春 よ 来い 早く 来い。 ♪春よ来い

♪春よ来い

春 よ 来い 早く 来い

第13回 『春よ来い』 第13回 『春よ来い』 日溜まりの公園で、暮れなずむ街角で、夜のしじまの中で、ひとり「童謡」を口ずさむ時、幼き日々が鮮やかによみがえる…。 この番組では、皆様にとって懐かしい童謡の歌碑を巡ってまいります。 今回は、『春よ来い』です。 「春よ来い、早く来い…」で始まる『春よ来い』。 ほのぼののとした情景の中に、春の到来を切望する雪国の人の心が描かれています。 作曲者は、南国・高知生まれの弘田龍太郎(『靴が鳴る』の作曲者)です。 歌が作られた当時の文子は、数えで3才。 ちょうど「あるきはじめた」ばかりで、自分の周囲に好奇心を向けるお年頃。 でも、日本海に面した糸魚川市は雪の多い所なので、冬は家の中でじっとしていなくてはなりません。 雪が消えて、赤い鼻緒の草履をはいて外出できるようになる春の訪れを、文子はひたすら待っているのです。 御風は「じょじょ」や「おんも」といった幼児語を大胆に歌詞に取り入れることによって、彼女の心の叫びを見事に表現しています。 御風旧宅 さて、この歌の歌碑は、糸魚川市の「地球博物館 フォッサマグナミュージアム」の入口にあります。 碑の横には童謡を演奏する装置も設置されていて、ボタンを押すと『春よ来い』が流れてきます。 御風に関する資料はこちらの博物館ではなく、糸魚川駅より徒歩10分の所にある「相馬御風記念館」の方に展示されています。 歌碑と離れた所にありますが、ご興味のある方は是非お立ち寄り下さい。 歌人、詩人、文芸評論家。 随筆家。 明治16年、新潟県糸魚川市生まれ。 明治39年、早稲田大学英文科卒業。 『早稲田文学』の編集を担当し、自然主義文芸運動の先鋒として活躍する一方、早稲田詩社を結成して口語自由詩を提唱した。 早稲田大学校歌『都の西北』や『カチューシャの歌』(島村抱月との合作)の作詞をしたことでも知られる。 大正5年に郷里に帰ってからは、童謡や民謡、校歌、社歌の作詞、良寛の研究などにつとめ、昭和25年に死去。 享年66。

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平和な春よ、早く来い来い🌸エルステージ豊田

春 よ 来い 早く 来い

作詞:相馬御風、作曲:弘田龍太郎 1 春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒 (はなお)の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている 2 春よ来い 早く来い おうちのまえの 桃の木の 蕾 (つぼみ)もみんな ふくらんで はよ咲きたいと 待っている 《蛇足》 児童誌『金の鳥』の大正12年(1923) 3月号に発表されました。 童謡とはいうものの、歌詞は幼い子のすこやかな成長を願う親の気持ちがテーマになっています。 みいちゃんは、相馬御風の長女・文子がモデルだといわれています。 曲が作られたのは大正12年1月20日という記録が残っていますから、作詞はその前、おそらく1月初めか前年の末でしょう。 文子が生まれたのは大正10年(1921) 2月20日なので、詞が書かれたのはたぶん1歳数か月、歩き始めて間もないころです。 よちよち歩きの愛らしい姿が作詞のヒントになったのでしょう。 文子は、御風の生地・新潟県糸魚川で生まれました。 雪国では、春を待つ人びとの気持ちはとりわけ強く、それが詞にも表れています。 「じょじょ」は草履、「おんも」は外・表の幼児語です。 相馬御風は、早大校歌『都の西北』や島村抱月との合作『』の作詞者として知られています。 野口雨情・三木露風らと「早稲田詩社」を設立し、口語自由詩運動を進めたのち、大正5年(1916)、 33歳のとき帰郷し、良寛の研究や詩・童話の創作に携わりました。 弘田龍太郎については多言を要しません。 高知県安芸市の出身で、『』『』『』『叱られて』『靴が鳴る』『雀の学校』など数多くの童謡を作曲しました。 (二木紘三) 寒い日が続いていますね。 この歌がふっと口から出てきます。 今の子にじょじょと言ってもわかりませんが、可愛い幼児語が昔はありましたね。 人間が優しかった気がします。 靴下のことを私はついタータと言ってしまいます。 戦後すぐ、靴下も靴もなかったので、母が帯をほどいて足袋底にし、7文半の足袋を作ってくれました。 幼児語でタータと言っていました。 下駄しかなくてタータにカッコ 下駄 をはいて、オンモで遊んでいたのです。 靴下が出回っても靴下もタータとよんでいました。 今でもたまにタータと言って笑われています。 霜焼けがひどくて、崩れ、足袋に張り付き脱げなくなり、お風呂にそのまま入り、少しずつ剥がして脱いだものです。 栄養過多の現在では考えられないことですね。 ここしばらくは浜松も本当に寒かったのですが、畳1畳分の私用の花壇に、チューリップの芽が出ています。 どうした訳か昨秋から紅色の撫子が咲き続けています。 忘れな草も寒さに耐えて空色の花をつけています。 今年は春が早いかも。 優しい歌が少なくなった現在、お母さんが幼い子に歌ってやってほしい歌ですね。 戦時中,疎開先の認知症になったおばあちゃんが、私に赤い鼻緒の藁草履を作ってくれたのを思い出しました。 このおばあちゃん普段は、溜め込んだ布ボロと一緒に階段下の小さな押し入れに閉じこもっていました。 私は赤い鼻緒がとても嬉しかったですね。 投稿: ハコベの花 2017年1月22日 日 11時37分 こどもの頃、この歌の作詞家 相馬御風 そうまぎょふう と小川未明 童話作家 は、わたしの郷土 新潟上越地方 が生んだ文学者として有名でした。 御風は《蛇足》にあるように、早稲田の校歌を作詞して世に広く知られたこともあって、新潟県下のみならず多くの学校で、かれの作詞による校歌が歌われています。 かれは先日大火に見舞われた糸魚川市の生まれで、良寛の研究でも有名です。 かれの生家 昭和3年再建のもの は、今度の火災では幸い類焼を免れたとのことです。 かれの筆名の「御風」も、たびたびの火災に悩まされた糸魚川らしく、「風を御す」という意味があるとも言われています。 この歌は、長女 文子 あやこ)が生まれて1歳半くらいのときに作られたようです。 したがって、最初の歌詞は「あるきはじめた あやちゃんが」になっていたものを、作曲家の弘田龍太郎が「あやちゃん」では唄いにくいので「みいちゃん」に変えたようです 「なっとく童謡・唱歌」より。 あの格調の高い、早稲田の建学精神を高らかに謳い上げた御仁と、この歌を作った家庭人の御風が同一人物とはとても思えませんが、男児2人の後に生まれた女児の文子がやはり可愛いかったのでしょうね。 しかし、文子の述懐によると、躾けはかなり厳しかったとのことです。 昔の父親は「厳父」と言われたように、内心はいざ知らず、その言動はどの家庭でも厳しかったものです。 昔だったら、今の「軟 やわ 」なわたしは、父親失格ですね。 投稿: ひろし 2017年1月23日 月 14時47分 『春よ来い』の歌を聴いたり口ずさんだりするたびに、私は決まって思い出す俳句があります。 小林一茶の 雪とけて 村いっぱいの こどもかな という句です。 雪の降らないところで生まれ育った私ですが、冬の寒さの厳しさ辛さは身に沁みています。 昭和30年代の頃、近所のどの家でも暖房器具といえば火鉢ぐらいでした。 冬の朝は、起きたら火鉢を抱きかかえることがルーティンでした。 通った小学校は男児は半ズボンが原則でした。 風邪をひいてる子は、モモヒキに半ズボンという恰好でした。 教室は冷たいすきま風が吹き込むし、手はかじかんで鉛筆が思うように握れません。 北国のダルマストーブのことを羨ましく思いました。 「あかぎれ」や「しもやけ」も、しっかりこさえました。 防寒着も防寒具も充実している子供達は幸せです。 でも冬の日に外遊びをしない子が増えていると聞くと、ちと複雑な気持ちにもなります。 現在では朝礼時に「乾布摩擦」をする小学校なんて皆無でしょうね—。 「春よ来い 早く来い!」ですね。 投稿: かせい 2018年2月22日 木 23時38分.

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春 よ 来い 早く 来い

第13回 『春よ来い』 第13回 『春よ来い』 日溜まりの公園で、暮れなずむ街角で、夜のしじまの中で、ひとり「童謡」を口ずさむ時、幼き日々が鮮やかによみがえる…。 この番組では、皆様にとって懐かしい童謡の歌碑を巡ってまいります。 今回は、『春よ来い』です。 「春よ来い、早く来い…」で始まる『春よ来い』。 ほのぼののとした情景の中に、春の到来を切望する雪国の人の心が描かれています。 作曲者は、南国・高知生まれの弘田龍太郎(『靴が鳴る』の作曲者)です。 歌が作られた当時の文子は、数えで3才。 ちょうど「あるきはじめた」ばかりで、自分の周囲に好奇心を向けるお年頃。 でも、日本海に面した糸魚川市は雪の多い所なので、冬は家の中でじっとしていなくてはなりません。 雪が消えて、赤い鼻緒の草履をはいて外出できるようになる春の訪れを、文子はひたすら待っているのです。 御風は「じょじょ」や「おんも」といった幼児語を大胆に歌詞に取り入れることによって、彼女の心の叫びを見事に表現しています。 御風旧宅 さて、この歌の歌碑は、糸魚川市の「地球博物館 フォッサマグナミュージアム」の入口にあります。 碑の横には童謡を演奏する装置も設置されていて、ボタンを押すと『春よ来い』が流れてきます。 御風に関する資料はこちらの博物館ではなく、糸魚川駅より徒歩10分の所にある「相馬御風記念館」の方に展示されています。 歌碑と離れた所にありますが、ご興味のある方は是非お立ち寄り下さい。 歌人、詩人、文芸評論家。 随筆家。 明治16年、新潟県糸魚川市生まれ。 明治39年、早稲田大学英文科卒業。 『早稲田文学』の編集を担当し、自然主義文芸運動の先鋒として活躍する一方、早稲田詩社を結成して口語自由詩を提唱した。 早稲田大学校歌『都の西北』や『カチューシャの歌』(島村抱月との合作)の作詞をしたことでも知られる。 大正5年に郷里に帰ってからは、童謡や民謡、校歌、社歌の作詞、良寛の研究などにつとめ、昭和25年に死去。 享年66。

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