家は神祇を崇敬し、報本反始の道を明かにすべき大義務ある正理を講じ、人造宗教を妄信するの弊を一洗し、天地自然の道をして、漸次外邦にも廣布せざるべからず。 如此く理由あるにより、御質問の儀は、余が意見にては、神祇官の設立ありて、國民に斯道を宣布する良方法あるに至りたる以上は、神官・教職を分離するも、亦た宗教組織の各教會を改良するも、合併するも、妨げ無かるべしと雖も、未だ神道をして斯民を導く活用の方法も非ざるに、先き立ちこれを廢せんとするは、神道の體を立てんが爲めに、其の活用を失ふものにて、たとへば新穀、未だ實らざるに、舊穀を廢せんとすると一般、策の得たるものに非ず。 又たとひ神祇官の設立、近きにありとするも、此の官の組織に於ては、方今の時勢を察するに、恐らくは神道を講明して、國民を斯道に導く活用の方法ある組織には行はれがたかるべし。 單に神祭と儀式をのみ掌る事と成るべきは、中古の神祇官組織の例を以ても窺はるゝ事なれば、必ず他に神道を擴張する良方法を立て、斯道をして運轉活用するの道無かるべからず。 然るに方今の各教會なるものは、未だ教旨一定せざるのみならず、微々たるものにて、神道の活用とするには足らざるものゝ如くなれ共、神道布教活用の道は、漸く教會より開けたるものにて、御一新以來、多少神道を擴張し、外教妄信の弊を一洗して、神祇崇敬の正道に歸せしめたるものは、各教會、關つて力ありと云ふも、不可無かるべし。 然れば今後、神祇官設立の曉あるに至り、神祇官は、單に祭典儀式を掌る組織と定まるに於ては、これを神道の體と定め、他に斯道を講明し、斯民を導く方法を設けて、これを神道の活用と成さゞるべからず。 こゝに至りたる時には、神官・教職は分離して、 神官は神道の體を守るべく、教職は神道の活用を勤むべし。 又た各教會は神典の眞理に隨ひ、教旨を一定し、必ず其の活用に供せざるべからず。 如何となれば、各教會は、斯道活用の實驗もあれば、新たに活用の方法を求めんより、其の弊を洗滌して、其の用に供するは、大なる良策ならん。 教旨一定したる以上は、敢へて教會の合併を要する事かあらん。 こゝに人あり、或は云はん。 「各教會の微々たる、何ぞ神道の活用に供するに足らんや」と。 此の言、一應は最もなる如くなれ共、造化の眞理は、然るものに非ず。 何事も極微の物より起りて大なるに及ぶものなれば、始めより大なるを求めんより、其の微を守りて、然る後ち漸々大なるに及ばん事を策るべきなり。 これ則ち造化の原則にして、斯道を擴張せんと欲するもの、深くこれを鑑み、恆久耐忍、勤めざるべからざるなり。 就ては今、一言、御尋問に及び度き事あり。 如何となれば、吾が神典なるものは、政事・道學、自ら兼備のものなれば、道義を講ずるは、素よりの事なれ共、他の宗門には相關せざるものなりとの事なるに、往々外教の如何を論じらるゝが如き感あり。 且つ神典は、大地球上の寶典なれば、全地球上に、これが講究を求むべき事なるに、獨り日本人のみに、これを求むる、切なるが如き御説あるは、如何。 御最もの御尋問なり。 就ては一應、これを辨明すべし。 斯道の他宗門と相關せざるものは、布教活用の方法たる組織の上にあるに非ず、又た宗教と名づくる文字の上にあるに非ず。 只に道義を講ずる精神の上にあるものにて、其の組織の如きは、時に隨ひて其の宜しきを製するも、又た可なり。 然るに他の自由信仰の宗教、其の説く所、吾が造化自然の正道を論ずる路に横はる説ある時は、止む無く自他比較の爲めに、これが是非を論ぜざるを得ざるは、勢ひの止むべからざるものにて、敢へて一家の私論に非ず、道理に訴へて、正邪を天下の公論に取らんとするにあるなり。 方今の如き宗教各派の多き、東に走れと教ゆれば東に走り、西に向へと教ゆれば西に向ひ、各自精神の向ふ所、尊信の歸する所を異にして、一つに外教版圖にありて、唯だ命、是れ隨ふ如き時勢の人をして、斯道に導かんとすれば、必ず多少、其の比較を擧げざれば、是非得失の自得も成しがたき故に、止む無く老婆心を加ふるに至るは、萬々止むべからざるに出るものにて、斯道の貫かん事を慮るが爲めなり。 故に本居・平田兩先哲の慨歎も、此の意に外ならず。 且つ第二の御尋問に、神典は全地球上の寶典なるに、これが講究を、獨り日本人のみに求むるに切なるが如き云々の御質疑は、御意見の通り、余に於ても、必ず全地球上に求むるの意見なれ共、そは他日の事にして、今日に有りては、未だ云ふべくして行はるべからざるの時なれば、先づ吾が邦人に求むるを先にして、彼に及ぼさんとする順序を採るが爲めなり。 愚案、俗に「神道には、教祖なし、又た教義なし」と。 何ぞ知らん、神道の「教祖」は、申すまでも無く、別天の天神の大詔より出でて、皇祖・皇宗、之を奉じ給ひ、中今に坐す日嗣の御子、即ち現人神天子樣なるを。 又た天神の詔を明記せる記紀等の神典の明文、これを神道の「教義」と曰はずして、何をか曰はんや。 大宇宙間、絶對無比の「教祖・教義」なり矣。 勅願所宗忠神社の大徳。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年10月 4日 金 22時22分5秒• 笠井鎭夫氏『近代日本靈異實録』昭和六十二年九月・山雅房復刻に所引) 杉山氏(權小教正・杉山信衞)も、道(御道。 黒住教)の大事より探りて、心試しに幽冥の事を問ひ探りたるものなれば、恆原氏(恆原松太郎。 大阪の人。 天滿宮の寵兒なり)に、 (杉山信衞云)「幽冥で、宗忠の神樣(黒住宗忠の神靈。 備前國御野郡今村宮禰宜。 贈從四位下「宗忠大明神」)に御會ひに成りましたか。 」 (恆原松太郎云)「度々御目にかゝります。 」 (杉)「又た宗忠の神樣の御弟子も、多く幽冥に往つて居られますか。 定めて御會ひ玉ふや。 」 (松)「それはゝゝゝ多人數、往つて居やはります。 先づ百姓風の人が、一番多く有ります。 」 (杉)「其の多きお弟子の中にて、何んといふお方が、一番お氣に入りて居られます歟。 」 暫くして(松)「夫れは赤木忠春(陶宗一郎菅原忠春。 美作國天滿宮神官。 「忠春靈社」)と申す御方に御座ります。 」 (杉)「夫れは、何方(いづかた)にて御逢ひになりましたか。 」 (松)「これは、泉州堺町の神明(しんめい。 天照大神を祀る神社)、當大阪の旭神明、天滿と兩皇大神宮樣にて御目にかゝります。 」 (杉)「而(し)て其の赤木と申す神は、御年は何程位と御見受けになりましたか。 」 (松)「五十餘り。 其の御形は、背が高く、頭顔長く、色は黒く、齒は出てあり、服裝は、平生は、鼠色の紋付に、白襟の襦袢に、黒の三ツ紋の羽織。 又た御祭典の節は、麻の淨衣、左折の烏帽子を冠り、手に笏を持つてあります。 」 杉山氏、思へらく、忠春樣の逝去せられしは、五十年(歳。 慶應元年)の四月十六日朝なり。 其の他(五十餘りと五十の相違以外)は、一切見通し、少しも違ふ事なく、恆原松太郎氏の幽冥に通ひ玉ふ事、更に疑ふ所なし。 亦た宗忠の神の御徳を尋ぬれば、 (松)「或る日、『宗忠が徳を見せて遣(やら)ふ』と仰せられ、神前の八足の上に、御姿顯はし玉ふと、『宗忠、々々と、皆な尊むが、是れ此れ、此の者を尊むではないぞ』と仰せられ、右の御手にて、御自身の御形を御たゝき遊ばして、天照大神宮の御神號の『照』と申さるゝ所(文字の上)へ、周り經、凡そ壹尺二寸位の『日の丸』顯はれ、『皆な人の拜むは、是れぞへ』と、『日の丸』を指さし玉ふと、其の儘ま御姿、上らせ玉ふ。 又た天照大神の御膝元まで、直ぐと御出遊ばすは、宗忠の神樣の外にはありません。 因て何の神樣も、宗忠の神樣の御從ひ遊ばさぬはありません。 又た赤木忠春樣は、天滿宮樣(菅公)に、誠に御懇意であり升す。 御道の御用の節は、忠春樣が上座に居やはります。 外の御神事の時は、忠春樣が次座に居やはります。 松太郎も、其の後に坐して居ります。 天滿宮樣が御拜を遊ばして拍手をせられますと、御扉がキイと鳴つて開き、御簾が上りますると、中に美しい神がおはしまして、大なる御鏡を御手に御持ち遊ばしてある。 其の左脇に、年の頃、七十あまり見ゆる、頭の光る、能く太りたる神樣がおはし升す。 右の脇にも、美しい神樣がおはしまして、暫時(しばらく)して御簾が下りて、天滿宮樣について門へ出ますと、天滿宮樣の仰せらるゝに、 (天)「中央におはしますが、天照大神樣、左脇が宗忠の神樣なり」と申されゝば、 (松)「その宗忠の神樣とは、どうした神樣ですか。 」 (天)「あれは、備前國黒住左京藤原宗忠の神にて、皇太神の御寵愛の神なり。 」 (松)「此の神樣は、神と成られまして何千年になりますか。 」 (天)「此の神は、まだ三十年あまりなる神なり。 」 (松)「されば、あなた樣は、天滿宮と御成りあそばして、凡そ千年にも近く、古くよりの神樣でありまして、三十年に成るやならぬ、わかき神樣が、皇太神宮の御膝元に御仕へ遊ばすとは、如何の事であり升すか」と、お尋ね申し上げますと、 (天)「宗忠といふ神は、拙者等の及ばぬ大徳の神にして、其の訣は、天地開けて此の方、皇太神宮の御徳を、世の人に教へた神は無し。 宗忠といふ人は、現世にありし時、誠を勤めて、皇太神宮の御徳を説き教へて、人に物語りて助けし功の著大なるが故に、皇太神宮の御膝元に仕へ召される大徳の神」 と、仰せになりたりしことを、松太郎、歸りて申し聞かせてくれました。 私も門人と成り、御道の信仰をする事に成りました。 愚案、大本教主教・上田(出口)王仁三郎氏は、「信ずると信ぜざるとは、讀者の意志に任す」と、手寫の冒頭に録してあるが、杉山氏の審神(さには)を經たるもの、宗忠大明神が、天滿天神の上位とは、到底これを信ずること能はざるものもあるが、蓋し黒住教有縁の幽冥界の一端であらうか。 然し宗忠大明神は、皇國の正神なること、固より疑ふべくも無いが、其の遺裔、即ち現代の黒住教の正不正は、之を知らざるを遺憾とする。 美甘政和大人の皇室尊奉。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年 9月14日 土 15時18分33秒• 樂天翁美甘與一郎源政和大人は、天保六年己未四月二十四日、吉備の美作國湯原村に生れ、大正七年十二月九日曉天に歸幽せる「美作國御民」なり。 享年八十四。 明治二年、權少屬となり、社寺掛を命ぜられ、三十年九月、美作國一宮たる、國幣中社中山神社宮司に任ぜらる。 權少教正。 美作國神典研究會主宰。 大社教大參教(管長・副管長に次ぐ、大社教一級・教導職大教正と竝ぶ地位たる協贊員の職名)・美作分院總理・贈一等教勳。 從六位勳六等。 我が著はした『天地組織の原理』に述べた一説も、今日こそ、まだ心して見るものがないが、必ず近き將來には實現する事がある。 父の生命は、神典研究にありて、天授の一大使命であるとの考へは、生涯、決して捨てなかつた。 父の常に云へるは、「 神道にも體と用の二つありて、用の方面より觀れば、黒住教に若くものなきも、同教は、用を主として體を究めざるの嫌ひがある。 神道は、是非、體・用の兩方面より研究すべきであるが、之には世界最上の寶典たる『古事記』に若くものはない」とて、之が討究に沒頭せしは、三十歳前後よりの事と思ふ。 壯時は白皙黒鬚、肉付きもよく、音聲透徹、説教壇上威容あつたとの事であるが、老いては白髯、胸に及び、齒落ち頬萎み耳埀れて、仙骨を帶びて居つた。 笑顔は天眞爛漫たるもので、眞に罪のない笑ひ方で、今でも目に付く樣に思ひ出される。 世には愛國を主位とし、政治政策上、皇室を尊嚴にするを便とする、皇室尊奉者もないではない樣であるが、父のは、眞に神の御末の現つし神として、自然の熱誠より出たので、總て神道家の尊皇はこの意味で、從つて確乎たる信念がある。 父が平素能く云ひしは、「世界各國の國體を見るに、其の皇帝と云ふものは、政權と共に存して、政權が移れば、即ち皇室・皇帝もなくなるのであるが、我が國體の貴き所は、皇室は政權以上に卓立して、政權は如何に轉ずるも、國體には少しも變ずる事なく、皇室の尊嚴は少しも傷つけらるゝことのないので、即ち神勅に、『天壤無窮、吾が子孫の永く治むべき』と宣り給ひし通り、眞に萬古不易である」と。 近時、東大の上杉(愼吉)博士を始め、各方面に皇室中心主義なる説が、大分盛んに唱へられる樣になつたが、此等は世界大戰後、露・支を始め、獨・佛・伊、最も國礎の固いと信じられた英國すら、大混亂の悲境に陷り、如何に收拾せらるゝかの見込みもつかぬ有樣に鑑みて、始めて吾が皇室の有り難く尊きことに氣付いたので、父は已に三十年餘の昔、明治十八年頃、頻りに外來の思想が流れ込み、やれ假裝會、それ舞踏會と騒いだ時、『 皇室中心主義の宣言書』を數千枚印刷し、縣下の諸學校・役場などに廣く配付したことがある。 此の頃の有樣を地下で見て、「今、やつと氣が付いたか」と、例の口調で、得意の笑みを洩らして居ることゝ思はれる。 忘れもせぬ、明治十八年春、余は九年目で歸國し、醫術開業準備中、津山の大社教分院(當時、政和大人は、大社教一等輔教にして美作分院長。 東京分院在任中は管長代理)に二ケ月許り、久し振りで父と起臥を同じうして居たことがある。 此の時は、露國が西伯利鐵道を起工し、段々東方に延長し、吾國上下、これを憂ひ、人心恟々として、中々現時、米國海軍擴張を聞くの比ではなかつた。 直ぐにも歐亞の大國、世界絶大の陸軍が、吾が國の背後を衝くかの恐れをなした。 父は之に對して、冷然且つ泰然たる態度で、「 神風は、必要の時は、何時でも吹く。 あの鐵道も軍港も砲臺も、ちやんと拵へて、結局、天皇陛下に獻上するのである。 此れは造化の御約束であるから、致し方がない。 世界統一は、何れの日にか來るに相違ない。 其の時の大主宰は、萬世一系の吾が皇室をおいて外にあるべき筈のものではない。 鐵道は網の如く敷け、電線は蜘蛛の巣の如く張られ、朝に陛下が一令を下さるれば、夕に世界に行き渡り、大小の船舶、海にみち、一麾の下に、海陸軍が何れの地にも向ふことの出來るといふ準備が整へば、統一に段々近づくので、今は準備中で、準備、愈々出來上がつたら、吾が天皇陛下に獻上するの日が來る。 これを統一すると云ふても、決して無名の師を起したり、暴力を用ゆる必要はない。 此等は却つて天意に反する譯で、唯だ正義により仁道を行ひて居れば、 造化の自然として、此の統一の日が來るのである」と。 此等の話は、父の得意に云ふた所であつたから、まだ多くの人の耳底に殘つて居ることゝ思ふ。 父はこれを或る信念の下に、恰も豫言の如く、確信を以て云ふて居た。 立憲政治が開け、議會召集の時に、舊弊家の神職などの中には、何か西洋の眞似をして、皇室の威嚴に關する樣に思ふものもあつて、父の説を質した人も往々あつたが、父は「此れは、 已に神代よりの御定めで、神代にも『天の安河原に八百萬の神を集へ神議りに議り給ふ』とあつて、少しも西洋の眞似ではない」との説をなした。 父が、皇室を尊奉せしことに付きては、二三の挿話がある。 煙草が專賣になり、煙草の袋の封紙に、菊の御紋章が付けてある。 其の殻を人の踏む道路に、濫りに投げ散らかすのを「畏れ多い」と、能く拾ふては、川や旁らの藪などに投入れたが、餘りに數が多くなり、何うしても其の煩に堪へず、顔を顰めて避けつゝ通つて、「此に御紋章など要らぬことだ。 此は止めて貰ひたい」と、よく云ふた。 郵便の切手も「御紋章がある」といふて、決して人の姓名の下には貼らなんだ。 又た嘗て母が、妹の腰卷の積りで、菊の模樣の毛斯を求めて居たら、「假令へ形は變つても居ても、菊ではないか。 以ての外の事である」と、襦袢の袖に用ひさせたことがあると。 此の二つは、弟重三郎が父と同居して居た時の實見談である。 明治三十九年春、日露役の凱旋式の時、余は父を伴なひ上京し、青山の觀兵式の御臨幸を、霞ケ關の廻り角で拜ませた。 當日は、所謂日本晴れで、非常に雜踏した。 白鬚の老人が服裝を調へ困つて居たから、警衞の査公は衆を制して、「御老人ではあり、危いから」と、前列に進めて呉れた。 警固の前驅、已に至り、御馬車が遙かに見ゆる樣になり、父が變な腰付きをして土下座するから、査公が「立つたまゝで、御拜しになつても差支へない」と云ふても、もじゝゞ何か不安の體であつた。 それでも頭を擧げて、天顔は能く拜した樣であつた。 又た父が常に氣を掛けたは、「神武天皇の御陵たる橿原神宮の後手の山上に、小村落や田畑があつて、或は施肥し放尿し、不潔を極めて居る。 此れは取拂ひ殖林とし、清潔と幽邃とを保たしむべきである。 これに付きては、當局に建白せねばならぬ」など、憤慨して居たが、大患の病床にあるとき(大正七年)、愈々内務省で、此の村落を取拂ひ、他に移轉せしめることになつたと、新聞に出て居るを見て、非常に喜び、「善いことを聞いた。 之で思ひおくことはない」と云ふた。 國體答問・四題。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年 5月24日 金 23時37分1秒• 芳野正朗氏監修復刻版) 【問】學者によつて、「建國」と書いたり、「肇國」と書いたり、或は「立國」といふ人もある、何れに從つてよいか、詳細に承りたし。 【答】人に依つていろゝゝに言ふのは、おもしろくありません。 何とか申し合せて、一定したいものです。 我が國の有樣は、米國などのやうに建國でない事は、誰でも知つて居る處であります。 立國でも、肇國でも、ピツタリしません。 眞の姿は、「 開國」と申せば、一番よいと思ひます。 併し教育の御勅語に、「國を肇むること宏淵」といふ御詞がありますから、是に從つて「 肇國」と申すも、わるくはありません。 唯だ相當な學者の書かれたものに、「神武天皇建國二千六百年」とあるは、「紀元二千六百年」の間違ひであらう。 我が肇國は、天孫降臨であることはいふまでもありません。 誠に簡單な事でありますが、多數の學者が、此の種の間違ひをしてゐるから注意すべきであります。 【問】「八紘一宇」につき、教示を乞ふ。 【答】「八紘一宇」なる語は、近時、漸く世人の注意を惹くに至つた如くであるが、その出典は、遠く神武天皇の建都即位の大詔にして、八紘は「あめのした」、宇は「いへ」であるから、世界一家、即ち皇道精神の世界光被を意味することになる。 然るに世には、往々にしてこれを武力征服と誤解する者がある。 若しそれが自己の功利的世界觀より脱し得ぬ歐米人の見解なら兎も角く、日本人、しかも識者を以て自ら任ずる者でさへあるから、吾人が古典を説き、皇道精神を叫ばざるを得ぬのである。 試みに『日本書紀』を繙き、右の大詔の前後を一讀するならば、それが武力征服とは、全然異なるものなることが明瞭となるであらう。 即ち八紘一宇は、神武天皇が、天業恢弘の爲め東征遊ばされ、國内が平定せられたので、建都即位の上、更に進んで全世界をも、和氣靄然たる一家の如からしめんとの大御心を現はせるものである。 しかも此の實現は、「鋒刃の威を假らず、座(ゐ)ながらにして」行はせられることを理想とせられたことは、幾多の例證を擧げ得る。 斯くの如く八紘一宇なる語は、神武天皇の大詔の中に拜されるのであるが、その根本精神は、遠く修理固成の神勅に由來する天皇の御使命と、八神殿、大嘗祭による、天皇の御本質の當然の結果にして、それ故に又た御歴代の大御心でもあるのである。 天皇は、八神殿、大嘗祭の行事によつて、生成化育の本源とならせられ、宇宙萬有を、各々あるべき處にあらしめ給ふ。 八紘一宇は、この一つの表はれに外ならない。 世界の各國家・各民族は、斯くして始めて自性を發揮しつゝ、全人類の生成發展に貢獻し得るのである。 天皇は、獨り日本のみの天皇ではなく、世界の天皇であり、宇宙の天皇であられるとは、斯かる意味に申し上げるのである。 此の度の事變も、まつろはぬ支那を言向け平和して、相提携して、八紘一宇の精神を實現せんとするにある。 國民各自は、須らく此の意義を正當に認識し、各々の立場に於いて、天業翼贊の實を擧ぐると共に、外務省などに於いても、徒らに當面の問題のみに捉はるゝことなく、積極的に我が根本精神を闡明して、皇道宣布省たるの實を發揮すべきである。 【問】「皇道」と全體主義との關係に就いて、御教示を乞ふ。 【答】「皇道」は、全國家・國民を生成化育し給ふ、天皇の御活動を意味する言葉であつて、一國・一家の一體精神が基調になつてゐる。 之を「君民一體」と申してゐるので、此の一體精神は、他の思想に對立する主義といふやうなものではなく、宇宙の眞理、天地の大道そのまゝのこころである。 然し近代流に、若し主義といふ言葉を強ひて用ゐるならば、皇道は、一體主義であると申さねばならぬ。 全體主義といふ言葉は、獨逸などでも盛んに唱へられ、日本も、その全體主義でなければならぬといふ考へがあるが、是は本來、西洋の個人主義・自由主義・階級對立の思想の反動として、國家全體を團結させる作用として發生したものである。 その反動が、強力なる權力として現れ、所謂フアツシヨをなしてゐる。 無理にでも統一しようとする所に、その特徴がある譯である。 然るに日本は、開闢以來、團結・統一された國家である。 個人主義・階級對立の思想などは、本來起りやうがないのが、我が國體である。 臣民は、億兆、心を一にして、一切を捧げて皇運を扶翼し奉るのが、日本人本來の生き方であつて、自分の身命は勿論、子孫末代まで、此の臣道に終始するのであるから、全體と云へば、これ程徹底した全體はない。 それは無理に權力によつてさせられるのではなくして、止むに止まれぬ至情から、自然の自性で實現されるのである。 それが日本精神である。 その精神の起つて來る根本は、我と彼とは一體である、我と國家とは一體であるといふ、一體心である。 それが億兆一心となり、期せずして君臣一體が實現されるのである。 であるから、日本では、全體主義などといふのは、未だ低級な、幼稚園程度の思想であるとみてもよい。 一體精神まで來なければ、本當のものにはならぬのである。 一體精神が政治に現れるのは、國民を皆な或る型にはめて、無理に統制しようといふのではなくして、萬民に各々その處を得させ、各々その自性を發揮せしめようといふのである。 全體主義の政治と、一體精神の政治との根本的相違が、そこにあるのである。 【問】「君民一體」と「一君萬民」とは、何れの語を、我が國體に使用してよろしきや。 それに就いて御説明を願ひます。 【答】「君民一體」といふ言葉は、歴代天皇が、屡々仰せられたことで、今上陛下の御即位式の勅語にも、「君民、體を一にす。 是れ我が國體の精華にして」云々と仰せられてあります。 天照大御神が皇孫に、齋庭(いつきのには)の稻穗を授けられたのも、之を以て青人草を養ひ給ひ、上下、不二一體の御象徴にましますのであります。 君は民を「おほみたから」としていつくしみ給ひ、民は君の御爲めに身命を捧げることを無上の光榮と考へ、上下一致、一國一家をなすことは、開闢以來の我が國體の眞髓であります。 故に「 君民一體」が、我が國體を表すのに、最も適切な言葉であることは、申すまでもありません。 然し若し此の言葉を、「君民共治」であると解するやうな者があれば、それは非常な誤りであります。 次に「一君萬民」といふ言葉は、開闢以來、君臣の分限が、嚴として定まつてゐるといふ意味であるならば、勿論その通りであつて、それが我が國體の眞髓であるのでありますが、若し此の言葉を、西洋の君主國のやうに、君と民とが對立するものと考へたり、或は又た國家社會主義者のやうに、萬民が對等であると解する如きは、大なる誤りであります。 一君萬民といふ言葉は、動もすれば對立的の意味にとられ、それは我が國體の本義に反することでありますから、餘程注意を要します。 我が國は、根本・抹消、中心・分派の宇宙の眞理を實現する國です。 天皇は根本・中心であらせられ、臣民は抹消・分派であり、中心・分派、不二一體なる所に、國體の眞髓があるのであります。 明治天皇の御製に、「ほとほとに 心をつくす 國民の ちからそやかて わかちからなる」と仰せられたことを拜すれば、よく此の意がうかゞはれます。 一君萬民では、どうしても斯ういふ意味は出て來ない。 そこで、君民一體といふ言葉がよいのであります。 現憲法下に於いては、必ず「御聽許」を。 投稿者: 備中處士•

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ちはや ぶる 神 の 誓 ひ の 違 はず は 親 の 敵 に 逢 ふ 瀬 結ば ん

タイトルの通りなのですが、月刊住職という最近注目されている雑誌が、で、元本願寺派寺院が親鸞会に譲渡されようとしている問題、いわゆる「観勢寺問題」を取り上げました。 (この件について。。 ) 非常に丁寧な取材で、十分に紙面もとってしっかりと書かれている記事です。 少し大きめの一般書店には置いている雑誌なのでぜひ皆さん一度買って読んでいただきたいです。 私もちょっとだけ記事中にコメントをしています。 中でも、記事の最後のこの一文が私には突き刺さりました。 親鸞会の「広報担当者」のコメントです。 「(観勢寺の)譲渡が決まれば、リニューアルして使うつもりです。 時代が変わろうと、場所が変わろうと古今東西、不変なものが仏法の教えです。 それを説く場所がお寺であり、説く人が僧侶です。 お経に書かれていることを、現代に分かりやすく説く人がいない。 聖徳太子のいわれた篤く三宝を敬えというのは、僧侶が法を説くからですが、説かなければ僧侶は宝にならんね。 自戒しなければいけないことで、教えがなければこの大きな(親鸞会の)建物もすぐに朽ちるでしょう。 観勢寺さんは江戸時代に建てられたというけど、当初はそこで親鸞聖人の教えを聞かせてもらおうと思って建てられたのは間違いない。 それを生かすのには、そこで教えを説くことです。 こちらとしては教えを伝える場所を探しているのですからね」 まあ、親鸞会の布教方法は詐欺的とも言えるひどいものだし、そもそもお前らはきちんと聖教に向き合って教えを伝えてないだろう、という問題はあるのですが、それを除けばぐうの音も出ないほどの正論です。 私もこの一件には多少関わったし、周囲の伝統教団の人たちも真摯に向き合ってきたと思うのですが、あのお寺をなんとか「教えが伝わるお寺に戻したい」という思いを聞いたのは一人だけで、あとは親鸞会に渡さずどう廃寺にするかということばかりが議論されていたように思います。 それは様々な事情の中で致し方ないことだとも思うのですが、寂しいことでした。 この記事を書かれた記者もそのことを感じているのか「どの宗派にも大事な「教線」が宗門や寺院の内部から侵食されていると見るべきだろう。 」と最後に見解を述べています。 お寺というのはそもそも教えが伝わる場として建てられたのに、今はその「教えが伝わる場」としての役割を抜きにして、どう寺や教団を残すかという事ばかりに熱心になっているように思います。 この雑誌には他にも寺院活性化についての様々な記事が掲載されているのですが、ここに焦点を当てた記事は実際のところ見当たらないし、私がいる宗派(真宗大谷派)でも、イベントや社会貢献活動(もちろんこれも極めて大事ですが)ばかりに光が当てられる傾向があります。 でもですね、お寺って、 現実にここで私が仏法に出遇い続ける場所なのです。 私を救う教えを聞く場所です。 この号の中に「人口減少社会における寺院」という記事があり、お寺に求められる役割として、「新しい葬送や終末期医療と連携した看取り、傾聴によるケアや地域見守りの機能」などがあげられています。 それも大切でしょうが、そんなのみんな寺でなくたってできるものです。 お寺はこれから厳しい時代を迎えると思うのですが、この原点を確認してそこに戻れる機会になるのならそれもまたご縁でしょう。 それができないのなら、無くなっても仕方がないかも知れません。 お寺で親鸞聖人の教えが正確に説かれて、信心決定する人が沢山集まり、信心の沙汰をする場所として活気にあふれるのが理想だと思います。 日本ほど平和な国はないので、親鸞会は異安心だとか、本願寺は教えを説かない葬式仏教だとか言い争ってる場合ではないと思います。 プライドや欲望を捨ててお互いに穏健に、どこがどう間違っているのか話し合いで真実を開顕する事がなぜ出来ないのだろうか。 辞めた人もその事を望んでいると思います。 親鸞会の説法が間違ってなければ本願寺も何も言わないと思います。 一度、授業参観の様に本願寺のお偉い僧侶が全員で親鸞会のご法話に参詣し、親鸞会の大幹部が本願寺の説法に参詣する研究授業又はなるほど視察団みたいな事をやればいいと思います。 投稿: 2016年5月 1日 日 20時45分 一コメの方は名案だと思います。 また、750回忌の時は、本願寺、親鸞会、五木氏の小説「親鸞」などにより、それぞれの内容について賛否両論はあれ、全国的に親鸞聖人ブームが間違いなくありました。 それが萎みつつあるのは、まったく寺が寺としての本来の機能を果たしていない。 つまり浄土真宗の教えを性根を入れて説いていないことにあります。 親鸞聖人は、生死出ずる道を求め、その解決を果たされたという要を性根を入れて説いていない。 だから、寺離れが止まらないのです。 これは真宗徒として最も憂慮されるべき問題ではないでしょうか。 中身の無いブームだけに終わるので、石川県などは、羽咋の日蓮宗、妙成寺を国宝にしようと躍起になっているのです。 観光客目的だけでたいへんに恥ずかしいことです。 浄土真宗の教義が市民に伝わっていないということでしょう。 また、先日は私のところの〒ポストに「地獄で親鸞が待ってるぞ!」という見出しの、日蓮正宗のパンフが入っていました。 知人のところにも来ていたようで、いろいろの地域に配布し、また直接に折伏をもしていると聞きます。 宗派を変えてしまったという人の話も今だに耳にします。 創価の会館も乱立し、大川の霊言に心酔する、浄土真宗の門徒も増えている。 こんな悔しいことはないではありませんか。 たしかに寺は寺でなくとも開催できるイベント(ライブ、落語、坊主バー、その他)ばかりが紙面を賑わす状況です。 しかし、これだけでは浄土真宗の教えが一人一人に浸透せず、結局、寺を離れていってしまいます。 浄土真宗の寺は親鸞聖人の教えを説く場所であるという自覚が疎かになってしまっていることが、残念ながら現在の寺の大部分を占めているのが現状です。 本当に真剣に中身から変わってゆかねばならないと痛感します。 投稿: 2016年5月 1日 日 22時48分 坊主バーには亡きひろしさんもずいぶん望みをつないでいらしたように拝されました。 これにならって蔵書をお客さんが自由に閲覧できる坊主喫茶をはじめたいとさえ語っていらっしゃいました。 だからいい線いっていると信じたいのですが。 落語やライブでは人と人との法縁を結ぶのはいかにも至難に近いでしょうが、お坊さんがマスターを勤めるバーや喫茶店はどうすればお客さんの仏縁をもっと深められるものでしょうか? 親鸞会にアイディアを真似されぬうちにぜひ皆さまでお考え頂きたく念じてやみません。 親鸞会が売りつける真宗の教えは、さしづめよく包装され、見た目の輝きも美しいイミテーションダイヤというところでしょうか。 お寺にあるのはむろんほんものの真宗の教法ですが、いかんせん、長い間に埃にまみれてしまっている憾みがございます。 本当になんとかならぬかと念じております。 なお、今回の映画は、脚本が高森氏自身の手になるとのことですが、すでに87歳を迎えた彼に、脚本を書き上げるだけのスタミナが残っているのでしょうか?むしろ脚本・高森光晴として、2代目就任への布石としたほうがよほど賢明なのにと思われます。 タイ国ではいずれ即位する皇太子の評判がどうにも芳しくないので、父王といっしょに撮った写真が日増しにバンコクの街のあちこちに掲げられつつあると聞きます。 光晴氏も父上亡きあともこれまでどおりの高月給を手にしたいのであれば、この南方の仏教国に叡智に学べばいいのにとひそかに思わずにおられません。 北条早雲は88歳で世を去る直前まで文字通りの陣頭指揮を執っていたと聞きます。 高森氏も北条早雲に負けずに今度こそ本当の陣頭指揮をなさいますように。 投稿: 5月 1日 日 22時48分さまへ 2016年5月 2日 月 10時36分 以下に引用させていただくのは、とある女性向け風俗就職サイトの女性向け悩み相談掲示板で見かけた、まさに肺腑をつらぬく気概ある書き込みです。 自殺を決意した現役の風俗女性を、いずれ死を迎えるであろう元風俗嬢が意を尽くして説得しようとされています。 阿弥陀さまも親鸞聖人のお名前も拝されませんが、それでも阿弥陀さまのお働きが遺憾なく発揮されているように思われます。 そして「なぜ生きる」への明確な答えも、今回公開されるアニメにではなく、このような「石つぶれかはらのごとくなる」名もない庶民女性の真実の言葉の内に横溢しているように拝されます。 「HIVに罹患した元嬢です。 私の場合、何年間か数ヶ月か分かりませんが死が確定してます。 バレるとか悩みました。 死んでも自殺の原因なんて解剖すれば分かるだろうし遺留品の薬とかそういうので分かるし、家族に黙ってれば?って言う人いましたが、実際、親の顔見たとき、確率なんてすごい低いけど親にも罹患したらとか考えてしまったり何より死に対する凄く深い恐怖に負けて母親に話してしまいました。 お金の不安もありました。 親が助けると話してくれましたが、こんな病気を背負った私は、親とは気が引け住めず、生活保護を今受けさせていただいてます。 凄く後悔しました。 貯金もしなく気付いたらHIVですから。 人って泣きながら生まれますが、それって母親のお腹に居るときは母親に全てを守られて、苦労も悲しみもマイナス感情は感じなかったけど、産み落とされて泣くのは、辛さを悲しみを全部経験して死に向かうから泣いて生まれるのだと、私は感じてます。 貴女がどのくらい辛いのかは私は、貴女を知らないし分かりませんが皆それぞれ辛いことはあります。 大小関係なく死にたいと思います。 でも、自らが死に手を伸ばさなくても、死は自らきてくれます。 その間辛いかもしれないけど健康ならば毎日が当然来ますがその中で辛い事から抜け出せるかもしれないですよ。 それは貴女が自ら今までの環境を変えて何かが変わるのか、それとも新しい出会いで変わるのかはわかりません。 私は、死ねば本当に楽になるのか知りたいです。 今が辛くて自ら命を絶って、今という現実から逃げた人間が、死んで楽になるのでしょうか?本当の楽になる方法は、今の辛さを命を絶たずに脱却しないと楽になんてならないと思います。 別に死に急ぐ事しなくても人は必ず死にますよ。 (スレ)主さん、貴方が辛いのは分かりますが死ぬ気なら、とりあえず死ぬ気で現実を冷たく見下ろしつつも今を楽しんだらどうですか?その中で何かが変わるかもしれないですよ。 もちろん現役ではないので書き込みする気はなかったのですが死に対するスレが上がってるのをたまたま見て、あえて死に近いものとして書き込みしました。 すみません。 主さん、色んな悩みがありますよ。 私も同じです。 逃げても逃げられないのが辛いですが、逃げられないなら立ち向かうか無視するしかないと思い、私はこの病と共存することにしました。 まだ発症してないので本当の辛さはこれからだと思いますが悩んでも解決出来ないことなので私の一部として受け入れました。 似たように、生きてれば割りきれないことあります。 割りきれないから悩むし明日が一年後の自分が笑ってるか泣いてるか分からないから苦しいんです。 でも、今は今でしかなく今がずっと続くなんてないですよ。 それが生きることかと思います。 だからこそ時間が経てば、あのときは若かったー。 とか、くだらない悩みだった。 って笑えるんです。 今がずっと続かないから逆にあの頃に戻りたいとも感じますよね。 死ねないなら死ななくていいじゃないですか。 私は、いずれ迎えに来る死なら迎えに来られる日まで淡々と出来れば楽しみながら普通に生きていたいです。 誰か相談できる方は居ないのですか? 」 必要最小限の注釈と、やや不足気味だった読点とをいくつか加えさせて頂き間塩田。 この女性も私も、すべての親鸞会被害者の皆様も、そして高森氏父子もすべて大悲光中にあることを改めて認識しつつ。 投稿: 1000円以上も出してアニメを見るよりも 2016年5月 2日 月 10時47分 ご生誕750年のとき親鸞聖人ブームがあったのに、うまく乗れなかったね。 あのときお寺をもっと開放して、仏教や親鸞聖人に慣れ親しんでもらうよう努力をすれば、カルトに譲渡するか廃寺にするか、みたいな暗い話は当分出てこなかったかも知れない。 チャンスってそうそう来ないもんだし、普段から意識していないとそれに乗れない。 親鸞会のようにまったくのウソを教えている教団は論外としても、親鸞会や本願寺に属さない第三者団体のようなものを新たに創設して、団体組織の利害やしがらみに縛られず、仏教の尊い教えを広めることだけを中心に活動する団体を有志で作ってみてはどうだろうか、と思う。 投稿: Kmountain 2016年5月 2日 月 14時40分 幸福の科学の大川某は、熊本地震の原因について、宇宙最高神たる自己を日本国民がおろそかにした天罰だと言い切っております。 この度し難いカルト教祖は、いくつかの映画(教義宣揚のための)を監督したと称し、自己を讃える聖なる楽曲を作ったとも称しております。 今回高森氏がアニメ映画の脚本を作ったと称しているのは、ひょっとして大川某の向こうを張ったのでしょうか。 いい年齢をしてどこまでも俗念の抜けない老人ですね。 熊本の地震では、工作員M野氏の高校時代の同級生の自宅もかなり被災なさったのではないかと案ぜられます。 そして、M野氏が苦しむ故郷の人々を尻目に、 「ほれ見たことか、相対の喜びを追ってるから苦しむんだぞ。 俺を見ろ、俺を。 襤褸は着てても心は錦。 栄えある京大は中退しても、絶対の幸福をつかんでるだろ?」 などと暗い愉悦に浸っている姿までもが浮かんで参ります。 それが、 「さよなら親鸞会」とか、 「さよなら本願寺」とか、 「真宗の維新の会」とか、 有志でつくっても、あなたが親鸞会を叩いているように、反対組織が生まれてくると思いますよ。 これではいけないと、またまた新しい真宗組織をつくっても、これまた、その反対組織から叩かれると思いますよ。 しかも、ある程度大きくならないと問題にすら挙がって来ないですよ。 完全無欠の組織を立ち上げたいお気持ちは分かりますが、この相対の世に在る以上、無理ですよ。 お釈迦様の教団や、覚如上人の本願寺創設や、蓮如上人の時代の本願寺教団ですら批難されていたのですから、なんの批難も起こらない団体を作るのは、無理ですよ。 どんな会社であれ、 どんな学校であれ、 どんな政党であれ、 どんな宗教法人であれ、 組織に完全無欠の理想郷を描いておられるなら、無理ですよ。 あなたの手で、1万人いたら1万人から認めれる、新団体を作ってみてください。 お待ちしております。 投稿: 2016年5月 2日 月 20時46分 >阿弥陀仏との仏縁で宿善を厚くする為に善をすすめ、その善は一つもあて力になるのではなく、他力世界に導く為の方便だ聞いていますがどうですか? 全くのデタラメです。 宿善とは、もともと天台大師が言いだした説で、宿善が厚くないと救われないと解釈したのです。 それを善導大師が否定されて、法然上人も宿善の有る無し関係なく救われると教えられ、親鸞聖人もそのまま継承されたのです。 蓮如上人は宿善・無宿善とはいわれていますが、厚い薄いということは仰っていませんし、意味は親鸞聖人の教えを信じる人と信じない人の違いを宿善の機、無宿善の機と分類されただけです。 高森宿善説は、天台大師の説そのままで、善導大師、法然上人、親鸞聖人が完全否定されたものです。 投稿: 2016年5月 3日 火 10時04分 >高森先生が説く阿弥陀仏の本願が大事なんですよ。 一番正確に説いているのが高森先生だと確信します。 これを善知識だのみという。 高森会長が一番正確に説いているというその根拠はなんでしょうか? 「私は高森先生を最も信じている」という善知識だのみですよね。 「親鸞聖人の説く阿弥陀仏の本願」の内容を全く知らないのが高森会長。 「親鸞聖人の説く阿弥陀仏の本願」では行として誓われているのは念仏のみで、諸善はないから、本願に背く諸善を捨てよ、と親鸞聖人は教えられています。 ところが、「親鸞聖人の説く阿弥陀仏の本願」には念仏はあっても成就文に念仏がないから、念仏は救われるのには要らないけど諸善は必要だ、と訳の分からない無茶苦茶な理論で説明しているのが高森会長。 「親鸞聖人の説く阿弥陀仏の本願」を全く知らないのが高森会長だと知りましょうね。 投稿: 2016年5月 3日 火 10時57分 >高森先生の教えで助かるのではないですよ。 高森先生が説く阿弥陀仏の本願が大事なんですよ。 一番正確に説いているのが高森先生だと確信します。 高森会長の著書の【白道燃ゆ】を読むと、信心ひとつで救われるとの根拠に18願成就文を挙げているのですが、その特徴は、漢字40字と書かれ、詳しい説明は省略する、と明言されています。 説教の時間がないのならまだしも、書き物で、18願成就文という真宗の要をキチンと説明する前に省略してしまいました。 高森会長はそれほど、軽視している事実があります。 またその冒頭には、間違った説明は許されない、と明言されていますので、その自らの信念に従い、省略されたのかもしれません。 現役会員さんは、仏意はかりがたしと言われるのでしょうか。 だまされたとわかった後はボロボロこんなことが出てきました。 投稿: 2016年5月 3日 火 12時01分 不幸なことに先生が無知なことはありますよね。 知らないのに知ったかぶりで適当なことをいって、実は全く違うことだったり。 生徒も最初は無知なのでその先生のいうことを信用していますが、何かの縁で他の先生や本などで、真実を知った時のショックと怒りは相当なものです。 高森会長が無二の善知識だと信用していた熱心な会員が、なぜこうも大量に退会し、高森会長を非難するのかと言えば、高森会長が仏教にも真宗にも全くの無知で創作教義を吹聴していただけだと気が付いたからです。 肝心要の本願さえも正しく解釈ができず、本願に救われるのに本願にない諸善が必要だなどと、親鸞聖人の教えからは絶対にあり得ない邪義を平気で言いふらしているその心は、金集め人集めに教えを利用しているからですよ。 ですから今残っている会員なんて、Fランレベルの学力しかない人だけですわ。 学歴と今の学力は関係ないですからね。 悔しかったら、法論してみなさいよ、逃げ回ってないでさ。 投稿: 2016年5月 3日 火 15時17分 >正しく本願を説く人をもっと敬わなければなりませぬ そうですよね、間違って本願を説く高森会長を蔑むのは当然かと。 教行信証に引用された法然上人のお言葉 『選択本願念仏集』[源空集]にいはく、 「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。 またいはく、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。 浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。 正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。 正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。 称名はかならず生ずることを得。 仏の本願によるがゆゑに」と。 往生の業は念仏を本とす 称名はかならず生ずることを得。 仏の本願によるがゆゑに 本願とはこれだと親鸞聖人が仰ったことです。 善など無関係、19願も不要、往生するには「称名はかならず生ずることを得」が本願だと親鸞聖人が教えられた訳ですよ。 善については、「もろもろの雑行を抛ちて」と捨てよ。 釈尊が浄飯王に勧められたことは念仏だけだと親鸞聖人が仰っている。 高森会長の邪義など、中学生でも理解できるレベル。 中学生以下の学力では理解できないから、未だに騙されているんだろうけどね。 悔しかったらいつでも東大卒の中村某を連れてきて論破してみて、絶対にできないから。 投稿: 2016年5月 3日 火 17時53分 聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ 聖道門を捨てて選んで浄土門に入るのは、自分の頭でですよね。 天台宗と浄土真宗のどちらを選ぶかは、自分の頭で単純に選ぶのですが。 こんな簡単な話を分からないように誤魔化そうと必死なのが痛い。 教行信証でこんなものも また『無量寿経』にいふがごとし。 〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。 かの仏いま現にましまして成仏したまへり。 まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。 善導大師のお言葉の引用。 本願の言い換えは もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ どうすれば往生できます?の疑問に対して 衆生称念すればかならず往生を得 この本願の常識的解釈を全く知らない高森顕徹なる人物とそれに騙される愉快な仲間達。 投稿: 2016年5月 3日 火 18時43分 親鸞会は過去二度、本願寺に座り込みをするという、実力行使を行いました。 その後、三度目の決行をするかどうかを見極めるため、上からの指示により下見と称して本願寺に行きました。 地元の学生を中心に約20人のメンバーが決まり、私はそのひとりでした。 本願寺のまわりを歩くだけで警備員が無線機を使い警戒している様子がわかり、自分は緊張しました。 そして入ろうとする門で小競り合いが起きました。 私服警官と思われる人から蹴られ、打撲傷を負った学生がいました。 自分は先輩から、本願寺が間違った教えを説いているのでこういう行動を起こすのだ、という説明を受けてそのとおり素直に信じていました。 自分達の主張を通すためなら、真実のためなら仕方がないのだと。 この時、もし小競り合いでなく、大きな衝突であったなら、私は不法侵入で逮捕されたかもしれません。 そうなっていたら、その後の人生に大きな影響を与えていたでしょう。 親鸞会に不祥事は存在しないのでしょう。 反省、自浄作用も不要です。 上からのそのような声を自分は聴いたことがありませんでした。 もしかしてこの件で間違っていたと反省した人がいたのでしょうか。 真実のためなら犠牲は仕方がないのです。 宿善のためなら仕方がないのです。 その雰囲気しかありませんでした。 本願寺の関係者の皆さまには大変なご迷惑を掛けてしまいました。 29年前の今日は朝日新聞の阪神支局が絶対に自分が正しいと主張する過激派に襲撃され、記者が命を落とした日です。 場合によっては自分が信じる宗教、団体によって起こってはならない出来事に自分が巻き込まれるかもしれません。 ひとりひとりが真剣に考えなければなりません。 投稿: 2016年5月 3日 火 20時48分 待ってましたよ 笑 念仏称えて往生する これが本願です。 なんせ、念仏往生の願ですから。 ではでは疑問点から。 蓮如上人が「この信心を獲得せずば無間地獄に堕在して・・」と仰っているのは、この信心とは違う異安心の人について仰ったことですけど、そんなことも知らないでしょ。 次に親鸞会でも有名な「されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。 それはおぼつかなきことなり。 」ですが、これは「おぼつかなきことなり」で往生はできないとは仰っていないですね。 不確実、ということは往生できる人もあるしそうでない人もあるの意味ですよね、古文が読めれば分かります。 つまりは念仏に信心が伴っていないと報土往生はできないという話で、これは親鸞聖人も全く同じこと。 だから教行信証には信巻がある訳ですよ。 ただし、念仏はおまけではなく、念仏が大前提でそこに信心ですね。 じゃあ信心とは何かですが、それは簡単に言うと、念仏を称えて助かると信じたことです。 ですから、念仏と信心といっても、それはそのままあてはめると 念仏と念仏を称えて助かると思った心 ですから、まとめていえば念仏を称えて助かるで間違いない訳ですね。 もう一つ信行両座の淨論ですが、これもよく読みましょうね。 行の座に自信一杯に入った人はいないのです。 迷ったのですね。 信は念仏称えて助かる心、行は念仏 信と行のどちらで助かるかと言われて、どちらとも言い難い訳ですよ。 親鸞聖人の御心は、信心のない念仏もあることを訴えられるために信と行を敢えて分けられたのですが、そこは法然上人も明確に仰ったことがないので、どちらか迷った人ばかりであった、という話ですよ。 お聖教を読んだことのない高森会長の知らないことでしたね。 投稿: 2016年5月 3日 火 20時54分 座り込み事件はテレビ、ニュースで見ました。 その数日前に過激派が国鉄の通信ケーブルを切断する事件があったので、本願寺が過激派組織に占拠されたとしか見えませんでした。 まさか一年後に親鸞会のバスに乗るとは想像もつきませんでした。 過激派のイメージがあり恐ろしい会だと警戒していました。 聴聞する為に駅で野宿していたので、警察に何度も職務質問され怪しい人に思われていました。 周囲からも危ない奴だと思われていました。 親鸞聖人の時代の同行は命がけで本当に殺されてしまうのでその比ではないですが、真実求めるのにかなりの危険が伴います。 楽して聞ける教えではなく、簡単に止められる教えでもありません。 どうして聞き続けてこれたのか全く分かりません。 蓮如上人の時代にはかなりの人数が一向宗だという理由で殺されてしまいました。 殺されれば元も子もないと思うのですが。 真実の為に殺されたり犯人にされるのは御免です。 投稿: 2016年5月 3日 火 21時14分 >>聴聞する為に駅で野宿していたので、警察に何度も職務質問され怪しい人に思われていました。 周囲からも危ない奴だと思われていました。 オウムやISILが野宿したら普通の人は危ないヤツと思うでしょう。 親鸞会が仮に真実いっぱいの団体であっても普通の人から見たら野宿の人は警戒されます。 それは見方が悪いのではなく、そう見せている方の責任だと考えるのがまともです。 それを「真実求めるのにかなりの危険が伴います。 」と書くのが信じられない。 真実を求めたら、不審なことをしてもそれは目を潰れということですか。 >>真実の為に殺されたり犯人にされるのは御免です。 そんな心配より、絶対自らだけは正しいという考えをもつと、「真実の為に殺ろしたり犯人になる」可能性があるという心配をして下さい。 よろしくお願いします。 投稿: 2016年5月 3日 火 21時45分 >念仏唱えて救われるのではなく、信心が大事だと教えるのは高森先生だと思います。 念仏は分かり易いけど、信心がハッキリするとは難しい事です。 >念仏唱えて往生がハッキリとしましたか? 信心のことを知らない異安心の高森会長の話を信じているから仕方がないだろうけど、正しい信心を正しく理解した方がいいですよ。 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。 (末灯鈔) 高森会長の知らない信心の定義 信心とは 「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」 なので、念仏称えて往生できると深く信じたことを信心と言う。 結局念仏なのよね。 諸善なんか信心とは無関係どころか、諸善を捨てたのが信心なんですからね。 この程度のことも知らないのが高森会長であり、中村僚とかいう学力のない人の理解ね。 投稿: 2016年5月 4日 水 09時38分 》生きるために生きるでわおかしいと親鸞会で言われたが、 高森家より才能も誠意もある講師達が辞めないのは自ら教義否定だと思う。 みんな生きたいから親鸞会に絡め取られたんだろうか。 カルト脳の人と話すより外に出て、色々な人と話す方が健全だろう。 これもこの通り、極まりない当然な話です。 浄土真宗ならば、きちんと正統な場所がありま す。 それから、あたら才能や学問や人生を捧げる価値 の無い者に振り回されるのは勿体無いです。 また汗水たらして働いて生きている人に失礼です。 外れた浄土真宗にもならない外道を撒き散らした 挙句、親鸞会以外を否定するのは以ての外です。 里見浩太朗や尾木ママなどの有名人だと尻尾を振る、 あなた達は最低です。 投稿: 2016年5月 4日 水 11時10分 待ってました 笑 二種深信について善導大師は2通りの表現をされていて、1つは親鸞会でよく使うもの。 もう一つが、親鸞聖人は2回も教行信証で紹介されるほど重要なもので、親鸞会の知らないもの。 深心はすなはちこれ真実の信心なり。 自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。 いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。 機の深信は、善が薄く少ないから三界から出ることができない。 法の深信は、念仏を称えることが十回から聞くものまで往生できる。 簡単に言うと、善では助からない、念仏1つで助かる、が二種深信。 投稿: 2016年5月 4日 水 16時14分 >機の深信は、善が薄く少ないから三界から出ることができない。 「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。 (教行信証・信) 人天の天は、天界です。 三界の最高の天界も黒業ではないのですか? 貴方の意見では、黒業と白業が混在する天界という意味なのでしょうか? もし貴方の言うように混在するとしても、 混在不可能なハズの黒業と白業が混在可能な理由は何ですか? ・・・・・・ 一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。 虚仮諂偽にして真実の心なし。 (教行信証・信) 阿弥陀如来のお力なくして、自分の力だけでできた善は全く無いという意味ではないのですか? 投稿: 2016年5月 4日 水 18時18分 名号、名号と出てきますが、名号=念仏ではない所があるから難しいのです。 其の名号を聞きては、ただの念仏とは違います。 だだ口にいくら念仏唱えても・・とあるように。 御文章のいたる所に分かり易く書いてあります。 法然上人は信心をよく念仏念仏と説法していたらしいので、信行両座の淨論では常に念仏と聴聞していたので、ほとんどの人は行の座に入りました。 教科書でも法然上人は浄土宗をつくり、ただ念仏する教えだという事になってます。 名号、念仏、信心は複雑な関係があり、単純にお聖教を出して解釈は出来ないと思います。 阿弥陀仏から賜った信心を文面や言葉で表すのは簡単な事ではありませんので、読む人の都合に合わせて違った解釈になる恐れがあります。 自分で勝手に解釈して鬼の首取ったかのように振る舞う行為は大変危険なので警告致します。 お聖教大好きなそなたは、絶対に警告に従わない事は明白ですが念のために。 投稿: 2016年5月 4日 水 20時54分 >法の深信は、念仏を称えることが十回から聞くものまで往生できる。 十回からではありません。 ご本願には「乃至」がそえてあります。 本願の文に、「乃至十念」と、ちかいたまえり。 すでに「十念」とちかいたまえるにてしるべし、一念にかぎらずということを。 いわんや「乃至」とちかいたまえり、称名の遍数さだまらずということを。 (一念多念文意) 「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。 如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。 ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。 この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。 (尊号真像銘文) 上記に、「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、」 とあります。 下至というは、十声にあまれるものも聞名のものをも往生にもらさずきらわぬことをあらわししめすとなり。 (尊号真像銘文) 聞名のものとは、真実信心をえた人という意味ですよね? ご自分でも「聞くものまで」とおっしゃっています。 投稿: 2016年5月 4日 水 21時51分のコメントと矛盾していませんか? 一 一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしという事。 このこと、多念も一念も、ともに本願の文なり。 いわゆる「上尽一形」・「下至一念」と等、釈せらる。 これその文なり。 しかれども、下至一念は、本願をたもつ往生決定の時剋なり。 上尽一形は、往生即得のうえの、仏恩報謝のつとめなり。 そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念も、ともに往生のための正因たるようにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。 さればいくたびも、先達よりうけたまわり、つたえしがごとくに、他力の信をば、一念に即得往生ととりさだめて、そのとき、いのちおわらざらん機は、いのちあらんほどは、念仏すべし。 これすなわち、上尽一形の釈にかなえり。 (口伝鈔) 投稿: 2016年5月 5日 木 02時03分 往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまいらせ候いぬれば同一なり。 略出 【御消息集(善性本)】 しかれば、世のなかに、ひとのあまねくこころえおきたるとおりは、ただこえにいだして、南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、極楽に往生すべきようにおもいはんべり。 それはおおきにおぼつかなきことなり。 されば、南無阿弥陀仏ともうす六字の体は、いかなるこころぞというに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくいたまえる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらわしたまうなりとおもうべきなり。 しかれば、この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわずらいもなく、もろもろの雑行・雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明をはなちて、そのひかりのなかにおさめいれおきたまうなり。 これをすなわち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとはもうすなり。 または、不捨の誓益ともこれをなづくるなり。 かくのごとく、阿弥陀如来の光明のうちにおさめおかれまいらせてのうえには、一期のいのちつきなば、ただちに真実の報土に往生すべきこと、そのうたがいあるべからず。 このほかには、別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修しても、なににかはせん。 あら、とうとや。 あら、ありがたの阿弥陀如来や。 かようの雨山の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞや。 ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、こえにとなえて、その恩徳をふかく報尽もうすばかりなりとこころうべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。 文明六年八月十八日 略出(御文章 第三帖) 投稿: 2016年5月 5日 木 02時39分 しかれば、世のなかに、ひとのあまねくこころえおきたるとおりは、ただこえにいだして、南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、極楽に往生すべきようにおもいはんべり。 それはおおきにおぼつかなきことなり。 「おおきにおぼつかなき」なので、往生できないではない。 自力の念仏では報土往生できないが他力の念仏なら報土往生できるので、自力か他力かの違いが重要で「おぼつかなき」になる。 弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり 誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ 信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。 また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。 されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。 詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。 投稿: 2016年5月 5日 木 03時49分 いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。 善導大師の基の『往生礼讃』では いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。 念仏が10回から1回までとなっていて、それを親鸞聖人は10回から聞くものまでとされた。 直接『往生礼讃』を引用されず、『往生礼讃』を引用した『集諸経礼懺儀』から引用されているところがポイント。 念仏を称えて助かけるという誓いを信じた信心の重要性を顕わされたもの。 当然、念仏を称えて助かるが大前提 投稿: 2016年5月 5日 木 04時04分 念仏を信後の報謝の念仏に限っている親鸞会の間違いは、明白。 念仏往生、往生の業は念仏と教えられているのに、報謝の念仏なら意味わからない。 お礼を言って助かるの? 親鸞会会員の知能なんて、この程度のものよ、たとえ東大卒でも。 本願を、念仏称えて助かると教えられたのが、善導大師、法然上人。 それを、念仏称えて助かると深く信じて助かるとニュアンスを変えて教えられたのが、親鸞聖人。 いずれも、念仏称えて助かるは同じというか、これを否定したら、本願でなくなる。 ところが、念仏称えて助かるは間違いと否定しているのが高森親鸞会。 高森親鸞会が、本願を正しく説明できないのは、浄土真宗を知らないから。 投稿: 2016年5月 5日 木 06時15分 親鸞会の学生勧誘の失敗と、学友部の衰退は既に10年以上前から内部で問題になっていました。 当時からその原因を少子化やゆとり教育、果ては本願寺の妨害にあると思い込む幹部会員が跡を絶ちませんでした。 勿論、そうではありません。 偏に、会が偽装勧誘等の反社会的活動を続けてきたこと。 会長や幹部が、自分を慕って従いて来てくれる会員に対し悪意ある言動を繰り返してきたことの結果です。 判り易い因果の道理です。 会長や幹部が因果の道理を全く信じていないことが証明されたに過ぎません。 悪人(会長と幹部)も幸福を求めますが、悪を為すことによって幸福を得ようとするという典型例です。 投稿: 2016年5月 6日 金 00時13分 このカルト教団にだまされて 人生、家族、老後を棒にふった 借金地獄で今日もまた お金の工面に右往左往 子供が腹すかして待っている 妻は心労で倒れちまった なんとか借金返そうと 夜中必死でチラシ配り 過労で、こけてどぶに落ち 血と泥水で服汚す なんでこんなことになったのか 情けなくてただ涙があふるるばかり 俺はとうとう耐えきれず 自殺の名所へ車を走らせた まわりは何もみえない 暗黒の海 俺はヤツらを許さない 絶対ヤツらを許さない もうなにもできない自分が 情けなく惨めで涙がとまらない 飛降りようと下を見るが 足が竦んで飛降りられない 誰か背中を押してくれ 誰か背中を押してくれ 投稿: 2016年5月 6日 金 19時42分 こう言うと奇異に聞こえるかもしれませんが、親鸞会教義の枢要は人集め・カネ集めです。 スタートは人生の目的ですが、次のような構造で人集めカネ集めに帰着します。 2年目以降になると本性を現します。 投稿: 2016年5月 6日 金 21時13分 真剣に真実求めると、そういう事態に陥る事もあると思います。 今まで一生懸命に因果の道理を信じて努力してきたのに何でこんな事になったのか。 光に向かってきたのになぜだ。 何でこんなに不幸になるのだ。 阿弥陀仏はお慈悲な仏でなかったのか。 絶対に何かがおかしい。 その時、善知識は「阿弥陀仏は病気直したり金儲けさせる仏でないぞ。 そうおもっている人はお門違い、よそに行ってくれ」と突き放しました。 自分は一生懸命に聴聞してきたと思ってましたが、今まで何も聞いてなかったんだ。 因果の道理も全然分かっておらず、阿弥陀様を恨む心しかないではないか。 今まで何やって来たんだ。 親鸞会や善知識を恨んで切り刻む恐ろしい心の塊だ。 真実聞く機が全くない。 地獄と聞いても少しも驚く機もない。 金輪際助かる縁手掛かりが全くない奴、もうどうしたらいいのか全く分からん。 生きる屍だ。 いてもたってもいられない。 苦しいよ苦しいよ!ともがき苦しむ時、何処からか、ラジオのチューニングが合った様に「そのままだ」という声がハッキリと聞こえてきました。 その一念で明るい心になり、本当だった本当だった、助かる縁のない奴が助かったと涙が止めどなくあふれ出し、南無阿弥陀仏と何度も言わずにおれません。 そういう体験をする為には、苦労して一生懸命に真実を求めるより仕方ありません。 自力一杯で求めたからこそ自力無効と知らされる時がきます。 その体験をする手前の状況を表しました。 投稿: 2016年5月 6日 金 21時16分 >親鸞聖人-念仏称えて助かると深く信じて助かる 「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。 如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。 ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。 この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。 時差がある。 信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。 (末灯鈔) されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。 (末灯鈔) 念仏称えて助かると深く信じて助かると親鸞聖人は断言しておられますね。 しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。 これを「聞」と曰うなり。 「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。 「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。 「乃至」と言うは、多少を摂するの言なり。 「一念」と言うは、信心二心なきがゆえに「一念」と曰う。 これを「一心」と名づく。 一心はすなわち清浄報土の真因なり。 (教行信証・信) 投稿: 2016年5月 6日 金 22時53分 身近な人で老親が親鸞会にだまされ途方にくれているという例を知っております。 私自身の家族が被害に逢ったわけではないので、高見の見物という思いや、「それなりに立派な学歴や職歴の持ち主たちばかりなのにどうしてあの程度のカルト教団にだまされるのか?」という思いが無いと申せばウソになってしまいます。 とりわけ、老夫婦のご主人のほうの、放心したような目つきで「じぃ~んせいのもぉ~くてき」「500年に一度のお方、たぁ~かもりセンセイ」とつぶやくお姿を、心のどこかで笑う思いがないと言えばウソになります。 おのれの凡夫性をも改めて強く認識させられます。 ですが、だからこそ、だまされる人をいっそう追い詰める者(個人であれ組織であれ)をこのうえ好き放題にさせてはいけない、という思いにたどりつきます。 その「たどりつく」という思いは、「われならぬわれ」からのうながしではないかと拝しております。 生物としての高森氏はいずれは終焉を迎えますが、彼の悪業や悪知恵を研究し、記録することは同様の悲劇を少しでも減らすために、やはり欠かせないように思われます。 ぶるうのさんと皆様、そして私自身のいっそうの精進が、ご縁の許す限り継続されることを念じてやみません。 投稿: 2016年5月 7日 土 12時57分 18願 =念仏往生の願 =もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ(行巻) =もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは正覚を取らじ(行巻) =名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。 (末灯鈔) 以上が18願の言い換え 以下は念仏往生の意味 念仏往生 =念仏成仏これ真宗(行巻) =ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得(行巻) =往生の業は念仏を本とす(行巻) =正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。 称名はかならず生ずることを得。 (行巻) =ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生す(唯信鈔文意) 投稿: 2016年5月 8日 日 04時59分 乃至一念について おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。 (行巻) 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。 そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。 この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。 また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。 行と信とは御ちかひを申すなり。 (末灯鈔) 行の一念と信の一念が別だと思っているところが異安心の証拠。 信の一念を説明されているところを見つけて、「乃至一念」に行の一念の意味はない!と喜んでいるなんて、実に愚か。 投稿: 2016年5月 8日 日 05時05分 やや日刊カルト新聞さんが一昨年夏、世田谷の公共施設で行われていた親鸞会の偽装布教活動を見事に潜入取材なさいました。 その成果を引っさげて区役所を訪れ改善を求めたけれど、応対した係員は 「盗撮という手段でなされた録画を見ることはできません!」 とのたまい、カルト新聞からの改善の申し入れを拒絶なさっています。 けれども思うにお役所の中で忙しい中、ただ一人録画を通して見、そして不快感を覚えたであろう人物がおります。 その人こそ時の区長でいらした保坂展人氏にほかなりません。 左翼活動家として少年期から中年期までを過ごした保坂氏は、官憲が盗撮盗聴をも交えた捜査を行うことを普通の公務員よりはよほどよく知っているし、そういう手法を用いる組織は、たといやや日刊さんのような民間組織であっても生理的に受け入れられないものと拝されます。 やや日刊カルト新聞さんが今後も似たような突入取材をなさるのであれば、そして取材の成果をお役所へ持ち込んで改善を求めようとお考えでいらっしゃるならば、その役所のトップがどういう経歴と思想信条の持ち主であるのかをよくよく御研究なさったうえで、取材をお進めになるよう念じてやみません。 アメリカやヨーロッパではたといテロ組織のような悪の集団を捜査・訴追する場合であっても、手続きの透明性や公正性ということがずいぶん昔から重んじられているようです。 若き日のオバマ氏が交際した左翼テロ組織のリーダーは、捜査の手続きに問題があったので釈放されましたが、その際、 「こんなに簡単に釈放してもらえるのなら、もっとやっておけばよかった……」 などと迷言を吐いております。 官憲の捜査とマスコミの取材とでは比べ物になりませんが、それでも親鸞会をして 「もっとやっておけばよかった」 などと言わしめることなきよう、親鸞会の偽装勧誘を公的機関に知らせ、改善を求める場合にはいっそうの注意が欠かせないことかと存じます。 投稿: かえすがえすも惜しまれます 2016年5月 8日 日 13時21分 『なぜ生きる』の主要な著者は、あくまでも明橋医師と伊藤氏と見るべきかと思います。 同書のはじめのほうに、著者のうちの一人の幼少期の辛い経験として、 両親の離婚とそれに先立つ夫婦喧嘩のこと が書かれております。 これがもしも明橋医師の幼児経験なのだとしたら、カルトに迷ったばかりか多くの他者をも迷わしめた悪業は悪業として、なおいくばくか恕すべきものありと思われます。 いかがなものでしょうか? もとよりぶるうのさんや、現に有益なブログをお立ち上げの元専任講師諸氏は心に闇を抱えることなく、たまたま運悪くカルトに出くわし、そこから這うようにして立ち上がられた人ばかりと存じますが、幾百人もの元・現専任講師の中には幼少の日に心に闇をかかえ、それが親鸞会に入ってのちいっそう増幅されてしまったような人も少なくないと思われます。 投稿: これって講師の心の闇でしょうか? 2016年5月 8日 日 21時10分 50歳前後の皆さんはテレビで実写版の仮面ライダーをごらんになった方も多いことかと存じます。 初期のころ、仮面ライダーはごていねいにも技の名と効能を、ショッカーや怪獣たちに説明してくださっていましたが、それを見て私の母は 「そんな能書き垂れてるひまがあったら早く敵をやつけなきゃ!」 とつっこみを入れておりました。 高森氏は「三願転入が不可欠だ」という趣旨のことをおっしゃっていますが、ちんたらちんたら三願転入してるうちに無常の風に襲われたらどうするんでしょうか。 あっ、そうだ、臨終に観音菩薩の説法が拝聴できるんでしたっけ。 ってことは阿弥陀様は被災者を直接慰問せず、秘書を派遣するだけの世の少なからぬ政治家と同程度の慈悲とぼしきお方ってことになりはしませんか? はじめにもどると、三願転入がどうのこうの説こうと必死に努力している今現在の高森氏は、人間の知識の産物である「(初期)仮面ライダーシリーズ」の脚本家と同レベルか、それ以下ということですよね。 「それ以下」と申しましたのは、脚本家も「こりゃまずい!」と思ったのか、新しいシリーズに入るにつれ、ライダージャンプやライダーキックについて仮面ライダーが能書きを垂れる場面がしだいに姿を消していったからです。 願わくは高森氏の迷雲も次第に晴れわたりますように。 投稿: 仮面ライダーじゃあるまいし 2016年5月 9日 月 10時37分 仏教の目的はあくまでも往生であり、高森会長の三願転入論は往生の妨げとなる。 親鸞聖人は平生業成を説いておられるが、三願転入は勧めていない(ご自分がたまたまそのような経路を辿って獲信した経験と心の動きを述懐されているが)。 高森会長の著作を見ると三願転入の文の内容・語を誤解しているのがわかる。 親鸞聖人は19願を「仮令の誓願」 化身土文類 といい、その行道を仮門または要門と呼んでいる。 仮門、要門とは真実の仏道に到るための仮の方便道、主要な方便門というほどの意味をあらわし、仮りに成就することもあるが、その行道の成果は決して確定的ではなく、救済の成立は飽くまでも不確実だという意味だ。 いかに平生に精進策励して行業を修習しようとも、もしもその臨終において、正念に住し来迎見仏することができないならば、その行道すべてが空無に帰するという道である。 親鸞聖人はこのような往生のため行道を厳しく否定した。 三願転入のことを親鸞聖人が書いている本当の意味は、19願の諸行をしている人や20願の自力念仏している人を18願他力念仏往生の道に導くことであって、19願の諸行や20願の自力念仏自体を推奨しているわけではない。 三願転入を勧める事は自力の行・念仏を勧めてしまうことになるから。 したがって高森会長の三願転入論は親鸞聖人とは全く反対の立場であり、もし彼がそれを浄土真宗の教えだというなら、全くの誤りというほかない。 投稿: 2016年5月 9日 月 11時30分 大川某は公共の電波を使って、やれおのれが宇宙を作ったの、宇宙の最高神であるのと誇大妄想をふりまいております。 その彼ですら、そろそろ子女たちへ事業を分担継承せしめつつあります。 若いと思った大川某もいよいよ満60歳。 そろそろしかるべき子女へ彼なりの帝王学を授けつつあるのでしょう。 たとえば傘下の芸能プロダクションは長男が社長を務めております。 それに引き比べ、高森氏は光晴氏へ帝王学を授けるつもりが初めからなかったのではないかとさえ思われます。 哀れをとどめるのは高森氏亡きあとの2000畳でしょうか。 ちなみに私は20年来の大川氏のラジオ番組の「ファン」です。 土曜の朝も早くから無理に早起きして眠い目をこすりながら彼の誇大妄想(30分番組の終わりの数分間だけ咆哮)を拝聴した理由は、 「こんなやつでも生かされている。 日本も地球もまだ捨てたもんじゃないぞ!この僕だってまだ生きていていいはずだ。 そんな無茶苦茶な悪事を働いたわけじゃないんだし」 という喜びをかみ締めんがためでした。 投稿: 公共の電波で誇大妄想をばらまく彼ですら 2016年5月 9日 月 16時41分 目的のために手段が正当化することはありません。 目的が正しいから(正しいと信じているから)組織的犯罪行為が許されるとはならないのです。 盗聴、盗撮は違法、犯罪であるから、盗聴教団と呼ばれた創価学会はフランスやドイツその他の国でカルト指定されたのです。 創価学会は親鸞会の100倍以上の規模であるから、余計組織的反社会的行為、犯罪行為は明らかになりやすいからというのもありますが。 犯罪を正当化する宗教はほぼカルト宗教とみなされてしまいます。 オウムしかり、顕正会しかり、創価学会しかりです。 カルトでないと断定する親鸞会がこのような犯罪行為を組織的に行うことは考えられません。 上記の新興宗教と同じようなことをしていれば、同じようなカルトと看做されることを同意したと思って構いませんよ。 投稿: 2016年5月 9日 月 23時32分 悪事の証明には録画録音あるいは書物を全部見せねば分からないではないですか?! それを著作権と図々しく言って、訴えてくる親鸞会。 いいですか、法律がどうの理屈がどうのと言いますが、悪事が許される肯定される理由にはなりません。 ここで頭打ちになっているのなら、親鸞会の悪事は、 【みんな知っている】という事です。 法律的にどれだけ逃げようと、オウム事件の時も青山弁護士が出てきました。 弁護士がこの手の団体で出たら、状況証拠としては同じです。 また、オウムは選挙にも出て来ました。 同じです。 あえて、同じ、と言っているんですからね。 どう言い訳しようと、偽装勧誘、嘘を付いて誘う事です。 これは駄目なんです。 また著作権などと言っていますが、高森会長が他人の文章を盗んだのは事実なんです。 いいですか、何度でも言いますよ。 偽装、嘘を付いて誘う、他人の文章を泥棒して本を作る、これは 【みんなが分かる、誰が聞いてもおかしいな、という事】なんですよ。 投稿: 2016年5月10日 火 09時07分 『カルトの見分け方 必ずしもカルトが以下のすべての特徴を有しているわけではありませんが、その大部分が当てはまるなら、カルトと考えて差し支えないと思います。 1.真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。 ncv. カルトとは一体何んなのかということで、私たちがカルトの定義について理解する上で、とても役立つものと思い、ここに紹介しました。 この方は「親鸞会はカルトではない」と言いたいようですが、個々の文を見ると意味がわかりにくいというか、まだ日本語に慣れていない外国人が作文したような日本語です。 また論理的なつながりにも欠けています。 親鸞会がカルトではないことを前提条件にして、親鸞会はカルトではない、と結論付けていて、同義反復(トートロジー)で意味がありません。 かつて、2ちゃんねる掲示板で排泄物の俗称を連呼していた親鸞会工作員Mさんが、長文書くとしばしばこのようなこなれていない文章になっていたのを思い出します。 あの人はまだ学歴詐称しているのでしょうか? 投稿: 2016年5月10日 火 16時52分 >>金と欲の我利我利亡者には見えませんが信じられません。 あなたはきっと信じ込みやすい良い人なんでしょう。 逆に言えばだまされやすく、おかしな新興宗教のカモにもなりやすいです。 高森会長は人格者と善知識を装っていましたが、あくまでもお芝居です。 高森会長がとても強欲なのは、近くにいた人はみな知っています。 2000億の金員を高齢者等から騙し取った豊田商事永野会長と懇意だったんですよ。 そこから多額の献金を頂戴してうれしそうでした。 汚れた黒いお金。 類は友を呼ぶということです。 高森会長は信心はテキトーだけど、お金には辛くすごい執着心があります。 相対の幸福(金)を信者に捨てさせて、自分たち一族がそれを拾いあつめてきた人生です。 投稿: K 2016年5月11日 水 16時11分 あのマンガは、それだけを読むと主人公の真摯な求道の歩みに素朴な好感がいだけました。 中曽根首相とおぼしい政治家や、岡田有希子自殺事件をモデルとしたとおぼしいヒロインの投身自殺未遂といったディテイルから見て、主人公の1986年当時高校3年生であったものと見られます。 その後は翌年、京都の大学に入学し、ヒロインともども仏教青年会(事実は親鸞会)での活動に没頭してゆく……この当時京大では学生運動は完全に終息しておりましたが、同志社大学では別世界さながらにかなりの乱闘が繰り返されていたこと、この時代の同志社に学んだ佐藤優氏の著作で読み知っております。 主人公は作品の結末部分で、 「仏法との出会いにより、私の人生は新たな局面を迎えました」 と語っているけれど、その後の彼はどうなったのだろうか。 彼が大学に学んだのは1987年から4年間ということになりますが、時あたかも二度とは帰って来ないであろうバブルの日々でした。 主人公やサークル仲間はそんな外界の喧騒をよそに、毎週富山へ通って当時60歳前後だった高森氏の法話を必死に聞いていたのでしょうか。 なんだかいじらしい気もします。 舞台の楽屋裏では高森氏と光晴氏が親子して笑いをかみ殺しつつ、 「またまたダラがたくさん入って来たわ。 へへへ」 とか手を取り合って喜んでいたのでしょうか。 アニメ「世界の光」に比してどうにも野暮ったいけれど、皆さまのあのマンガへの御感想などうかがいたく筆を執らせていただきました。 むろん私はこんな「毒草」を生み出した親鸞会関係者を許す者ではありませんが、これに惹かれて親鸞会へお入りになったという方も少なくないように思われ、このあたりで率直な回顧談をうかがえればと念じている次第でございます。 投稿: マンガ『青春の旅立ち』の主人公葉その後 2016年5月11日 水 19時31分 みなひとに欲を捨てよと説きながら あとから拾う寺の住職 江戸時代の著名な狂歌だったかと記憶しますが、なんだか高森氏のことを詠じているように思われてなりません。 『白道燃ゆ』では、ご自分がしばしば寺の住職と勘違いされることに対し、強い嫌悪感を表明しています。 ところがこの40年来、彼はやることなすこと寺の住職に習ってばかりです。 そうそう、物故者追悼法要にしても、きらいなはずの本願寺の法衣に習った衣躰を出仕者に強いていますよね。 それこそ教誨服にすればいいのに、と思います。 彼は心の底では寺の住職になりたくてたまらなかったし、ひょっとして宗政へも打って出たかったのでしょう。 「わしなら宗務総長だって務まるっ!」と信じ込んでいたかもわかりません。 ところが寺の次男、それも住職と血のつながりなき養子だったことがわかり、その夢ははかなく消えました。 「近親憎悪」とか、「愛憎半ばする」とかいった言葉で高森氏や親鸞会の行動は説明可能ではないかと思われます。 投稿: 「坊主根性」が抜け切れないんでしょうか? 2016年5月12日 木 09時41分 「なぜ生きる」のアニメが映画化されるね。 蓮如上人役の声優をやる里見浩太朗は、水戸黄門で助さんと光圀公やってたけど、この人選はケンテツ君の肝いり? ケンテツ君は水戸黄門ファンだとか聞いたことあるので。 或いは脳内で自分と水戸黄門と重ね合わせているのかもしれないがw 里見浩太朗だとギャラ高そうだ。 「なぜ生きる」の映画製作に数億かかったとか言われてるが、これも会員への募財によってまかなわれたんだよ。 たぶんヒットはしないと思うけど、わずかでも出た興行収入は結局「仏法のため」という名目で、ケンテツ一族のふところに入っちゃうんだろね。 一般社会の常識だと出資者に配当されるから、ちょっとでも出た収益は経費を引いて会員に分配されても良さそうだけど、カルトは違うよね。 しかも会員に対して「映画館でこの映画を見ることは「善」になるから、見なさい」と入場料まで取られて見るハメになるかもw。 よくできた金儲けだ(笑) ギャンブルをして勝てば教祖一族のふところに、負ければ会員負担で損切りして終了。 まさに坊主丸儲けを地で行ってるよ、ケンテツ君は。 投稿: Kmountain 2016年5月13日 金 02時12分 >やや日刊カルト新聞さんが一昨年夏、世田谷の公共施設で行われていた親鸞会の偽装布教活動を見事に潜入取材なさいました。 その成果を引っさげて区役所を訪れ改善を求めたけれど、応対した係員は 「盗撮という手段でなされた録画を見ることはできません!」 とのたまい、カルト新聞からの改善の申し入れを拒絶なさっています。 盗撮は犯罪です。 違法に収集した証拠は法律上証拠とはなりえないのです。 だから、盗撮、隠し撮りによって得た証拠を公的な機関は拒否されたのです。 「善のすすめ」を説いていない、このような機関でさえ、犯罪行為によって得たものは拒否されるのです。 もし、親鸞会が同じような盗撮行為を組織的あるいは、幹部によりなされていたら、それは カルト組織と認めたと同じだと思いますので、このようなことを、「善のすすめ」が救いには絶対に必要だと説く親鸞会がすることは絶対にありえないことです。 もし、そのようなことがあるなら、創価学会が盗聴教団と呼ばれ、カルト指定されたように、親鸞会も盗撮教団と名指しされ、カルト指定、認定されることになるでしょう。 親鸞会はカルトではないと主張されているのでありえないことです。 また親鸞会のあらゆる行為、組織的行い、幹部講師の行いについても、法に反する行為等に関与したことは一切ないと主張されているS弁護士や、顧問弁護士による法律的チェックがなされているはずですから、正犯であれ、教唆、幇助であれ、親鸞会が組織的に犯罪行為を行うことはありえません。 投稿: 2016年5月13日 金 22時45分 世上に流布している高森氏のお写真は20枚もないでしょう。 それから今年こそは光晴センセイのご尊顔をも拝みたいものです。 名は体をあらわすと言おうか、いかにも性欲強しって感じのご風貌でした。 そんな彼がひとこと 「おめぇかわいいなぁ」と言うと、 銀座のホステスだろうが、吉原のソープ嬢だろうが、ウルウルめろめろになったとも聞いております。 古くは池田大作氏、最近では大川隆法氏も秘書の女性を相手に悦楽の日々を過ごされましたが、これなどはセクハラ兼パワハラであり、にもかかわらず、被害者の側は洗脳が解けて幻滅しない限りは自己が被害者であるという認識を非常にいだきにくい、というところに根深い問題ありと思われます。 光晴氏はどう見ても体育会系ですが、それにしてもどういうふうにして自己の立場や権威を悪用したのか、今後似たような悲劇を少しでも防ぐべくぜひみんなして研究したいところです。 ただ、それにしても、彼や徹晴氏の最近のご尊顔を拝したいものです。 やはり何か非凡なところがあるのでしょうか? 投稿: 本当におがみたいです 2016年5月16日 月 13時28分 私は親鸞会に反対の立場です。 まず最初に書いておきます。 世田谷区が不当に入手したものは法的根拠が無い、というのは事実ですので仕方がありません。 しかし、正当に全てを録画させて欲しい、または提出して欲しいと言っても都合の良い部分を出してくるか拒否されるのは自明の理です。 では知りたければ、実際に参加してみなければ分からないという事になります。 お得意の自己責任です。 自己責任で突き放す事を散々追及したのも左派ですから矛盾しているのですが。 しかし、こうなると親鸞会の悪事はいつまでも分からないのでしょうか。 そんな事はありません。 どれだけ多くの人が親鸞会に関わり犠牲となり次々と焼畑のようになって段々と煮詰まってきています。 悪事がいつまでも蔓延る事は出来ません。 イエスマンを置き続けた結果、どんどん貧弱になり枯れていくのです。 livedoor. 被害者(セクハラや低賃金での酷使など)がどうして自分を被害者と認識できずにいるのかが、目を覚ました被害者をも含む多くの人々によって真摯に討論されつつあります。 この牧師は要するに高森父子を足して2で割り、かつ、光晴氏の愚劣さを巧みに覆い隠したような悪業を重ねて来ました。 目を覚まさない信徒に囲まれ、相変わらずウハウハの毎日です。 神も仏もあるものかと申し上げたい。 なお、親鸞会の専任講師諸氏にとっては、下に紹介する村上密牧師のブログ中の記事が、上記の記事ともども参考になろうかと思われます。 exblog. ある時期は、 それぞれ10名程が入寮していた。 女子寮は大部屋で仕切りがなく、 コンクリートの上にじゅうたんを敷いて、一人一畳位で過ごしている。 男子寮も仕切りがない10畳ほどの大部屋である。 献身者ともスタッフとも言われる 彼らは、朝から晩まで忙しく働いている。 田中氏の両親の介護が必要だったときは、24時間体制でスタッフがケアした。 田中氏の著書(テープ・CDを含む)の注文や発送も彼らの仕事である。 現代の「タコ部屋」と言われていることを田中氏は知っているのだろうか。 トータル・カウンセリング・スクール(TCS)の収入は、教会員は一切知らされていない。 TCSは田中氏の個人事業なのか。 それなら、貸借関係を結ぶべきである。 収益事業なら教会を使用しているから、収支報告は総会で発表すべきである。 アメリカに1億円以上もする住まいを持っているが、牧師の教会の収入で手に入れることのできる額ではない。 マジックで箱から出したのでもなさそうだ。 すでに種明かしは述べている。 スタッフの奴隷のような労働によってである。 加えて、話術とカウンセリングを混合したカウンセリングを高額にしている。 菓子箱に入れて宅急便で送金するように指定する方法は時代劇のようだ。 教会会計を通さない、領収書を書かない。 錬金術とは、非金属を貴金属にかえる秘術である。 田中氏は貴金属を非金属にかえてはいないか。 聖書は「卑しい利得」(1ペテロ5:2)を戒めている。 ミトラ教、ゾロアスター教の太陽神アミターバ「無量光」と融合して浄土仏教がインドで誕生しました。 投稿: 2016年5月19日 木 12時42分 機に生れつきたる善悪のふたつ、 報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。 宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。 宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。 ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、 往生の大益をば如来の他力にまかせて、 かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。 (口伝抄) 自己の善悪の宿業は、 弥陀の浄土に往生させて頂く上で、得にも失にもならず 一切関係ないのは言うまでもないこと。 宿善の厚い人は、今生に善を好み、悪をおそれる。 過去の悪業の重い人は、今生に悪を好み、善には消極的。 そのような善悪の有り様は過去世からの行為によるのであり、 弥陀の浄土に往生させて頂く幸せは、全く弥陀のお力によるのだから、 三業善悪の有り様によって往生の可否を関係づけるのは間違いである。 善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。 しかればまつたく、往生においては 善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、 これをもつて准知すべし。 (口伝抄) 善悪の業は、過去世からの行為に起因してあらわれているものであり、 全く、浄土往生に対して善業が資助にもならず、悪業が妨げにもならない。 これになぞらえて知るべきである。 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。 (口伝抄) この「進道の資糧」とは、この後に書かれている通り、 「出離の資糧」「報土の正因」ということなので、 我々がつとめる諸善は、どれだけやったところで、 それが往生の役には、全く立たぬということ。 口伝抄のいずれの御言葉も、 親鸞会で、高森顕徹先生が懇ろに教えておられる通り。 そのままである。 諸善はどれだけ励んでも、往生の助けにならない。 善根の多少と、往生とは、何の関係もない。 浄土往生の正因は信心一つ。 信心獲得は名号を聞く一つ。 それ以外の一切が無効。 親鸞会では徹底して教えておられる。 こんな程度では、 親鸞会の方々からは、きっと誰からも相手にされていないのであろう。 これらの口伝抄のお言葉は、 親鸞会で教えられている、そのままである。 所詮は、親鸞会の「宿善論」を、 「善をしなければ救われない」 という邪義にしか解せない飛雲氏の軽薄な信仰の悲しさなのである。 飛雲氏はそもそも口伝抄が読めていない。 「浄土教(18願)を信受する」と「獲信」の関係さえ、 全然わかっていない、無知丸出しの飛雲氏。 そして、おかしいのは、 これらの口伝抄の御言葉が、親鸞会で紹介されていないことに対して 「都合の悪い根拠を隠し、断章取義を繰り返す確信犯」 出されていないから「隠している」という・・・ 飛雲氏は、お子ちゃま? もはや異常人間と見做される程度である。 飛雲氏の文章には、このように仏法に対して余りにも軽々しい言葉が散在する。 これでは飛雲氏よりも信仰の厚い方が、見ておれず、離れてゆく訳である。 なんとも飛雲氏の人格と信仰が伺えるではないか。 やはり飛雲氏にとってのお聖教は、 駄々っ子のカミソリ。 お子ちゃまのオモチャである。 いずれにしても、これらの口伝抄の御言葉は、 親鸞会で言われている「宿善論」を破る根拠などでない、 それどころか、親鸞会の主張そのものであることは明明白白。 投稿: 宿善まかせ 御文章4帖目 2016年5月20日 金 01時17分 飛雲等の退会者の主張が邪義 親鸞会の説示が正意 と判明している。 と述べて、「機の善悪」と「報土往生」とを関係づけている。 今更、言い訳は通用しない。 「機に生れつきたる善悪のふたつ、 報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。 」 のお言葉に明らかに違反し、飛雲氏の説は他流と判明している。 どれだけ善を励んでも、 その善の功徳によって往生が早まることさえもないと教えておられる。 「善をしなければ信仰が進まない」という親鸞会の説示を 「善の功徳が往生を早める」などと誤解しているとすれば、 そんな大雑把な理解しかできない人にはとても判らないレベルの話しである。 親鸞会では、 「善業」と「報土往生の可否」とは無関係 「宿善」は「獲信の方便」「獲信の善因縁」 と教えられている。 投稿: 2016年5月20日 金 01時21分 機に生れつきたる善悪のふたつ、 報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。 宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。 宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。 ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、 往生の大益をば如来の他力にまかせて、 かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。 首をかしげる退会者は、 「善業」 と 「宿善」 との違いが分からないだけであろう。 と書いて、 「だから宿善と獲信とが無関係」 と理解する退会者の領解があまりにも粗雑なのだ。 投稿: 2016年5月20日 金 01時31分 覚如上人が教えておられることは、 「宿善あつい人」 か 「宿悪が重い人」 かは 「報土往生の可否」と無関係 ということである。 すなわち、 「過去の善根の多少」 と 「報土往生の可否」 とが無関係 ということ。 これは、他力の信心一つで往生するからである。 我々の善業は、一切、往生の役には立たないことを言われている。 我々の善業は、一切、「獲信」の役には立たないが、 「宿善」と「獲信」とが無関係 などとは、どこにも述べられていないことを知らねばならない。 それどころか、 「宿善」と「獲信」とは、どのような関係かを、 口伝鈔第二章に仰せである。 十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。 いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、 過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。 宿福なきものはこの教にあふといへども 念持せざればまたあはざるがごとし。 「欲知過去因」の文のごとく、 今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。 『口伝鈔 第二章』 十方衆生、すべての人の中に、 今生で弥陀の18願を信受(信心獲得)する人と、 今生で信受(信心獲得)しない人とがある。 その訳は、仏説無量寿経の中に説かれているように、 過去の宿善が厚い人は、 今生に、善知識の教えに遇い、信心獲得する。 宿福(宿善)のない(薄い)人は、 善知識に遇って18願の教えを聞かせて頂いても、 疑って信心獲得しないので、遇って遇わないようなものである。 「過去の因を知らんと欲せば」の御文の通り、 今生の有り様(信心獲得するか否か)によって、 宿善の有無(厚薄)は明らかである。 今生で獲信するか、それとも、今生で獲信できないか。 その結果の違いは、宿善の厚薄によるとの仰せである。 「宿善」と「獲信」は、無関係どころではない。 「宿善」と「獲信」は「深い因縁」がある根拠となる御文である。 まとめれば、 「宿善」とは「宿世の善根」のこと。 「善根の功徳」と「獲信」とは無関係。 「宿善」は「獲信」の善い因縁。 これがスッキリ判らないようでは、とても真宗教義は理解できず、 覚如上人のお言葉の意味も判るはずがない。 飛雲氏のように、自己矛盾した解説に陥ることになる。 投稿: 2016年5月20日 金 01時41分 では、その過去の因とは何かについて、源信僧都は『往生要集』に 問ふ。 もししからば、聞くものは決定して信ずべし。 なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。 それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。 これいまだ解脱を得ざるなり」と。 {略抄} また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。 {乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。 たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。 {以上} まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。 薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。 (現代語訳) 問う。 もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。 どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。 答える。《平等覚経》に説かれている。 善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。 もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。 また《大集経》の第七巻に説かれている。 もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。 中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。 たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。 これによってわかるであろう。 生死の因縁は不可思議なものである。 功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。 と教えられています。 「生死の因縁は不可思議なり。 」です。 五逆の者のように、「薄徳のもの」でも「聞くことを得るも、その縁知りがたし。 」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるので、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。 それを覚如上人が『口伝鈔』で、 十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。 いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。 宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。 「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。 と教えられているのです。 結局のところ、18願を信じるか信じないかと、過去世の善根との関係は判らないので、18願を聞いて信じる機が「宿善あつきもの」であり、聖道門の人のように18願を聞いても信じない機が「宿福なきもの」なんだと、覚如上人は仰った訳です。 ですから親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と表現なされているのです。 獲信したならば、過去世からの阿弥陀仏との御縁を慶びなさい、です。 自分がこれだけのことをしてきたから、獲信できた、と思うのは、親鸞聖人の領解とは違いますが、異安心の者には判らない境地です。 投稿: 2016年5月20日 金 02時25分 『往生要集』のお言葉には続きがあります。 仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。 いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。 この義、知りがたし。 (中略) ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。 これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。 (現代語訳) 問う。 仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。 どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。 たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。 答える。 この義は、なかなか難しい。 (中略) 故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。 ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。 源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。 「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。 」と明言をさけておられます。 それにも関わらず、過去世のことが判ったような振りをするのが、どういうことか、少し考えれば判る筈です。 この源信僧都のお言葉を承けられまして、覚如上人が『口伝鈔』で宿善のあついうすいの定義を「阿弥陀仏のお育て」となされています。 以上の宿善の意味を踏まえれば、親鸞聖人の教えを聞き求めている人に対して、往生・獲信のために善の勧めがないのは当然なことです。 投稿: 2016年5月20日 金 02時28分 問い 蓮如上人が仰っている宿善は、過去世の善根の意味ではありません。 たとえば3帖目第12通には、「それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。 さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。 まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。 されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。 」とあります。 親鸞聖人の教えを信じられる人が宿善の有る人で、親鸞聖人の教えを信じられない人は宿善の無い人になります。 要するに蓮如上人が仰っていることは、信心決定は親鸞聖人の教えを信じられるかどうかによって決する、ということです。 答え 『親鸞聖人の教えを信じられる人が宿善の有る人で、親鸞聖人の教えを信じられない人は宿善の無い人になります』 というならば、 『信心決定は親鸞聖人の教えを信じられるかどうか 宿善の有無 によって決する』 ということですね。 信心決定するということは、阿弥陀仏の18願に救い摂られたということで、死んだら必ず浄土に往ける身になるということです。 宿善の無い人は最初は親鸞聖人の教えを信じられなくても、信じられたならば、宿善の有る人になるということになります。 蓮如上人が仰っている宿善の有る無しは、過去世の善根の有る無しの意味ではないと主張するならば、ここで言われている『宿善』の定義が不明になります。 『蓮如上人が仰っている宿善は、過去世の善根の意味ではありません。 』 とは、宿善の定義を曲げる実にいい加減な解釈です。 蓮如上人は御遺言として、 「あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。 まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。 」 御文章4帖目15通 と信心決定はまことに宿善 宿世の善根 まかせと書き残されています。 投稿: 2016年5月20日 金 03時23分.

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月刊住職2016年5月号「本願寺派寺院が異安心として否定する親鸞会に譲渡されそうな危機」: さよなら親鸞会

ちはや ぶる 神 の 誓 ひ の 違 はず は 親 の 敵 に 逢 ふ 瀬 結ば ん

御參拜と御會釋。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 7月13日 月 00時36分21秒• 然りとて官人等の、天皇の命を僞り、神社の神位を我が心任せにして、神の尊卑を談じ、貴神を墮して賤神に贈位するなどは、幽冥界に入りては、其の罪、重し。 親に不敬をする等の罪は、之より輕きと、又た重きとの二つあり。 されど天皇を輕蔑し、高官として命令を僞り作りたるは、神の赦さゞる處にして、其の罪科、尤も重し。 又た現世天皇の御爲め、次で人民の爲めには、心をも盡すべしと、常に宣り給ひき」と。 したがつて天皇をはじめとし、皇族やその代理の神拜方式は、一般人の參拜所作とは、全く異なる。 今上陛下が、皇太子のころに外遊したことがある。 その歸朝報告の儀として、名代(使者)が伊勢神宮に詣でた時、たまゝゝ私(大鳳翁)は、外宮參拜の途中だつた。 衞視の注意で、參道わきに控へた私は、外宮の御饌殿に神拜をさゝげる使者の一行を目にする光榮に浴した。 お使ひの人の參拜を見て驚く。 人間界の方式では無く、神界の玉串奉奠の禮式だつたからである。 私の同行者は未熟で、つい、短見を口にした。 『間違つた作法ではないか。 『皇室には、皇室の方式があるんだ。 みだらな事は言ふなよ』とたしなめたが、承知しない。 數年後、その男は、玄道(神道)修行から脱落した。 具體的な作法を公表することは出來ないが、 皇室の神拜方式は、神界の正式作法で行はれる。 それには少なくても二とほりある。 天皇や皇族方は、現界の神社より上位に在ると云ふ、何よりの證明である。 但し神宮では、皇室の參拜方式は、内宮・外宮とも同一と説明してゐる。 祕儀をやたらに漏らさないと云ふ配慮からか、或は末端の神職は知らないかの、いづれかであらう。 天皇や皇族が、現界で下位になるのは、唯一、伊勢の大宮(内宮)だけである。 たまゝゝ師仙(紫龍仙)から、神界の方式を聞いてゐたから分つたことである。 『現世では、第一に天皇のために、第二に國民のために盡せ』と云ふのは、神界の意向である。 水位仙も、何箇所か、このことを記してゐるし、紫龍仙も、口頭では、機會あるごとに、天皇第一の道(天皇爲本之大道)を説いてゐた。 そのときの儀禮は、實に嚴重そのものだつたさうである。 神界の正式の禮法は、宮中のそれ以上であらう。 神界や宮中のことは、我々凡俗にはうかゞひ知れないが、非常に複雜、且つ丁重であると云ふ事實だけを、認識してゐればよい」と。 愚案、「御門(みかど)の御位は、いともかしこし。 竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき」(『徒然草』第一段)とは、徒らなる言葉、空理虚論では無いのである。 一口に「御拜」と申しても、天皇陛下が、天下統御の淵源である所の、皇祖に坐します天照日坐皇大御神(天皇陛下よりも上位)を拜し奉る「御拜」、と、天皇陛下が、皇祖の勅命翼贊を奉行する所の、下位の神明を拜する「御拜を賜ふ」御作法あるを、御承知いたゞきたいものである。 なほ之に據れば、外宮の御祭神の御地位も、遙かに恐察し奉るに足れり。 畏し矣。 亦た曰く、 「(昭和天皇の)神社御參拜の時などのご樣子を、お後ろから拜見してをりますと、いつも非常にご丁寧に、本當に目の前に神樣がいらつしやる、その神樣に對する御拜禮のご態度であると感じてをりました。 愚案、「天皇樣の、(靖國神社)ご親拜のご作法は、手水をお使ひになり、祓ひをお受けになり、それから本殿にお進みになつて、大きな玉串をおもちになつて、敬虔な祈りをお捧げになる」(松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』)と仄聞する。 然らば天皇陛下の行幸を忝ふする所の靖國神社は、大内山に於る「御參拜」の御形式に相當し、思ふだに、實に畏き極みである。 但し下々の立場から恐察すれば、「參」とは餘りに畏れ多し、必ず「御拜を賜る」と申し上げる可きであらう。 所謂る古史古傳なる者は、人神論にして僞書の典型と謂ひつ可く、光陰を失する勿れ。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 7月11日 土 01時04分1秒• 昭和四年九月・美甘政和門下同志會再版の文庫版)卷之第五 先年、余(美甘大人)が同縣人黒住教副管長なりし森下景端氏、未だ大分縣令たりし時、彼の地より得たりと云ふ異體文字の古書『上記』と名づくるものには、鵜葺草葺不合尊より神武天皇迄、御同名を以て七十三代の世を重ね玉ふことありと聞き、其の書を一見せんとするも、容易にこれを借り得ることを得ず。 偶々吉良義風氏が、これが要を摘んで譯したる『上記鈔譯』の出版あるに及びたるを以て、速かにこれを求めて一見するに、全く信を置きがたく、一度び原書に就いて、これを質さんとせしに、幸ひ森下氏の子息、余が鄰郡の郡長の任を受くるに至りたれば、これに乞ひて、其の原書を得、書記に托して、先づ神代の部十八卷を書寫せしめ、再三これを熟讀するに、吾が古傳書に載する所のものは、諸書の説を採りて、これを載せたるものにて、其の他、古傳に無き異説、全篇中、半を越え、中には他書に漏れたる眞の古傳には非ざるかと疑はるゝ程の説あるを以て、先づ試に他の古傳書に存するものを除き、『上記』の外、他に無き所のものをのみ集めて、これを閲するに、全く信を置きがたきによりて、余は、終ひにこれを採らず。 然れ共も余が原書を閲したるは、全部四十卷の内、漸く開闢より十八卷、則ち御三代目の鵜葺草葺不合尊迄のことにて、其の他は、未だ原書を得ざれば、吉良氏の『鈔譯』に就いて見たるのみなりしが、『鈔譯』にては、太古の所よりも、却つて鵜葺草葺不合尊七十三代の傳、聊か見る所あるものゝ如くなれ共、余は更にこれを信ぜざるなり。 こは贅言ながら、此の書を見ん人の爲めに、こゝに一言を加へ置くのみ。 三十八年一月・神道天行居『全集』第二卷所收) 『富士古文書』の記事等も、種々の發掘物と符合したりして、相當の參考となるべきものを混入しては居りませうが、少し極端に言へば、大部分は何等かの事實による創作であります。 『富士古文書』にある秦の徐福に關係ある消息等は、或る程度まで承認出來ますが、其れは別個の問題であります。 數年前から流行してゐる大衆文藝なるものゝ、我が幕末頃の空氣を取扱つた小説にも、多少の史實は交ぜ合してありますので、それでなければ、讀者としても作者としても、興味がないからであります。 斯うした心理は、昔も今も、人間の通有性であります。 『富士古文書』の記事が描寫せる太古の世界は、神界の實相と合致して居る點が稀少であります。 又た現界に殘されたる事實とも合つて居りませぬ。 たゞ 『富士古文書』とか、『上記』のやうな傳へは、異傳と云ふよりも、寧ろ古人の創作だといふことを主張することを明かにしておきます。 『富士古文書』の研究に就いて、近年、また多數の學者や名士が協贊して、相當の運動を起す豫定だとかの噂も聞きましたが、閑人の多い世の中であります。 【囘答(大鳳翁)】本田靈學式のサニハは、要注意である。 神懸かり状態になつた對象(これを神主といふ)に、いろゝゝ質問して、降りてきた神靈の次元を吟味するのであるが、神靈を體内に招き鎭めることは、非常に危險が伴ふ。 靈物を神靈と錯覺して、體内に入れてゐると、いづれは外道に陷るからである。 もつとも 正眞の神靈を體内に招き入れること自體が困難である。 【問ひ】古史古傳・野史・稗史などの信憑性は。 【囘答】古史古傳・野史・稗史と稱するものは、すべて「人神論」である。 これらの書物は、神界の實相や實在の神眞(神・神仙)の消息は、全く傳へてない。 神靈と神界の實在を認めない野史・稗史は、基本から間違つてゐる。 『秀眞傳』・『上記』・『富士文獻』・『竹内文獻』・『九鬼文獻』などは、登場する神が、みんな人間として描かれ、多くは過剩な天皇中心説(ひいきの引き倒し)か、あるいは逆に皇室に對する怨念の思想が盛り込まれてゐる。 幽冥觀と神觀を伴はない宗教書は、ある種の歴史書、あるいは娯樂小説として、それなりの價値はあるが、玄學的には、無價値である。 神なき神學であるからして、靈的不毛の荒野で、僞書といはざるをえない。 【問ひ】僞書は、どのやうにして成立したのか。 またその靈的背景は、どのやうになつてゐるのか。 【囘答】修理固成の反動として、狗賓妖魔や惡鬼・邪靈たちは、常に人間界を亂さうと、隙をうかゞつてゐる。 妖魔界には、優秀な作家がおほぜいをり、地上のめぼしい人物を見つけ、靈的に操つて代筆させたといふのが實情である。 幽眞諸界の修理固成を妨害して、自らの勢力を擴大し、神界に對抗したいからである。 世の中には、いろゝゝな遺傳子、換言すれば業(ごふ)や因縁を持つた者がゐる。 例へば先祖代々、皇室に對して反感を抱いてゐたり、體制側(幕府など)から追ひやられた怨念を、潛在意識にたくはへてゐたり、あるいは千年以上前の歸化人の子孫で、被差別の感情をそのまゝ繼承してゐたりと、無意識ではあるが、複雜な心境の國民は、いつの時代にも存在する。 いくら倫理道徳にかなつた善人であつても、皇室や體制側(政府や勤務先)に對して、憎惡やひがみ、上司や師匠に對する反抗心や下剋上の傾向を持つてゐると、日常の言動や思考・視座が、ついゝゝ反體制的になりやすい。 妖魔は、そのやうな未熟な魄につけ込むわけである。 古史古傳に、 天之御中主神をしのぐと稱する神を登場させたり、『古事記』より由緒正しいと力説したり、正系の皇統はとだえてゐると喧傳したり、現在の神々に替はつて壓迫されてゐた神が復活してくるといつたり、あるいは世の建て替へ立て直しが始まると煽動したりと、だいたい妖魔の手口は決まつてゐる。 神々の世界に抗爭があるわけでもないし、封殺された神が存在するわけでもない。 したがつて今まで隱れてゐた神が登場するなどといふのは、茶番劇である。 正眞神仙之大道(天皇爲本之大道)も、常に危機にさらされてゐる。 玄道を、單なる興味本位の技術論や御利益信仰にすり替へ、いたいけな若者を、神仙道(神道)オタクに仕立て上げようとする風潮があるが、これなども妖魔界と密接な關係がある。 もつとも甘い宣傳文句に釣られる讀者にも、半分の責任がある。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 6月18日 木 22時47分54秒• 昭和四年九月・美甘政和門下同志會再版の文庫版)卷之第四・開闢第四期・造化大成・幽顯分政世記之部 『古事記』に曰く、兄八島士奴美神、云々。 此の神、刺國大神の女、名は刺國若比賣に娶(みあひ)て生みませる子・大國主神。 亦の名は大穴牟遲神と謂し、亦の名は葦原色許男神と謂し、亦の名は八千矛神と謂し、亦の名は宇都志國玉神と謂す。 併せて五名(みないつゝ)有り。 さて前に擧げたる明文は、『古事記』の本傳を中略して、講究の目的を示したるものなるが、大國主神は、須佐之男命の御神業を繼がせられ、第四期・大地造化の大主權を宰り玉ふ大神なるを、此の神の御系統のことに就いては、種々の傳ありて、未だ何れか非と云ふことの知られざる程のことなれば、先づ御系統にかゝはることより論究すべし。 前に掲げたる明文に、「云々」と中略したる所の『古事記』本傳の全文は、 「兄・ 八島士奴美神、大山津見神の女、名は木花知流比賣に娶ひて生みませる子・ 布波能母遲久奴須奴神。 此の神、淤迦美神の女、名は日河比賣に娶ひて生みませる子・ 深淵之水夜禮花神。 此の神、天之都度閇知泥神に娶ひて生みませる子・ 淤美豆奴神。 此の神、布怒豆奴神の女、名は布帝耳神に娶ひて生みませる子・ 天之冬衣神。 此の神、刺國大神(おほのかみ)の女、名は刺國若比賣に娶ひて生みませる子・ 大國主神。 云々」 とあり。 此の傳に由る時は、大國主神は、八嶋士奴美神の六世の孫にして、須佐之男命の七世の孫の如く聞ゆるなり。 又た『書紀』の正書には、須佐之男命と櫛名田比賣命の御間の、直の御子と傳へたり。 又た一書には、八嶋士奴美神の五世の孫、或は六世の孫ともあり。 『古語拾遺』には、『書紀』の正書と同じく、須佐之男命の御子と傳へたり。 然るに平田先哲(大壑先生)の『(古史)成文』には、『神祇譜』の傳を採りて、須佐之男命の四世の孫(愚案、『神名祕書』に『神祇譜天圖記』を引きて曰く、「國作大己貴神。 此の神は、素盞鳴尊の孫の子。 天之冬衣神の子也」と。 如此く大國主神の御系統は、傳々皆な異なるものなれば、何れを是として可ならん考ふるに、こは全く須佐之男命の御孫にして、三世の孫に當り、則ち八嶋士奴美神の御子と窺はるゝなり。 如何となれば、神代の六世の孫、或は七世の孫と云ふは、後世の何世と云ふ如き代數の經年と違ひ、數千歳とも數萬歳とも云ふべきものにて、既に皇孫降臨の後と雖も、神武天皇の御代に至る迄、御三代の間は、未だ幽顯相近き氣運なるを以て、神仙界の如きものにて、御三代を以て、凡そ二千五百年を經る程のことにて、後世にても、神仙の年數は量り無き程のものなれば、神代の六世とあるは、特に長きことなり。 神武天皇以後に至りて、頓に年壽の縮みたるは、全く造化大氣運の變遷に由るものなれば、第五期の末に至り、其の然る所以を講述すべけれ共、こゝに神代の何世と云ふは、特に長き年數なることを知らしめんが爲めに、一言、比較を申し置くなり。 皇孫降臨後、御三代の間、尚ほ此の如し。 況んや第三期より四期に至るの間は、特に太古のことなれば、須佐之男命より大國主神迄、七世も立つべきに非ず。 故に平田先哲は、其の中を探り、『神祇譜』の傳によりて、四世の孫と云ふを正傳なりとし、『成文』とせられたり。 然れ共も記紀共に數傳あるに、皆な五世の孫、六世の孫とあるを思ふに、『日本書紀』撰集の時には、必ず家々に傳へたる古傳の中にも、『古事記』の如く、「此の神、何の神に娶ひまして生みませる子・某神」などの傳ありしを、其の神名を略きて、五世の孫、或は六世の孫と略して、一書の傳に擧げられたるならんと思はるゝなり。 故に深く神典前後の明文に照らし、道理を推して考ふるに、こは全く『古事記』を以て正傳とすべきことゝ窺はるゝなり。 然れ共も須佐之男命の七世の孫と云ふに非ず。 『古事記』の傳によれば、大國主神は、全く須佐之男命の三代の孫に當らせらるゝ傳なり。 如何となれば、此所の八嶋士奴美神の御系統は暫く置き、此の次、大國主神より以下の御系統を合せて考ふるに、『古事記』の明文にては、 「故れ此の 大國主神、胸形奧津宮に坐す神・多紀理毘賣命に娶ひて生みませる子・ 阿遲鉏高日子根神。 次に妹 高比賣命、亦の名は下光比賣命。 此の阿遲鉏高日子根神は、今ま迦毛大御神と謂す也。 大國主神、亦た神屋楯比賣命に娶ひて生みませる子・ 事代主神。 亦た八島牟遲能神の女・鳥耳神に娶ひて生みませる子・ 鳥鳴海神。 此の神、日名照額田毘道男[神の女]・伊許知邇神に娶ひて生みませる子・ 國忍富神。 此の神、葦那陀神、亦の名は八河江比賣に娶ひて生みませる子・ 速甕之多氣魂波夜遲奴美神。 此の神、天之甕主神の女・前玉比賣を娶ひて生みませる子・ 甕主日子神。 此の神、淤迦美神の女・比那良志毘賣に娶ひて生みませる子・ 多比理岐麻流美神。 此の神、比比羅木之其花麻豆美神の女・活玉前玉比賣神に娶ひて生みませる子・ 美呂浪神。 此の神、敷山主神の女・青沼馬沼押比賣に娶ひて生みませる子・ 布忍富鳥鳴海神。 此の神、若晝女神に娶ひて生みませる子・ 天日腹大科度美神。 此の神、天狹霧神の女・遠津待根神に娶ひて生みませる子・ 遠津山岬多良斯神」 とありて、都て大國主神の御系統の神十一世にして、此の中、阿遲鉏高日子根神と事代主神と鳥鳴海神の三神は、皆な大國主神の御子なれば、十一世とあるは、全く九世と云ふべき御世系なり。 然るに『古事記』の傳に、「右の件より八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、十七世の神と稱ふ」とあるは、全く十五世とあるべき理りにて、此の世數に相違あることは、既に先哲も論じ置かれたることなるが、此の世記は、たとひ十五世にもせよ、十七世にもせよ、此の傳を正傳なりとする時は、皇孫降臨の時には、事代主神も、未だ御若君とも申すべき時なれば、其の御弟神たる鳥鳴海神は、尚ほ御若く坐すべき理りなれば、鳥鳴海神より以下、七世の神は、全く皇孫降臨後の御世系に當れば、神武天皇迄、皇孫の御系統と同じく御三代とするも、尚ほ四代は、神武天皇より後、懿徳天皇の御代に及ぶ理りにて、如何に考ふるも、此所に是れ丈の御代數の立つべき理りに非ざるが故に、平田先哲は、此所の御世系は信じがたしとて、悉くこれを除きて、鳥鳴海神以下は、『成文』には擧げられざりしなり。 然れ共も『古事記』の明文に、如此く迄で明瞭なる傳のあるを、全く除き去られたるは如何あらんと、考へらるゝ旨もありて、尚ほ講究するに、先づ大國主神には、庶兄弟八十神坐すとの傳なれば、此の八十神は、必ず八十柱と云ふにも非ざるべけれ共、數多き庶兄弟の神坐すこと、明かなり。 如此く多くの異母兄弟坐ますを以て考ふる時は、其の御父たる神には、必ず多くの后神坐すべき理りなるを、天冬衣神には、多くの后神坐したることも、更に聞えず。 然れば大國主神を、天冬衣神の御子としては、八十神と云ふ多くの庶兄弟坐すこと、聞えがたし。 夫れのみならず、大國主神には、御子神百八十一神も坐すとの傳ありて、特に多くの御子神坐すことなるに、『古事記』の傳にては、阿遲鉏高日子根神と高比賣神と事代主神と鳥鳴海神と八上比賣の生み坐せる御井神と建御名方神等の外には、あまり多くの傳へも無く、其の中にも、阿遲鉏高日子根神と事代主神とは、全く御同神の御別名と聞ゆれば、如何に簡略なる傳にもせよ、百八十一神も坐すべき御子神等の御系統も、更に知れがたきことなるは、如何なることならんと、能く考ふれば、こは全く『古事記』の傳にある八嶋士奴美神と云ふより、次々の御系統にある「此の神、何の神に娶ひまして生み坐せる子・某神」とある 「此神」と云ふ二字は、全く次々へ送るの文に非ず。 本の八島士奴美神に返すべき文にて、「此神」と云ふ下に、「又」と云ふ字を加へて見れば、能く聞ゆることなり。 都て『古事記』の文例は、同神の他の比賣神に娶ひ坐す時は、「亦云々」と傳へられたる例なれ共、八嶋士奴美神と大國主神は、特に多くの比賣神に娶ひ坐したる神なるが故に、五柱、或は十柱と云ふ比賣神に娶ひ坐すに、「亦云々、亦云々」と傳ふれば、文の體を失するが故に、記紀撰集以前より早く「亦」と云ふべきを、 一神にして三柱以上の比賣神に娶ひ坐せるは、「亦」の字を用ひず、「此神」に二字を以て、「亦」の字に換へ傳へられたるものにて、八嶋士奴美神の御系統の次々にある「此神」の二字は、全く皆な八嶋士奴美神の娶ひ坐したる比賣神のみにて、大國主神の御母・刺國若比賣神は、八嶋士奴美神の五度び目に娶ひ坐したる後神に坐すべきなり。 然れば天冬衣神は、八嶋士奴美神の四度び目に娶ひ坐したる比賣神の生みませる御子なれば、大國主神の異母の御兄神にして、所謂る庶兄弟に坐す理りなり。 此の理りを以て、次の大國主神以下の御系統を考ふるに、是れ亦た同じく十世計りも、次に數へ來りたる「此神云々」と云ふ「此神」の二字は、全く本の大國主神に返すべき理りにて、「此の神、又た」と云ふ意なれば、其の多くの比賣神等は、正・後には非ざるも、皆な大國主神一柱の後神のみなり。 如此く考へ渡して見れば、大國主神に庶兄弟の神等、多く坐すべき理りも明かにして、亦た御子神の多く坐すことも、能く窺はれ、『古事記』前後の明文に照らして、能く聞ゆることゝなるによりて、余が一家講究にては、 明文と道理に訴へて、『古事記』兩所にある八嶋士奴美神の御系統と、次の大國主神の御系統の、「此神云々」とある「此神」の二字は、次々に送るべき文に非ず、本の神に歸るべき文なりとするなり。 然るを記紀撰集の時には、「此神」の二字を、次へ送る文として算へられたるにより、終ひに前後にて十七世神と數へられ、『書紀』にも五世・六世と數へ傳へられたるものと窺はるゝなり。 如此く 道理を推して考ふれば、『古事記』の傳こそ正傳にして、大國主神は、全く八嶋士奴美神の五度び目に娶ひ坐したる後神・刺國若比賣神の御子なれば、須佐之男命の御爲めには承祖の御孫に當り玉ふなり。 故に能く『古事記』本傳の明文に照らして、此の理りを講究あるべし。 愚案、堀秀成翁『神名考』(明治十九年六月)に、 「八島士奴美神。 八島士奴美の、士は知り、奴は主、美は稱へ名、耳の略なり。 此の御名は、後に大國主神、國造りて、天下をうしはき坐す時に、遠祖なる故に、如此く稱へしにや。 若し然らずは、八島知主とは云ふまじくこそと、『古事記傳』にあるが如し」 とあり。 八島士奴美神は、大國主神の遠祖に非ずして御父なりとすると雖も、須佐之男大神の神業承祖の御子なれば、「八島知主」と申し上ぐるに妨げ無く、實に相應しき御名なる可し矣。 八島士奴美神は、高天原に於ける正勝吾勝勝速日天忍穗耳尊に當つる可き、地球主宰の大神に坐しまさむ。 神宮教院版『神史』• 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 5月25日 月 16時35分11秒• 但し『神典採要通解』本文と、相違する所あり。 今、其の宜しきに從ふ。 『合册・神典採要通解』平成二年六月・山雅房刊に所收)の試訓 (題辭) 史中之經 二品熾仁親王 『神典採要』引用書目 古事記 日本書紀 古語拾遺 祝詞式 『神典採要』例言五則 [一]鴻蒙の世、未だ史乘有らず。 當時の事、口授家傳なり。 是を以て傳説、一ならず。 後の史を修する者、載せて以て疑ひを存す。 愼しみの至り也。 然して其の大綱至要、天神・天祖の鎔造化育、天孫の降臨統一の若き、凡そ建國の基、皇統の源に係る者は、昭々然として日星の如し。 故に此の書を編むは、專ら古典に就いて、大綱を擧げ至要を採りて、其の細目は之を略す。 學者、宜しく先んずべき所を示す所以ん也。 [一]此の書の大意、建國の基を明かにして、皇統の源を示すに在り。 故に採擇は、專ら紀元以前に在り。 紀元後は、則ち史典、大いに備はる。 故に復た贅せず。 [一]此の書の事を紀すは、專ら『書紀』成文に因る。 而して『古事記』等に採る者の如きは、則ち填むるに、支那字を以てし、務めて『書紀』の體に合す。 但し其の成文と雖も、字句繁冗なる者は、一二、之を訂さゞるを得ず。 讀者、諒せよ焉。 [一]闕字は、公文、自ら其の格有り。 私書は、則ち否らず。 近人、意に任せ之を爲す。 往々其の當を失す。 此の書、一(もつぱ)ら史傳の體に効ひ、言、至尊に渉ると雖も、敢へて闕字を用ゐず。 亦た之を愼しむの意也。 [一]此の書、稿を起すの初めは、題して『古史採要』と曰ふ。 後に更に『神史』と稱するは、二品親王の題辭を賜ふ所以ん也。 其の今の名に改むる者は、教部省の命ずる所に由ると云ふ。 明治六年夏八月日。 浦田長民、神宮教院の本局に識す。 『神典採要』 神宮少宮司兼少教正・正七位・浦田長民、謹輯 古へ、未だ天地有らざるの時、神聖有り焉。 大荒に生ず。 其の始めを知る莫し。 名を天御中主尊と曰ふ。 次を高皇産靈尊と曰ふ。 次を神皇産靈尊と曰ふ。 實に造化の元始也。 然して後、清陽の氣、漸く開けて天と爲る。 之を高天原と謂ふ。 此の時に當りて、土壤、未だ凝らず、漂蕩、浮油の如し。 其の萌動するや也、神有りて生ず焉。 名を可愛葦牙彦舅尊と曰ふ。 次を天常立尊と曰ふ。 次を國常立尊と曰ふ。 次を豐雲野尊と曰ふ。 皆な一氣獨化す矣。 次に耦生の神有り。 曰く埿土煮尊・沙土煮尊。 曰く角杙尊・活杙尊。 曰く大戸道尊・大苫邊尊。 曰く面足尊・惶根尊。 曰く伊弉諾尊・伊弉冊尊。 凡そ十神、皆な神徳を繼承し、以て造化の功を贊く。 天神[天御中主尊以下を謂ふ]、伊弉諾尊・伊弉冊尊に詔して曰く、「下土、漂蕩、定まらず、汝、宜しく徃きて修理固成すべし焉」と。 因て天瓊矛を賜ふ。 二神、詔を奉じ、共に天浮橋に立ち、矛を以て之を探る。 鋒頭の露、滴り結びて島と爲る。 名づけて磤馭廬島と曰ふ。 二神、降り居る焉。 此の島を以て、國之中柱と爲し[即ち天柱なり]、國土を生成せむと欲す也。 伊弉諾尊、伊弉冊尊に問ひて曰く、「汝の身、何の成れるところ有りや耶」。 對へて曰く、「吾が軀、具成りて、一つの陰の元めの處ろ有り」と。 伊弉諾尊の曰く、「吾が軀も、亦た具成りて、一つの陽の元めの處ろ有り。 意ふに吾が元めの處を以て、汝が元の處に合はせむと欲す」と。 乃ち將に天柱を巡らむとして、約して曰く、「汝は右より旋れ。 吾は當に左より旋るべし」と。 既にして分れ巡り相ひ逢ふ。 伊弉冊尊、先づ唱へて曰く、「妍にゑや哉、可愛し少男を也」と。 伊弉諾尊、之に和して曰く、「妍にゑや哉、可愛し少女を也」と。 遂に夫婦と爲り、二子を生む。 皆な意の如くならず。 故に復た天に昇りて、具さに其の状を奏す。 天神、詔して曰く、「婦人の言、先づ揚ぐるか乎。 宜しく更に降りて改めて祝すべし」と。 是に於いて二神、詔を奉じて降り、分れて天柱を巡る。 伊弉諾尊、唱へて曰く、「妍にゑや哉、可愛し少女を也」と。 伊弉冊尊、和して曰く、「妍にゑや哉、可愛し少男を也」と。 然して後、宮を同じくし共に住む。 先づ國土・山川、及び風水草木の諸神を生む。 伊弉諾尊・伊弉冊尊、共に議りて曰く、「吾れ已に國土・諸神を生めり。 何ぞ天地の主たる者を生まざるや也」と。 是に於いて天祖大日孁貴を生む。 號して天照皇大神と曰ふ。 斯の子、光華明彩、六合を照徹す。 二神、大いに喜びて曰く、「吾が息、多しと雖も、未だ此の若く靈異の兒有らざる也。 宜しく久しく此の國に留むべからず。 當に早く天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし矣」と。 因りて親ら其の玉佩を解き、之を授けて曰く、「子は、宜しく高天原を御すべし也」と。 乃ち天柱を以て、之を天上に擧ぐ焉。 天祖、天を御すの後、造化の功を集めて、以て之を大成し、生成の徳を統べて、之を主宰す。 是に於いて乎、神道、大いに盛んなり。 次に月讀尊を生む。 其の光彩、日に亞ぐ。 曰く、「日に配せて治す可し焉」と。 即ち又た之を天に送る。 次に素戔鳴尊を生む。 將に以て下土の主と爲さむとす也。 是に於いて伊弉諾尊、功成り徳至る。 故に天に昇りて報命し、留まつて日稚宮に宅る。 是より先、火神迦具土命の生まるゝや也、伊弉冊尊、傷む焉。 因つて請ひて曰く、「上國の事は、吾が夫の君、之に任ぜよ。 吾は、將に下國を治めむとす矣」と。 乃ち根國に就く。 天祖、高天原に在つて、勅して曰く、「聞く、葦原中國に、保食神有り、と。 汝、月讀尊、往きて之を候へ」と。 月讀尊、勅を受けて降りて、保食神の所に到る。 保食神、首を囘して國に嚮へば、則ち百穀、其の口より出づ。 海に嚮へば、則ち鱗介、山に嚮へば、則ち禽獸、皆な其の口より出づ。 乃ち悉く其の物を取りて、之を百机に列ねて奉饗す。 月讀尊、以て不潔と爲し、曰く、「穢きかな哉、敢へて吐餘を以て、我を饗するや乎」と。 乃ち之を戮す。 既にして天祖、復た天熊人を遣はして、徃きて之を視せしむ。 此の時に當りて、保食神、既に死して、百穀・蠶繭、及び牛馬、其の屍に化生す。 天熊人、悉く取り去つて、之を上る。 天祖、大いに悦びて曰く、「是れ此の庶物、以て我が蒼生を養ふ可し也」と。 乃ち粟・稗・麥・豆を以て、陸田種子と爲し、稻を以て、水田種子と爲す。 其の稻を以て、天狹田、及び長田に種ゑ、又た口の裏に繭を含み、便ち絲を抽くことを得。 衣・食の源、是に於いて乎、開く矣。 素戔鳴尊、性強悍、慈訓を奉ぜず、常に啼哭を爲す。 伊弉諾尊、讓めて曰く、「汝、甚だ無道、以て下土に君臨す可からず也」と。 遂に之を根國に謫す。 素戔鳴尊、請ひて曰く、「願はくは且に高天原に到りて、姉と相見えて後、永く退らむとす矣」と。 之を許す。 其の將に天に昇らむとするや也、山嶽震動、凕渤皷盪す。 天祖、素より其の暴行を知る。 驚きて曰く、「吾が弟の來たる、豈に善き意を以てせんや乎。 須く威武を示し、以て禍心を消すべし耳」と。 乃ち丈夫の裝ひを爲し、天安河を隔てゝ、相見て問ふ焉。 素戔鳴尊、の曰く、「弟、固より野心無し也。 今は、嚴勅有り。 將に根國に赴かむとす。 故に阿姉と、相見て訣れむのみ已」と。 天祖、復た問ひて曰く、「果して然らば、何を以て其の他無きを明かさむ」と。 對へて曰く、「請ふ、阿姉と共に誓はむ。 誓盟の中、當に必ず子を生むべし。 弟、如し禍心を包藏せば、則ち生む所、必ず女ならむ矣。 否らざれば、則ち男ならむ矣」と。 是に於いて天祖、素戔鳴尊の佩ぶる所の十握劍を取り、折りて三段と爲す。 之を天眞名井に濯ぎて、咀嚼して噀す焉。 氣息の感ずる所、三女を生む。 曰く田心姫命、曰く湍津姫命、曰く市杵嶋姫命。 既にして素戔鳴尊、天祖の御する所の八阪瓊五百箇御統玉を乞ひて、亦た之を天眞名井に濯ぎて、咀嚼して噀す焉。 氣息の感ずる所、五男を生む。 曰く正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、曰く天穗日命、曰く天津彦根命、曰く活津彦根命、曰く熊野櫲樟日命。 是に至りて、天祖、方に其の他無きを知る。 勅して曰く、「玉は是れ朕が物なり。 故に彼の五男は、皆な朕が兒也」と。 取りて子とし養ふ焉。 又た曰く、「劍は是れ卿の物なり。 三女の如きは、則ち卿の子也」と。 之を素戔鳴尊に授く。 素戔鳴尊、既に勝驗を得て、驕心、復た生ず。 馬を皇田に放ち、其の畔を毀め、其の溝を埋め、稼を害して、以て笑樂と爲す。 天祖、嘗て新穀を御すや、竊かに糞を其の牀に置き、以て天祖を陵侮す。 天祖、彜親の故を以て、優容して尤めず。 温言、之を誨ゆ。 然れども猶ほ悛めず。 織女の御衣を織るに方りて、生駒を剥して、之を其の殿に投ず。 織女、驚倒、機より墮ちて傷す。 是に至りて、天祖、大いに怒り、天石窟に入り、戸を閉ぢて居る焉。 斯の時に當りて、六合、常に闇く、萬妖、悉く發す。 諸神、憂悶、爲す所を知らず。 高皇産靈尊、八百萬神を天安河原に會へ、共に奉謝の方を議す。 思兼神、深思遠慮、議して曰く、「宜しく石凝姥命をして、天香山の銅を取り、以て日御形八咫鏡を鑄せしめ、櫛明玉命は、八坂瓊五百箇御統玉を作り、長白羽命は、青和幣を作り、天日鷲・津咋見の二神は、白和幣を作り、天羽槌雄命は、荒布を織り、天棚機姫命は、和幣を織り、手置帆負・彦狹知の二神は、天御量を以て、大峽・小峽の材を伐り、瑞殿を造り、笠及び矛楯を作り、天目一箇命は、刀・斧・鐸を作り、天香山の眞賢木を堀りて、之を窟前に樹て、其の上枝には玉を懸け、中枝には鏡を懸け、下枝には青・白の和幣を懸け、天兒屋命・太玉命は、相共に之を捧げて、稱讚祈謝せよ焉。 又た常世の長鳴鷄を聚め、互ひに相鳴かしめ、天鈿女命は、葛を以て鬘と爲し、蘿を手繦と爲し、竹葉を手草と爲し、茅纏之矛を持ち、誓槽を蹈み、庭燎を擧げ、功に俳優を作して、唱歌舞蹈せよ。 庶幾くは、以て天怒を慰めむ矣」と。 諸神、之に從ふ。 各々設備する所ろ有り。 乃ち燕を窟前に張る。 天祖、聞きて恠しみて曰く、「朕、此の中に居りしより也、天地は、必ず長夜ならむ矣。 群神は、何ぞ復た歌舞笑樂するや也」と。 微かに戸を開き、之を窺ふ。 天手力雄命、進みて御手を接り、引きて新殿に幸し奉る。 天兒屋命・太玉命、乃ち八咫鏡を奉り、又た界するに、端出之繩を以てす。 奏請して曰く、「願はくは復た還幸すること勿れ」と。 大宮賣命をして、御前に侍らしむ。 豐磐窗・櫛磐窗の二神は、殿門を守衞す。 是に於いて、六合、再び清明を得、萬物、各々其の所に復す。 八百萬神、素戔鳴尊の罪を議し、科するに、千座の置戸を以てし、髮及び爪を拔き、之を贖ひ、其の罪を解除し、之を根國に逐ふ。 素戔鳴尊、既に謫せられ、降りて出雲簸川上に到る。 毒蛇、人を食ふ者有り。 素戔鳴尊、爲めに之を斬殺す。 寶劍を其の尾に獲、乃ち之を天祖に高天原に獻ず。 蓋し蛇の居る所、其の上に常に雲氣有り。 故に其の劍を天叢雲と號す。 後に更に之を草薙劍と稱す。 素戔鳴尊、國神の女奇稻田姫命を娶り、大己貴命を生み、後に遂に根國に就く。 大己貴命は、賢徳有り。 少彦名命と、心を同じくし力を戮せて、國土を經營し、人物を愛護し、災を禳ひ病を療し、醫藥・禁厭の方を定む。 民、今に至るまで之に頼る。 天祖、已に天窟を出でて、群神に勅して曰く、「葦原中國は、是れ朕が子の王たる可きの地也」と。 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊を立てゝ、太子と爲し、高皇産靈尊の女萬旙豐秋津姫命を娶りて、之を妃と爲す。 將に之を下土に降さむとす。 此の時に當りて、中州、猶ほ未だ平かならず。 國神、互ひに相雄長す。 天忍穗耳尊、天浮橋に立ちて之を覽、還りて具に之を奏す。 天祖、高皇産靈尊と、共に天安河原に御し、八百萬神を會して之を議る。 乃ち天穗日命を遣はして、平定せしむ焉。 穗日命、降りて且に三年、大己貴命を憚りて、遂に命を報ぜず。 又た其の子大背飯三熊大人を遣はして、至れば、則ち父と共に留まりて、復た還らず。 是に於いて、又た八百萬神に議す。 僉な曰く、「天國玉の子天稚彦、用ふる可し也」と。 天祖、乃ち之を召し、天鹿兒弓・天羽羽矢を賜ひ、以て之を降す。 天稚彦、陰かに自立の意有り。 國神の女を娶り妻と爲し、僭居偸安すること、八年なり矣。 天祖、其の久しく報ぜざるを恠しみ、無名雉を遣り、以て之を伺はしむ。 雉降りて、天稚彦の門に集まり、鳴きて曰く、「天稚彦、汝、何故ゑに命を報ぜざる」と。 天稚彦、聞きて之を惡む。 乃ち賜ふ所の弓・矢を取りて、之を射る。 矢、雉を洞して、高天原に達す。 高皇産靈尊、見て恠しみて曰く、「此の矢は、昔、天照大神の、天稚彦に賜ふ所ろ也。 今、血、之に染む。 豈に國神と戰ひて、然るや乎」と。 乃ち取りて、以て投げ下す。 其の矢、落ちて天稚彦の胸に中り、立ちどころに之に死す。 事、天上に聞ゆ。 是に於いて又た大いに八百萬神を會し、議りて其の人を選ぶ。 衆、僉な經津主命を薦む。 時に武甕槌命、慨然として進みて曰く、「命を辱めざる者、何ぞ獨り經津主命のみならむや哉」と。 天祖、大いに喜び、二神に命じて往かしむ焉。 二神、降りて、出雲の五十田狹の小汀に到り、大己貴命に問ひて曰く、「天祖・天神、天子を降し、以て萬邦に君臨せしめむと欲す。 故に先づ使者を遣はし、歸順する者は之を撫し、抗拒する者は之を誅せむ。 汝、將た何か取らむ」と。 大己貴命、對へて曰く、「臣、謹みて命を奉ぜむ。 但し臣に、二子有り。 未だ其の意の何如を知らず」と。 乃ち之を問ふ。 亦た皆な命を奉ず。 是に於いて大己貴命、二神に就いて奏して曰く、「臣、父・子、既に命を奉ず矣。 普天の下、敢へて復た天詔を拒ぐ者有る無き也。 今よりして後、顯世の政は、天子、宜しく之を治むべし。 臣は、則ち去りて八十坰に隱れて、永く皇室を護り、以て幽冥の事を知らむ矣」と。 因つて其の平國矛を獻つて曰く、「臣、嘗て此の矛を用ゐて、治功有り。 天子、之を用ゐれば、則ち天下、必ず定まらむ矣」と。 又た岐神を薦めて曰く、「此れ臣に代りて、從ひ奉らむ者也」と。 言ひ訖りて、遂に隱る。 是に於いて二神、岐神を以て郷導と爲し、順を撫し叛を誅し、下土、悉く定まる。 乃ち天に昇りて、之を奏す。 是より先、皇太子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、皇孫天津彦彦穗瓊瓊杵尊を生む。 是に至り奏請し、皇孫を以て代り降して、中國の天子と爲す。 天祖、高皇産靈尊と議して、之を許す。 皇孫に勅して曰く、「葦原千五百秋之瑞穗國は、是れ吾が子孫、王たる可きの地也。 爾皇孫、宜しく就きて治むべし焉。 行け矣。 寶祚の隆んなる、當に天壤と窮り無かるべし矣」と。 乃ち八阪瓊曲玉[即ち櫛明玉命の作る所、五百箇御統玉也]、及び八咫鏡[即ち石凝姥命の鑄る所、日御形鏡也]・草薙劍[即ち素戔鳴尊の獻る所、天叢雲劍也]を授け、以て天璽と爲す。 勅して曰く、「吾が兒、此の寶鏡を視ること、當に猶ほ吾を視るがごとくすべし。 與に牀を同じくし、殿を共にして、以て齋鏡と爲す可し」と。 復た勅して曰く、「吾が高天原に御す所の齋庭之穗を以て、亦た當に吾が兒に御すべし矣」と。 是に於いて、天兒屋命・太玉命・天鈿女命・石凝姥命・玉屋命が五部の神に命じて、配侍せしむ焉。 特に勅して曰く、「汝、天兒屋命・太玉命は、宜しく常に殿内に侍し、防衞を爲すべし焉。 諸部の神は、宜しく其の職に供奉すること、天上の儀の如くすべし焉」と。 是に於いて乎、天忍日命・天槵津大來目命、仗を帶びて前驅し、諸神も、亦た與に陪從し、天磐座を離ち、天八重雲を開き、降下りて天八達に至る。 途に一神有り。 状貌魁岸、其の名を問へば、即ち猿田彦命也。 奏して曰く、「天孫の、將に降らむとするを聞く。 故に奉迎啓行す」と。 又た曰く、「天孫は、宜しく筑紫日向高千穗槵觸峯に到るべし。 臣は、當に伊勢五十鈴川上に至るべし」と。 其の言に從ひ、降りて筑紫に至り、都を奠め宮室を作り、永く中國の天子と爲る。 群神、職を奉じ、歴世相承け、失無き也。 皇孫天津彦彦穗瓊瓊杵尊、大山祇命の女木花開耶姫を納れ、后と爲す。 一夜にして娠むこと有り。 皇孫、信ぜず。 后、乃ち無戸室を作り、入りて其の内に居る。 誓ひて曰く、「妾、娠む所、天神の胤ならば、則ち火も害する能はざらむ。 否らざれば、則ち焚死せむ矣」と。 即ち之を火く。 火、始めて起りて、生む所、火闌降命と曰ふ。 炎、熾んにして、彦火火出見尊、及び火明命を生む。 而して后、亦た遂に害無し。 是に於いて、彦火火出見尊を立てゝ、皇太子と爲す。 之に久しうして崩ず。 筑紫日向可愛山陵に葬る。 彦火火出見尊、嘗て遊幸に因つて、海神豐玉彦の所に至り、其の女豐玉姫を納れ、后と爲す。 其の海神宮に幸するや也、異寶を獲て還る。 是を以て威徳、大いに行はる。 之を日向高屋山上陵に葬る。 四男を生む。 曰く彦五瀬命、曰く稻飯命、曰く三毛入野命、曰く神日本磐余彦尊。 磐余彦尊を立てゝ、皇太子と爲す。 之を久しうして崩ず。 日向吾平山上陵に葬る。 神日本磐余彦尊、生まれて聖徳有り。 年十五にして、立ちて太子と爲る。 長に及びて、皇后吾平津媛を納れ、高千穗宮に在り。 此の時に當りて、天孫の降臨を距つること、已に遠し。 而して時運草昧。 王化、未だ洽からず。 長髓彦の諸賊、東北に跋扈す。 是に於いて天皇、六師を帥ゐ、親ら之を征す。 數年ならず、盡く掃蕩す焉。 乃ち都を大和に奠め、位に橿原宮に位く。 在位七十餘年。 天皇、祭祀を謹しみ、有徳を擧げ、政理を察し、黎元を安んず。 其の鴻業偉烈、丕いに天祖の徳を承け、而して人皇の祖と爲る。 爾して後、聖子神孫、繼々承々、統を無窮に傳へ、以て天地と終始す。 于嗟、至れるかな矣哉。 之を畝傍山東東北陵に葬る。 追謚して神武天皇と曰ふ。 蓋し天孫降臨以來、一百七十九萬二千四百七十餘年を歴て、天皇、始めて位に即くと云ふ。 即位の後、二千五百三十三年、今上の明治六年、始めて天皇即位の年を以て、元を紀す。 跋 神宮祭主・大教正・正二位・近衞忠房 愚案、明治初年、神宮の國學者の神史なり。 固より國文學者流の編纂に非ざれば、心安かにして、素直に拜讀し得よう。 平田大壑先生の『古史成文』と共に、大いに活用す可し矣。 素讀音誦、口に甘うし畢つた有志には、神宮主典中講義・山口起業大人『神典採要通解』(明治七年一月官許・神宮教院藏版。 『合册・神典採要通解』平成二年六月・山雅房刊に所收)に進まれむことを。 神典は、天道の眞傳なり矣。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 5月13日 水 17時13分45秒• 神典は、固より神の手より出づるに非ず、人を待つて後に成る。 其の成るや也、人、一人に非ず、代、一代に非ざれば、則ち其の載せる所、互ひに異同有り。 既に異同有れば、則ち取捨する所ろ無きを得ず。 今、其の大なる者を擧げ、以て之を論ぜむ。 天地の成る、實に造化三神の力に由る。 三神有りて、後に天地有り。 天地、固より神に先だちて成るにあらず。 故に今、『記』を取りて、『紀』を取らず。 「天祖」及び「月」・「素」二尊は、父有り母有り。 陰・陽二神は、實に之を生みたまふ。 陰神、去りて、陽神、獨り之を化生したまふに非ず。 故に今、『紀』を取りて、『記』を取らず。 「諾」・「冉」二尊が黄泉の談は、本より徴信し難し。 故に今、『祝詞』を取りて、『記紀』を取らず。 「天祖」の天窟に隱れたまふは、禮典、是に由り、以て興る者、實に多くして、『拾遺』に載せる所、獨り詳かなり。 故に今、『拾遺』を取りて、『記紀』を取らず。 此の四者は、道に關係すること、少小ならず。 故に取捨せざるを得ざるなり焉。 然りと雖も神典、固より崇重せざる可からず。 故に妄りに取捨を作すを許さず。 「舍人親王」の才を以て、中古の世に在つて、天下萬姓の家牃・舊説を網羅して、猶ほ之を愼重にし、悉く異同を録し、取舍する所ろ有らず。 況んや庸常の人においてをや。 百世の後、家牃・舊説を見る能はざるの時に生れ、乃ち臆斷を以て、妄りに取捨を作すは、是れ誠に神典の崇重す可きを知らざる者也。 其の罪を爲すや也、大なり矣。 道を奉ずる者は、決して妄りに取捨を作すこと勿れ。 若し已むを得ざること有らば、則ち宜しく之を識者に質すべく、又た宜しく之を『祝詞』に折衷すべき也。 取捨の説は、業已に之を辨ぜり。 請ふ、又た誦讀の祕訣を述べむ。 四典を分ち、以て之を言へば、則ち『紀』を讀む者は、須く其の該博詳明にして、能く史體を得るを看るべし。 『記』を讀む者は、須く其の質朴、華無くして、能く古語を存するを看るべし。 『祝詞』を讀む者は、須く天上の文、既に成章の美有るを看るべし。 『拾遺』を讀む者は、須く神裔の家、猶ほ相傳の説有るを看るべし。 又た一端を掲げ、以て之を言へば、則ち産靈の義を觀て、以て神の靈魂を賦與するを知る可し。 「豐姫」の天孫に從ひて降るを觀て、以て靈魂の永遠不滅なるを知る可し。 天原と底國との事を觀て、以て靈魂の歸宿、實に二所有るを知る可し。 又た通義を擧げ、以て之を言へば、則ち宜しく沈潛反覆、以て其の意を玩味するべし。 宜しく其の己に切なる者を取り、以て志氣を憤悱すべし。 宜しく書を以て己の龜鑑と爲し、以て其の理に合ふを求むべし。 宜しく視て、以て眼前の事と爲して、上古の談と爲すこと勿かるべし。 宜しく尊信敬重、眷眷服膺し、其の旨を奉じ、其の道を守つて、終身、變はること勿かるべし。 夫れ四典を分ち、以て之を言へば、則ち其の要領を得たりと爲す也。 一端を掲げ、以て之を言へば、則ち其の本原を究むと爲す也。 通義を擧げ、以て之を言へば、則ち其の標準を知ると爲す也。 此の三者は、皆な誦讀の祕訣と爲す。 道を奉ずる者は、當に唯だ此の祕訣に遵ひ、以て神典を誦讀すべし。 然らずんば、烏ぞ以て道を奉ずる者と爲すに足らむや哉。 抑も神典なる者は、經にして史、史にして經、誠に最上至極、宇内無比の寶書と爲す。 人、能く之を誦讀するは、特に皇家の舊章に通ずるのみならず、亦た以て天道の眞傳に明かなる可し矣。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2020年 1月28日 火 18時01分36秒• 即ち我が國の神道説は、中世以來、或は佛教の、或は儒教の影響を受ける事、甚大であつた。 それは影響を受けたといふよりは、むしろ佛教もしくは儒教が、時代の空氣をなし、世間の常識となつてゐたので、神道を説く者も、時代の空氣を呼吸し、世間の常識で説明するの外は無かつたとさへ云つて良いであらう。 古くは北畠親房もそれであり、後には山崎闇齋もそれである。 從つて近世國學の發展に伴ひ、その解釋の方法が改められなければならないのは當然であつて、それを從前の神道説が拒否すべき理由は無い。 同時に新しく興つた復古神道は、それまで長らく神道を擔つて來た先達、たとへば埀加神道に、感謝しつゝ、當番を交替すべきであつて、それを非難して烈しく排撃するのは間違つてゐるであらう。 しかも事實は、さうなつて居らず、埀加神道は、復古神道によつて、妄誕の説として、強く排斥せられたのであつた。 しかるに今、本書の著者は、埀加神道の中心をなす、 (一)、天壤無窮の國體の讚嘆敬仰、 (二)、皇統を永遠に守護し奉る志、 (三)、その志の堅固不退轉なるべきを強調する精神、 是等の精神は、宣長に於いても(たとへば『直毘靈』に)、また篤胤に於いても(たとへば『古道大意』や『氣吹於呂志』、また『玉だすき』に)、強く説かれてゐるのであつて、兩者に貫通があり、脈絡の存する事、つまり内實の生命に於いて傳承のある事を、重視し、強調せられたのである。 かくの如く大いなる流れ二つを公平に見渡すと共に、その二つの流れを一つにまとめる力は、著者の着眼が一部局に偏するを許さゞる博大なる精神と、更に云へば 事實の究明の終極の目的を、道の闡明に置く求道者の心、それから得られたものであらう。 是れは本書の重大なる特色であり、私共の珍重して止まない所以である」と。 高天原の説。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年12月20日 金 17時39分39秒• 中士は、道を聞きて存するが若く亡するが若し。 下士は、道を聞きて大いに之を笑ふ。 笑はずんば、以て道と爲るに足らず」と。 予は俗士の爲めに笑はるゝことを樂しむ。 「高天の説」を作る] 高天原と云ふ事は、大日本帝國の元氣也。 高天原なきときは、是れ大日本帝國なき也。 問者の曰く、「高天原は、神官社會の言のみ耳、教職者流の談のみ耳。 子、何ぞ惑へるの甚だしきや也」と。 曰く、惡(あゝ)、是れ何の言ぞや。 滔々たる滿天下に、只だ汝が流の人のみ有つて、以て我が神州を覆滅せんとす。 汝が言をして擴充せしめば、神州の覆滅すること、遠きにあらじ。 豈に必ずしも外寇に由らん哉。 物は必ず先づ朽ちて、後に蟲、之に生ず。 國は必ず先づ毀(やぶ)つて、後に人、之を毀る。 汝が言の如きは、是れ國家の蠧蟲と謂はんのみ耳。 夫れ水には源あり、木には本あり。 我が天皇陛下の御系統は、高天原に起り、而して神州の國基も、亦た高天原に剏(はじ)まれり。 豈に高天原を執つて、之を蒼々漠々の烏有に付すべけんや。 然るに是れをしも措いて學ばざるは、俗學也。 笑つて之を嘲毀するは、俗論也。 見て之を度外視するは、俗眼也。 聞きて察せず之に雷同するは、俗耳也。 予は俗學・俗論の士の、俗眼・俗耳を以て、我が神州帝王の神系統を汚衊するを慨す。 以て辨ぜざる可からざる也。 憤りを發して食を忘れ、信じて古へを好むは、學者の事なり。 而るに今の學者は、温飽の爲めに學に志し、其の古へに於るや、信ぜず好まず。 語に曰く、「國の大事は、祀(まつり)と戎(いくさ)とに在り」と。 又た曰く、「郊社の禮禘嘗の義を明かにして國を治めば、其れ諸れを掌に示(み)るが如きか乎」と云へり。 其の天を敬し祖を祀るの義、詩・書・易・禮・春秋等に昭々たり。 然るに神州に生れて、支那の古書を鴰舌(さへづ)り、嘗て我が天皇陛下の御本源たる高天原の事をば、之を不問不學に附す。 是れ猶ほ稚兒の、隣家の老父あることを知つて、我が家の父母あることを知らざるが如し。 是れ俗學に非ずして、何ぞや。 中古以來、王綱解紐、いはゆる神道者流起る。 降つて徳川氏の代に及びて、其の弊、愈々甚だしく、祠官の徒、高天原を唱ふるを以て事とす。 衆人俗士、其の聲を習聞して、嘲笑の話柄とせり。 維新以降、神官、徒らに其の面を革めて、其の弊を革めず。 平田翁の所謂る乞食神道の醜態を免れざる者ありと聞けり。 果して然らば似道、汝を侮るに、亦た宜(む)べならずや乎。 然りと雖も之を以て高天原を擯斥するは、譬へば路頭の芝居小屋に、天照皇太神宮の札あるを見て、伊勢の神明を拜することを羞づるが如し。 是れ俗論に非ずして、何ぞや。 維新以前、朝廷式微の際、山城天皇と稱する者之れあり、共主と唱ふる者之れあり、幕府を指して王と呼ぶ者之れあり。 嗚呼、蒲生君平・高山彦九郎等に非ざるよりは、誰か朝廷を度外視せざる者あらん。 今の高天原を言ふことを愧づる者、其の勢、殆んど是れに殊ならず。 是れ俗眼に非ずして、何ぞや。 方今、天下の人、囂々然として、口を開けば上帝と呼び、舌を皷(なら)せば耶和華(エホバ)と唱ふ。 其の言、不經、其の説、怪誕。 然れども恬として之を怪しまず。 かくて苟くも一言の高天原に及ぶことあれば、驚擾、啻だならず。 其の之を嘲ること、馬群に鈞天の樂を奏するが如し。 是れ俗耳に非ずして、何ぞや。 嗚呼、天下の曠(ひろ)き、人衆の夥き、人の俗學ならざるは無く、人の俗論ならざるは無し。 世に珠玉は少(ま)れにして、瓦石は多し。 其の俗眼・俗耳なるも、亦た何ぞ異(あや)しむに足らん。 抑も亦た孔丘、言へることあり。 曰く、「君に事ふるに禮を盡くせば、人、以て諂へりと爲す也」と。 今や、邪説流行の秋に當つて、心ある者は、宜しく君に事ふるの禮を盡くすべし。 何ぞ人言を恤るに遑あらん。 故に予、今、斷然、徴を引きて、俗學・俗論の士の俗眼・俗耳を警醒せざることを得ざるなり。 謹みて按ずるに、『古事記』には、開卷第一に、「天地の初發めの時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神云々」とあり。 『日本紀』一書にも、「高天原に生(な)りませる神の名を、天御中主神と曰ふ云々」とあり。 『古語拾遺』には、「天地剖判の初め、天中所生の神の名を、天御中主神と曰ふ」とありて、三書湊合すれば、高天原、即ち天中にて、天中、即ち高天原なること疑ひなし。 然らば則ち我が天皇陛下の御系統は、天之御中主神より出でさせられて、高天原の本源たること、是れ亦た疑ひ無き物ぞ[『唐書』・『宋史』などに、我が神州のことを記載して、「初主を天御中主と號す」と出でたるは、支那にも正しく聞き傳へて書きたりしことゝ見えたり。 孔丘、言へることあり。 曰く、「天子、官を失へば、學、四夷に在り。 猶ほ信なり」とは、此の事なるべし]。 右の如く論じ來たらば、人、必ず言はん。 「是れ通常の話柄のみ」と。 然らば則ち猶ほ徴を引かざることを得ず。 看よ、々ゝ。 『續日本紀』一之卷・文武天皇御即位の條なる宣命に、「高天原に事始めて、遠ほ天皇祖(すめろき)の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐さむ彌や繼々に、大八島國知らさむ次てと、天都神の御子隨らも云々」とあり、又た九之卷・聖武天皇御即位の條なる宣命に、「高天原に事はじめて、四方の食す國、天の下の政を彌や高に彌や廣に、天つ日嗣と高御座に坐して、大八島國知ろしめす云々」とあり。 又た十七之卷の宣命には、「高天原より、天降り坐す天皇が御世を始めて、中今に至るまでに云々」とも見えたり。 右の外にも、高天原に事始めし趣き、餘多(あまた)見え、『延喜式』なる祝詞にも、數々見えたれども、擧ぐるに遑あらず。 此れに由りて之を觀れば、 高天原と云ふ事は、皇祖天神の坐します神の朝廷(みかど)にして、巫祝輩の得て私しすべき物に非ず[巫祝輩の得て私しすべき物に非ざるときは、官有物なること、固より論を待たず]。 孔丘、言へることあり。 曰く、「夏の禮は、吾れ能く之を言へども、杞、徴するに足らざる也。 殷の禮は、吾れ能く之を言へども、宋、徴するに足らざる也。 文獻、足らざるが故ゑ也。 足らば則ち吾れ能く之を徴せん矣」と。 縱令ひ世に、賢人・學者の徴すべき者なくとも、豈に古書の徴證すべき物なからんや。 右の如く文書の徴すべき物有つて、徴證することを知らず、概して之を雲霧に付せんと欲す。 豈に慨歎の至りに非ずや。 昔者(むかし)、漢の劉邦・唐の李世民等、何處の賤奴なることを知らず。 而るに漢は唐堯の後と稱し、唐は老子の後と稱して、世に誇耀せり。 況んや吾が天皇陛下の御系統は、更に々ゝ二氏の比に非ざるを、漠然抹殺し去らんと欲するは、殆んど人心ある者とも思はれず。 嗚呼、今の世に當つて、吾と此の憂ひを同じうする者は、復た誰か在る。 憂世の君子、深く慮らざる可けんや哉、深く考へざる可けんや哉。 神界の幽事。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年12月 7日 土 22時30分56秒• 幽界は、此の世界に在る人の耳目に觸れぬ處をいふ。 例へば狐狸などの人に憑らんとするに、眼前に來居ても見えず、また鼬(いたち)・蝦蟇などの、人に追ひ迫られて身を隱せるも、隱せる處は眼前に在れども見えず、然る處をうちまかせて神界といふ。 犬の、時として人の耳目には觸るゝ物も無き空所に向ひて、右走左奔して吠ふる事あるは、犬には、何か神界の怪物の見えたるなり。 神界には、神境あり、仙境あり、龍宮あり。 先輩の説には、方丈・瀛洲・蓬莱の三神山も、神界に在りて人界に在らねば、神仙にあらざれば、到る事能はず。 彼の秦の徐福の如きも、不死の藥を求めて本邦に來たりしと雖も、五百の童男童女と倶に、みな仙化し去りたるなりといへり。 其れかあらぬか、甲斐國に傳へたる徐福の説には、徐福は三羽の鶴と化(な)りて、富士山を翺翔して、其の一羽は死亡せりといへり。 また先輩の説には、龍宮・仙境なども、海陸の間、處として無きは無し。 春の日などに、蜃氣楼とて、空中に現はるゝ楼閣・人馬は、龍宮・仙境の影なり。 俗説には、近傍の城郭・人馬の映れるなりといへれど、近傍に決して無き物も映り、殊に山中樹木の間に見ゆるもあれば、影の遠方より映り來たるやうはあらず[『吾妻鑑』に、建長三年三月十四日の條に、「去る頃、信濃國諏訪社頭に、島竝びに唐船等出現。 片時の間、消失す」と]。 松浦靜山公の『甲子夜話』には、空中に葬禮の状(さま)を現出せしをいへり。 其は文化年中の事にて、陸奧國會津にて、空中を二箇の柩を舁(かつ)ぎて、扈從の人も數多にて行くを見て、諸人、驚きて仰ぎ視たりといへり。 是れ決して他の影の映りたるにはあらざるべし。 また湖海池水の底などにも、時として屋宇(いへ)の見ゆる事あるは、同書に、箱根の山頂に在る湖水は、大旱の時は水の減る事ありて、其の時、水底に屋の脊見ゆるを、土人は龍宮城の屋根といふ。 此の屋根見ゆる時は、必ず雨降るとぞ。 また日光山中禪寺の湖中にて、天氣晴朗の日には、堂宇の如きを水底に見る事あり。 是れ中禪寺の堂宇の映れるにはあらぬは、下の屋根を上から見たる状なればなりといへり。 また水底に見ゆる楼閣は、一時の事なれども、水底ならぬ山上などにも、宮殿、忽然として現出して、久しく人目に映りしもあり。 『日本後紀』に載せたる、淳和天皇の天長九年五月には、伊豆國賀茂郡に、伊古奈比咩神の神宮二院を現出し、仁明天皇の承和七年九月には、伊豆國の上津島に、阿波神の神宮四院を現出し、清和天皇の貞觀七年十二月には、駿河國淺間明神の神宮を現出せしなどは、宮殿の形の微妙、名づけ難しとも、眩曜の状(さま)記す可からずとも、彩色の美麗なる、擧げて言ふ可からずといへるは、當時、國司の其の状を見て奏聞せしを、國史にも記されたるなれば、年久しく在りけんを、今は神界に收められしもの、全く見えずなりき。 また『慶長見聞集』に、後村上天皇の正平十七年二月、近江の湖水の干(ひ)る事、十丈許りなりしに、白鬚明神の前なる沖に、周圍十尋(ひろ)許りなる瑠璃の柱、立ち竝び、五町許りの反(そり)橋、水上に浮かび、水底澄みわたりて、竹生島より續きて、一連に龍宮ありて、七寶の莊嚴、明らかに現はれ、龍神の往來も、鏡を取りて見るが如くなりしかば、諸人、みな見物せりといひ、また『後太平記』に、嘉吉元年二月、三浦介元久といふ武人、長門國渡川といふ地にて鷹狩りせしに、鷹反れて渡川の雄淵に飛び入りしかば、元久も尋(つゞ)きて飛び入りしに、其の水、兩方に裂(さ)けて、忽ち水底に一世界を現出し、金殿楼閣、軒を竝べたりといへり。 此れは水底なれども、山上にも地下にもあり。 山上なるは、『信濃淺間嶽記』に、弘安四年六月九日の暮れ方より、西方に黄なる雲現はれ、人物草木、みな金色の光を映ぜり。 諸人、山上を仰ぎ見れば、石とも木ともわからず、光り輝ける楼閣・門戸など見えけるが、其の夜、亥刻より燒け出して、追分・小諸より南方四里餘の間、砂灰降り、火石、今に在りといひ、また同記に、山上の戌亥の方に、林の深く茂れる處ありて、土人は魔所といふ。 此の處にては、時としては美しき宮殿の霞に映りて見ゆる事あり。 また雞(にはとり)の聲を聞き、琴笛の音を聞く事もあり。 また時としては、其の地の神人を見る事ありて、身の長(たけ)は一丈許りにて、太刀を佩き黒髮を長く埀れたりといへり。 また地下なるは、『狗張子』に、太田道灌、江戸城を築きしに、水の乏しかりしかば、舟木甚七といふ者に命じて、掘り拔きの井戸を造らんとて、金掘りを雇ひて地下を掘らせしに、半町四方、百丈許りも掘りしかども、水無かりしに、金掘りは困じ果てゝ、地下に坐して休み居て聞けば、地中に犬の吠ゆる聲、雞の鳴く聲、幽かに聞こえければ、訝りながら、また四五尺許り掘り續けて在りしに、傍らに石門あれば、入りて見るに、暗くして何も見えわからねば、猶ほ道を求めて一町許り行きたるに、俄かに明らかになりて、上を見あぐれば、青天に白日かゞやき、下を見おろせば、大山の峯に續きたり。 峯に上りて四方を眺望すれば、別天地、別世界の如くなれば、山に續きて谷に下り峯に上り、一里許りも行きて見れば、山間には宮殿楼閣あり。 大木ども茂りあひたるが、木の状は竹の如く、色は青くして節あり。 葉は芭蕉に似て紫の花あり。 大きさ、車輪の如し。 また鳥も飛び蝶も飛べるが、常のと異にて、草木、いづれも見馴れぬものなり。 辛うじて山を下りて一町許り行きたるに、楼門あり。 番の者二人居て、金掘りを見て驚きたる面もちにて、其の來たる故を咎めしかば、有りの儘を答へたるに、門内よりまた人出て來て、諸方を見めべらしめて、後ち還したるが、其の間、百年をも經たりけん。 還りて聞けば、今は弘治二年なりと告げたるに、驚きたりといへり。 六人部是香は『坤輿圖識』を引きて、西洋にも神界の在るを證せり。 其の要をいへば、ギブス山といふ山には、陷空の處ありて、時としては四壁、みな寶石にして、水液點滴して、其の聲、絲竹の音の如く、殆んど仙境に到るかと疑はしむといひ、またバサル山といふ山には、天然の大都府政廳の形を現出する事ありといへり。 神界には、年季・年齡の事なきは、前にいへる三浦介元久の、長門國渡川の水底なる仙境に入りしは、嘉吉元年なりしに、仙境の宮殿の七寶を鏤めたる御座には、安徳天皇のおはせしを見奉りしに、猶ほ八歳ばかりなるに見えさせ給ひたりといふ。 安徳天皇の御入水の歳は、文治元年にして、嘉吉元年までには、二百五十餘年を經たりしなり。 近く明治三年、上野國前橋にて、長壁明神の御事を記したる書中に、十四五歳の童子にて、寅吉といふが來たりと記せるが、此の仙童は、文化九年、七歳にて仙境に入りし人にて、平田先生の許に來たりし時は、十四五歳ばかりなりきといへば、明治三年には、六十四五歳にもなりてあるべきに、猶ほ十四五歳なりと記し、また寅吉の同僚なる左司馬といふは、元祿十三年三月三日より、仙境の人となりたるに、其の時、二十歳ばかりなりしが、文政三年頃にも、猶ほ二十歳許りに見ゆといへり。 元祿より文政までは、百二十年許りを經たり。 然れば神界にては、神界の人と爲りし時の年齡に定まりて、其の後は、幾年經ても變らぬものなるべし。 神界は、大國主神の主宰り給ふ處なれども、大國主神は、至貴至尊の大神にておはしませば、唯だ萬機を聞食すのみにて、國郡村里には、其の地の大地主神、即ち産土神おはしまして、産子の事は掌り給ふなり。 産子(うぶすな)神の外にも、種々の事を執らせ給ふ神たちおはすべし。 聖徳太子は、世には佛法のみに偏任せられし状にいへれど、『志斐賀多理』に、六人部是香の説なりといへるには、聖徳太子の斑鳩宮を造り給ひし時には、明日香の神南備社の産土神を、宮に近き龍田の神南備山に迎へて齋ひ奉れりといへるを見れば、世にいふばかり、佛にのみ仕へ給ひしにはあらざりけん。 産土神は、顯界の人の、顯界の事畢りて幽界に歸入するも、幽界より出でて顯界に生るゝも、みな其の事に預り給へば、顯界の人の親しみ仕へ奉るべきは、産土神なり。 次の一部は、矢野玄道翁の書中に見えたれば、近世の事なるべし。 飾屋米藏といふ者、遠江國秋葉山の異人に伴なはれて、陸奧國の或る山に在りし時、光り物照り輝きて、象頭山の神おはしたりしが、何事か童子の事を告げ給ひし故に、米藏は異人に其の事を問ひたれば、異人のいふには、人の生涯のことは固より死後の事までも、産土神の御惠みを蒙むらざる事無ければ、人は一日も其の御恩を忘る可からずと教へたりといふ。 産土神に續きては、家々の祖神、即ち氏神は、其の氏人を守らせ給ふ事、産土神の産子を惠み給ふが如くなれば、現在の親に事ふるが如くにてあるべきなり。 『雲根志』といへる一話には、加賀國に、一村、飢饉の年ありしに、村民歎き憂へて、氏神の社に集ひて救助を祈りし程に、一天、俄かに搔き曇りて、白色の石の如き物を降らせたれば、諸人、拾ひて食らひ試みたりしに、其の味甘くして、米に代へて命を續(つな)ぐ事を得たりしが、其の後は、今も時々其の物の降る事あるに、此の物は白臘の如くにて柔らかなりといへり。 氏神は氏人を守れる事は、亂世にも知られたるが、『安西軍策』に、大友氏の支族戸次入道道雪は、毛利氏と筑前にて戰ひし程に、敗軍せば、大友氏の瑕瑾なりとて、氏神を陣中に勸請して、打ち立ちて勝利を得たることありき。 總べて神は、産土神・氏神のみにもあらず、親しく近傍に候ふ者は、みな惠ませ給ふ事と見えて、『日吉山利生記』に、眞源法橋といふ僧の夢に、既(はや)く亡(う)せたる嚴算阿闍梨といふが、見て語りしには、自身は修學に力を盡したれど、名利貪着の心ありて、既に惡道にも落ちんとせしを、吾が權現に、方便をもて救はせ給ひて、當社の邊(ほとり)に召し置かれて扶持し給へり。 權現は、社檀へ歩みを運ぶ輩は、禽獸に至る迄も遺し給はず、況んや社司・寺官の輩は、みな此の奧の山八王子谷の邊に召し置かれて、晝夜加護せさせ給へりとて、眞源を率て加護を蒙むりて居る者などをも見せたりといへり。 神界には、産土神・氏神の外にも、人世に一日も無かる可からざる水火風土、飲食禁厭醫藥の神たちもおはしませば、能く信念を凝らして、平安無事を祈り奉るべき事なりかし。 總べて神と申せば、一樣の如くなれども、神には其の所生に依りて、善事を好ませ給ふもあり、また然らぬもありて、善神の善事に福(さひは)ひせさせ給ふ如く、惡神は禍害に遭はする事あれども、其の惡神も、時として御心和めば、亦た善事に導かせ給ふ事もあり。 また惡神の爲させ給ふ禍害をも、直日神と申すがおはして、直し給ふ事もあり。 神の御上の事は、爾か奇すしく妙なる者なれば、言葉をもては説く可からざる事なれど、然りとて、説かでもあらねば、説き得べき程を説くべきなり。 神には一柱にても、種々の御名あり。 暴(あら)く猛くおはします時の御名は 荒魂と申し、和み柔らび給ふ時の御名は 和魂と申し、奇すしく妙なる時の御名は 奇魂と申し、幸はひ惠み給ふ時の御名は 幸魂と申し、此く御魂の別るゝを 別魂と申せり。 また神は一柱におはしましても、此の別魂は百千萬にも別るゝ故に、一柱の神を、甲乙丙丁と幾所に祀りても、其の靈徳神驗の異ならぬは、一所の火を數所に分けても、本來の火を減ずる事無くして、火の効の同じきが如し。 此の別魂は、神の別れて、また神と化(な)り給ふのみにはあらず、人にも化り給ふ事あるか、長壁明神の御事を記したる書中に、現在の人を指して、吾が分身なりといひし事あり[下にいへる、一人の人の、人と蟲とになりて生れたるをも考ふべし]。 然れば神人には、其の事の多き時には、自ら其の口下の髭を拔きて、前後左右に居きて、吾と同じ神人を現はれしむといへり[此の事、『仙境異聞』に見えたり]。 顯界の人は、もと神界の神の、一時、人と爲りて出でたるなれば、歸り來たりては、また本の神と爲りて神界に居る事なるが、其の居る地は、其の神の功績に依り、分限に依りて、一樣ならざる可きが、多くは墳墓の在る處にて、墳墓は顯界の人の設けたる者なれば、唯だ些かなる所なれども、既に居住の地と定めたる上は、其の神靈の心の儘にて、廣くも大きくもなる事なれば、顯界の人の見るが如き事にはあらぬは、前にいへる水底にも山上にも、神境の廣大にて在るを見て悟るべし。 また此の神界に歸入せる神靈は、其の儘ま神界に在りて、神界の事に使はるゝもあるべく、更に顯界に出でしめらるゝなどもあるべし。 『聞見雜録』に、上總國望陀郡戸澤村の農に作兵衞といふが子に何某といふは、五歳の時、父母に語りたるは、自身は、前身は相模國矢部村の六右衞門といふが子なりしに、七歳の時、馬に踏まれて死にたるが、今度は此の家に生れたるなりといひしかど、小兒の言にて、何を言ふかと聞き流して在りしに、其の後ち相模國より出でたりといふ廻國者を宿したれば、何となき物語りの便りに、小兒の事を語りしに、此の廻國者は、矢部村の近所の者にて、六右衞門をも知り、また其の子の、馬より落ちて怪我せし事も聞きたりと語りたりといへば、五歳の小兒の言にはあれど、疑ひなく再生せしなるべし。 また『再生記聞』に、文化十二年十月十日、武藏國多摩郡中野村の農・源藏といふが子に勝五郎といふが生れしに、勝五郎、八歳の時、姉兄などに語りていふには、自身は、前身は同郡程窪村の農にて、久兵衞といふ人の子なりき。 名は源藏と呼ばれしに、六歳の時、疱瘡を煩ひて死にたりしかば、此の度びは此の家に生れたりと語りし程、父母も聞きて、いたく怪しみ、後には人にも語りて、竟ひには官邊にも訴へ出でしに、程窪村を尋ねたれば、久兵衞の家もあり、總べて勝五郎の言の如くなりし間、世上にも聞こえて、珍しき事と言ひはやして、諸人には其の顛末を知らんとて、種々にこしらへて、其の物語りを聞きたるに、四歳許りの頃までは、能く覺えて在りしを、今は全く忘れたり。 然れども今も覺えたるは疱瘡にて、息の絶えたる時は、何の苦も無くて、死骸を桶に納れらるゝ時は、旁らに見て居たり。 葬りての後は、家に歸りて机上に居たれど、人も見ず、聲をかけても聞きつけざりしに、白髮の老人、出で來たりて、此方へと誘へば、老人に隨ひて、小高き芝生に往きて遊び居たるが、花なども咲きて美しき地なりき。 此く遊びて在りし間に、或る時、老人と此の家の向ひの路を通る時、老人の言ふには、汝は彼方なる家に生れよと言はれしかば、老人に別れて庭の柿の木の下に三日ばかりたゝずみて、其の後ち窗の穴より家内に入り、竈の側にて三日ばかり居たるに、母なる人の、何方にか往かんとて、父と語り居たるを聞きたるが、やがて母の胎内に入りたりと思はるれど、其のことは能く覺えず。 されど胎内にては、母の苦しからんと思はるゝ時は、片側に寄りて居たりと語れりとぞ。 源藏の亡せて勝五郎と生れたる迄には、其の間、六年を經たれど、勝五郎は、死後幾日も經ずして生れたるやうに思ひて語りしなり。 再生には、稀には一人にて、人と蟲とに生れたるもあり。 『因果物語』に、寛永年中の事なりとか、近江國高野の永源寺の末寺の僧に、片目にて疵(あざ)ある者ありて、字を疵坊主と呼ばれて在りしに、死後に生れたる孫女は、片目にて疵も在りしに、習はぬ經をも讀みて、音聲も疵坊主の如くなりしが、女は何に感じけん、自身は祖父の再生なりといひたりしとぞ。 然るに其の頃、家の邊を離れぬ蛇ありて、此れも片目なりしが、女の母は、此の蛇も疵坊主なりと、人にも語りたりといふ。 再生の事は、和漢古今、其の例も多き事なれど、學者などは信ずる者稀れなるは、人智を以て其の理の知られぬが故なり。 されど聖人と崇むる孔子の靈は、宗代に王子の夢に入りて、曾參を汝の子に生れしむべしとて、王曾といふ子を生ましめたりといひ、蜀漢の關羽の靈は、宗代に高宗の夢に入りて、張飛を岳家の子に生れしむと告げたるに、果して岳飛を生ましめたりといへり。 されば曾參・張飛は、倶に死後久しく、其の神魂は、幽府に留まり居たりしならんか、幽府の神議にて、再び人間に生れしめしなり。 凡そ人に舍(やど)れる魂魄は、生兒の體と倶に、漸く生長して人と成りての後は、仙童寅吉の言の如く、其の人の念力の凝結するに依りて、亦た強大なる物ともなれど、然もあらぬは、老衰すると倶に漸次に減少して、死後は有るか無きかに成るもあり。 或は減少して小さく成れる者は、鳥獸の魂の如く散亡するもあるべく、或は蟲類などに化生し行くもあるべし。 齋藤實盛は、死後に蝗蟲と化れりといひ、播磨國の尼は、橘の蟲と化れりともいへるが、『沙石集』には、我れ優婆塞は、死後に其の妻の鼻中の蟲と化りて、妻の洟(はな)をかむにつきて出でたる物語りを載せたり。 神界には、また神人といふがありて、時としては顯界に現はれて、人の耳目にも觸るゝ事あり。 是れを世には仙人と稱すれども、仙人は、多くは現身ながらに神通を得て、神界にも出入する事を許されたる者なるが、此こに神人といふは、未だ全く人間に出でざる神をいひ、また一旦、人體は受けたれども、人體は死滅して神靈のみなるをいふなり。 然るは清和天皇の貞觀十七年十一月五日には、富士山の麓にて、淺間大神の祭禮を行ひしに、正午の頃に至り、天氣清朗と晴れわたりたるに、吏民ども、不圖、山上を仰ぎ觀たれば、白衣の美女二人、山の巓の上を一尺許りはなれて、舞を舞ひてありきといひ、また或る人、淺間嶽の麓にて、一人の異人を見たる者ありて、其の言には、身長一丈許りにて太刀を帶びたるが、黒髮を長く埀れてありきといへり。 また天明年中、輕井澤驛の山犬權十とて名を得たる荒男、鶉網を張りて居たるに、右の如き異人、小屋の前にて、權十と呼ぶまゝに出て見れば、草鞋の紐を結べといふに、言ふ儘に結び居たる間、異人は片手を權十の頭上に突きて在りしに、其の痛み堪へ難かりしを、忍びて結び終りて見れば、三本の指の痕、頭上に深く凹み入りて、生涯、直らざりきといふ。 此は、權十の驕慢なるを懲したるなるべし。 因みにいふ、此の神人は、身長の一丈許りといふは、今人より思へば、餘りに長大なるが如くなれど、神人にしては珍しからず。 總べて上代の人は、人身、極めて長大にて、日本武尊も、御身長一丈と申し、また御叔母倭姫命の小袖を借り着し給ひきといへば、叔母君の御長も、同じ程なりしなるべし。 また日本武尊の第二の皇子・仲哀天皇も、御身長一丈と申しゝなり。 然れば東山天皇の元祿十五年四月二十四日、阿波國勝浦郡大原浦にて掘り出したる石棺中の髑髏は、頭の廻り三尺七寸ありきといひ、また靈元天皇の延寶三年、鎌倉深澤の洪水の時、現はれたる髑髏は、徑(わた)り三尺許りなりきといひ、また中御門天皇の享保年中、陸奧國半田村の古塚より出でたる髑髏の、徑り三尺四寸ありといひ、また櫻町天皇の元文年中、飛彈國大原郡内の山といふ地より出でたる石棺中の髑髏は、四斗樽の如くなりきといへば、上代の人は長大なりしに、後世になりて、漸く短小になりたるは、人口増殖して地域の分量よりも、人の數の多くなりし故にはあらぬか。 人口の稀薄なる國の人は、人も猶ほ多少、軀幹の長大なるもある事なり。 また文化十三年八月、烏帽子・直埀の老翁、白馬に乘りて永代橋の上流を泳がせ來たりて、橋下を出づると倶に、空中を南方に馳せ上りたるなど思ふべし。 仙人は、現身ながら神通を得て、神界にも出入する者なるが、陽勝仙人・久米仙人などは、能く空中をも飛行したれど、浦島の子・若狹の八百比丘尼などは、長壽を得たるのみにて、神通の事は聞こえず。 また源義經の郎黨なる常陸坊海尊は、陸奧の阿武隈川の邊にて、神人より賜はりたる仙藥を飲みしに、長生して今も猶ほ殘月とも殘夢とも稱して存在せりといふ。 また京の白河の山中に住みたる白幽先生も、安房國の岩田刀自も、長生しては在りしが、神通の事は聞こえず。 霧島山の雲居官藏は、長生の外にも、些かなる神通を得たるが如し。 また鎌倉公方の頃なりれん、東海道の興津驛に、由比源藏といふ者ありて、仙術を學び得て在りし間、三人の昔の友を誘ひて、足柄山の仙境にして、山海の珍味をもて饗應し、三人の友の親しくする街道の遊君十人ばかりをも呼びて宴席に侍らしめて、酌をも執らせ歌舞をも爲させて、一夜遊興して慰めたりしに、宴はて夜あけて、三人の友は別れを告げて、其の家を出でたるに、半町許り離れて後の方を顧みれば、霧ふたがり雲とぢて、今まで在りし楼閣も見えずなりて、一面の山中なりしかば、大きに驚きて、さては遊君どもは奈何なりしか、何方を通りて歸りしか。 歸るさに遊君の家を訪ひたれば、遊君どもは、みな家に居て、昨夜の事は夢とも現とも無くて覺えて在りと語るを聞きて、益々驚きたりといふ。 此の仙人は、神通力をもて、遊君どもの游魄を招きて宴席に侍らせしなるべし。 抑も神界には、神界の掟ありて、濫りに顯界の人に接し、或は人を誘惑するなどは爲すべきにはあらねど、(妖魅は)神の監視を潛りて、あらぬ所爲をする事あり。 神界の掟といふは、例へば國郡には國郡神、町村には町村の神おはして、國郡の神は國魂神と申し、町村の神は地主神とも産土神とも申せり。 國郡の國魂神は、町村の地主神・産土神及び諸家の氏神たちと倶に、其の地の人を鑑視して、神界の大主宰とまうす大國主尊に仕へ給ふなるべし。 毎年十月には、天下の諸神、出雲に參り給ふ趣(さま)に、古くより言ひ來たれるは、先輩の説の如く、諸神、其の主管せる地の年中の事を申告し奉るにはあらぬか。 神には、種々の事を掌り給ふ神おはします。 例へば火神は火を掌り給ひて、人に其の用を爲さしめ給ひ、水神は水を掌り給ひて、人に其の用を爲さしめ給ひ、年神は耕作を守らせ給ひ、保食神は衣食の事を守らせ給ひ、また大己貴・少彦名神は醫藥禁厭の事を教へて、人を惠ませ給ふが如くにて、みな人の爲めに議らせ給ふ事なるが、其の神たちには、隨從の神もおはす事とて、幾柱ともなくおはせば、自ら高下尊卑の品もありて、其の往來し給ふ空中の道も、幾條もありと覺しくて、神人に伴なはれて空中を行きし寅吉なども、其の行く道よりも遙かなる上空に、幣帛の如くにて金色の光ある物の閃くを見て、路傍に跪きて拜みたるが、此は貴き神の御幸なりきといふ。 また寅吉の言に、其の行く道より下空に、頭巾やうの物を頭に載せたる人の鶴に駕(の)りたるが、歌をうたひて過ぎたるを見たりともいへり。 神たちは神界におはしまして、何事を爲させ給ふかといふ事は、凡夫にして窺ひ知るべきにはあらねど、天孫の降臨に依りて、顯界を置かせ給ひしより、顯界を守らせ給ふべきは、幽契おはして、萬事につきて人を惠み守らせ給ふなるべし。 然るに神界に在る妖魅どもは、神の御目を偸みて、自己の欲望を逞しくせん爲めに、種々の障碍を爲す事あるをもつて、神は、また妖魅の爲めにも御心を勞はらせ給ふ事ありげなり。 然るにまた 妖魅どもは、神の穢れを惡ませ給ふを知り、また神は穢れの在る處は避け給ふをも知りて、穢れをもて神を遠ざけ奉らんとして、人を誑かして穢れに觸れしむる事あり。 然れば心あらん人は、心身ともに穢れさせじと用意すべきなり。 大凡そ世間の惡事災難は、悉く穢れより來たる。 穢れあれば神の守護なきからに、其の虚に乘じて、妖魅どもの跋扈跳梁する故なり。 妖魅は、神界に居て顯界の人に禍ひする故に、神は、顯界を兼ねて御心を勞づかせ給ふなり。 然るに神は、また妖魅の外にも、顯界より歸り來たる人の靈どもをも、或は賞し、或は罰し給ふ事もあるべく、或は神界に留め、或は更に顯界に出でしむるなどもあるべし。 上にもいへる如く、人の魂は、善にも惡にも凝り固むれば、堅まりて滅(き)ゆる事なけれども、凝る程の事も無きは、衆くの魂、相混じて、人にも物にも生れ、或はちひさくなりて、漸く減りて行くもあり。 鳥獸などは種々の物に生れ替り、或は終ひには消失するなり。 かゝる事は、みな其の方の神おはして爲させ給ふ事なれば、神は、人の唯だ汲々として衣食の事にのみ勞づくが如くにはあらで、多事多忙におはする事は察し奉るべき事なり。 凡そ人世に起る善惡、種々の事は、みな神たちの御心より來たるなれば、人は能く神の御上を思ひ奉りて、其の御惠みを蒙むらん事を願ふべきなり。 神の奇びなる御事は、全く人智をもて窺ひ知るべきにはあらず。 人智は事物に就いてのみ知る事なれば、事物を離れたる上に就ては、人智は用ひらるべきにはあらず。 例へば神魂の人身中に在るは知らざる者なけれど、影も捉ふる事能はざれば、全く知る事能はざるが如し。 猶ほいへば神は、人の未だ言(ことば)には出さゞるをも、其の念の胸中に生ずる時は、直ちに知食せども、人は言を聞かざれば、知る事能はず。 神は年の豐凶、事の吉凶をも未然に知食せども、人は其の事に會はざれば、知る事能はざるが如し。 然れば矢野翁も言はれたるが如く、深源法印は僧なれども、其の詠める歌の意は、今、此こにいふ事適へり。 其の歌は『新拾遺集』に載せられて、人も知れる歌なり。 幸魂奇魂守給幸給。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年11月17日 日 23時55分10秒• 神代に大國主大神、少彦名命と共に、此の國を經營(つく)り給ひし時に、少彦名命は、中途にして海外の國に渡り給ひしかば、大國主大神、甚(いた)く憂ひまして、「自今以後(いまよりのち)、孰れの神と共に、此の國を相造らん」と詔り給へる折しも、海上(うなばら)を照らして寄り來座せる神あり。 是れ即ち「大神の幸魂・奇魂の神なり。 吾を齋(いつ)きまつらば、共與(ともゞゝ)に國土經營(くにつくり)成さん」と、告げ給ふまにゝゝ、重く祭らせ給ひて、其の事業をなし整ひ給ひ、終(つひ)に大國主大神となり、又た幽冥の大主宰(つかさ)と座して、八百萬神を率ゐて、所謂る總産土神とたゝせ給ひて、國土・人民(くにひと)を愛護し給ふ事となれり。 これ、大神の天凛無比(もとよりたぐひなき)の靈徳(みたまのふゆ)に因るといへども、幸魂・奇魂の贊成(たすけ)し給へる功績(みいさを)も、亦た大いなり。 然れば百般(もろゝゝ)の事業を創(はじ)め成さんには、まづ此の神績を熟(よ)く知りて、幸魂・奇魂の神護を蒙らん事を肝要(むね)とすべし。 たゞに事業を作(な)さん時のみならず、行住座臥(ねてもさめても)に忘れず、神助を仰ぐべきなり。 抑々此の神語は、天照大御神の勅(みことのり)にて、吾が家の祖神(おやかみ)天穗日命を、出雲の大社の祭主と定め給ひければ、大神の傳へ給ひし靈驗無比(たぐひなきしるしある)の神語にして、世にかゝる尊き神縁ある事を知る者なければ、方今(いま)、神教を實際に施し、普く同心の人に知らしめて、靈徳を蒙らしめむとするなり。 然れば有信(まことある)の人々は、此の大神の大造(おほいなる)の功業(いさを)を立て、大國主の神たる榮位(くらゐ)を保ち給ひ、幽冥の大主宰となりて、國土・人民を愛護(いつくしみまもる)し給ひ、威徳(みいつくしみ)を具へ給ふも、皆、この幸魂・奇魂の贊成け給へるによる事をうかゞひ奉りて、其の神語をして、普く天下の信者に蒙らしめ給ふ、仁愛無比の神慮を戴き奉り、旦暮(あさゆふ)、精誠(まこと)を凝らして、常に唱へなば、唯だ現世の癒病攘災(やまひをゝさめわざはひをはらふ)等の靈驗のみならず、幽冥永遠の靈魂の幸福を得るも、幸魂・奇魂の幸へによる事なり。 愚案、「幸魂・奇魂、守り給ひ幸ひ給へ」の神語は、出雲大社の國造家に、神代より傳はりし「大社日氣目(ひきめ)」の教理なり。 幽冥神語には、 幽世(かくりよ)の大神、憐み給ひ惠み給へ。 幸魂・奇魂、 守り給ひ幸ひ給へ。 となり。 「十言の大御名」と共に、尊み仰ぎて、日常奉唱すべきなり。 穴賢、々々。 仰ぎ奉る可し、大國主大神。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年10月30日 水 16時03分6秒• 夫れは申すまでもなく、天孫降臨に先立つて行はれたところの幽顯分界である。 此の變革は、我が日本に於ては、天孫降臨以后の日向御三代・二千四百六十餘年を經るの間、尚ほ幽顯相通の事實ありて、所謂る神人雜居の儘に推移したが、人皇第一代神武天皇の御世に及びて、造化氣運の向ふところ、遂に神人分居の隔世期到來し、以來、仙風は地を拂ひ、人は仙骨を帶びざるに至り、人壽、また頓に短縮して、略々今日の如き人間の世と一變したのである。 幽顯分界は、素より高天原に事始め給ひし、高皇産靈神の御意圖に本づくもので、造化大元の神機に出づるところである。 此の時まで地上は、幽顯の別なく、草の垣葉も言語を發し、人、また素より靈異にして、神人同居し、地界即神界であつた。 幽顯分界とは、地上の神政を、顯幽の兩政に分ちて、其の顯事に屬する所治を、天照大御神の神孫・邇々藝命に分任せしめ給ひ、其の幽事に屬する所治を、須佐之男神の神孫・大國主神に分任せしめ給ひ、顯事と幽事に關する分治の原則を定め給うたことで、之を專ら人間の側より謂へば、人を神より分離して、一つの人界を立てゝ、之を顯界とし、神及び顯界を去りたる人靈の世界を幽界として、明かに神人分離の制を布かれたことで、造化の氣運も、亦た此の神制に伴うて變化し、玄妙靈異の氣線は、極めて低下したのである。 神武天皇の御宇に當りて、幽中の一界として、山人界が創立せられ、地上靈異の人物が、多く此の界に入つたのも、幽顯分界の一餘波と見らるべきである。 何の故に幽顯分界が行はれたかは、素より深き造化大元神の幽旨より出づることで、人智の測り得るところではなく、たゞ吾人の生棲せる地上鴻濛の世に、斯かる大變革ありしといふ事實を、古傳承によりて智識し得るに止まるが、 太陽神界の天神を降し給ひて、地界の顯事を治めしめ給ひ、地界の國神を昇遷して、幽中の神政を始めしめ給ふ、天地交流・陰陽交叉の玄理の開合を拜するとき、青人草の上に何物かを期待し給ふ、造化大元神の御意圖を窺ひ得て、深遠なる御神諭の、自づからに流光神感し來るを覺ゆるのである。 凡そ地上に生を享けて、生きとし生き、在りとしてあるものゝ限りは、期到りて身亡の後、必ず靈魂は幽中に入るのであるが、太古より幾十世紀を經過し來りて、其の數、歳月と倶に累加すること、幾千萬億兆なるを知らず、殆んど算ふるに堪へ難い天文學的數字に及ぶ、歸幽靈の出自、進退集散に關する神政こそは、幽事中の最大幽事に屬するものであらう。 蓋し幽事を統べ給ふ主權の神は、餘程、大徳靈威の大神に坐しまさゞれば、克く其の大任に堪へ給ふ可からざることは、想像に難からざるところである。 此の御大徳は、天性の御神性も然ることながら、温厚御正實なる誠徳を貫き給ひて、兩度に亙る生死の關門をさへ潛り給ひ、堪へ難く忍び難きの御耐恐を經て、大造の功績を全うし給ひし至誠貫徹の御成果の然からしむる所と、拜察し奉る次第である。 吾が神典古事記に於ても、國津神第一位の大立物として、此の大神に關する記述は、他の何れの神に關するよりも多い。 其の一事を以てしても、這間の御消息を窺ふに足るものありと信ずる。 大國主神が、幽顯分治の詔命を承け給ひて、國土を皇孫命に讓り給ひ、隷下の國津神等を率ゐ給ひて、神隱り給ひし後の御蹤跡は、杳として我が神典には傳へられてゐない。 美甘大人は、宮地嚴夫先生と深き親交ありて、其の神典講究上の見解には、確かに水位先生の神仙道の影響ありしものと、私は、故ありて夫れを信じてゐるものである」と。 以て水位派神仙道と大國主大神の御關聯深き一斑を窺ふに足るべし。 其の何れの年より、管長に就任せられたるやは、未だ確め得ざるも、本稿を執筆中、偶々右辭典中より之を發見せるを以て、筆の序でに誌しおくなり」と。 愚案、「宮地水位先生は出雲大社教管長」は、正しくは「 管長代理」ならむ。 蓋し美甘政和大人も、「出雲大社教一等輔教にして美作分院長。 東京分院在任中は 管長代理。 後考を俟つと云爾。 愚案、地球の現在、 顯界は、天照大御神の皇孫たる天皇陛下、之を治め給ひ、 幽界は、須佐之男大神の神孫たる大國主大神、之を治め給ふ。 嗚呼、尊きかな哉、敬みて仰ぎ奉る可し矣。 なほ天皇陛下には「知(し)らす」と用ひ、大國主大神には「領(うし)はく」と稱へて、其の相違差別を、殊更に唱道する向き、段々あるものゝ、例へば、 「(天之御中主大神の)「主」は、本居先哲の説に、「のうしの約言なり」とあり。 「のう」を約(つゞ)むれば、「ぬ」となる。 又「ぬ」と「う」とは、横に通ふ言詞にて、「うし」と云ふも「ぬし」と云ふも、同じ意ありて、近く通ふ言詞なり。 此の本語の意は、物の主宰たるを云ふ語にて、 古言にも「宇斯波久」と云ふ語は、其處の主として宰り居る事なりとは、先哲等、一定の説なり。 然れば天之御中主神と云ふ御名は、大宇宙の眞中に坐して、其の大宇宙間を、悉くうしはき玉ひ宰り玉ふとの意にて、全世界の大主宰と坐す事は、多言を用ひずして、此の御神名にて明かに傳はりたるものなり」(『天地組織之原理』卷一) とあれば、「うしはく」と云ふ言葉を、特に貶めて、之を低く見る説には、些か疑念を存する。 蓋し井上梧陰博士に出づ(『梧陰存稿』卷一)と雖も、漢字に引つぱられて、論を立てたるかも。 また件の南岳翁の御文は、小生の愚鈍なる、美甘政和大人の御名を識るの始めにして、南岳翁に對して、感謝に勝へざる所なり。 大人の神典解説『天地組織之原理』全五卷は、神道人の必ず讀まざる可からざるの書にして、之を廣く知らしめんと欲するものなり。 吾が神典は、天地組織の大歴史にして、天地自然の大經書なり。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年10月 9日 水 22時43分27秒• 如此ものは、他なし、顯を主とすると幽を主とするとにあるものなれ共、其の實、吾が神典なるものは、聖賢有りて後ち作爲したる經書・教書の類とは、大に異なるものにて、造化自然の神傳、顯幽兼備のものなれば、これを講ずるも、亦た人爲を離れ、本傳の明文に隨ひ、顯幽相兼ねて講ぜざるべからず。 然る時には、 吾が神典は、天地組織の大歴史にして、又た天地自然の大經書とも云ふべきものなり。 如此く古事記本傳、僅々紙數百枚未滿の書にして、此の内に天地萬物を網羅して漏らす事無きは、神傳の神傳たる所以にして、余が常に論ずるが如く、世界無二の寶典と云ふべきなり。 然るに御一新以來、專ら斯道を擴張せんが爲めに、宣教師を置かれたるも、時勢の變遷と共に、教導職と一變し、次で各教會なるもの起り、終ひに他の宗教と對峙せんと欲するが爲めに、其の教旨は、宗教と異なるも、これが擴張の方法、宗教類似の組織を成すに至り、政府も、亦たこれを認めて、他の宗教と同視し、信仰自由の部に屬せらるゝに至りたるは、斯道の爲め歎ずべき事にて、各教會なるものも、又た四分五裂の勢ひを成し、未だ教旨も一定せざるは、最も慨歎の至りと云ふべし。 故に甲乙論じて曰く、「如此なるものは、一定の教書なきに因る所なれば、各教とも則とるべき大教書、編集あらん事を望む」と云ふに至る。 其の衷情、然るべき事なれ共、 吾が神道は、人造のものに非ざれば、如何なる聖賢、世に出る事ありとも、神典を除きて、他に教書を編集すべきものに非ず。 一向、神典の明文に隨ひ、これが講究を明かにするにあり。 これを明かにするに至れば、神典は其の儘、全地球上の大歴史にして、又た天地自然の大教書たるべし。 何ぞ神典の外に、教書あるを要せんや。 又た國民一般に斯道を教示せんとするには、各教會の微々たるものあるのみなるに、是れとても未だ完全なるものに非ず。 其の組織も宗教類似のものなるが故に、政府はこれを度外に措かるゝに至る。 然るに近時に至つては、神祇官再興の建議起り、既に此の擧あらんとするも、是れ又た暫く中止となりたるものゝ如し。 如此く吾が神國にして、神道と國家との關係を薄からしむるは、時勢の然らしむる所と雖も、全く神道の各教會なるもの、宗教類似の組織なるが爲めに、他の宗教と軋轢を生ずる等の事あれば、云ふべからざる困難を引起す事あるも計りがたしとの點より、漸々神道と國家との關係を斷つに至りたるものならんとも窺はるゝ事なれば、神祇官の再興を謀り、神祇と國家との關係を厚からしめんと欲せば、必ず神官と教職を分離せざるを得ざるは、勢ひ止むべからざる事なれば、速かにこれを分離し、且つ神道の各教會も、其の組織を改め、宗教的の神道を全廢し、各教を合併して、帝室・國家と密着したる國家的の神道たらしむるを、目下の急務と存ずる事なるが、此の儀に就て御意見のある所を、一應伺ひ置きたし。 御最もの御意見なり。 余に於ても、神祇官の再興あらん事を懇願するものにて、神道をして一の宗教の如くならしむるは、甚だ遺憾とする所なれ共、片はを又た時勢の如何をも察せざるべからず。 先づ吾が國、開國以來、太古神代は暫く措き、神武天皇以後、孝徳天皇の御代に至る迄は、別に神祇官と云ふもの無く、自ら祭政一致にして行はれたるものなるを、唐制を學ぶに隨ひ、神祇官を以て太政官の上に置かるゝに至りたるは、神祇の最も重んずべきを明かにするの制にして、昔時、政體改革の美擧とも申すべき事なれ共、其の神祇官の組織なるものは、祭典儀式を宰るを專らとして、更に國民をして斯道の何物たる事を講明する活用の方法無かりしが爲めに、佛教は日一日より盛んにして、上、帝室より、下、萬民に至る迄、尊信の歸する所、神道の上に出るに至る。 如此なるものは、他なし、佛者は專ら説法を盛んにし、斯民をしてこれを吾が版圖に導くの活用を行ひ、神道は神祇官たる體あるも、單に神祭儀式にのみ止まり、更に斯道をして斯民に教ゆるの活用無かりしが故に、終ひに斯民の精神をして、擧げて佛教の版圖に歸せしむるに至りたるものと云はざるべからず。 此の時に當り、神祇官の組織にして、斯道を宣教する組織あるか、又た他に神道を講明する活用の方法あらしめば、何ぞ國民の精神をして外教の爲めに奪ひ去らるゝ事あらん。 是を以てこれを見れば、方今、神祇官の再興あらんには、單に神祭儀式にのみ止まる事無く、其の組織に於て、必ず斯道を講明し、斯民を導くの活用を行ふべき方法を設けざるべからず。 たとひ神祇官の再興ありとも、此の官に掌る所、只に祭典儀式にのみ止まり、斯民を導くの教へ無くんば、中古、神祇官の下に有りて佛教の盛んに行はれたるが如く、再び新來の外教が宣教の活用を行ふが爲めに、國民の精神を奪ひ去られ、其の尊信の向ふ所、吾に非ずして彼にあるに至り、三拜九拜、外教版圖の奴隷と成るに至らん。 然れ共も佛教は、一二の宗教を除くの外は、全く國民をして神祇を崇敬するの道を廢せしめざりしが爲めに、其の害、少しと雖も、新來の耶蘇教は、大にこれに異なるものにて、「他神、敬する勿れ」の教規を以て、終ひに 報本反始の正道たる天神地祇を崇敬するの道を全廢せしむるに至らん事、必せり。 これを以て見る時は、 吾が衆神崇敬の國體を變ぜしむるもの、獨一眞神の理説、耶蘇教より甚だしきもの無し。 一神教の理説を推せば、「舜も人なり、吾も人なり」と云ふに至り、終ひには君臣の大義をも忘るゝに至らん。 既に方今、神祇崇敬の道を明かにし、神道と國家との關係を厚からしめんが爲め、神祇官の再興を謀る人ありと雖も、其の事、行はれず。 吾が神國にして、神祇崇敬の道を明かにせんと欲する神祇官の再興を不可とするが如きものあるに至りたるは、專ら獨一眞神の推理説・一神教、人心を犯し、造化・分靈・分擔の正理原則を辨へざるが故なり。 吾が神傳に隨ひて、造化・分擔の神祇と國家との關係、相離るべからざる造化の眞理を明かにするに至れば、たとひ外邦の制度に於て、比較すべきの制無しと雖も、神世相承、萬世一系の君上を奉戴して、萬國無比なる國體を維持せんとする吾が國に於ては、又た萬國無比なる大典を擧げ、國家は神祇を崇敬し、報本反始の道を明かにすべき大義務ある正理を講じ、人造宗教を妄信するの弊を一洗し、天地自然の道をして、漸次外邦にも廣布せざるべからず。 如此く理由あるにより、御質問の儀は、余が意見にては、神祇官の設立ありて、國民に斯道を宣布する良方法あるに至りたる以上は、神官・教職を分離するも、亦た宗教組織の各教會を改良するも、合併するも、妨げ無かるべしと雖も、未だ神道をして斯民を導く活用の方法も非ざるに、先き立ちこれを廢せんとするは、神道の體を立てんが爲めに、其の活用を失ふものにて、たとへば新穀、未だ實らざるに、舊穀を廢せんとすると一般、策の得たるものに非ず。 又たとひ神祇官の設立、近きにありとするも、此の官の組織に於ては、方今の時勢を察するに、恐らくは神道を講明して、國民を斯道に導く活用の方法ある組織には行はれがたかるべし。 單に神祭と儀式をのみ掌る事と成るべきは、中古の神祇官組織の例を以ても窺はるゝ事なれば、必ず他に神道を擴張する良方法を立て、斯道をして運轉活用するの道無かるべからず。 然るに方今の各教會なるものは、未だ教旨一定せざるのみならず、微々たるものにて、神道の活用とするには足らざるものゝ如くなれ共、神道布教活用の道は、漸く教會より開けたるものにて、御一新以來、多少神道を擴張し、外教妄信の弊を一洗して、神祇崇敬の正道に歸せしめたるものは、各教會、關つて力ありと云ふも、不可無かるべし。 然れば今後、神祇官設立の曉あるに至り、神祇官は、單に祭典儀式を掌る組織と定まるに於ては、これを神道の體と定め、他に斯道を講明し、斯民を導く方法を設けて、これを神道の活用と成さゞるべからず。 こゝに至りたる時には、神官・教職は分離して、 神官は神道の體を守るべく、教職は神道の活用を勤むべし。 又た各教會は神典の眞理に隨ひ、教旨を一定し、必ず其の活用に供せざるべからず。 如何となれば、各教會は、斯道活用の實驗もあれば、新たに活用の方法を求めんより、其の弊を洗滌して、其の用に供するは、大なる良策ならん。 教旨一定したる以上は、敢へて教會の合併を要する事かあらん。 こゝに人あり、或は云はん。 「各教會の微々たる、何ぞ神道の活用に供するに足らんや」と。 此の言、一應は最もなる如くなれ共、造化の眞理は、然るものに非ず。 何事も極微の物より起りて大なるに及ぶものなれば、始めより大なるを求めんより、其の微を守りて、然る後ち漸々大なるに及ばん事を策るべきなり。 これ則ち造化の原則にして、斯道を擴張せんと欲するもの、深くこれを鑑み、恆久耐忍、勤めざるべからざるなり。 就ては今、一言、御尋問に及び度き事あり。 如何となれば、吾が神典なるものは、政事・道學、自ら兼備のものなれば、道義を講ずるは、素よりの事なれ共、他の宗門には相關せざるものなりとの事なるに、往々外教の如何を論じらるゝが如き感あり。 且つ神典は、大地球上の寶典なれば、全地球上に、これが講究を求むべき事なるに、獨り日本人のみに、これを求むる、切なるが如き御説あるは、如何。 御最もの御尋問なり。 就ては一應、これを辨明すべし。 斯道の他宗門と相關せざるものは、布教活用の方法たる組織の上にあるに非ず、又た宗教と名づくる文字の上にあるに非ず。 只に道義を講ずる精神の上にあるものにて、其の組織の如きは、時に隨ひて其の宜しきを製するも、又た可なり。 然るに他の自由信仰の宗教、其の説く所、吾が造化自然の正道を論ずる路に横はる説ある時は、止む無く自他比較の爲めに、これが是非を論ぜざるを得ざるは、勢ひの止むべからざるものにて、敢へて一家の私論に非ず、道理に訴へて、正邪を天下の公論に取らんとするにあるなり。 方今の如き宗教各派の多き、東に走れと教ゆれば東に走り、西に向へと教ゆれば西に向ひ、各自精神の向ふ所、尊信の歸する所を異にして、一つに外教版圖にありて、唯だ命、是れ隨ふ如き時勢の人をして、斯道に導かんとすれば、必ず多少、其の比較を擧げざれば、是非得失の自得も成しがたき故に、止む無く老婆心を加ふるに至るは、萬々止むべからざるに出るものにて、斯道の貫かん事を慮るが爲めなり。 故に本居・平田兩先哲の慨歎も、此の意に外ならず。 且つ第二の御尋問に、神典は全地球上の寶典なるに、これが講究を、獨り日本人のみに求むるに切なるが如き云々の御質疑は、御意見の通り、余に於ても、必ず全地球上に求むるの意見なれ共、そは他日の事にして、今日に有りては、未だ云ふべくして行はるべからざるの時なれば、先づ吾が邦人に求むるを先にして、彼に及ぼさんとする順序を採るが爲めなり。 愚案、俗に「神道には、教祖なし、又た教義なし」と。 何ぞ知らん、神道の「教祖」は、申すまでも無く、別天の天神の大詔より出でて、皇祖・皇宗、之を奉じ給ひ、中今に坐す日嗣の御子、即ち現人神天子樣なるを。 又た天神の詔を明記せる記紀等の神典の明文、これを神道の「教義」と曰はずして、何をか曰はんや。 大宇宙間、絶對無比の「教祖・教義」なり矣。 勅願所宗忠神社の大徳。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年10月 4日 金 22時22分5秒• 笠井鎭夫氏『近代日本靈異實録』昭和六十二年九月・山雅房復刻に所引) 杉山氏(權小教正・杉山信衞)も、道(御道。 黒住教)の大事より探りて、心試しに幽冥の事を問ひ探りたるものなれば、恆原氏(恆原松太郎。 大阪の人。 天滿宮の寵兒なり)に、 (杉山信衞云)「幽冥で、宗忠の神樣(黒住宗忠の神靈。 備前國御野郡今村宮禰宜。 贈從四位下「宗忠大明神」)に御會ひに成りましたか。 」 (恆原松太郎云)「度々御目にかゝります。 」 (杉)「又た宗忠の神樣の御弟子も、多く幽冥に往つて居られますか。 定めて御會ひ玉ふや。 」 (松)「それはゝゝゝ多人數、往つて居やはります。 先づ百姓風の人が、一番多く有ります。 」 (杉)「其の多きお弟子の中にて、何んといふお方が、一番お氣に入りて居られます歟。 」 暫くして(松)「夫れは赤木忠春(陶宗一郎菅原忠春。 美作國天滿宮神官。 「忠春靈社」)と申す御方に御座ります。 」 (杉)「夫れは、何方(いづかた)にて御逢ひになりましたか。 」 (松)「これは、泉州堺町の神明(しんめい。 天照大神を祀る神社)、當大阪の旭神明、天滿と兩皇大神宮樣にて御目にかゝります。 」 (杉)「而(し)て其の赤木と申す神は、御年は何程位と御見受けになりましたか。 」 (松)「五十餘り。 其の御形は、背が高く、頭顔長く、色は黒く、齒は出てあり、服裝は、平生は、鼠色の紋付に、白襟の襦袢に、黒の三ツ紋の羽織。 又た御祭典の節は、麻の淨衣、左折の烏帽子を冠り、手に笏を持つてあります。 」 杉山氏、思へらく、忠春樣の逝去せられしは、五十年(歳。 慶應元年)の四月十六日朝なり。 其の他(五十餘りと五十の相違以外)は、一切見通し、少しも違ふ事なく、恆原松太郎氏の幽冥に通ひ玉ふ事、更に疑ふ所なし。 亦た宗忠の神の御徳を尋ぬれば、 (松)「或る日、『宗忠が徳を見せて遣(やら)ふ』と仰せられ、神前の八足の上に、御姿顯はし玉ふと、『宗忠、々々と、皆な尊むが、是れ此れ、此の者を尊むではないぞ』と仰せられ、右の御手にて、御自身の御形を御たゝき遊ばして、天照大神宮の御神號の『照』と申さるゝ所(文字の上)へ、周り經、凡そ壹尺二寸位の『日の丸』顯はれ、『皆な人の拜むは、是れぞへ』と、『日の丸』を指さし玉ふと、其の儘ま御姿、上らせ玉ふ。 又た天照大神の御膝元まで、直ぐと御出遊ばすは、宗忠の神樣の外にはありません。 因て何の神樣も、宗忠の神樣の御從ひ遊ばさぬはありません。 又た赤木忠春樣は、天滿宮樣(菅公)に、誠に御懇意であり升す。 御道の御用の節は、忠春樣が上座に居やはります。 外の御神事の時は、忠春樣が次座に居やはります。 松太郎も、其の後に坐して居ります。 天滿宮樣が御拜を遊ばして拍手をせられますと、御扉がキイと鳴つて開き、御簾が上りますると、中に美しい神がおはしまして、大なる御鏡を御手に御持ち遊ばしてある。 其の左脇に、年の頃、七十あまり見ゆる、頭の光る、能く太りたる神樣がおはし升す。 右の脇にも、美しい神樣がおはしまして、暫時(しばらく)して御簾が下りて、天滿宮樣について門へ出ますと、天滿宮樣の仰せらるゝに、 (天)「中央におはしますが、天照大神樣、左脇が宗忠の神樣なり」と申されゝば、 (松)「その宗忠の神樣とは、どうした神樣ですか。 」 (天)「あれは、備前國黒住左京藤原宗忠の神にて、皇太神の御寵愛の神なり。 」 (松)「此の神樣は、神と成られまして何千年になりますか。 」 (天)「此の神は、まだ三十年あまりなる神なり。 」 (松)「されば、あなた樣は、天滿宮と御成りあそばして、凡そ千年にも近く、古くよりの神樣でありまして、三十年に成るやならぬ、わかき神樣が、皇太神宮の御膝元に御仕へ遊ばすとは、如何の事であり升すか」と、お尋ね申し上げますと、 (天)「宗忠といふ神は、拙者等の及ばぬ大徳の神にして、其の訣は、天地開けて此の方、皇太神宮の御徳を、世の人に教へた神は無し。 宗忠といふ人は、現世にありし時、誠を勤めて、皇太神宮の御徳を説き教へて、人に物語りて助けし功の著大なるが故に、皇太神宮の御膝元に仕へ召される大徳の神」 と、仰せになりたりしことを、松太郎、歸りて申し聞かせてくれました。 私も門人と成り、御道の信仰をする事に成りました。 愚案、大本教主教・上田(出口)王仁三郎氏は、「信ずると信ぜざるとは、讀者の意志に任す」と、手寫の冒頭に録してあるが、杉山氏の審神(さには)を經たるもの、宗忠大明神が、天滿天神の上位とは、到底これを信ずること能はざるものもあるが、蓋し黒住教有縁の幽冥界の一端であらうか。 然し宗忠大明神は、皇國の正神なること、固より疑ふべくも無いが、其の遺裔、即ち現代の黒住教の正不正は、之を知らざるを遺憾とする。 美甘政和大人の皇室尊奉。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年 9月14日 土 15時18分33秒• 樂天翁美甘與一郎源政和大人は、天保六年己未四月二十四日、吉備の美作國湯原村に生れ、大正七年十二月九日曉天に歸幽せる「美作國御民」なり。 享年八十四。 明治二年、權少屬となり、社寺掛を命ぜられ、三十年九月、美作國一宮たる、國幣中社中山神社宮司に任ぜらる。 權少教正。 美作國神典研究會主宰。 大社教大參教(管長・副管長に次ぐ、大社教一級・教導職大教正と竝ぶ地位たる協贊員の職名)・美作分院總理・贈一等教勳。 從六位勳六等。 我が著はした『天地組織の原理』に述べた一説も、今日こそ、まだ心して見るものがないが、必ず近き將來には實現する事がある。 父の生命は、神典研究にありて、天授の一大使命であるとの考へは、生涯、決して捨てなかつた。 父の常に云へるは、「 神道にも體と用の二つありて、用の方面より觀れば、黒住教に若くものなきも、同教は、用を主として體を究めざるの嫌ひがある。 神道は、是非、體・用の兩方面より研究すべきであるが、之には世界最上の寶典たる『古事記』に若くものはない」とて、之が討究に沒頭せしは、三十歳前後よりの事と思ふ。 壯時は白皙黒鬚、肉付きもよく、音聲透徹、説教壇上威容あつたとの事であるが、老いては白髯、胸に及び、齒落ち頬萎み耳埀れて、仙骨を帶びて居つた。 笑顔は天眞爛漫たるもので、眞に罪のない笑ひ方で、今でも目に付く樣に思ひ出される。 世には愛國を主位とし、政治政策上、皇室を尊嚴にするを便とする、皇室尊奉者もないではない樣であるが、父のは、眞に神の御末の現つし神として、自然の熱誠より出たので、總て神道家の尊皇はこの意味で、從つて確乎たる信念がある。 父が平素能く云ひしは、「世界各國の國體を見るに、其の皇帝と云ふものは、政權と共に存して、政權が移れば、即ち皇室・皇帝もなくなるのであるが、我が國體の貴き所は、皇室は政權以上に卓立して、政權は如何に轉ずるも、國體には少しも變ずる事なく、皇室の尊嚴は少しも傷つけらるゝことのないので、即ち神勅に、『天壤無窮、吾が子孫の永く治むべき』と宣り給ひし通り、眞に萬古不易である」と。 近時、東大の上杉(愼吉)博士を始め、各方面に皇室中心主義なる説が、大分盛んに唱へられる樣になつたが、此等は世界大戰後、露・支を始め、獨・佛・伊、最も國礎の固いと信じられた英國すら、大混亂の悲境に陷り、如何に收拾せらるゝかの見込みもつかぬ有樣に鑑みて、始めて吾が皇室の有り難く尊きことに氣付いたので、父は已に三十年餘の昔、明治十八年頃、頻りに外來の思想が流れ込み、やれ假裝會、それ舞踏會と騒いだ時、『 皇室中心主義の宣言書』を數千枚印刷し、縣下の諸學校・役場などに廣く配付したことがある。 此の頃の有樣を地下で見て、「今、やつと氣が付いたか」と、例の口調で、得意の笑みを洩らして居ることゝ思はれる。 忘れもせぬ、明治十八年春、余は九年目で歸國し、醫術開業準備中、津山の大社教分院(當時、政和大人は、大社教一等輔教にして美作分院長。 東京分院在任中は管長代理)に二ケ月許り、久し振りで父と起臥を同じうして居たことがある。 此の時は、露國が西伯利鐵道を起工し、段々東方に延長し、吾國上下、これを憂ひ、人心恟々として、中々現時、米國海軍擴張を聞くの比ではなかつた。 直ぐにも歐亞の大國、世界絶大の陸軍が、吾が國の背後を衝くかの恐れをなした。 父は之に對して、冷然且つ泰然たる態度で、「 神風は、必要の時は、何時でも吹く。 あの鐵道も軍港も砲臺も、ちやんと拵へて、結局、天皇陛下に獻上するのである。 此れは造化の御約束であるから、致し方がない。 世界統一は、何れの日にか來るに相違ない。 其の時の大主宰は、萬世一系の吾が皇室をおいて外にあるべき筈のものではない。 鐵道は網の如く敷け、電線は蜘蛛の巣の如く張られ、朝に陛下が一令を下さるれば、夕に世界に行き渡り、大小の船舶、海にみち、一麾の下に、海陸軍が何れの地にも向ふことの出來るといふ準備が整へば、統一に段々近づくので、今は準備中で、準備、愈々出來上がつたら、吾が天皇陛下に獻上するの日が來る。 これを統一すると云ふても、決して無名の師を起したり、暴力を用ゆる必要はない。 此等は却つて天意に反する譯で、唯だ正義により仁道を行ひて居れば、 造化の自然として、此の統一の日が來るのである」と。 此等の話は、父の得意に云ふた所であつたから、まだ多くの人の耳底に殘つて居ることゝ思ふ。 父はこれを或る信念の下に、恰も豫言の如く、確信を以て云ふて居た。 立憲政治が開け、議會召集の時に、舊弊家の神職などの中には、何か西洋の眞似をして、皇室の威嚴に關する樣に思ふものもあつて、父の説を質した人も往々あつたが、父は「此れは、 已に神代よりの御定めで、神代にも『天の安河原に八百萬の神を集へ神議りに議り給ふ』とあつて、少しも西洋の眞似ではない」との説をなした。 父が、皇室を尊奉せしことに付きては、二三の挿話がある。 煙草が專賣になり、煙草の袋の封紙に、菊の御紋章が付けてある。 其の殻を人の踏む道路に、濫りに投げ散らかすのを「畏れ多い」と、能く拾ふては、川や旁らの藪などに投入れたが、餘りに數が多くなり、何うしても其の煩に堪へず、顔を顰めて避けつゝ通つて、「此に御紋章など要らぬことだ。 此は止めて貰ひたい」と、よく云ふた。 郵便の切手も「御紋章がある」といふて、決して人の姓名の下には貼らなんだ。 又た嘗て母が、妹の腰卷の積りで、菊の模樣の毛斯を求めて居たら、「假令へ形は變つても居ても、菊ではないか。 以ての外の事である」と、襦袢の袖に用ひさせたことがあると。 此の二つは、弟重三郎が父と同居して居た時の實見談である。 明治三十九年春、日露役の凱旋式の時、余は父を伴なひ上京し、青山の觀兵式の御臨幸を、霞ケ關の廻り角で拜ませた。 當日は、所謂日本晴れで、非常に雜踏した。 白鬚の老人が服裝を調へ困つて居たから、警衞の査公は衆を制して、「御老人ではあり、危いから」と、前列に進めて呉れた。 警固の前驅、已に至り、御馬車が遙かに見ゆる樣になり、父が變な腰付きをして土下座するから、査公が「立つたまゝで、御拜しになつても差支へない」と云ふても、もじゝゞ何か不安の體であつた。 それでも頭を擧げて、天顔は能く拜した樣であつた。 又た父が常に氣を掛けたは、「神武天皇の御陵たる橿原神宮の後手の山上に、小村落や田畑があつて、或は施肥し放尿し、不潔を極めて居る。 此れは取拂ひ殖林とし、清潔と幽邃とを保たしむべきである。 これに付きては、當局に建白せねばならぬ」など、憤慨して居たが、大患の病床にあるとき(大正七年)、愈々内務省で、此の村落を取拂ひ、他に移轉せしめることになつたと、新聞に出て居るを見て、非常に喜び、「善いことを聞いた。 之で思ひおくことはない」と云ふた。 國體答問・四題。 投稿者: 備中處士• 投稿日:2019年 5月24日 金 23時37分1秒• 芳野正朗氏監修復刻版) 【問】學者によつて、「建國」と書いたり、「肇國」と書いたり、或は「立國」といふ人もある、何れに從つてよいか、詳細に承りたし。 【答】人に依つていろゝゝに言ふのは、おもしろくありません。 何とか申し合せて、一定したいものです。 我が國の有樣は、米國などのやうに建國でない事は、誰でも知つて居る處であります。 立國でも、肇國でも、ピツタリしません。 眞の姿は、「 開國」と申せば、一番よいと思ひます。 併し教育の御勅語に、「國を肇むること宏淵」といふ御詞がありますから、是に從つて「 肇國」と申すも、わるくはありません。 唯だ相當な學者の書かれたものに、「神武天皇建國二千六百年」とあるは、「紀元二千六百年」の間違ひであらう。 我が肇國は、天孫降臨であることはいふまでもありません。 誠に簡單な事でありますが、多數の學者が、此の種の間違ひをしてゐるから注意すべきであります。 【問】「八紘一宇」につき、教示を乞ふ。 【答】「八紘一宇」なる語は、近時、漸く世人の注意を惹くに至つた如くであるが、その出典は、遠く神武天皇の建都即位の大詔にして、八紘は「あめのした」、宇は「いへ」であるから、世界一家、即ち皇道精神の世界光被を意味することになる。 然るに世には、往々にしてこれを武力征服と誤解する者がある。 若しそれが自己の功利的世界觀より脱し得ぬ歐米人の見解なら兎も角く、日本人、しかも識者を以て自ら任ずる者でさへあるから、吾人が古典を説き、皇道精神を叫ばざるを得ぬのである。 試みに『日本書紀』を繙き、右の大詔の前後を一讀するならば、それが武力征服とは、全然異なるものなることが明瞭となるであらう。 即ち八紘一宇は、神武天皇が、天業恢弘の爲め東征遊ばされ、國内が平定せられたので、建都即位の上、更に進んで全世界をも、和氣靄然たる一家の如からしめんとの大御心を現はせるものである。 しかも此の實現は、「鋒刃の威を假らず、座(ゐ)ながらにして」行はせられることを理想とせられたことは、幾多の例證を擧げ得る。 斯くの如く八紘一宇なる語は、神武天皇の大詔の中に拜されるのであるが、その根本精神は、遠く修理固成の神勅に由來する天皇の御使命と、八神殿、大嘗祭による、天皇の御本質の當然の結果にして、それ故に又た御歴代の大御心でもあるのである。 天皇は、八神殿、大嘗祭の行事によつて、生成化育の本源とならせられ、宇宙萬有を、各々あるべき處にあらしめ給ふ。 八紘一宇は、この一つの表はれに外ならない。 世界の各國家・各民族は、斯くして始めて自性を發揮しつゝ、全人類の生成發展に貢獻し得るのである。 天皇は、獨り日本のみの天皇ではなく、世界の天皇であり、宇宙の天皇であられるとは、斯かる意味に申し上げるのである。 此の度の事變も、まつろはぬ支那を言向け平和して、相提携して、八紘一宇の精神を實現せんとするにある。 國民各自は、須らく此の意義を正當に認識し、各々の立場に於いて、天業翼贊の實を擧ぐると共に、外務省などに於いても、徒らに當面の問題のみに捉はるゝことなく、積極的に我が根本精神を闡明して、皇道宣布省たるの實を發揮すべきである。 【問】「皇道」と全體主義との關係に就いて、御教示を乞ふ。 【答】「皇道」は、全國家・國民を生成化育し給ふ、天皇の御活動を意味する言葉であつて、一國・一家の一體精神が基調になつてゐる。 之を「君民一體」と申してゐるので、此の一體精神は、他の思想に對立する主義といふやうなものではなく、宇宙の眞理、天地の大道そのまゝのこころである。 然し近代流に、若し主義といふ言葉を強ひて用ゐるならば、皇道は、一體主義であると申さねばならぬ。 全體主義といふ言葉は、獨逸などでも盛んに唱へられ、日本も、その全體主義でなければならぬといふ考へがあるが、是は本來、西洋の個人主義・自由主義・階級對立の思想の反動として、國家全體を團結させる作用として發生したものである。 その反動が、強力なる權力として現れ、所謂フアツシヨをなしてゐる。 無理にでも統一しようとする所に、その特徴がある譯である。 然るに日本は、開闢以來、團結・統一された國家である。 個人主義・階級對立の思想などは、本來起りやうがないのが、我が國體である。 臣民は、億兆、心を一にして、一切を捧げて皇運を扶翼し奉るのが、日本人本來の生き方であつて、自分の身命は勿論、子孫末代まで、此の臣道に終始するのであるから、全體と云へば、これ程徹底した全體はない。 それは無理に權力によつてさせられるのではなくして、止むに止まれぬ至情から、自然の自性で實現されるのである。 それが日本精神である。 その精神の起つて來る根本は、我と彼とは一體である、我と國家とは一體であるといふ、一體心である。 それが億兆一心となり、期せずして君臣一體が實現されるのである。 であるから、日本では、全體主義などといふのは、未だ低級な、幼稚園程度の思想であるとみてもよい。 一體精神まで來なければ、本當のものにはならぬのである。 一體精神が政治に現れるのは、國民を皆な或る型にはめて、無理に統制しようといふのではなくして、萬民に各々その處を得させ、各々その自性を發揮せしめようといふのである。 全體主義の政治と、一體精神の政治との根本的相違が、そこにあるのである。 【問】「君民一體」と「一君萬民」とは、何れの語を、我が國體に使用してよろしきや。 それに就いて御説明を願ひます。 【答】「君民一體」といふ言葉は、歴代天皇が、屡々仰せられたことで、今上陛下の御即位式の勅語にも、「君民、體を一にす。 是れ我が國體の精華にして」云々と仰せられてあります。 天照大御神が皇孫に、齋庭(いつきのには)の稻穗を授けられたのも、之を以て青人草を養ひ給ひ、上下、不二一體の御象徴にましますのであります。 君は民を「おほみたから」としていつくしみ給ひ、民は君の御爲めに身命を捧げることを無上の光榮と考へ、上下一致、一國一家をなすことは、開闢以來の我が國體の眞髓であります。 故に「 君民一體」が、我が國體を表すのに、最も適切な言葉であることは、申すまでもありません。 然し若し此の言葉を、「君民共治」であると解するやうな者があれば、それは非常な誤りであります。 次に「一君萬民」といふ言葉は、開闢以來、君臣の分限が、嚴として定まつてゐるといふ意味であるならば、勿論その通りであつて、それが我が國體の眞髓であるのでありますが、若し此の言葉を、西洋の君主國のやうに、君と民とが對立するものと考へたり、或は又た國家社會主義者のやうに、萬民が對等であると解する如きは、大なる誤りであります。 一君萬民といふ言葉は、動もすれば對立的の意味にとられ、それは我が國體の本義に反することでありますから、餘程注意を要します。 我が國は、根本・抹消、中心・分派の宇宙の眞理を實現する國です。 天皇は根本・中心であらせられ、臣民は抹消・分派であり、中心・分派、不二一體なる所に、國體の眞髓があるのであります。 明治天皇の御製に、「ほとほとに 心をつくす 國民の ちからそやかて わかちからなる」と仰せられたことを拜すれば、よく此の意がうかゞはれます。 一君萬民では、どうしても斯ういふ意味は出て來ない。 そこで、君民一體といふ言葉がよいのであります。 現憲法下に於いては、必ず「御聽許」を。 投稿者: 備中處士•

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