第 二 次 世界 大戦 日本 死者。 【まとめ】第二次世界大戦(WW2)の国別死者数(犠牲者数)と激戦地一覧

【第二次世界大戦とは】簡単にわかりやすく解説!!開戦の原因や死者数【まとめ】

第 二 次 世界 大戦 日本 死者

1月19日、内田樹先生のツイートに「ぬぬぬ」 もっとも「傷の浅い」負け方が出来る国イタリア 第二次大戦開始時は日独伊の枢軸国 大戦終了時はさっさと連合国側になっていた。 スポンサードリンク 内田樹センセのツイート(ページ最後尾にtogetter貼ってあります) 「敗戦を引き受ける主体の立ち上げのために敗戦国はどういう「物語」を擬制したか、というおもーい話をしました。 ドイツもイタリアもフランスも、どこも苦しみました。 そして、「成功した」と言い切れる国はどこにもありません。 」 「イタリアが一番敗戦経験のトラウマが軽いのかも知れません。 ローマ帝国以来「勝ち慣れて」いると 同時に「負け慣れて」もいるから。 負けるときに直感的に最も「傷の浅い」負けかたを選択できる。 」 「イタリアは敗戦を総括する時に「弱い物語」しか持てなかった。 イタリアは連合国であり、枢軸国であった。 勝者であり、敗者でもあった。 英雄はいたけど、すぐ馬脚を現した。 何となくだらっと参戦し、 何となくだらっと終戦を迎えた。 もしかすると大人なのかも知れない。 で、日本はぼろぼろに負けた、負け方がひどすぎたということを盛んに言われ読んできたので、とりあえず大戦の犠牲者数をWikipediaで調べてみました。 もうボロボロこてんぱん。 と、言われていますが、国内の広い部分が戦場になったドイツ・ソ連・中国の犠牲者はそんなものじゃない。 諸説あると思いますがここではWikpediaの説を採用。 地上戦が沖縄だけだった日本と全く次元の違う犠牲者数です。 で、主要交戦国であるイタリアの犠牲者は? イタリアの犠牲者数・・・軍人30. 14万人・民間人15. 32万人 合計 45万4600人 これも凄い数字なんですが上記の国と比べて桁違いに少ない犠牲者数。 負け方がうまい、って本当ですね。 大戦時のイタリアを見てみます。 イギリス・アメリカ軍のシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)の成功の結果、1943年7月24日、ムッソリーニは逮捕・幽閉された。 新しく政権を組織したのはピエトロ・バドリオで、対外的には戦いの継続を表明していたが、連合軍のイタリア半島上陸と同時に連合軍との休戦を表明。 シチリアで負けてさっさとムッソリーニを逮捕、休戦。 この変わり身は立派です。 でも、45万人も死んでいる訳で、イタリア以外が異常な気もします。 戦争慣れている国はほかにもあります。 フランスの犠牲者数・・・軍人20万人・民間人35万人 合計 55万人 イギリスの犠牲者数・・・軍人38. 38万人・民間人6万7100人 合計 45万900人 アメリカの犠牲者数・・・軍人41. 68万人・民間人1700人 合計 41万8500人 あれだけの大戦で、イタリア・フランス・イギリス・アメリカは40~50万人台の犠牲者で、ドイツ・ソ連・中国は1000万人単位の犠牲者。 日本はその中間という事でしょうか。 戦争の仕方、負け方の違い、国民性とかあきらかにしてほしいところです。 内田先生が「比較敗戦論」というものを考えているようです。 イタリア人に負け方学びたいですね、期待です。 イタリア軍は弱い部隊ばかりではありません。 ということで、内田先生のツイートのまとめ スポンサードリンク.

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図録▽第2次世界大戦各国戦没者数

第 二 次 世界 大戦 日本 死者

この記事にはやの一覧が含まれていますが、 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事のにご協力ください。 ( 2018年11月) 第二次世界大戦 左上: 右上: 左中央: 右中央:東部戦線における急降下爆撃機 左下:降伏文書に署名するドイツ元帥 右下: () 戦争:第二次世界大戦 年月日:1939年9月1日 - 1945年9月2日 場所:、、、他 結果:の勝利• 国際連盟の解散• 国際連合創設• との対立• 冷戦の始まり 世界秩序の変革() 交戦勢力 1939-1945• 1939 1939-1945 1940-1944 1944-1945 -1940 1940 1940- 1941-1945 1941-1945 1942-1945 1945 など 1943-1945 1944—1945 1944—1945 1939-1945 1940-1943 1943- 1941-1945 1941—1944 1941—1945 1941-1944 1941—1944 1942-1945 1943-1945 など 非宣戦国家 1941 1945 1941-1945 指導者・指揮官 -1940 1940-1945 1945 -1940 1940- 1941-1945 1945 -1943 1943- 1945- 1939-1945 1945 -1944 1944-1945 1945 1941-1943 1943-1945 (康徳帝) 損害 死者 軍人1,700万人 民間人3,300万人 (諸説有り) 死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説有り)• 9月のドイツ軍によると続く、そして英仏からドイツへのはいずれもを戦場とした。 その後12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの(大東亜戦争)開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、史上最大最悪の戦争となった。 詳細は「」を参照 枢軸国はに成立したに加入した国と、それらと関係にあった国を指す。 対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そしてに成立したに署名した国を指す。 ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。 しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。 また、イタリアなど連合国にしたあとに、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらはと呼ばれ、連合国の一員であるとはみなされなかった。 枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。 第二次世界大戦の戦域を大別する際、・・の一部を含むものと、・と・全域を含むものに分けられる。 このうちドイツ、イタリアなどとイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いを欧州戦線、日本などとイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどとの戦いを太平洋戦線と大別する。 欧州戦線はイギリス、アメリカ、フランス、ブラジルなどが枢軸国と戦ったおよびと、ソ連と枢軸国が戦った東部戦線()に分けられる。 太平洋戦線はと呼称され(当時の日本側の呼称は「」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが戦った ()、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカなどが戦った ()、ビルマやインド、セイロンやアフリカで日本がイギリス、アメリカなどと戦った ()、そしてで日本が中華民国とアメリカなどと戦ったに分けられる。 しかし、これら以外にオーストラリアや、、などでも戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。 戦争は完全なとなり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的、投入が行われた。 世界の61か国が参戦し、総計で約1億1,000万人がに動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。 と比較すると、ともにであったが相違もあった。 第一次世界大戦はと切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦ではを用いたの結果、が拡大した。 また、無線はと違いにされたため、による伝達や、による戦果がもたらされた。 使用されたも、やなどの著しい発達に加え、や、長距離などの新兵器、さらにつまりというまで登場した。 総力戦も第一次世界大戦より徹底し、はただ単にしないという態度では許されず、戦争遂行に的な協力を要求され、非協力者への国家によるは厳しかった。 この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、を含め、が住むへの大規模な、下の各地で実施されたにより、多くの民間人やが命を失った。 またドイツは、自国および占領地において・・に対する組織的を戦争と並行して進め、これらはと呼ばれる。 こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。 また大戦末期から大戦後にかけては、やから1,200万人のされ 、その途上で200万人が死亡している。 新たにソ連領とされたではポーランド人も追放され、大幅な住民のが行われた。 またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も。 戦争中から連合国では、など戦後秩序作りが協議されていた。 戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。 この両国は戦後世界を指導するとなったが、やがて対立するようになり、その対立は長い間構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。 また、欧州の諸国家の統治下にあった、アフリカのではそしての機運が高まって多くの国々が独立し、結果として欧州の地位は著しく低下した。 こうした中で、相対的な地位の低下を迎えたでは大戦中の対立を乗り越えの機運が高まった。 1930年、・にて開催の議会 6月28日、のドイツに関する、が締結され、翌年1月10日同条約が発効。 ヴェルサイユ体制が成立した。 その結果、ドイツやは本国領土の一部を喪失し、それらは主義のもとで誕生した、、などの領土に組み込まれた。 しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。 また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、はヴェルサイユ条約において巨額のを課せられた。 11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるが発足すると 、1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にを強行。 工業地帯・炭鉱を占拠するとともにが所有する金を没収し、占領地には罰金を科した。 これによりが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた。 その結果、紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、などの反乱が発生した。 戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。 モンロー主義の動揺 [ ] やら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。 戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的なに回帰したが、は終始貫徹されたわけではなかった。 すぐにに対する投資をともにしてとの関係が深まった。 そこで5月、アメリカでは対との戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したが作成された。 は1935年に更新されたが、同年にはも制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。 1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。 1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。 中立法の完成にはの調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。 欧州大陸でのナチス・の台頭によりの情勢が激変し、レッド計画は更新されなかった。 アメリカはにおいて、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したへと発展していく。 共産主義の台頭 [ ] 以降、世界的にが台頭し、これを阻止すべく、はなどで干渉したが失敗した。 政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため()を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。 新たにソ連に併合されたではから強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし() 、さらにからにかけてのでは9,000人以上が殺害された。 秘密警察は1934年、内務省人民委員部()と改称され、ソ連国内とそのでを行い数百万人を処刑した。 旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、にはにのを設立、にはの権益をめぐりが引き起こされた。 さらに、や等に軍を派遣()し、に積極的に介入。 には日本との間にが起こった。 このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からが生み出されることになった。 大恐慌とファシズムの台頭 [ ] ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。 戦勝国イタリアでは「」問題や不景気によって政情が不安定化した。 この状況下でイギリスの支援を受けて 勢力を拡大したムッソリーニのは1922年ので権力を掌握し、的な体制が成立した。 同じく戦勝国の日本では、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれたによる日本で初めての本格的なが組織された。 1921年にはその原が暗殺されたものの、この前後の1922年に日本はワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、にはが発展的解消された。 にはアジアで初のが導入され、政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。 敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のの導入やに代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。 1925年にはが結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。 これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。 さらににはパリでが結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。 こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。 の政治集会における(1930年10月、にて) によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。 日本では世界恐慌を受けて恐慌状態()となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。 さらにが渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌による大打撃を受けてしまう。 そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1932年に中国東北部に建国した満州国は陸軍中枢の言うことを聞かないのなすがままになり、さらに1937年にはが勃発するなど軍の暴走が止まらず、政権とともに政党政治を基にした議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。 アメリカの資金で潤っていたドイツでも失業者が激増した。 政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げる運動が勢力を得る下地が作られた。 アドルフ・ヒトラー率いる(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年にはで第二党に躍進。 1931年にはを端緒にが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。 1933年1月にナチ党はに成功。 ナチスはを通過させ、独裁体制を確立した。 ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 このような状況下で、日本、ドイツ、イタリアという、イギリスやフランス、アメリカのように莫大な富と雇用を生みだす植民地を持たず、軍国主義(日本)やファシズム(イタリアとドイツ)という共通点を持つ3国は急接近を始める。 宥和政策とその破綻 [ ] 1938年9月29日、にて署名直前に撮影された、、、、及び 英仏米など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。 1935年、ドイツはを行い、強大な軍備を整えはじめた。 イギリスはドイツと ()を結び、事実上その再軍備を容認する。 ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスのがその後も続くと判断し、1936年7月にはを強行。 これによってロカルノ体制は崩壊した。 そのころ日本は、1931年9月のを契機にの東北部を独立させを建国した。 1937年7月にはを契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく()。 イタリアは1935年にを開始した。 これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。 日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には、1937年にはが結ばれた。 ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。 1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にして。 次いでのに狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたで、英首相と仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。 しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍は全域を占領し、を独立させとした。 こうしてされた。 ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。 しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 勃発直前 [ ] 1939年、に署名するドイツの外務大臣。 その背後に立つのは、及び。 ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはから地方を割譲させた。 さらにポーランドに対し、への通行路および国際連盟管理下のの回復を要求した。 4月7日にはが発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。 4月28日、ドイツは1934年締結のを破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。 5月22日にはイタリアとの間でを結び、8月23日にはソビエト連邦とを締結した。 反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。 イギリスは8月25日に()を結ぶことでこれに対抗した。 1939年夏、のは、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。 独ソ不可侵条約にはが有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連は、の、のへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。 一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。 ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 経過(全世界における大局) [ ] 1939年9月1日、ドイツのが始まる。 9月1日早朝()、がポーランドへ侵攻。 9月3日、イギリス・フランスがドイツにした。 9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。 その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる()。 一方、もナチスの伸長に対する防御やおよびへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した()。 この侵略行為を非難され、ソ連はから除名された。 3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲。 さらに1940年8月にはした。 1940年春、ドイツは、、フランスなどを次々と攻略し、で連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。 その9月下旬、ドイツはイタリア、日本とを締結した。 1941年6月にはソ連へ侵攻した()。 そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。 12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのを攻撃し()、ここに太平洋アジア戦線が始まる。 日本軍は続いてアメリカのも攻撃し()大勝利を勝ち取る。 ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。 さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。 しかし同時期にドイツはとで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。 日本軍はからイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。 6月に日本海軍はで敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のを空襲し、その後とを占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。 1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、などでは日本軍と一進一退を続けるようになる。 また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。 また日本軍は で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。 ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツが、5月にで敗北し、北アフリカを放棄。 7月、敗色が濃い中ムッソリーニは失脚し、側に鞍替え参戦する。 同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツのであるが北イタリアを支配する状況になる。 しかし、にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。 1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸。 ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。 アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマで、アメリカがに勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイング爆撃機のの行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。 1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統は4月30日に自殺、もパルチザンに惨殺された。 5月9日には降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。 日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。 しかし6月ので初めて本土を失い、8月に入ると6日に、同9日にが行われた。 さらに同8日の中立国のという事態にようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にを正式に受諾。 9月2日にに調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 経過(欧州・北アフリカ・中東) [ ] 1939年9月、時の付近におけるドイツの 、および軍が、続いてには軍が相次いで領内に侵攻した。 一方、とは、ドイツにした。 ポーランドは独ソ両国により分割・占領された。 さらにおよびに領土的野心を示したは、11月30日からフィンランドへ侵攻した()。 そのためから非難・除名されたが 、3月にはフィンランドから領土を割譲させた。 さらにには1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはした。 ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。 同年6月からイタリアが参戦し、6月14日軍はを占領、フランスを降伏させた。 さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆()を開始したが、で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土は中止された。 その後6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、が始まった。 フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した()。 一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。 ドイツ軍はを経て同年12月、に接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。 中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、ではドイツ海軍の潜水艦・が連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 2月、でドイツ軍は大敗。 これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型によるドイツ本土空襲も激しくなる。 同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。 9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。 6月にはフランスのに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。 になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。 2月のでアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、以東のドイツ領分割などを決定する。 同年4月30日、はベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はを占領。 5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 1939年 [ ] スキーに銃を構えるフィンランド陸軍(1939年12月) 9月1日早朝()、ドイツ軍はと機械化された歩兵部隊、、など5個軍、約150万人でを開始した。 この際、ドイツによる事前のは行われていない。 ドイツ国総統は、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前になど自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。 ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊と急降下爆撃機の連携によるにより、なすすべもなく殲滅された。 ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。 ソ連は当時で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、のに基づき9月17日、を一方的に破棄し。 まで達した。 一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後のにドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。 しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 一方ヒトラーも、英仏両国が宣戦布告してくるとは想定していなかった。 開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するを視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、を使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。 国際連盟管理下のは、ドイツ海軍練習艦の砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。 10月6日までにポーランド軍は降伏した。 ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。 ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、のへの強制収容が始まった。 ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がで殺害され、からにかけて、約180万人が殺害または国外追放された。 ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず 、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。 ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春までに大きな戦闘は起こらなかったこと()もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「までには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。 11月8日、の「」で爆発があり、家具職人によるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。 なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるも、その後何回か計画されたがすべて失敗に終わった。 ソ連はおよびに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。 9月28日と、10月5日と、10月10日とそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。 しかし、フィンランドはソ連の基地使用および地方割譲等の要求を拒否。 そこでソ連は防衛を理由に、11月30日からフィンランド侵攻()を開始した。 この侵略行為により、ソ連はから除名処分となる。 さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。 1940年 [ ] 2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。 その結果3月13日、フィンランドは地方などの領土をソ連に割譲して講和した。 さらにはに圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。 そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにした。 同時にソ連はにを割譲するように圧力をかけ、6月にはソ連軍がベッサラビアと北部に侵入し、領土を割譲させた。 ベルギー西部を進むドイツ軍戦車(1940年5月) ドイツ占領下のポーランドからに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。 当時リトアニアはソ連軍に占領されており 、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の領事に名目上の行き先(など)への通過ビザを求めて殺到した。 杉原領事の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。 なお、杉原領事同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の や、在ボルドー・ポルトガル領事の がおり、ともに戦後ののに認定されている。 4月、ドイツは中立国とに突如侵攻し占領した()。 しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。 5月10日、のドイツ軍は、戦略的に重要なや、の三国に侵攻()。 オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。 また政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。 なおアジアのオランダ植民地はに準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。 同じ日、イギリスではが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。 ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・を迂回。 侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。 で瞬く間に制圧し()、フランス・イギリスの連合軍をに面するへ追い詰めた。 凱旋門を通るドイツ軍(1940年6月14日) 一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためを展開。 その際、860隻の船舶が急遽手配され、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間にフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊は撤退させることに成功した。 この作戦ではさまざまな貨物船、漁船、遊覧船およびの救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(おもに大型の駆逐艦)へ運んだ。 イギリスの首相はのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。 さらにドイツ軍は首都パリを目指す。 敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。 同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告。 6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。 6月22日、フランス軍はパリ近郊においてドイツ軍への降伏文書に調印した。 なお、その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。 その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派の元帥率いるが樹立される。 一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のが「国民委員会」を組織するかたわら、の放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけて国内のを支援した。 なおヴィシー政権には、フランス植民地やモロッコ、インドシナ、マダガスカルなどの主要植民地がつき、それぞれドイツ軍やとの友好関係や軍の駐留を引き受けた。 1940年12月29日、ドイツによる後の それに対して7月3日、イギリス海軍が、ドイツ側戦力になることを防ぐべくフランス植民地のメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた()。 アルジェリアのフランス艦艇は、政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。 それにもかかわらず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。 また、イギリス軍とは9月にの攻略作戦()を行ったがに撃退された。 西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指した。 降伏勧告に近い和平案に対し回答を伸ばすことでイギリスは時間を稼いだ。 その間、イギリス特有の悪天候により港湾や船団へのドイツ空軍の攻撃は低調に終わった。 しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れた。 同月25日のイギリス海軍駆逐艦の護衛する輸送船団への攻撃では10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。 上陸作戦「」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官は、8月13日から本格的にを開始するよう指令。 このころ、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えてを実施した。 イギリス国民とともに、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。 時のの爆撃機 イギリス空軍は、やなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのを駆使して激しい空中戦を展開。 ドイツ空軍は、やなどの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。 しかし、の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。 その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。 ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。 参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地からへ、10月にはのからへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した()が、11月にはイタリア東南部の軍港が、から発進したに遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。 またの反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。 この年の9月27日、ドイツ、イタリア、日本はを結んでいる。 またによりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。 1941年 [ ] 詳細は「」、「」、および「」を参照 イギリスは先端の と、の・を地中海の東西両拠点とし、やなど東 を確保し反撃を企画していた。 2月までに北アフリカ・リビアの東半分地方を占領し、ギリシャにも進駐した。 一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、陸軍率いる「」を投入。 2月14日にリビアのに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。 4月11日にはリビア東部のを包囲したが、占領はできなかった。 さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。 ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。 12月24日にはがイギリス軍に占領され、翌年1月6日には ()まで撤退する。 に、中立国のアメリカはを成立させ、自らは参戦しない代わりに、や、などの、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。 4月6日、ドイツ軍は()やなど()、島嶼部に相次いで侵攻。 続いてクレタ島に空挺部隊を降下()させ、大損害を被りながらも同島を占領した。 ドイツはさらに攻撃を計画したがスペインはこれを認めなかった。 またこの間に、、を枢軸国に加えた。 、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、、、等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦()を開始し、が始まった。 冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは、ソ連に宣戦布告した()。 開戦当初、(当時のの呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。 歴史的に反共感情が強かった、等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者がに志願した。 また、西ヨーロッパからも などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。 ドイツ軍は7月16日に、9月19日にを占領。 さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都に接近。 市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたへ疎開した。 ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。 また戦場に出現したソ連軍の新型、や、「」ロケット砲などに苦戦。 そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早いの到来で厳しい寒さに見舞われる。 その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにはモスクワへの進攻を再開し、郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつて無い深刻な敗北を喫した。 、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定するを発表した。 、ソ連・イギリスの連合軍は中立国に南北から進撃し、占領した()。 イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒否した。 ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離をおいていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。 イランを占領しを確保したうえで、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。 一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日にを締結していた。 また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。 ソ連は日本に送り込んだら、の情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。 の占領地では、秘密国家警察とが住民を監視し、や関係者へ過酷なを行った。 特に独ソ開始後、と呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。 それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。 ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。 そのため軍部の中で反ヒトラーの陰謀を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。 (現地時間)、がマレー半島のイギリス軍を攻撃し()ここに大東亜(太平洋)戦争が勃発した。 またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はのハワイにあるのアメリカ海軍の基地を攻撃した。 これに対しにアメリカとがに宣戦を布告。 日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。 日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。 1942年 [ ] 1942年12月10日、のドイツの爆撃による破損家屋を去るにおけるソ連の民間人 東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。 ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。 さらに夏季攻勢を企画。 ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、の湾曲部から西岸の、地方の油田地帯を目指す。 一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。 7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のを占領。 8月9日、油田を占領した。 ドイツ海軍の潜水艦隊司令官率いるは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、沿岸や、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。 損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた()。 しかし、このころより英米両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。 8月23日からはが開始された。 まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。 連日壮絶な市街戦が展開された。 しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていく。 11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に冬の装備に弱い枢軸国軍を包囲する。 12月12日、元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。 北アフリカ戦線では、将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。 6月21日、前年には占領できなかったを占領。 同23日にはに侵入し、30日には西方約100kmのエル・アラメインに達した。 しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。 10月23日から開始されたでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。 11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはを奪回する。 同盟国イタリア軍は終始頼りなく、欧州戦域を事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。 さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。 さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていた大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。 これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領()した。 イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖のを、の支援を受けて占領した。 これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、5月にマダガスカル島へ進出、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃、イギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本軍兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果をあげている。 しかしアフリカはドイツ軍の作戦範疇であったため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。 は大西洋とインド洋の一部地域における連合国のを突破して、同盟国である日本がそのほぼ全域を支配していたおよびインド洋水域から、、等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。 往路には日本の必要とする等の軍需品を日本にもたらした。 はドイツ船舶を「」という秘匿名称で呼び、やなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。 この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにおいてナチス党の重要幹部が集結し「」について協議したを行われた。 これ以後、ワルシャワなどのユダヤ人住民に対し、この年の7月からや、などのへの集団移送が始まった。 収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、を使って大量殺戮を実行したとされる。 大量殺戮は「」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の支持または黙認の元に継続された。 最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にや者、、など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。 1943年 [ ] 1943年10月9日、ドイツのの工場に対するアメリカによるの爆撃 1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。 歴史的大敗を喫した。 勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。 しかし、3月にはドイツ軍は元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。 7月5日からのは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。 ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。 以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。 11月6日にはキエフを占領した。 北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はのボン岬で包囲された。 5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。 連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨上陸作戦()を開始し、シチリア島内を侵攻。 8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街を占領した。 これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。 また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたも多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。 各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。 7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英王党派の、ムッソリーニの娘婿外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。 孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。 、イタリア本土上陸も開始された()。 同日、ムッソリーニの後任、元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。 、連合国はイタリア降伏を発表した()。 は直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部へ脱出した。 逮捕後、新政権によっての山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、率いる特殊部隊によって救出された。 9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。 一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。 日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にはイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。 しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。 なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。 また、イタリア租界のあった天津港など東アジアで活動していたイタリア海軍の艦船が、イタリア降伏後に日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し、神戸港などで自沈している。 また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、、などのフランスやフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。 さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日、8月14日 - 24日、10月19日 - 30日 ()、11月22日 - 26日、11月28日 - 12月1日など相次いで会議を行った。 今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。 しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。 1944年 [ ] 1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。 4月には、地方のドイツ軍を撃退、6月22日からは夏季攻勢()が開始され 、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツは壊滅。 ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、更に、、などに侵攻していった。 解放されたパリ 8月25日 8月1日、ポーランドの首都では、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起()したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。 一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。 ほぼ同時期、でもソ連軍支援のが起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。 また8月23日にはルーマニア()、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。 10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はで全土を占領、による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。 しかしルーマニアの油田喪失でドイツの石油供給は逼迫する。 一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍の将軍指揮の元、北フランス・地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的とした()を開始。 多数の死傷者を出しながら上陸した。 ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し 、女性たちは強姦された。 1940年6月の撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。 この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。 敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、司令部参謀により、が決行されたが失敗した。 疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。 また、国民的英雄ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した。 ドイツ軍は、上陸後の連合軍の進撃を食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したの結果、ついに戦線は突破され、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。 8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。 8月16日には南フランスにも連合軍が上陸した()。 8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリはされた。 ドイツ軍はパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。 がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。 占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者()」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、のようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、国外へ亡命する者もいた。 9月3日、イギリス軍はの首都を解放した。 次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍の元帥は9月17日、の付近でライン川支流を越えるを実行するが、拠点のを占領できず失敗する。 また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。 ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。 またこの頃、ドイツ軍は開発中の、世界初の実用ジェット戦闘機やジェット爆撃機、同じく世界初の、次いで世界初のなど、新兵器を実用化し、実戦投入したが、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは不可能だった。 1944年8月、ナチスの占領に対するの暴動を鎮圧する任務を負うドイツの 10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。 その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、の森林地帯地方で反攻()を試みた。 冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、戦線を一時的に約130km押し戻された。 また、指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。 しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点を占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる。 この頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。 なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・、で45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。 当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。 しかし戦後アメリカの案に基づいたが結ばれることとなる。 1945年 [ ] ベルリンの戦い 1月12日、ソ連軍はからにかけての線で攻勢を開始。 1月17日の首都、1月19日を占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。 その後、2月3日までにソ連軍は流域、ドイツの首都まで約65kmの付近に進出した。 ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。 2月4日から11日まで、のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるが行われた。 そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及びや・の帰属問題が討議された。 西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。 その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでを渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。 4月11日にはに達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する()。 南部では4月20日、30日には、5月3日にはオーストリアのを占領した。 ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都奪還と、油田確保のためを行うが失敗する。 この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。 ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「」)と呼ばれる命令を発する。 しかし、軍需相はこれを聞き入れず破壊は回避された。 これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンのに篭もり、国民の前から姿を消す。 ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都を占領した。 詳細は「」を参照 ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。 にそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。 4月28日にはヒムラーが中立国の伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。 一方、イタリア北部では連合軍の進撃との蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。 ムッソリーニは逃亡中、スイス国境の付近の村でに捕えられた。 、愛人のと共に射殺され、その死体は中心部の広場で逆さ吊りで晒された。 イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。 15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したと共に。 死体は遺言に沿って焼却された。 ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相に宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人に党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。 連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地のが次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、絶滅計画()をはじめとする、ナチスの犯罪が明るみに出された。 一方、ドイツ軍を駆逐したソ連は、新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた()。 国防軍代表カイテル元帥と連合軍代表ジューコフ元帥、テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行う 5月8日 5月2日、首都市はソ連軍に占領された。 その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵にされたと言われている。 ある医師の推定では、ベルリンでされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった。 また、、での被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。 全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。 ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し()、連合国との降伏交渉を開始した。 、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍は連合国に無条件降伏し、上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた( )。 翌午後11時には市内のカールスホルスト()の工兵学校で、降伏文書の式が行われ、ドイツ国防軍代表元帥と連合軍代表元帥、元帥が降伏文書の批准措置を行った。 これによりドイツ国、イタリア王国の二国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。 その後も欧州では小規模かつは続いたものの、国家間でのは最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国によると、のみとなった。 停戦後 [ ] 観衆に手を振るチャーチル(1945年5月8日) 5月8日午後11時1分に停戦が発効し、各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はが終結する5月11日まで続いた。 なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、対日戦でも同様の事であり、戦時法に明らかに違反するものであった。 なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人が、潜水艦や船舶、徒歩でや、などを経由して、や、などの南アメリカ諸国に逃亡した。 また残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは誤りであった。 その後7月17日から、ベルリン南西にて、ヨーロッパの戦後問題を討議するが行われた。 イギリスのウィンストン・チャーチル首相 、のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカの大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。 この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたの締結が行われた。 一方で、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するの発表も行われている。 実際に、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が、残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。 ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。 さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるが追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした。 関東軍が奉天、南満州を占領する。 12月に中華民国政府の提訴により、では満州での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。 英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国の調査団の結成が可決された。 日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満州における匪賊の討伐権が日本に認められた。 1932年3月に国際連盟から第2代を団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。 この調査団は、半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 翌1933年2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項 および6項 についての条件が成立した。 前後して1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突するが勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、が中華民国から独立して建国宣言をした。 3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。 上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、3月22日の下院審議において、与党の重鎮は、議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しないとしたうえで、中華民国には国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたことを指摘し、銃剣はへの適切な対応ではないとしつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。 これを受けて5月5日、で日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。 だがに日本軍がに侵攻するなど、中華民国との関係が悪化すると、国際連盟加盟各国の態度も硬化した。 翌日にはで行われた総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、さらに建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服としてから帰国し、さらには3月に国際連盟を脱退する。 日中戦争へ [ ] 日本軍による占領 1937年 に中華民国のはに対し、国共内戦を停止し対日戦に向かうことが救国となると勧告したが、蒋は張学良はに惑わされていると一喝した [ ]。 、の親衛隊が宿泊先を襲撃して蒋介石を拘束拉致した。 蒋介石は中国共産党のらとの会談で姿勢から姿勢への転換を最終的には受諾し、南京に12月26日に帰還した [ ]。 そしてついに7月7日、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に、日本軍と中華民国軍の衝突であるが勃発、ここに全面戦争であるが始まった。 一旦は中華民国側は遺憾の意思を表明し、「責任者を処分すること」、「盧溝橋付近には中華民国軍にかわって保安隊が駐留すること」、「事件は藍衣社 青シャツ隊 、中国共産党など反日暴力団体が指導したとみられるため今後取り締る」という内容の停戦協定が締結されたが、その後中華民国側でも日本軍を挑発し対日武力行使決定が決定、や、占領など日中戦争はまたたくまに中華民国全土に拡大していく。 欧米諸国でも中華民国内にを置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、イタリアやアメリカなど親中的な政策をとる国が多かった。 日英米の間でも上海でのヒューゲッセン遭難事件、の、の等がおきたが、近衛内閣の外相が善処し、イギリスの大使とアメリカのジョセフ・グルーから高く評価された。 1938年3月におきたの併合()の翌週、のもとで野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みたが成立した。 さらに日中戦争が激しさを増す中、ついに日本政府はアジア初、有色人種初の夏季であるを7月に返上した。 日独伊の急接近 [ ] ガレアッツォ・チャーノ外相 1936年 なお、ナチス政権下のの極東政策は1936年にはを結ぶ一方で、で中華民国と結ばれていた。 中華民国はをドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蒋介石の個人顧問として中将をドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、日本と中華民国との間で大きく揺れていた。 の等は日本との連携を重視していたが、外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。 しかしにリッベントロップが外相に就任し、中将が10月に大使に就任すると日本重視の姿勢が決定的となり、中華民国に派遣されていた軍事顧問団は撤収、またイタリアに続きドイツ製武器の供給は停止することになった。 またに租界を持つイタリアも、1930年代中盤には元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問に、さらに顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問が中華民国に常駐し、や、やなどのイタリア製の兵器を大量に輸出し日中戦争に投入、日本側から抗議を受けていた。 しかしに始まったでの対イタリア経済制裁に中華民国が賛同した事に対して、上海として勤務した経験もあった外相は「遺憾」とし、1937年11月には日独に次いで防共協定に調印した。 さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満州国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。 その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。 完全に日本重視となった。 さらに同年11月にはイタリアは満州国を承認している。 これらの返礼もあり、日本陸軍や満州陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。 またイタリアも大豆の供給先として満州国からの全輸出量の5パーセントを占め、アメリカからの輸入をストップするなど、イタリアもドイツも完全に日本重視となる。 ヨーロッパ開戦と第2次近衛内閣 [ ] 首相との閣僚 1940年 8月23日の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、これを受け当時の内閣は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残して8月28日に政治責任を取り総辞職し、日本の政界も揺るがす大混乱となった。 また大使もこの責任を取りベルリンより帰朝を命ぜられ、帰国後の12月27日に大使依願免職し、次の駐独大使にはドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」と言われたが継いだ。 しかし続くも短命に終わり、対独同盟派の勢いは停滞した。 そのような中で9月1日にドイツがポーランドに侵略を開始、9月3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。 ソ連も独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。 その後はドイツとフランス、イギリスの間で戦闘は起きなかったものの、1940年に入りドイツがベルギーやオランダに侵攻したがすぐに降伏するなど、枢軸国の勢力が拡大するに及び、7月にはとにより親英米派のは辞任に追い込まれた。 そのような中、1月にが失効し、日米関係は以来の無条約時代に突入し、悪化しつつある情勢の打開が求められた。 日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣のあとを受けたにおいては、勢いのいいドイツやイタリアなど枢軸国との提携を主張する外相らの声が高まった。 7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、が閣議決定された。 汪兆銘政権成立 [ ] 北部仏印進出(1940年) 日中戦争の勃発に伴い、は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も当時の首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」としたを出し、の道は閉ざされた。 日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていたの擁立を画策した。 汪兆銘は日本の軍事力を背景として、のやのなどを結集し、1940年3月30日には蒋介石とは別個の国民政府を南京に樹立した。 汪は自らの政府を国民党の正統政府であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。 政府発足後に、や、のやなどの、などがした。 しかしドイツが承認したのは1941年7月になってからだった。 日本軍の北部仏印進出 [ ] フランスのは、1940年に入りドイツの猛攻が続くなか陸軍総司令官とともに対独講和を主張し、6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日にが成立した。 その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権が成立した。 これをうけて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。 当時のフランス領インドシナ総督 ()将軍は、駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団()の受け入れを行った。 6月22日に成立したはこの決断をよしとせず、カトルーを解任して ()提督を後任の総督とした。 しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。 8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。 その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と西原・マルタン協定を締結し、これを受けて日本軍は北部仏印に進駐した()。 なおその様な中で11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でが勃発し、日本の仲介による5月8日の締結まで続いた(実質上のタイ王国の勝利)。 日独伊三国同盟締結 [ ] ベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月) さらに9月7日には新同盟締結のためにドイツから特使が来日し、松岡との交渉を始めた。 スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。 9月27日にはが締結された。 実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月に、、が、1941年3月には、6月にはが加盟した。 また、三国同盟実現には「親米」と言われた来栖では力不足との声が上がり、そこで1940年12月に大島が駐独大使に再任された。 これに対してアメリカのルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。 一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。 また枢軸国の一員となったは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたも1941年12月日本とをそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。 満州は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。 またに加盟した()も三国同盟には加わらなかったが、戦争の前半期においては協力的な関係を持った。 アメリカの対日禁輸とレンドリース [ ] レンドリース法案に署名するルーズベルト大統領(1941年3月) 1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、7月26日にはアメリカの日本への輸出切削油輸出管理法成立。 8月には石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出許可制。 10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止するなど次々と禁輸攻勢を打ち出し、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へのプレッシャーをかけて来ることとなった。 これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、やなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内には民間ルートでの開拓を断念した。 さらにアメリカはに現れていたを大統領がさらに緩和し、1941年3月にはを設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。 終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。 アメリカの日中戦争への軍事介入 [ ] 中華民国軍の「フライングタイガース」に所属するP-40Cトマホーク 1941年 またアメリカは、1940年8月に蒋介石総統と夫人からの軍事支援の要請を受け、ルーズベルト大統領の指示を受け設立された「中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍 American Volunteer Group、AVG を設立し、ここに日中戦争への軍事介入を開始した。 しかし日本軍を刺激しないようにあくまで「義勇軍」という名目を保った。 シェンノートは、などの約100機のアメリカ製の最新鋭と、シェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となった100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年春には中華民国に送る。 部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「」の名称で知られるようになる。 シェンノートらAVGのメンバーは「民間人」として、友好国イギリスののに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、英領ビルマのラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。 だが中華民国軍の事故の多さに悩まされた上に、最新鋭のをはじめとした最新の航空機に、練度が高い戦闘機乗りが多かった日本軍にフライングタイガースは苦戦を強いられ、その上に撃墜の多さによる出来高制の給与に、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。 独ソ戦と松岡外相更迭 [ ] 日ソ中立条約に署名する松岡外相とヨシフ・スターリン(1941年4月) 1941年4月からは東京とワシントンD. で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、近衛首相ら日本政府側はこれを歓迎した。 しかしドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月にを結んだばかりの松岡外相は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、松岡外相の強硬な反対で白紙に戻った。 さらに松岡外相は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだばかりの独ソ間が、わずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃したことでここに独ソ戦が開かれ、その望みを打ち砕いた。 松岡外相はドイツに合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたにおいて大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって暴走状態にあった松岡外相の更迭は、政権存続のための急務となっていた。 ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。 近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上でを発足させ、松岡はここで完全に外された。 しかし、松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は望んでいなかった。 松岡は「英米一体論」を強く批判し、イギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた。 日本軍の南部仏印進駐 [ ] サイゴン市内の日本軍 1941年 1941年6月25日ので「南方施策促進に関する件」が策定され、南部仏印への進駐が決まった()。 一方、7月には対ソ連の戦争()準備行動として関東軍特種演習を発動した。 その中でアメリカは日本に対する石油の輸出許可制をしいた。 その一方で、日本は本国がドイツ軍の占領下におかれ、ロンドンに置かれたの下にあるオランダ領東インドと石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後オランダ領東インドの供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は6月に交渉を打ち切った。 このせいで当時の日本では航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけた。 さらに7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し日米間の航路も遮断、同日日本は南部をアメリカに通告した。 アメリカは石油の輸出の全面禁止をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。 なお現在のとは違い当時の仏印では石油は掘れなかった。 日米関係悪化 [ ] 大西洋会談のルーズヴェルトとチャーチル(1941年8月9日) 8月1日にアメリカは、南部仏印進駐に対する制裁という名目のもと石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、亡命先のイギリスの圧力を受けたオランダ植民地政府は、対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。 中でも日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、石油輸出の全面禁止は深刻な問題であり、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。 これらの対日経済制裁の影響について、日本ではアメリカ America ・イギリス Britain ・中華民国 China ・オランダ Dutch による経済包囲が行われるとして「」と呼ぶ動きが広まった。 なおアメリカは、8月に大西洋憲章を締結したで、イギリス首相のチャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。 これをうけて9月3日にはで「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された。 その一方で、8月7日に近衛首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促をうけ、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した。 首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われたが(ルーズベルト大統領はチャーチル首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった。 しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「に行くのは無理だが、ではどうか」と返事をした。 東條軍事内閣成立 [ ] 成立(1941年10月18日) 陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「も事実上終わり」と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。 外交期限の迫った、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・、陸相・、企画院総裁・をに呼び「」を開き、対英米戦争への対応を協議した。 いわゆる「荻外荘会談」である。 そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性があるとする近衛首相と豊田外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條陸相の間で対立が見られた。 近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。 (すなわち)戦争に私は自信はない。 (戦争をやるなら指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、に政権を投げ出し、に内閣総辞職した。 近衞首相と東條陸相は、を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを懸念するらの運動で実現せず、東條陸相が次期首相となった。 この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」という木戸内大臣の強い期待があったが、その「期待」は、「軍人(=官僚)が選挙の洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という民主主義国家としてはあり得ないことが起き、その結果ますます止まらなくなった軍部の暴走と、さらに日本が近衛首相という「文民(政党)政権」から、東條陸相兼首相という「軍事政権」への切り替えが行われ、国家を「戦時体制」に舵を向けたと、当然ながらイギリスやアメリカ、フランスやオランダなどの民主主義国家に受け止められるという、2つの点を完全に無視していた。 ゾルゲ事件 [ ] 尾崎秀実 なお、このような中でのアメリカ共産党員の北林トモなどの逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕され。 その後ドイツの「」紙の記者をカバーとして、に在住していたドイツ人のなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。 その後10月18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、と妻のアンナ、の外国人容疑者や、その前後にやを検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「」が明らかになった。 ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。 尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。 その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることが出来たと言われる。 ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している。 さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲに付の私設情報官という地位まで与えていた大使や、東京支部、在日ドイツ人一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した。 またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲをするように対して強く求めていた。 しかし友邦ドイツの新聞記者という、万が一の時には外交的にも大問題となるケースに対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた。 間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。 なお一方のソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた。 ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。 死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。 ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。 南方作戦準備 [ ] 真珠湾に向けて海軍機を満載して航行する「」(手前)と「」(1941年11月28日) これを受け、早朝に「」、「」、「」、「」、「」などからなる日本海軍機動部隊のは、の(ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。 なおこれは、アメリカの出方により途中で引き返す可能性あることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。 なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。 また、太平洋航路のの航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にへ入港する予定だった。 だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦と共に龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。 しかし海軍部()は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。 ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。 なお日本郵船のロンドン線や線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化ですでに運休となっていた。 この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」と言った譲歩を求める内容もあった。 この文章はあくまでハルの出した「基礎提案(Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment 」と明確に書かれてあったが 、内容的には日本側の要望はすべて無視したものであったことから、日本側は事実上の「」と認識した。 そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否か、また実際に「最後通牒」か否かなど重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日ので日本政府は対英米蘭開戦を決定する。 マレー方面出撃 [ ] マレー半島の上空を飛行するイギリス軍機 1941年12月 そのような中で日本本土から比較的距離の近い対イギリスやオランダ植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日に三亜で作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・海軍中将は同地から出撃。 陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マレー半島とオランダ領東インドを目指して進撃を開始した。 ワシントンD. の日本大使館では暗号機を1機残して廃棄を命じ、館員が残存文書を焼却した。 この様に対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎と野村吉三郎の両大使にハルとの交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。 対英米開戦と宣戦布告遅延 [ ] と最後の会談に臨む大使と大使(1941年12月7日) 12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は外相に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。 東郷から駐米大使の宛に、により暗号化された「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。 この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。 「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。 これは現地時間12月6日正午頃(以下はすべてアメリカ東海岸現地時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。 14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。 14分割目は7日午前7時までに到着したと見られる。 九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にを利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。 しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意なのにより修正・清書され、その為に時間を浪費してしまう。 その上に館員の多くは6日夜には、へ赴任する館員の送別会にワシントンD. 市内の中華料理店に向かった。 「翔鶴」からハワイに向け発艦する(1941年12月7日) 12月7日の朝9時に大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。 14分割目も奥村により修正・清書され、そして現地時間午後2時20分にのと大使の野村吉三郎より、においてのに手交された。 しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。 そのためにその後アメリカ政府より、日本政府の宣戦布告の遅延が非難されることになる。 さらに12月6日夜にルーズベルト大統領はに対する親書を送ったものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは開戦直前で手遅れであった。 こうして日本はついに12月7日に、中華民国との戦いを続けながら、イギリス(オーストラリアやニュージーランド、英領マレーや同インドなども含む)、アメリカ、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。 なお本国はイギリスへ亡命)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線からアジア戦線へと全世界に戦争範囲が広がり、第二次世界大戦となる。 1941年 [ ] 日本軍と戦うイギリス軍インド師団(1941年12月8日) 1941年午前1時35分()、この時間に行われたとイギリス陸軍との戦い()により、アジア太平洋戦線における戦闘開始かつアジアにおける戦闘が第二次世界大戦へ発展した(一部の日本の左派メディアで伝えられる「真珠湾攻撃による日本軍のアメリカ軍への攻撃により太平洋戦争がはじまった」と言う内容は完全な間違いもしくはであり、イギリス軍に対するマレー作戦の方が約1時間半早かった)。 当初予期されたイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況をかんがみ、中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した。 7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた。 日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、、、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領北端のへ上陸作戦を開始した。 マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、イギリス陸軍の水際陣地に苦戦し日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。 9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。 また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功ししかも多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃した。 かねてからイギリス陸軍は国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。 兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。 さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスよりドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。 イギリス空軍については、開戦前に現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ空軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国は、本土防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手いっぱいであり、遠くマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けてシンガポールなどマレー半島への運搬に時間がかかったため、開戦当時のイギリス空軍の中心はブルースター・やなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。 さらに、日本軍に対する技術研究が不十分なイギリス空軍は「との戦争だ」と、人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたために、日本軍のや、などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。 また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要の攻撃を開始したほか、上海のを瞬く間に占領した。 日本軍による空からの奇襲に遭う真珠湾の基地」(1941年12月7日) 日本軍のイギリス軍に対するマレー半島上陸開始の約1時間半後、山本五十六大将指揮の元、6隻のから発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領、のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃()が行われた。 これは当時世界最大の空母機動部隊であった。 前日12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍の大将と中将にも届いた。 キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせると判断し、真珠湾に艦隊をそのまま在港させることとした。 また同日、により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。 パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。 しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。 しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、その「ワシントン時間午後1時」が、「ハワイ時間7時30分」であることを思いつく者はいなかった。 日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「」から攻撃を受けたが、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかったアメリカ海軍に対し、日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17など航空機328機破壊をはじめ2,400人以上の死者を出し、これに対しわずか29機の未帰還機で終えた。 その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ太平洋艦隊の部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという 作戦目的を達成した。 なお、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカが出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる。 なお、当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。 そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。 帰投する日本海軍機(1941年12月7日) しかし、ルーズベルト大統領以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイのアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。 さらに、ルーズベルト大統領は日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。 また、日本が日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたこと、さらに宣戦布告の遅延があったことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなったが、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであった。 なお、先に開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかったうえ、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃も完全に宣戦布告が行われなかったが、このように喧伝されることは無かった。 かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。 また、既に日本と()で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「」の項を参照)。 なお、や も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。 日本軍機の攻撃を受けるイギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」(1941年12月10日) 12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(と)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたの、当時最新鋭の戦艦と巡洋戦艦を一挙に撃沈した()。 これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。 なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。 また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した。 戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いて電信所爆撃へ向かう。 途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した。 この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。 コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲にイギリス軍は敗走を続けた。 ウェーク島で地上撃破されたアメリカ軍の戦闘機(1941年12月23日) 日本陸海軍機がアメリカの植民地ののアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるへ上陸。 さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。 なおグアムにおける戦闘は1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。 捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民あわせて650名であった。 12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。 これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。 なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、が閉鎖されたために来日し、やむなくに停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一員となり、これらイタリア極東艦隊は日本や満州国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送にも担当し大活躍した。 日本軍に降伏する香港のイギリス人(1941年12月28日) 12月8日に香港攻撃を開始した日本陸軍は、九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。 さらに12日から攻撃を開始した香港島は、イギリス軍は頑強に抵抗し日本軍にも多くの死者を出したものの、貯水池を占拠され25日に降伏。 日本陸軍は香港一帯を占領した()。 捕虜となったイギリス軍は11,000名。 内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。 日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了し、東南アジア戦線における日本軍の優位が完全に確定した。 しかし日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地と、同じくポルトガル植民地のには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった。 12月23日には同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も占領した。 この様な状況下で、日本海軍は12月末に10隻程度の潜水艦をアメリカ西海岸沿岸に展開し、をアメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸で展開し、商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れる距離で砲撃、撃沈し、住人を恐怖のどん底においた。 さらにはを中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、一斉にアメリカ西海岸沿岸のサンディエゴやモントレー、ユーレカやアストリアなど、アメリカ西海岸の複数の都市の軍事施設するという作戦計画があった。 しかし、「前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。 なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある。 1942年 [ ] クアラルンプールで市街戦を戦う日本軍(1942年1月) 東南アジア唯一の独立国だったは、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間にを締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年のからイギリス軍やアメリカ軍がなど都市部への攻撃を開始。 これを受けてタイ王国はにイギリスとアメリカに宣戦布告した。 1月に日本は、母国をドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命及び植民地政府とも開戦し、ボルネオ()島 、と などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。 なお1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、され、乗客乗員13名が死亡する事件がおきている。 なおこれは、同社によって2019年までで最大の死亡者が出た事故となっている。 「ロサンゼルスの戦い」を報じるロサンゼルスタイムズ紙 1942年2月 日本海軍は、2月に行われたでとアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。 この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。 2月8日に 、2月10日-11日にに上陸しこれを攻略した。 続くでは、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。 この様な中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「」が発生している。 日本軍は9日にセランゴールを占領、11日午前12時にの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した。 イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた。 に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点に迫り、2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールに対する攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった。 8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始。 11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた。 しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後に中将は中将に降伏した。 日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した。 日本の戦死1713名、戦傷3378名 に上った。 陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで占領下に置いた。 には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。 これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。 同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。 に、日本海軍が、アメリカ西海岸・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。 製油所の施設を破壊した。 これで対米戦においては、先に日本がすることとなり、アメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。 日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。 アメリカ政府および軍は本土への日本軍上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。 コレヒドール島にて日本軍に降伏するアメリカ軍(1942年5月) 翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行うという「」が発生した。 この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であり、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。 しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、の本格化に繋がったとも言われる。 また、まもなくに上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。 10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。 これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了した。 3月のでも日本海軍は圧勝した。 日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在の)首都(現在の)を占領。 連合国は連戦連敗により、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊はほぼ壊滅した。 日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はに進出し、空母搭載機がイギリス領 の、トリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した()。 イギリス艦隊は、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だった東岸のまで撤退した。 なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻であるは、その後8月に戦争開始後初の(第一次遣独潜水艦)としてドイツ へと派遣され、などを持ち帰った。 フィリピンの日本軍は、4月9日にを攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出した事件が発生している。 もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。 マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、にはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた。 5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官の姿はすでになかった。 3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。 日本海軍機の空襲を受けて炎上するダッチハーバーのアメリカ軍基地(1942年6月) 4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母から発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機による東京空襲()を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。 5月7日、8日のでは、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。 この海戦でアメリカ軍は大型空母を失ったが、日本軍も小型空母を失い、大型空母も損傷した。 この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。 陸路からのを目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。 海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋の攻略を決定する。 しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。 日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」()を構想した。 5月31日には、オーストラリアの港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍のが行われた。 伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。 2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。 これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。 また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。 なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。 イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖の島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、軍の支援を受けて占領した()。 これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10とを搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にを出撃し 、南アフリカの港のほか、北方の港、港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。 その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載したがディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された。 さらにマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日に陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手にとで戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果をあげている。 日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。 地上戦でのイギリス軍兵士の死者と一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。 サヴォイア・マルケッティ SM. 75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月) 日本海軍は、同年6月3日から行われたアリューシャン群島西部要地の攻略又は破壊を目的として行われたで、アメリカ軍ののへの「」「」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。 また6月6日には、アリューシャン群島のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する。 7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。 6月4日 - 6日にかけてのでは、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(、、、)を一挙に失った(アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻()を損失)。 加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。 この海戦後、日本海軍保有の正規空母は、のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。 6月20日には乙型潜水艦の「」が、のバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。 この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった 翌21日には「」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった()。 当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。 その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたが出撃している。 ハドソン攻撃機は伊25に対する爆撃を行ったものの、損傷を与えることはできなかった。 この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては以来、130年ぶりのものであった。 日本軍の攻撃を受け沈むアメリカ海軍の空母「ワスプ」。 これにより太平洋戦線での稼動空母が0となった(1942年9月) 6月には、イタリア軍の大型輸送機の「 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。 にからイタリアと離陸後戦争状態にあったを避けて、ドイツ占領下のの、北岸、の縁、を通過し上空、上空を経由し、に日本占領下の、に到着した。 しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。 その後東京へ向かいからまで滞在し、包頭を離陸してウクライナのを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。 しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。 また、事前に日本側が要請していた、陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。 しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアはにこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった。 なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残されたや民間人(企業の駐在員や関係者、、生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。 そのご1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回のが運航されることになった。 8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、のツラギ島およびに上陸、完成間近であった飛行場を占領した。 これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった()。 さらに同月に行われたでは、日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカとオーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。 9月9日と29日には、日本海軍の「伊二十五」の零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた()。 この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。 相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、マスコミに緘口令を敷き爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。 日本軍の空襲を受けるオーストラリアのダーウィン(1942年12月) その後、で日本海軍は空母を失い敗北したものの、10月に行われたでは、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母を撃沈、を大破、駆逐艦ポーターを撃沈するなど大勝した。 先立ってが大破、9月にを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動空母が0という危機的状況へ陥った。 日本海軍は以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。 その後11月に行われたで、日本海軍は戦艦2隻を失ったが、アメリカ軍とオーストラリア軍も2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失うなど大きな痛手を負い、さらに上記のように連合国の太平洋戦線での稼動空母が皆無という厳しい立場にあった。 日本軍の攻勢は各地でその後も続き、この年の2月より実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやなどのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、冬になってもその勢いはとどまらず行われ、同地のオーストラリア空軍並びに連合国の基地、政府の建物に大きな被害を出しており、最終的に日本軍によるオーストラリア空襲は1943年11月まで続いた。 またインド洋一帯から日本軍の勢いを恐れたイギリス海軍をほぼ完全に放逐するなど、その勢いは全く落ちてはいなかった。 1943年 [ ] 日本軍の魚雷を受け沈むアメリカ海軍の「シカゴ」(1943年1月) 昨年暮れより行われていた「」で、方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、日本軍が占領したビルマ南西部のアキャブ(現在の)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によりビルマ北部への進入作戦を試みた。 しかしイギリス軍インド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。 さらに日本側はイギリス軍の戦車、装甲車40両及び自動車73両の捕獲に成功した。 またこの年に入っても、オーストラリア北部に対する日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は優勢なまま継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈した他、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を挙げた。 1月29日に日本海軍はので、で打ち損ねたアメリカ海軍の重巡洋艦「」を撃沈するという大きな戦果を挙げたが、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退()した。 半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。 3月より「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。 と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。 を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった。 放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「」の愛称を付け 、その後太平洋のアメリカ軍兵士らに評判となった。 同様の放送「」も同年12月より行われた。 インド洋上の乗員とスバス・チャンドラ・ボース(1943年4月) 4月7日から15日に、日本軍はガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「」を行った。 この作戦は日本海軍のの自ら指揮し、自らはわずかな損失で、アメリカ軍やオーストラリア軍の駆逐艦やコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクを沈めるなど完全に勝利し、航空機による船舶への攻撃が有効的であることを証明した。 作戦の成功に満足した山本海軍大将 は、4月18日に「い号作戦」前線視察のため訪れていた上空でによるを受けた戦闘機の待ち伏せを受け、乗機のを撃墜され戦死した(詳細は「」を参照)。 しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。 なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。 この頃日本陸海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本陸海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。 またアメリカ軍は、日系アメリカ人二世や三世などをオーストラリアの連合国翻訳通訳局などで暗号の解読に従事させ、日本軍の暗号の解読や捕虜の尋問などに役立てた。 を行くイタリア海軍の「コマンダンテ・カッペリーニ」 前年にを指導者とする ()が昭南で設立された。 連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや昭南、香港などで捕虜になったのインド兵を中心に結成されていたが指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官 ()と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた。 前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。 国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースとともに行動していたインド独立連盟幹部のもボースを後継者として招へいすることを進言した。 しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。 その結果、空路よりはでの移動のほうが安全であると結論が出て、に、チャンドラ・ボースと側近 ()の乗り込んだのは岸のを出航した。 4月26日に、アフリカのマダガスカル島東南沖 でU180とのが会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ。 、潜水艦は北端に位置し海軍特別根拠地隊指揮下のサバン島(ウエ島)サバン港に到着した。 5月には北太平洋のにアメリカ軍が上陸。 アメリカ領を初奪還すべく強力な陸海軍で及んだアメリカ軍に対し、戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し()、で初めて「」という言葉が用いられた。 しかしアメリカ軍はこれ以上の南下をすると日本軍の強力な反撃が予想されるため、南下はしなかった。 前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、5月に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてのみならず、内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。 のみならずオーストラリアやイギリス、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を決定的に弱体化させる結果となった。 における日本軍の攻撃で大破したアメリカ海軍の「セルフリッジ(左)」と「オバノン」(1943年10月) これ以前から昭南や、におかれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦やがインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「」や「レジナルド・ジュリアーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。 またイタリア海軍は、日本が占領下に置いた昭南に潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。 8月には「」もこれに加わった。 しかし昭南到着直後のにイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻はのドイツ降伏後は日本海軍に接収され、となった )。 なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国(サロ政権)成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。 なおイタリアの降伏後には、のイタリア極東艦隊の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、海兵隊「サン・マルコ」との間で小規模な戦闘の後に降伏した。 この後多くのイタリア極東艦隊の将兵はサロ政権側について以降も日本軍と行動を共にするものの、サロ政権につかなかったものは日本に送られ、名古屋の収容所に入れられた。 なお天津のイタリア租界はの管理下に置かれた。 南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月ので日本海軍はアメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を撃破したほか、10月に沖で行われたでも駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破しアメリカ海軍に完勝する。 なおベラ湾夜戦では後のアメリカ大統領のがアメリカ海軍の魚雷艇(PT-109)に乗船中、日本海軍の吹雪型駆逐艦に8月2日未明と遭遇し、衝突して真っ二つにされてしまう 、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された。 2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後 、一週間後に救助された。 空襲下のラバウル島シンプソン湾(1943年11月) でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から10月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるは孤立化し始める。 しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。 一方連合軍が劣勢のままのビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、新たに10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始したが、これは小規模なもので日中両国に大きな影響を与えることはなかった。 11月に日本の首相は、満洲国、、フィリピン、、、などの首脳を東京に集めてを開き、の結束を誇示する。 なおこれに先立つ10月には、先にドイツから潜水艦で到着後インド独立連盟を引き継ぎ、イギリスからの独立運動を昭南を中心に行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となったが設立され、ボースは同時に英領マラヤ、昭南や香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。 一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、同月にはのマキン島、の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。 また同月から12月にブーゲンビル島で行われた一連の戦い(、、)では日本軍は敗北したに見えたが、ブーゲンビル島を巡る戦いは均衡したまま1945年8月の終戦まで続いた。 また11月には、去年の2月から連続して行われた日本軍のオーストラリア空襲が終わりを告げるなど、ようやく態勢を立て直したイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、戦線を伸ばしすぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は開戦後2年を経てついに後退を余儀なくされていく。 1944年 [ ] を進軍する日本軍の機甲部隊(1944年5月) 方面では日本陸軍とが共同で、イギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。 3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留するの主要拠点であるの攻略を目指したとそれを支援するが開始された。 昭南からスバス・チャンドラ・ボース率いるまで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。 しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。 同作戦の失敗により翌年、将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。 しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦が開始され、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢が開始された()。 作戦自体は京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が1943年末から開始され、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通するなど、周到な準備が行われ、またの中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。 これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったと言われる。 によるとほとんど一揆のような状態だったという。 12月まで中華民国軍とアメリカ軍を相手に続くが、計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、その後連合国軍が航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた上、結果的に日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。 なおルーズベルトは開戦以来一貫して中華民国のを強く信頼しかつ支持しており、の際に、蒋介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蒋介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。 実際、これ以降蒋介石が連合国の重要会議(「」と「」)に招かれる事はなくなった。 緒戦の予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である「」を設けた。 の閣僚(1944年7月22日) 5月17日には、イギリス海軍とアメリカ海軍との合同機動部隊による、ジャワ島スラバヤの日本軍基地に対する航空攻撃「」が行われ、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。 これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。 6月に、早くも絶対国防圏の最重要地点にアメリカ軍が来襲する。 日本海軍はこれに反撃し、が起きる。 ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。 航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。 旗艦以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。 これらの島では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊が、、に次々に上陸。 、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。 多くの非戦闘員が死亡した。 しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のではそれらを中心とした艦隊が編成される。 戦況悪化と共に憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。 サイパン島が陥落した7月には兼軍需次官(開戦時は)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。 これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。 ところが、岸信介は東條配下のの脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。 さらに、近衛文麿元首相の秘書官の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の黙認の暗殺計画もあったと言われている。 しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、7月22日に東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。 陸軍大将と海軍大臣を首班とする内閣が発足した。 しかしながら、憲兵隊を配下にもち陸軍最大の権力者でもある東條英機が内閣総辞職をして、次の内閣の背後に回ったため、その後の内閣も大東亜戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸信介がなかば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら大っぴらには検討しにくいという状態が続く。 沈みつつある戦艦武蔵(駆逐艦から撮影(1944年10月) 続くにはかつてアメリカから奪取したとが連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。 この結果、日本の北部とを除く、ほぼ全土がアメリカ空軍の最新鋭爆撃機であるボーイングB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。 この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったボーイングB-29が東京の製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。 太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きかった。 しかし日本軍もサイパン島から撤退したが、サイパン島にあるアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け、被害を出し続けた。 アメリカやイギリスのような10,000メートル上空を飛ぶ大型の開発と、それを打ち落とすことのできる高度攻撃機の開発に遅れていた日本は、当時日本の研究員だけが発見していたを利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆるを開発。 アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。 予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害は市民数名の死亡、数か所に山火事を起こす程度であった。 また日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「」で、当時アメリカ管理下のを、搭載機の水上攻撃機「」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。 さらに日本は大量生産設備が整っておらず、その生産力はイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。 また本土の地下資源も少なく、石油やなどの物資のみならず、やなどをほぼ外地や勢力圏からの輸入に頼っていた。 それさえも1944年末頃には、連合軍による通商破壊戦で外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。 また、この事による日本本土の生活への衝撃は大きく、これ迄はレストランや旅館、ホテルなどは大幅な配給をうけて成り立っていたものの、これ以降はこれらに対する配給も制限されていくことになる。 部下を従えてレイテ島に上陸するマッカーサー ビルマ戦線がイギリス軍とアメリカ軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には沖縄にが行われ、続いてアメリカ軍とオーストラリア軍はフィリピンのへの進攻を開始した。 日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、が起きる。 日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、アメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦、を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。 この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。 この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い組織的な作戦能力を喪失した。 また、この戦いにおいて初めてが組織され、アメリカ軍海軍の撃沈などの戦果を上げている。 アメリカ陸軍は日本陸軍が占領していたフィリピンのレイテ島へ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。 戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、やなど、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ陸軍に対し、物質的に乏しい日本陸軍は敗走した。 なお、1942年に、違反などで死刑の判決を受けたソ連のスパイのリヒアルト・ゾルゲが、この年の11月7日のロシア革命記念日ににて死刑が執行された。 1945年 [ ] 明号作戦で日本軍に降伏するフランス軍(1945年3月) 1月にはアメリカ軍はに上陸した。 2月には、首都を奪回した。 日本は南方の要所であるフィリピンを失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源輸送の安全確保はより困難となった。 マニラの戦いでは、日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれたドイツ人神父など数十人、スペイン人200人以上、スイス人10名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。 アメリカ軍による被害も多かったにもかかわらず、「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にスペインは日本と断交した。 フィリピンが陥落したことで、硫黄島や沖縄など日本の領土が次の目標になったことで、ついに日本でも終戦工作が本格化する。 松岡元外相は旧友であり終戦工作に奔走していたから、和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。 また吉田は、や近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事()し、を近衛に引き合わせ後のにつながる終戦策を検討。 しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって2月の近衛上奏に協力したことが露見し、憲兵隊に拘束される。 なお日本陸軍は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放によるヴィシー政権崩壊と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、フランス領インドシナに駐屯していた日本軍は、「」を発動して戦闘を開始。 連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府及び駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はインドシナを独立させた。 空襲を受ける東京市街(1945年5月) この頃においても中華民国との大陸打通作戦において優勢にあったインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、またかなりの戦力を維持していたのでイギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行わなかったため、マレー半島や昭南、ジャワなどの占領地などとともにこのまま終戦までの間大きな戦闘もなく終わる。 2月から3月後半にかけてが行われた。 島を要塞化した日本軍守備隊とアメリカ海兵隊との間で大東亜戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者は日本軍を上回った)を出した。 末に、は陥落した。 これ以降アメリカ軍は死傷者を多く出すことに慎重になり、イギリス軍やオーストラリア軍を前面に出すことになる。 前年末から、アメリカ陸軍航空隊の爆撃機による小規模なが行われていたが、この年に入り本格化していた。 またそれまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間で攻撃が行われるようになった未明、これまで本格的な空襲を受けなかった東京の市街地を狙ったによって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。 その後も東京は、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回大規模な空襲に見舞われた。 低高度による爆撃に切り替えたことでアメリカ軍機の高射砲などによる被撃墜数は増加したものの、アメリカ軍は占領した硫黄島を、ボーイングB-29護衛のノースアメリカンやF6F戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。 この結果、護衛がついたB-29迎撃は困難となった。 これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000m のと連動した高射指揮装置つき防空陣地を築きB-29の撃墜に成功したとも言われるほか、新型迎撃機の開発を急ぎ、ジェット機「」を開発し敗戦直前の8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。 3月26日に沖縄のにアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日にに上陸してが勃発、凄惨な地上戦となる。 沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。 残るはわずかな戦艦と十数の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。 ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。 連合軍の艦艇に対するによる攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。 日本軍は貨物機やさえ動員して必死の反撃を行うが、少数ながらも戦果は大きく、3月26日の1日で駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「」と駆逐艦2隻を損傷させている。 その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊のが、中将率いるの重巡「」に命中、大破・航行不能にさせている。 また、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていき、さらに戦艦などによるや、空母機動部隊による日本沿岸のによる空襲、を頻繫に行った。 しかしこれ対する日本軍の反撃により連合国の爆撃機や艦載機の被撃墜数も比例して急増し、多い日は1日で日本上空で数十機が撃墜され、その分連合軍の死者や捕虜が出る状況になった。 沖縄への連合国軍の上陸を許すなど、戦況悪化の責任をとり4月7日に辞職したの後継に、をやらは首相に推したが 、先にサイパンを失った責任を取り首相を辞任した東條は、「陸軍が本土防衛の主体である」との理由でのを推薦し 、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。 これに対して岡田が「のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。 陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條を窘め 、東條は反論できずに黙ってしまった。 こうして鈴木を後継首班にすることが決定された。 鈴木の就任後、アメリカ大統領が亡くなり訃報を知ると、の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。 同じ頃、アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた。 アメリカに亡命していたドイツ人作家が鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。 鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた。 を占領したソ連軍 1945年9月 5月に入ると連合国による空襲は激しさを増し、東京や横浜、大阪などへ再び空襲が行われたほか、これまでは空襲を受けてこなかった百万都市の他、、、、、、、、、、、など、全国の中小各都市も終戦に至るまで空襲や機銃掃射にさらされることになる。 また、日本の領土であるものの、沖縄よりも本土に遠い台湾は、この頃よりアメリカ軍やイギリス軍の空襲や艦砲射撃に度々合うようになった。 また同じく外地の朝鮮は、北部こそ連合軍の空襲に遭うことがあったものの、やなどの中心都市はほぼ無傷であった。 また満洲国は南方戦線から遠く、によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のアメリカ軍のボーイングB-29の空襲を受け始めた。 同じく日本軍の勢力下にあったでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、の一部が日本軍に対し決起。 3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者はビルマ国民軍をに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。 同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。 にドイツが連合国に降伏。 枢軸国で残るは日本とだけとなり、その日本はを根拠に中立を保つソ連を頼るしかなかった。 しかしこれに先立つ2月、の密約、ヤルタ協約で、ドイツを破った後のソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。 次いで7月17日からドイツの郊外ので、英米ソによる首脳会談が行われた。 同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するが発表された(イギリスはこの日に総選挙が行われに首相が変わった)。 またこれに先立つ6月には、疎開先だった箱根ので大使は元首相の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行ったが当然ながらいい返事はもらえず、その上で鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連によるより一層の和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。 このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や投下、ソ連の参戦のみならず、日本軍や連合軍の兵士だけでなく大都市から中規模都市に爆撃目標が移った日本の一般市民にもさらなる惨禍をもたらすことになった。 地上戦となった沖縄戦は、日本の軍民総動員による持久戦で連合軍を苦しめたが、に第32軍司令官中将が自決し沖縄は陥落する。 しかしその後も日本軍が反撃するも、アメリカ軍はに沖縄作戦終了を宣告したが、日本軍によるゲリラ戦は7月後半まで続いた。 18万8136人が死亡し、うち一般住民は3万8千人に上った。 沖縄での日本軍の持久戦の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦()を無期限中止せざるを得なくなる。 またアメリカ、イギリスやオーストラリアを中心とした連合軍による、地方上陸作戦「」、その後地方への上陸作戦(「」)も計画されたが、沖縄戦の日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、最終的に計画は実行されなかった。 アメリカの大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から史上初の原子爆弾の使用を決定。 に、次いでにが行われ、投下直後には十数万人もの犠牲者が出た。 なお、当時日本でも独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのには及ばなかった。 原子爆弾を2発落とされても、まだ日本政府と軍は本土決戦に運命を託すと同時に、ソ連との中立条約の維持を唯一の根拠にした和平交渉にかすかな望みの綱をおいていた。 しかしソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(4月まで)有効のを一方的に破棄、、し翌9日、へ侵攻を開始した()。 これはソ連との中立条約の維持を唯一の根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の綱が切れた瞬間であった。 この日以降日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく。 当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、市民含む地上戦が行われ必死に反撃を行うも総崩れとなった。 降伏決定が報道された以降も、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に問題として残ることとなった。 また、ソ連参戦とその後のソ連軍の日本の降伏後の違法戦闘で、と満洲などは民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。 ここでも日本の軍民総動員による持久戦でソ連軍を苦しめたが、地上戦の結果、南樺太と、満洲、朝鮮北部などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜として不当にへ抑留された()。 捕虜となった日本軍兵士はその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、5万人を超える死者を出した。 さらに満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人の民間人は、流刑囚から多く結成された無教養なソ連軍、日本を見限ったあるいはソ連兵に加担した多くの朝鮮人によって、殺害・略奪・暴行された。 日本軍部指導層の一部が降伏を回避しようとしたため、のでの議論は混乱した。 しかし同盟国のドイツはすでになく、イギリスとアメリカ、オーストラリアなどの連合軍は本土に迫っており、さらに頼みの綱であった元中立国のソ連も日本領土へ迫っており、上陸さえ時間の問題であった。 ここで鈴木首相がに発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は降伏へと収束した。 日本政府は降伏を決定した事実を、10日の午後8時に海外向けの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送した。 その後も日本政府内、特に鈴木首相らと陸相ら陸海軍の上層部内で意見が紛糾し、ポツダム宣言受諾の意思を明確にしなかったために、日本政府の態度を懐疑的に見た連合国との戦闘や爆撃は継続された。 その4日後の、政府が同宣言受諾の意思を連合国へ直接通告、翌正午の昭和天皇によるをもって改めてポツダム宣言受諾を国民へ表明し、戦闘行為は停止された()。 公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県に飛来したが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。 なお、同作戦でがとの戦闘で撃墜され、少尉が無事パラシュート降下し捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した()。 なおソ連軍による日本侵攻作戦は、の日本との降伏文調印をも無視して継続された。 結局ソ連軍はのみならず、日本領土の南、、、、、、北部の全域を完全に支配下に置いたになってようやく、一方的で違法な戦闘攻撃を終了した。 停戦後 [ ] 中央博物館収蔵の九九襲ないし九九軍偵 敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたの奪還をもくろんで8月15日未明、などを襲撃する事件()を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。 また玉音放送後、の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊、さらに地方でもを起こすなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。 なお17日には総辞職した。 同じ17日に日本本土を偵察に来たを、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。 同じような英米仏蘭とのトラブルはこれ以降おこらなかった。 また、8月15日朝の玉音放送前に自決した陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と11機23名(うち5人が生還)とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った中将、ので切腹した少佐など、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って皇居前や代々木練兵場、基地などで自ら命を絶った軍人や民間人は数百人に渡った。 なおこの時点においても、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と、、台湾、朝鮮半島などの元来の領土の他に、中華民国の上海などの沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモールなどの北東アジアから東南アジア、ラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満州国などの友好国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き上げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。 8月16日、連合軍は中立国を通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。 これを受けて19日には、日本政府側の停戦全権委員が2機のの塗装をしたでからに飛行し、そこからでマニラへと向かい、マニラ・ホテルで少将らなどと停戦及び全権移譲の会談をするなど、イギリス軍やアメリカ軍、フランス軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。 しかし、これらを受け入れずインドネシアやビルマなどで勃発した独立戦争に協力するものや、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの()や、のちに中国共産党のに編入されたものも多かった。 さらには、で残留兵として戦い続けた少尉の様に、まで終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたものもいた。 また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(やなど)や戦車、銃器などがそのまま利用されるケースも多かった。 艦上にてに署名する外務大臣 1945年9月2日 なお日本と同盟下にあったタイは、8月16日に日本側の内諾を得た上で宣戦布告の無効宣言を発し、連合国側と独自に講和した。 また、日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し、に退位した皇帝のら満洲国首脳は日本への亡命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。 また、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。 8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受けるが発生した。 の、は8月末、占領は9月上旬になってからであった。 8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のからなるアメリカ軍の先遣部隊がに到着。 同基地を占領した。 また、同日大森の英米軍の捕虜収容所にアメリカ海軍の軽巡洋艦サンファンから上陸用舟艇が寄こされ、病院船ビネボレンスに怪我人などを収容していった。 、内停泊のアメリカ海軍戦艦艦上において、イギリス、オーストラリア、アメリカ、中華民国、カナダ、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席、さらには8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。 ここに日本政府全権、全権参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。 なお連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し 、のちに東京裁判などで裁かれた。 また中華民国や香港、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた軍人はそれぞれの現地で捕虜となり、その後戦犯として裁判に掛るものが多かった。 さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。 また民間人や軍属なども帰国の途に就いたが、台湾や朝鮮、マレーやインドシナなどからは比較的順調に行ったものの、中華民国や満州国からの帰国は混乱が多く、など戦後の混乱でやむなく置いておかれるものも多かった。 戦争状態の終結と講和 [ ] ドイツを除く欧州枢軸国 [ ] 「」も参照 旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は2月10日、パリにおいて個別に行われた()。 これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している。 パリ条約の締結後、占領は解除される予定であったが、ハンガリーとルーマニアにおいてはオーストリアとの連絡路を確保するという名目でソ連軍による駐留が継続され、共産主義政権成立につながっていくことになる。 イタリア [ ] イタリアは戦時中に共同参戦国として連合国と共に戦った経緯もあり、イタリア王国政府が存続を認められた上に、政権が自ら戦犯を裁き処罰する権利を与えられており、1946年までに戦犯裁判は終了している。 ドイツ [ ] 「」も参照 ドイツにおいては中央政府の不在がで宣言され、東西二つのドイツ政府が誕生したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。 1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツ()との戦争状態終結を宣言した。 1955年にはソ連がドイツ(・東ドイツ)との戦争状態終結を宣言し、西ドイツからは占領軍が撤退し、東ドイツも占領状態が解除されたものの、が駐留を続けている。 またに関してはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国軍が駐留を継続している。

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【第二次世界大戦とは】簡単にわかりやすく解説!!開戦の原因や死者数【まとめ】

第 二 次 世界 大戦 日本 死者

この記事にはやの一覧が含まれていますが、 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事のにご協力ください。 ( 2018年11月) 第二次世界大戦 左上: 右上: 左中央: 右中央:東部戦線における急降下爆撃機 左下:降伏文書に署名するドイツ元帥 右下: () 戦争:第二次世界大戦 年月日:1939年9月1日 - 1945年9月2日 場所:、、、他 結果:の勝利• 国際連盟の解散• 国際連合創設• との対立• 冷戦の始まり 世界秩序の変革() 交戦勢力 1939-1945• 1939 1939-1945 1940-1944 1944-1945 -1940 1940 1940- 1941-1945 1941-1945 1942-1945 1945 など 1943-1945 1944—1945 1944—1945 1939-1945 1940-1943 1943- 1941-1945 1941—1944 1941—1945 1941-1944 1941—1944 1942-1945 1943-1945 など 非宣戦国家 1941 1945 1941-1945 指導者・指揮官 -1940 1940-1945 1945 -1940 1940- 1941-1945 1945 -1943 1943- 1945- 1939-1945 1945 -1944 1944-1945 1945 1941-1943 1943-1945 (康徳帝) 損害 死者 軍人1,700万人 民間人3,300万人 (諸説有り) 死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説有り)• 9月のドイツ軍によると続く、そして英仏からドイツへのはいずれもを戦場とした。 その後12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの(大東亜戦争)開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、史上最大最悪の戦争となった。 詳細は「」を参照 枢軸国はに成立したに加入した国と、それらと関係にあった国を指す。 対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そしてに成立したに署名した国を指す。 ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。 しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。 また、イタリアなど連合国にしたあとに、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらはと呼ばれ、連合国の一員であるとはみなされなかった。 枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。 第二次世界大戦の戦域を大別する際、・・の一部を含むものと、・と・全域を含むものに分けられる。 このうちドイツ、イタリアなどとイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いを欧州戦線、日本などとイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどとの戦いを太平洋戦線と大別する。 欧州戦線はイギリス、アメリカ、フランス、ブラジルなどが枢軸国と戦ったおよびと、ソ連と枢軸国が戦った東部戦線()に分けられる。 太平洋戦線はと呼称され(当時の日本側の呼称は「」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが戦った ()、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカなどが戦った ()、ビルマやインド、セイロンやアフリカで日本がイギリス、アメリカなどと戦った ()、そしてで日本が中華民国とアメリカなどと戦ったに分けられる。 しかし、これら以外にオーストラリアや、、などでも戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。 戦争は完全なとなり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的、投入が行われた。 世界の61か国が参戦し、総計で約1億1,000万人がに動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。 と比較すると、ともにであったが相違もあった。 第一次世界大戦はと切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦ではを用いたの結果、が拡大した。 また、無線はと違いにされたため、による伝達や、による戦果がもたらされた。 使用されたも、やなどの著しい発達に加え、や、長距離などの新兵器、さらにつまりというまで登場した。 総力戦も第一次世界大戦より徹底し、はただ単にしないという態度では許されず、戦争遂行に的な協力を要求され、非協力者への国家によるは厳しかった。 この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、を含め、が住むへの大規模な、下の各地で実施されたにより、多くの民間人やが命を失った。 またドイツは、自国および占領地において・・に対する組織的を戦争と並行して進め、これらはと呼ばれる。 こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。 また大戦末期から大戦後にかけては、やから1,200万人のされ 、その途上で200万人が死亡している。 新たにソ連領とされたではポーランド人も追放され、大幅な住民のが行われた。 またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も。 戦争中から連合国では、など戦後秩序作りが協議されていた。 戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。 この両国は戦後世界を指導するとなったが、やがて対立するようになり、その対立は長い間構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。 また、欧州の諸国家の統治下にあった、アフリカのではそしての機運が高まって多くの国々が独立し、結果として欧州の地位は著しく低下した。 こうした中で、相対的な地位の低下を迎えたでは大戦中の対立を乗り越えの機運が高まった。 1930年、・にて開催の議会 6月28日、のドイツに関する、が締結され、翌年1月10日同条約が発効。 ヴェルサイユ体制が成立した。 その結果、ドイツやは本国領土の一部を喪失し、それらは主義のもとで誕生した、、などの領土に組み込まれた。 しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。 また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、はヴェルサイユ条約において巨額のを課せられた。 11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるが発足すると 、1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にを強行。 工業地帯・炭鉱を占拠するとともにが所有する金を没収し、占領地には罰金を科した。 これによりが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた。 その結果、紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、などの反乱が発生した。 戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。 モンロー主義の動揺 [ ] やら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。 戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的なに回帰したが、は終始貫徹されたわけではなかった。 すぐにに対する投資をともにしてとの関係が深まった。 そこで5月、アメリカでは対との戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したが作成された。 は1935年に更新されたが、同年にはも制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。 1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。 1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。 中立法の完成にはの調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。 欧州大陸でのナチス・の台頭によりの情勢が激変し、レッド計画は更新されなかった。 アメリカはにおいて、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したへと発展していく。 共産主義の台頭 [ ] 以降、世界的にが台頭し、これを阻止すべく、はなどで干渉したが失敗した。 政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため()を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。 新たにソ連に併合されたではから強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし() 、さらにからにかけてのでは9,000人以上が殺害された。 秘密警察は1934年、内務省人民委員部()と改称され、ソ連国内とそのでを行い数百万人を処刑した。 旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、にはにのを設立、にはの権益をめぐりが引き起こされた。 さらに、や等に軍を派遣()し、に積極的に介入。 には日本との間にが起こった。 このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からが生み出されることになった。 大恐慌とファシズムの台頭 [ ] ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。 戦勝国イタリアでは「」問題や不景気によって政情が不安定化した。 この状況下でイギリスの支援を受けて 勢力を拡大したムッソリーニのは1922年ので権力を掌握し、的な体制が成立した。 同じく戦勝国の日本では、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれたによる日本で初めての本格的なが組織された。 1921年にはその原が暗殺されたものの、この前後の1922年に日本はワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、にはが発展的解消された。 にはアジアで初のが導入され、政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。 敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のの導入やに代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。 1925年にはが結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。 これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。 さらににはパリでが結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。 こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。 の政治集会における(1930年10月、にて) によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。 日本では世界恐慌を受けて恐慌状態()となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。 さらにが渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌による大打撃を受けてしまう。 そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1932年に中国東北部に建国した満州国は陸軍中枢の言うことを聞かないのなすがままになり、さらに1937年にはが勃発するなど軍の暴走が止まらず、政権とともに政党政治を基にした議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。 アメリカの資金で潤っていたドイツでも失業者が激増した。 政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げる運動が勢力を得る下地が作られた。 アドルフ・ヒトラー率いる(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年にはで第二党に躍進。 1931年にはを端緒にが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。 1933年1月にナチ党はに成功。 ナチスはを通過させ、独裁体制を確立した。 ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。 このような状況下で、日本、ドイツ、イタリアという、イギリスやフランス、アメリカのように莫大な富と雇用を生みだす植民地を持たず、軍国主義(日本)やファシズム(イタリアとドイツ)という共通点を持つ3国は急接近を始める。 宥和政策とその破綻 [ ] 1938年9月29日、にて署名直前に撮影された、、、、及び 英仏米など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。 1935年、ドイツはを行い、強大な軍備を整えはじめた。 イギリスはドイツと ()を結び、事実上その再軍備を容認する。 ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスのがその後も続くと判断し、1936年7月にはを強行。 これによってロカルノ体制は崩壊した。 そのころ日本は、1931年9月のを契機にの東北部を独立させを建国した。 1937年7月にはを契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく()。 イタリアは1935年にを開始した。 これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。 日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には、1937年にはが結ばれた。 ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。 1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にして。 次いでのに狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたで、英首相と仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。 しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍は全域を占領し、を独立させとした。 こうしてされた。 ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。 しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。 勃発直前 [ ] 1939年、に署名するドイツの外務大臣。 その背後に立つのは、及び。 ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはから地方を割譲させた。 さらにポーランドに対し、への通行路および国際連盟管理下のの回復を要求した。 4月7日にはが発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。 4月28日、ドイツは1934年締結のを破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。 5月22日にはイタリアとの間でを結び、8月23日にはソビエト連邦とを締結した。 反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。 イギリスは8月25日に()を結ぶことでこれに対抗した。 1939年夏、のは、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。 独ソ不可侵条約にはが有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連は、の、のへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。 一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。 ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。 経過(全世界における大局) [ ] 1939年9月1日、ドイツのが始まる。 9月1日早朝()、がポーランドへ侵攻。 9月3日、イギリス・フランスがドイツにした。 9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。 その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる()。 一方、もナチスの伸長に対する防御やおよびへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した()。 この侵略行為を非難され、ソ連はから除名された。 3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲。 さらに1940年8月にはした。 1940年春、ドイツは、、フランスなどを次々と攻略し、で連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。 その9月下旬、ドイツはイタリア、日本とを締結した。 1941年6月にはソ連へ侵攻した()。 そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。 12月8日午前1時(日本時間)には日本がイギリスのを攻撃し()、ここに太平洋アジア戦線が始まる。 日本軍は続いてアメリカのも攻撃し()大勝利を勝ち取る。 ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。 1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマ、インドネシアを占領した。 さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。 しかし同時期にドイツはとで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。 日本軍はからイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。 6月に日本海軍はで敗北するものの、同月に日本軍はアリューシャン列島のを空襲し、その後とを占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。 1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、イギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、このころになるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、などでは日本軍と一進一退を続けるようになる。 また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、9月にはイタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。 また日本軍は で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。 ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツが、5月にで敗北し、北アフリカを放棄。 7月、敗色が濃い中ムッソリーニは失脚し、側に鞍替え参戦する。 同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツのであるが北イタリアを支配する状況になる。 しかし、にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。 1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸。 ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。 アジア・太平洋では、日本軍が中華民国軍に対してかつてない大勝利を収めたが、イギリスがビルマで、アメリカがに勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイング爆撃機のの行動範囲内となり、勢いは完全に連合軍に傾き、ついには冬に日本本土への空襲が始まった。 1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統は4月30日に自殺、もパルチザンに惨殺された。 5月9日には降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。 日本も5月以降連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。 しかし6月ので初めて本土を失い、8月に入ると6日に、同9日にが行われた。 さらに同8日の中立国のという事態にようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にを正式に受諾。 9月2日にに調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。 経過(欧州・北アフリカ・中東) [ ] 1939年9月、時の付近におけるドイツの 、および軍が、続いてには軍が相次いで領内に侵攻した。 一方、とは、ドイツにした。 ポーランドは独ソ両国により分割・占領された。 さらにおよびに領土的野心を示したは、11月30日からフィンランドへ侵攻した()。 そのためから非難・除名されたが 、3月にはフィンランドから領土を割譲させた。 さらにには1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはした。 ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。 同年6月からイタリアが参戦し、6月14日軍はを占領、フランスを降伏させた。 さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆()を開始したが、で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土は中止された。 その後6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、が始まった。 フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した()。 一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。 ドイツ軍はを経て同年12月、に接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。 中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、ではドイツ海軍の潜水艦・が連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。 2月、でドイツ軍は大敗。 これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型によるドイツ本土空襲も激しくなる。 同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。 9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。 6月にはフランスのに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。 になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。 2月のでアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、以東のドイツ領分割などを決定する。 同年4月30日、はベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はを占領。 5月8日、ドイツは連合国に降伏した。 1939年 [ ] スキーに銃を構えるフィンランド陸軍(1939年12月) 9月1日早朝()、ドイツ軍はと機械化された歩兵部隊、、など5個軍、約150万人でを開始した。 この際、ドイツによる事前のは行われていない。 ドイツ国総統は、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前になど自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。 ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊と急降下爆撃機の連携によるにより、なすすべもなく殲滅された。 ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。 ソ連は当時で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、のに基づき9月17日、を一方的に破棄し。 まで達した。 一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後のにドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。 しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。 一方ヒトラーも、英仏両国が宣戦布告してくるとは想定していなかった。 開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するを視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、を使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。 国際連盟管理下のは、ドイツ海軍練習艦の砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。 10月6日までにポーランド軍は降伏した。 ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。 ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、のへの強制収容が始まった。 ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がで殺害され、からにかけて、約180万人が殺害または国外追放された。 ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず 、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。 ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春までに大きな戦闘は起こらなかったこと()もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「までには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。 11月8日、の「」で爆発があり、家具職人によるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。 なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるも、その後何回か計画されたがすべて失敗に終わった。 ソ連はおよびに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。 9月28日と、10月5日と、10月10日とそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。 しかし、フィンランドはソ連の基地使用および地方割譲等の要求を拒否。 そこでソ連は防衛を理由に、11月30日からフィンランド侵攻()を開始した。 この侵略行為により、ソ連はから除名処分となる。 さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。 1940年 [ ] 2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。 その結果3月13日、フィンランドは地方などの領土をソ連に割譲して講和した。 さらにはに圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。 そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにした。 同時にソ連はにを割譲するように圧力をかけ、6月にはソ連軍がベッサラビアと北部に侵入し、領土を割譲させた。 ベルギー西部を進むドイツ軍戦車(1940年5月) ドイツ占領下のポーランドからに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。 当時リトアニアはソ連軍に占領されており 、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の領事に名目上の行き先(など)への通過ビザを求めて殺到した。 杉原領事の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。 なお、杉原領事同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の や、在ボルドー・ポルトガル領事の がおり、ともに戦後ののに認定されている。 4月、ドイツは中立国とに突如侵攻し占領した()。 しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。 5月10日、のドイツ軍は、戦略的に重要なや、の三国に侵攻()。 オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。 また政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。 なおアジアのオランダ植民地はに準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。 同じ日、イギリスではが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。 ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・を迂回。 侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。 で瞬く間に制圧し()、フランス・イギリスの連合軍をに面するへ追い詰めた。 凱旋門を通るドイツ軍(1940年6月14日) 一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためを展開。 その際、860隻の船舶が急遽手配され、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間にフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊は撤退させることに成功した。 この作戦ではさまざまな貨物船、漁船、遊覧船およびの救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(おもに大型の駆逐艦)へ運んだ。 イギリスの首相はのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。 さらにドイツ軍は首都パリを目指す。 敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。 同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告。 6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。 6月22日、フランス軍はパリ近郊においてドイツ軍への降伏文書に調印した。 なお、その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。 その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派の元帥率いるが樹立される。 一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のが「国民委員会」を組織するかたわら、の放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけて国内のを支援した。 なおヴィシー政権には、フランス植民地やモロッコ、インドシナ、マダガスカルなどの主要植民地がつき、それぞれドイツ軍やとの友好関係や軍の駐留を引き受けた。 1940年12月29日、ドイツによる後の それに対して7月3日、イギリス海軍が、ドイツ側戦力になることを防ぐべくフランス植民地のメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた()。 アルジェリアのフランス艦艇は、政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。 それにもかかわらず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。 また、イギリス軍とは9月にの攻略作戦()を行ったがに撃退された。 西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指した。 降伏勧告に近い和平案に対し回答を伸ばすことでイギリスは時間を稼いだ。 その間、イギリス特有の悪天候により港湾や船団へのドイツ空軍の攻撃は低調に終わった。 しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れた。 同月25日のイギリス海軍駆逐艦の護衛する輸送船団への攻撃では10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。 上陸作戦「」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官は、8月13日から本格的にを開始するよう指令。 このころ、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えてを実施した。 イギリス国民とともに、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。 時のの爆撃機 イギリス空軍は、やなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのを駆使して激しい空中戦を展開。 ドイツ空軍は、やなどの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。 しかし、の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。 その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。 ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。 参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地からへ、10月にはのからへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した()が、11月にはイタリア東南部の軍港が、から発進したに遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。 またの反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。 この年の9月27日、ドイツ、イタリア、日本はを結んでいる。 またによりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。 1941年 [ ] 詳細は「」、「」、および「」を参照 イギリスは先端の と、の・を地中海の東西両拠点とし、やなど東 を確保し反撃を企画していた。 2月までに北アフリカ・リビアの東半分地方を占領し、ギリシャにも進駐した。 一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、陸軍率いる「」を投入。 2月14日にリビアのに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。 4月11日にはリビア東部のを包囲したが、占領はできなかった。 さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。 ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。 12月24日にはがイギリス軍に占領され、翌年1月6日には ()まで撤退する。 に、中立国のアメリカはを成立させ、自らは参戦しない代わりに、や、などの、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。 4月6日、ドイツ軍は()やなど()、島嶼部に相次いで侵攻。 続いてクレタ島に空挺部隊を降下()させ、大損害を被りながらも同島を占領した。 ドイツはさらに攻撃を計画したがスペインはこれを認めなかった。 またこの間に、、を枢軸国に加えた。 、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、、、等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦()を開始し、が始まった。 冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは、ソ連に宣戦布告した()。 開戦当初、(当時のの呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。 歴史的に反共感情が強かった、等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者がに志願した。 また、西ヨーロッパからも などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。 ドイツ軍は7月16日に、9月19日にを占領。 さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都に接近。 市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたへ疎開した。 ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。 また戦場に出現したソ連軍の新型、や、「」ロケット砲などに苦戦。 そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早いの到来で厳しい寒さに見舞われる。 その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにはモスクワへの進攻を再開し、郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつて無い深刻な敗北を喫した。 、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定するを発表した。 、ソ連・イギリスの連合軍は中立国に南北から進撃し、占領した()。 イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒否した。 ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離をおいていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。 イランを占領しを確保したうえで、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。 一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日にを締結していた。 また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。 ソ連は日本に送り込んだら、の情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。 の占領地では、秘密国家警察とが住民を監視し、や関係者へ過酷なを行った。 特に独ソ開始後、と呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。 それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。 ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。 そのため軍部の中で反ヒトラーの陰謀を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。 (現地時間)、がマレー半島のイギリス軍を攻撃し()ここに大東亜(太平洋)戦争が勃発した。 またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はのハワイにあるのアメリカ海軍の基地を攻撃した。 これに対しにアメリカとがに宣戦を布告。 日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。 日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。 1942年 [ ] 1942年12月10日、のドイツの爆撃による破損家屋を去るにおけるソ連の民間人 東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。 ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。 さらに夏季攻勢を企画。 ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、の湾曲部から西岸の、地方の油田地帯を目指す。 一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。 7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のを占領。 8月9日、油田を占領した。 ドイツ海軍の潜水艦隊司令官率いるは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、沿岸や、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。 損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた()。 しかし、このころより英米両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。 8月23日からはが開始された。 まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。 連日壮絶な市街戦が展開された。 しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていく。 11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に冬の装備に弱い枢軸国軍を包囲する。 12月12日、元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。 北アフリカ戦線では、将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。 6月21日、前年には占領できなかったを占領。 同23日にはに侵入し、30日には西方約100kmのエル・アラメインに達した。 しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。 10月23日から開始されたでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。 11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはを奪回する。 同盟国イタリア軍は終始頼りなく、欧州戦域を事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。 さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。 さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていた大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。 これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領()した。 イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖のを、の支援を受けて占領した。 これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、5月にマダガスカル島へ進出、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃、イギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本軍兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果をあげている。 しかしアフリカはドイツ軍の作戦範疇であったため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。 は大西洋とインド洋の一部地域における連合国のを突破して、同盟国である日本がそのほぼ全域を支配していたおよびインド洋水域から、、等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。 往路には日本の必要とする等の軍需品を日本にもたらした。 はドイツ船舶を「」という秘匿名称で呼び、やなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。 この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにおいてナチス党の重要幹部が集結し「」について協議したを行われた。 これ以後、ワルシャワなどのユダヤ人住民に対し、この年の7月からや、などのへの集団移送が始まった。 収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、を使って大量殺戮を実行したとされる。 大量殺戮は「」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の支持または黙認の元に継続された。 最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にや者、、など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。 1943年 [ ] 1943年10月9日、ドイツのの工場に対するアメリカによるの爆撃 1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。 歴史的大敗を喫した。 勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。 しかし、3月にはドイツ軍は元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。 7月5日からのは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。 ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。 以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。 11月6日にはキエフを占領した。 北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はのボン岬で包囲された。 5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。 連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨上陸作戦()を開始し、シチリア島内を侵攻。 8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街を占領した。 これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。 また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたも多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。 各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。 7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英王党派の、ムッソリーニの娘婿外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。 孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。 、イタリア本土上陸も開始された()。 同日、ムッソリーニの後任、元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。 、連合国はイタリア降伏を発表した()。 は直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部へ脱出した。 逮捕後、新政権によっての山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、率いる特殊部隊によって救出された。 9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。 一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。 日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にはイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。 しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。 なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。 また、イタリア租界のあった天津港など東アジアで活動していたイタリア海軍の艦船が、イタリア降伏後に日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し、神戸港などで自沈している。 また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、、などのフランスやフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。 さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日、8月14日 - 24日、10月19日 - 30日 ()、11月22日 - 26日、11月28日 - 12月1日など相次いで会議を行った。 今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。 しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。 1944年 [ ] 1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。 4月には、地方のドイツ軍を撃退、6月22日からは夏季攻勢()が開始され 、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツは壊滅。 ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、更に、、などに侵攻していった。 解放されたパリ 8月25日 8月1日、ポーランドの首都では、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起()したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。 一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。 ほぼ同時期、でもソ連軍支援のが起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。 また8月23日にはルーマニア()、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。 10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はで全土を占領、による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。 しかしルーマニアの油田喪失でドイツの石油供給は逼迫する。 一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍の将軍指揮の元、北フランス・地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的とした()を開始。 多数の死傷者を出しながら上陸した。 ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し 、女性たちは強姦された。 1940年6月の撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。 この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。 敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、司令部参謀により、が決行されたが失敗した。 疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。 また、国民的英雄ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した。 ドイツ軍は、上陸後の連合軍の進撃を食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したの結果、ついに戦線は突破され、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。 8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。 8月16日には南フランスにも連合軍が上陸した()。 8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリはされた。 ドイツ軍はパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。 がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。 占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者()」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、のようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、国外へ亡命する者もいた。 9月3日、イギリス軍はの首都を解放した。 次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍の元帥は9月17日、の付近でライン川支流を越えるを実行するが、拠点のを占領できず失敗する。 また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。 ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。 またこの頃、ドイツ軍は開発中の、世界初の実用ジェット戦闘機やジェット爆撃機、同じく世界初の、次いで世界初のなど、新兵器を実用化し、実戦投入したが、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは不可能だった。 1944年8月、ナチスの占領に対するの暴動を鎮圧する任務を負うドイツの 10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。 その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、の森林地帯地方で反攻()を試みた。 冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、戦線を一時的に約130km押し戻された。 また、指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。 しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点を占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる。 この頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。 なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・、で45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。 当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。 しかし戦後アメリカの案に基づいたが結ばれることとなる。 1945年 [ ] ベルリンの戦い 1月12日、ソ連軍はからにかけての線で攻勢を開始。 1月17日の首都、1月19日を占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。 その後、2月3日までにソ連軍は流域、ドイツの首都まで約65kmの付近に進出した。 ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。 2月4日から11日まで、のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるが行われた。 そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及びや・の帰属問題が討議された。 西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。 その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでを渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。 4月11日にはに達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する()。 南部では4月20日、30日には、5月3日にはオーストリアのを占領した。 ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都奪還と、油田確保のためを行うが失敗する。 この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。 ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「」)と呼ばれる命令を発する。 しかし、軍需相はこれを聞き入れず破壊は回避された。 これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンのに篭もり、国民の前から姿を消す。 ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都を占領した。 詳細は「」を参照 ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。 にそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。 4月28日にはヒムラーが中立国の伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。 一方、イタリア北部では連合軍の進撃との蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。 ムッソリーニは逃亡中、スイス国境の付近の村でに捕えられた。 、愛人のと共に射殺され、その死体は中心部の広場で逆さ吊りで晒された。 イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。 15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したと共に。 死体は遺言に沿って焼却された。 ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相に宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人に党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。 連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地のが次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、絶滅計画()をはじめとする、ナチスの犯罪が明るみに出された。 一方、ドイツ軍を駆逐したソ連は、新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた()。 国防軍代表カイテル元帥と連合軍代表ジューコフ元帥、テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行う 5月8日 5月2日、首都市はソ連軍に占領された。 その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵にされたと言われている。 ある医師の推定では、ベルリンでされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった。 また、、での被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。 全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。 ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し()、連合国との降伏交渉を開始した。 、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍は連合国に無条件降伏し、上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた( )。 翌午後11時には市内のカールスホルスト()の工兵学校で、降伏文書の式が行われ、ドイツ国防軍代表元帥と連合軍代表元帥、元帥が降伏文書の批准措置を行った。 これによりドイツ国、イタリア王国の二国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。 その後も欧州では小規模かつは続いたものの、国家間でのは最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国によると、のみとなった。 停戦後 [ ] 観衆に手を振るチャーチル(1945年5月8日) 5月8日午後11時1分に停戦が発効し、各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はが終結する5月11日まで続いた。 なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、対日戦でも同様の事であり、戦時法に明らかに違反するものであった。 なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人が、潜水艦や船舶、徒歩でや、などを経由して、や、などの南アメリカ諸国に逃亡した。 また残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは誤りであった。 その後7月17日から、ベルリン南西にて、ヨーロッパの戦後問題を討議するが行われた。 イギリスのウィンストン・チャーチル首相 、のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカの大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。 この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたの締結が行われた。 一方で、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するの発表も行われている。 実際に、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が、残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。 ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。 さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるが追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした。 関東軍が奉天、南満州を占領する。 12月に中華民国政府の提訴により、では満州での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。 英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国の調査団の結成が可決された。 日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満州における匪賊の討伐権が日本に認められた。 1932年3月に国際連盟から第2代を団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。 この調査団は、半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 翌1933年2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項 および6項 についての条件が成立した。 前後して1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突するが勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、が中華民国から独立して建国宣言をした。 3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。 上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、3月22日の下院審議において、与党の重鎮は、議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しないとしたうえで、中華民国には国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたことを指摘し、銃剣はへの適切な対応ではないとしつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。 これを受けて5月5日、で日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。 だがに日本軍がに侵攻するなど、中華民国との関係が悪化すると、国際連盟加盟各国の態度も硬化した。 翌日にはで行われた総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、さらに建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服としてから帰国し、さらには3月に国際連盟を脱退する。 日中戦争へ [ ] 日本軍による占領 1937年 に中華民国のはに対し、国共内戦を停止し対日戦に向かうことが救国となると勧告したが、蒋は張学良はに惑わされていると一喝した [ ]。 、の親衛隊が宿泊先を襲撃して蒋介石を拘束拉致した。 蒋介石は中国共産党のらとの会談で姿勢から姿勢への転換を最終的には受諾し、南京に12月26日に帰還した [ ]。 そしてついに7月7日、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に、日本軍と中華民国軍の衝突であるが勃発、ここに全面戦争であるが始まった。 一旦は中華民国側は遺憾の意思を表明し、「責任者を処分すること」、「盧溝橋付近には中華民国軍にかわって保安隊が駐留すること」、「事件は藍衣社 青シャツ隊 、中国共産党など反日暴力団体が指導したとみられるため今後取り締る」という内容の停戦協定が締結されたが、その後中華民国側でも日本軍を挑発し対日武力行使決定が決定、や、占領など日中戦争はまたたくまに中華民国全土に拡大していく。 欧米諸国でも中華民国内にを置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、イタリアやアメリカなど親中的な政策をとる国が多かった。 日英米の間でも上海でのヒューゲッセン遭難事件、の、の等がおきたが、近衛内閣の外相が善処し、イギリスの大使とアメリカのジョセフ・グルーから高く評価された。 1938年3月におきたの併合()の翌週、のもとで野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みたが成立した。 さらに日中戦争が激しさを増す中、ついに日本政府はアジア初、有色人種初の夏季であるを7月に返上した。 日独伊の急接近 [ ] ガレアッツォ・チャーノ外相 1936年 なお、ナチス政権下のの極東政策は1936年にはを結ぶ一方で、で中華民国と結ばれていた。 中華民国はをドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蒋介石の個人顧問として中将をドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、日本と中華民国との間で大きく揺れていた。 の等は日本との連携を重視していたが、外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。 しかしにリッベントロップが外相に就任し、中将が10月に大使に就任すると日本重視の姿勢が決定的となり、中華民国に派遣されていた軍事顧問団は撤収、またイタリアに続きドイツ製武器の供給は停止することになった。 またに租界を持つイタリアも、1930年代中盤には元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問に、さらに顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問が中華民国に常駐し、や、やなどのイタリア製の兵器を大量に輸出し日中戦争に投入、日本側から抗議を受けていた。 しかしに始まったでの対イタリア経済制裁に中華民国が賛同した事に対して、上海として勤務した経験もあった外相は「遺憾」とし、1937年11月には日独に次いで防共協定に調印した。 さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満州国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。 その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。 完全に日本重視となった。 さらに同年11月にはイタリアは満州国を承認している。 これらの返礼もあり、日本陸軍や満州陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。 またイタリアも大豆の供給先として満州国からの全輸出量の5パーセントを占め、アメリカからの輸入をストップするなど、イタリアもドイツも完全に日本重視となる。 ヨーロッパ開戦と第2次近衛内閣 [ ] 首相との閣僚 1940年 8月23日の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、これを受け当時の内閣は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残して8月28日に政治責任を取り総辞職し、日本の政界も揺るがす大混乱となった。 また大使もこの責任を取りベルリンより帰朝を命ぜられ、帰国後の12月27日に大使依願免職し、次の駐独大使にはドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」と言われたが継いだ。 しかし続くも短命に終わり、対独同盟派の勢いは停滞した。 そのような中で9月1日にドイツがポーランドに侵略を開始、9月3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。 ソ連も独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。 その後はドイツとフランス、イギリスの間で戦闘は起きなかったものの、1940年に入りドイツがベルギーやオランダに侵攻したがすぐに降伏するなど、枢軸国の勢力が拡大するに及び、7月にはとにより親英米派のは辞任に追い込まれた。 そのような中、1月にが失効し、日米関係は以来の無条約時代に突入し、悪化しつつある情勢の打開が求められた。 日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣のあとを受けたにおいては、勢いのいいドイツやイタリアなど枢軸国との提携を主張する外相らの声が高まった。 7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、が閣議決定された。 汪兆銘政権成立 [ ] 北部仏印進出(1940年) 日中戦争の勃発に伴い、は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も当時の首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」としたを出し、の道は閉ざされた。 日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていたの擁立を画策した。 汪兆銘は日本の軍事力を背景として、のやのなどを結集し、1940年3月30日には蒋介石とは別個の国民政府を南京に樹立した。 汪は自らの政府を国民党の正統政府であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。 政府発足後に、や、のやなどの、などがした。 しかしドイツが承認したのは1941年7月になってからだった。 日本軍の北部仏印進出 [ ] フランスのは、1940年に入りドイツの猛攻が続くなか陸軍総司令官とともに対独講和を主張し、6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日にが成立した。 その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権が成立した。 これをうけて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。 当時のフランス領インドシナ総督 ()将軍は、駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団()の受け入れを行った。 6月22日に成立したはこの決断をよしとせず、カトルーを解任して ()提督を後任の総督とした。 しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。 8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。 その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と西原・マルタン協定を締結し、これを受けて日本軍は北部仏印に進駐した()。 なおその様な中で11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でが勃発し、日本の仲介による5月8日の締結まで続いた(実質上のタイ王国の勝利)。 日独伊三国同盟締結 [ ] ベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月) さらに9月7日には新同盟締結のためにドイツから特使が来日し、松岡との交渉を始めた。 スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。 9月27日にはが締結された。 実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月に、、が、1941年3月には、6月にはが加盟した。 また、三国同盟実現には「親米」と言われた来栖では力不足との声が上がり、そこで1940年12月に大島が駐独大使に再任された。 これに対してアメリカのルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。 一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。 また枢軸国の一員となったは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたも1941年12月日本とをそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。 満州は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。 またに加盟した()も三国同盟には加わらなかったが、戦争の前半期においては協力的な関係を持った。 アメリカの対日禁輸とレンドリース [ ] レンドリース法案に署名するルーズベルト大統領(1941年3月) 1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、7月26日にはアメリカの日本への輸出切削油輸出管理法成立。 8月には石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出許可制。 10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止するなど次々と禁輸攻勢を打ち出し、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へのプレッシャーをかけて来ることとなった。 これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、やなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内には民間ルートでの開拓を断念した。 さらにアメリカはに現れていたを大統領がさらに緩和し、1941年3月にはを設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。 終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。 アメリカの日中戦争への軍事介入 [ ] 中華民国軍の「フライングタイガース」に所属するP-40Cトマホーク 1941年 またアメリカは、1940年8月に蒋介石総統と夫人からの軍事支援の要請を受け、ルーズベルト大統領の指示を受け設立された「中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍 American Volunteer Group、AVG を設立し、ここに日中戦争への軍事介入を開始した。 しかし日本軍を刺激しないようにあくまで「義勇軍」という名目を保った。 シェンノートは、などの約100機のアメリカ製の最新鋭と、シェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となった100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年春には中華民国に送る。 部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「」の名称で知られるようになる。 シェンノートらAVGのメンバーは「民間人」として、友好国イギリスののに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、英領ビルマのラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。 だが中華民国軍の事故の多さに悩まされた上に、最新鋭のをはじめとした最新の航空機に、練度が高い戦闘機乗りが多かった日本軍にフライングタイガースは苦戦を強いられ、その上に撃墜の多さによる出来高制の給与に、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。 独ソ戦と松岡外相更迭 [ ] 日ソ中立条約に署名する松岡外相とヨシフ・スターリン(1941年4月) 1941年4月からは東京とワシントンD. で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、近衛首相ら日本政府側はこれを歓迎した。 しかしドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月にを結んだばかりの松岡外相は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、松岡外相の強硬な反対で白紙に戻った。 さらに松岡外相は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだばかりの独ソ間が、わずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃したことでここに独ソ戦が開かれ、その望みを打ち砕いた。 松岡外相はドイツに合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたにおいて大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって暴走状態にあった松岡外相の更迭は、政権存続のための急務となっていた。 ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。 近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上でを発足させ、松岡はここで完全に外された。 しかし、松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は望んでいなかった。 松岡は「英米一体論」を強く批判し、イギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた。 日本軍の南部仏印進駐 [ ] サイゴン市内の日本軍 1941年 1941年6月25日ので「南方施策促進に関する件」が策定され、南部仏印への進駐が決まった()。 一方、7月には対ソ連の戦争()準備行動として関東軍特種演習を発動した。 その中でアメリカは日本に対する石油の輸出許可制をしいた。 その一方で、日本は本国がドイツ軍の占領下におかれ、ロンドンに置かれたの下にあるオランダ領東インドと石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後オランダ領東インドの供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は6月に交渉を打ち切った。 このせいで当時の日本では航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけた。 さらに7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し日米間の航路も遮断、同日日本は南部をアメリカに通告した。 アメリカは石油の輸出の全面禁止をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。 なお現在のとは違い当時の仏印では石油は掘れなかった。 日米関係悪化 [ ] 大西洋会談のルーズヴェルトとチャーチル(1941年8月9日) 8月1日にアメリカは、南部仏印進駐に対する制裁という名目のもと石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、亡命先のイギリスの圧力を受けたオランダ植民地政府は、対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。 中でも日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、石油輸出の全面禁止は深刻な問題であり、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。 これらの対日経済制裁の影響について、日本ではアメリカ America ・イギリス Britain ・中華民国 China ・オランダ Dutch による経済包囲が行われるとして「」と呼ぶ動きが広まった。 なおアメリカは、8月に大西洋憲章を締結したで、イギリス首相のチャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。 これをうけて9月3日にはで「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された。 その一方で、8月7日に近衛首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促をうけ、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した。 首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われたが(ルーズベルト大統領はチャーチル首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった。 しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「に行くのは無理だが、ではどうか」と返事をした。 東條軍事内閣成立 [ ] 成立(1941年10月18日) 陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「も事実上終わり」と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。 外交期限の迫った、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・、陸相・、企画院総裁・をに呼び「」を開き、対英米戦争への対応を協議した。 いわゆる「荻外荘会談」である。 そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性があるとする近衛首相と豊田外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條陸相の間で対立が見られた。 近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。 (すなわち)戦争に私は自信はない。 (戦争をやるなら指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、に政権を投げ出し、に内閣総辞職した。 近衞首相と東條陸相は、を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを懸念するらの運動で実現せず、東條陸相が次期首相となった。 この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」という木戸内大臣の強い期待があったが、その「期待」は、「軍人(=官僚)が選挙の洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という民主主義国家としてはあり得ないことが起き、その結果ますます止まらなくなった軍部の暴走と、さらに日本が近衛首相という「文民(政党)政権」から、東條陸相兼首相という「軍事政権」への切り替えが行われ、国家を「戦時体制」に舵を向けたと、当然ながらイギリスやアメリカ、フランスやオランダなどの民主主義国家に受け止められるという、2つの点を完全に無視していた。 ゾルゲ事件 [ ] 尾崎秀実 なお、このような中でのアメリカ共産党員の北林トモなどの逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕され。 その後ドイツの「」紙の記者をカバーとして、に在住していたドイツ人のなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。 その後10月18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、と妻のアンナ、の外国人容疑者や、その前後にやを検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「」が明らかになった。 ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。 尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。 その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることが出来たと言われる。 ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している。 さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲに付の私設情報官という地位まで与えていた大使や、東京支部、在日ドイツ人一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した。 またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲをするように対して強く求めていた。 しかし友邦ドイツの新聞記者という、万が一の時には外交的にも大問題となるケースに対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた。 間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。 なお一方のソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた。 ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。 死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。 ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。 南方作戦準備 [ ] 真珠湾に向けて海軍機を満載して航行する「」(手前)と「」(1941年11月28日) これを受け、早朝に「」、「」、「」、「」、「」などからなる日本海軍機動部隊のは、の(ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。 なおこれは、アメリカの出方により途中で引き返す可能性あることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。 なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。 また、太平洋航路のの航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にへ入港する予定だった。 だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦と共に龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。 しかし海軍部()は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。 ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。 なお日本郵船のロンドン線や線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化ですでに運休となっていた。 この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」と言った譲歩を求める内容もあった。 この文章はあくまでハルの出した「基礎提案(Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment 」と明確に書かれてあったが 、内容的には日本側の要望はすべて無視したものであったことから、日本側は事実上の「」と認識した。 そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否か、また実際に「最後通牒」か否かなど重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日ので日本政府は対英米蘭開戦を決定する。 マレー方面出撃 [ ] マレー半島の上空を飛行するイギリス軍機 1941年12月 そのような中で日本本土から比較的距離の近い対イギリスやオランダ植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日に三亜で作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・海軍中将は同地から出撃。 陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マレー半島とオランダ領東インドを目指して進撃を開始した。 ワシントンD. の日本大使館では暗号機を1機残して廃棄を命じ、館員が残存文書を焼却した。 この様に対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎と野村吉三郎の両大使にハルとの交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。 対英米開戦と宣戦布告遅延 [ ] と最後の会談に臨む大使と大使(1941年12月7日) 12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は外相に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。 東郷から駐米大使の宛に、により暗号化された「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。 この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。 「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。 これは現地時間12月6日正午頃(以下はすべてアメリカ東海岸現地時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。 14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。 14分割目は7日午前7時までに到着したと見られる。 九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にを利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。 しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意なのにより修正・清書され、その為に時間を浪費してしまう。 その上に館員の多くは6日夜には、へ赴任する館員の送別会にワシントンD. 市内の中華料理店に向かった。 「翔鶴」からハワイに向け発艦する(1941年12月7日) 12月7日の朝9時に大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。 14分割目も奥村により修正・清書され、そして現地時間午後2時20分にのと大使の野村吉三郎より、においてのに手交された。 しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。 そのためにその後アメリカ政府より、日本政府の宣戦布告の遅延が非難されることになる。 さらに12月6日夜にルーズベルト大統領はに対する親書を送ったものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは開戦直前で手遅れであった。 こうして日本はついに12月7日に、中華民国との戦いを続けながら、イギリス(オーストラリアやニュージーランド、英領マレーや同インドなども含む)、アメリカ、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。 なお本国はイギリスへ亡命)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線からアジア戦線へと全世界に戦争範囲が広がり、第二次世界大戦となる。 1941年 [ ] 日本軍と戦うイギリス軍インド師団(1941年12月8日) 1941年午前1時35分()、この時間に行われたとイギリス陸軍との戦い()により、アジア太平洋戦線における戦闘開始かつアジアにおける戦闘が第二次世界大戦へ発展した(一部の日本の左派メディアで伝えられる「真珠湾攻撃による日本軍のアメリカ軍への攻撃により太平洋戦争がはじまった」と言う内容は完全な間違いもしくはであり、イギリス軍に対するマレー作戦の方が約1時間半早かった)。 当初予期されたイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況をかんがみ、中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した。 7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた。 日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、、、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領北端のへ上陸作戦を開始した。 マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、イギリス陸軍の水際陣地に苦戦し日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。 9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。 また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功ししかも多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃した。 かねてからイギリス陸軍は国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。 兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。 さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスよりドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。 イギリス空軍については、開戦前に現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ空軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国は、本土防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手いっぱいであり、遠くマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けてシンガポールなどマレー半島への運搬に時間がかかったため、開戦当時のイギリス空軍の中心はブルースター・やなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。 さらに、日本軍に対する技術研究が不十分なイギリス空軍は「との戦争だ」と、人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたために、日本軍のや、などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。 また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要の攻撃を開始したほか、上海のを瞬く間に占領した。 日本軍による空からの奇襲に遭う真珠湾の基地」(1941年12月7日) 日本軍のイギリス軍に対するマレー半島上陸開始の約1時間半後、山本五十六大将指揮の元、6隻のから発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領、のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃()が行われた。 これは当時世界最大の空母機動部隊であった。 前日12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍の大将と中将にも届いた。 キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせると判断し、真珠湾に艦隊をそのまま在港させることとした。 また同日、により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。 パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。 しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。 しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、その「ワシントン時間午後1時」が、「ハワイ時間7時30分」であることを思いつく者はいなかった。 日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「」から攻撃を受けたが、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかったアメリカ海軍に対し、日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17など航空機328機破壊をはじめ2,400人以上の死者を出し、これに対しわずか29機の未帰還機で終えた。 その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ太平洋艦隊の部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという 作戦目的を達成した。 なお、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカが出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる。 なお、当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。 そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。 帰投する日本海軍機(1941年12月7日) しかし、ルーズベルト大統領以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイのアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。 さらに、ルーズベルト大統領は日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。 また、日本が日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたこと、さらに宣戦布告の遅延があったことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなったが、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであった。 なお、先に開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかったうえ、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃も完全に宣戦布告が行われなかったが、このように喧伝されることは無かった。 かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。 また、既に日本と()で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「」の項を参照)。 なお、や も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。 日本軍機の攻撃を受けるイギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」(1941年12月10日) 12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(と)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたの、当時最新鋭の戦艦と巡洋戦艦を一挙に撃沈した()。 これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。 なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。 また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した。 戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いて電信所爆撃へ向かう。 途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した。 この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。 コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲にイギリス軍は敗走を続けた。 ウェーク島で地上撃破されたアメリカ軍の戦闘機(1941年12月23日) 日本陸海軍機がアメリカの植民地ののアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるへ上陸。 さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。 なおグアムにおける戦闘は1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。 捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民あわせて650名であった。 12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。 これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。 なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、が閉鎖されたために来日し、やむなくに停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一員となり、これらイタリア極東艦隊は日本や満州国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送にも担当し大活躍した。 日本軍に降伏する香港のイギリス人(1941年12月28日) 12月8日に香港攻撃を開始した日本陸軍は、九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。 さらに12日から攻撃を開始した香港島は、イギリス軍は頑強に抵抗し日本軍にも多くの死者を出したものの、貯水池を占拠され25日に降伏。 日本陸軍は香港一帯を占領した()。 捕虜となったイギリス軍は11,000名。 内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。 日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了し、東南アジア戦線における日本軍の優位が完全に確定した。 しかし日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地と、同じくポルトガル植民地のには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった。 12月23日には同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も占領した。 この様な状況下で、日本海軍は12月末に10隻程度の潜水艦をアメリカ西海岸沿岸に展開し、をアメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸で展開し、商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れる距離で砲撃、撃沈し、住人を恐怖のどん底においた。 さらにはを中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、一斉にアメリカ西海岸沿岸のサンディエゴやモントレー、ユーレカやアストリアなど、アメリカ西海岸の複数の都市の軍事施設するという作戦計画があった。 しかし、「前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。 なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある。 1942年 [ ] クアラルンプールで市街戦を戦う日本軍(1942年1月) 東南アジア唯一の独立国だったは、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間にを締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年のからイギリス軍やアメリカ軍がなど都市部への攻撃を開始。 これを受けてタイ王国はにイギリスとアメリカに宣戦布告した。 1月に日本は、母国をドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命及び植民地政府とも開戦し、ボルネオ()島 、と などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。 なお1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、され、乗客乗員13名が死亡する事件がおきている。 なおこれは、同社によって2019年までで最大の死亡者が出た事故となっている。 「ロサンゼルスの戦い」を報じるロサンゼルスタイムズ紙 1942年2月 日本海軍は、2月に行われたでとアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。 この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。 2月8日に 、2月10日-11日にに上陸しこれを攻略した。 続くでは、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。 この様な中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「」が発生している。 日本軍は9日にセランゴールを占領、11日午前12時にの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した。 イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた。 に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点に迫り、2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールに対する攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった。 8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始。 11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた。 しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後に中将は中将に降伏した。 日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した。 日本の戦死1713名、戦傷3378名 に上った。 陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで占領下に置いた。 には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。 これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。 同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。 に、日本海軍が、アメリカ西海岸・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。 製油所の施設を破壊した。 これで対米戦においては、先に日本がすることとなり、アメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。 日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。 アメリカ政府および軍は本土への日本軍上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。 コレヒドール島にて日本軍に降伏するアメリカ軍(1942年5月) 翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行うという「」が発生した。 この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であり、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。 しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、の本格化に繋がったとも言われる。 また、まもなくに上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。 10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。 これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了した。 3月のでも日本海軍は圧勝した。 日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在の)首都(現在の)を占領。 連合国は連戦連敗により、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊はほぼ壊滅した。 日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はに進出し、空母搭載機がイギリス領 の、トリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した()。 イギリス艦隊は、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だった東岸のまで撤退した。 なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻であるは、その後8月に戦争開始後初の(第一次遣独潜水艦)としてドイツ へと派遣され、などを持ち帰った。 フィリピンの日本軍は、4月9日にを攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出した事件が発生している。 もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。 マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、にはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた。 5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官の姿はすでになかった。 3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。 日本海軍機の空襲を受けて炎上するダッチハーバーのアメリカ軍基地(1942年6月) 4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母から発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機による東京空襲()を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。 5月7日、8日のでは、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。 この海戦でアメリカ軍は大型空母を失ったが、日本軍も小型空母を失い、大型空母も損傷した。 この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。 陸路からのを目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。 海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋の攻略を決定する。 しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。 日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」()を構想した。 5月31日には、オーストラリアの港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍のが行われた。 伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。 2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。 これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。 また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。 なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。 イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖の島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、軍の支援を受けて占領した()。 これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10とを搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にを出撃し 、南アフリカの港のほか、北方の港、港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。 その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載したがディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された。 さらにマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日に陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手にとで戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果をあげている。 日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。 地上戦でのイギリス軍兵士の死者と一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。 サヴォイア・マルケッティ SM. 75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月) 日本海軍は、同年6月3日から行われたアリューシャン群島西部要地の攻略又は破壊を目的として行われたで、アメリカ軍ののへの「」「」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。 また6月6日には、アリューシャン群島のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する。 7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。 6月4日 - 6日にかけてのでは、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(、、、)を一挙に失った(アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻()を損失)。 加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。 この海戦後、日本海軍保有の正規空母は、のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。 6月20日には乙型潜水艦の「」が、のバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。 この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった 翌21日には「」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった()。 当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。 その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたが出撃している。 ハドソン攻撃機は伊25に対する爆撃を行ったものの、損傷を与えることはできなかった。 この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては以来、130年ぶりのものであった。 日本軍の攻撃を受け沈むアメリカ海軍の空母「ワスプ」。 これにより太平洋戦線での稼動空母が0となった(1942年9月) 6月には、イタリア軍の大型輸送機の「 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。 にからイタリアと離陸後戦争状態にあったを避けて、ドイツ占領下のの、北岸、の縁、を通過し上空、上空を経由し、に日本占領下の、に到着した。 しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。 その後東京へ向かいからまで滞在し、包頭を離陸してウクライナのを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。 しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。 また、事前に日本側が要請していた、陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。 しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアはにこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった。 なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残されたや民間人(企業の駐在員や関係者、、生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。 そのご1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回のが運航されることになった。 8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、のツラギ島およびに上陸、完成間近であった飛行場を占領した。 これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった()。 さらに同月に行われたでは、日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカとオーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。 9月9日と29日には、日本海軍の「伊二十五」の零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた()。 この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。 相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、マスコミに緘口令を敷き爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。 日本軍の空襲を受けるオーストラリアのダーウィン(1942年12月) その後、で日本海軍は空母を失い敗北したものの、10月に行われたでは、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母を撃沈、を大破、駆逐艦ポーターを撃沈するなど大勝した。 先立ってが大破、9月にを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動空母が0という危機的状況へ陥った。 日本海軍は以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。 その後11月に行われたで、日本海軍は戦艦2隻を失ったが、アメリカ軍とオーストラリア軍も2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失うなど大きな痛手を負い、さらに上記のように連合国の太平洋戦線での稼動空母が皆無という厳しい立場にあった。 日本軍の攻勢は各地でその後も続き、この年の2月より実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやなどのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、冬になってもその勢いはとどまらず行われ、同地のオーストラリア空軍並びに連合国の基地、政府の建物に大きな被害を出しており、最終的に日本軍によるオーストラリア空襲は1943年11月まで続いた。 またインド洋一帯から日本軍の勢いを恐れたイギリス海軍をほぼ完全に放逐するなど、その勢いは全く落ちてはいなかった。 1943年 [ ] 日本軍の魚雷を受け沈むアメリカ海軍の「シカゴ」(1943年1月) 昨年暮れより行われていた「」で、方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、日本軍が占領したビルマ南西部のアキャブ(現在の)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によりビルマ北部への進入作戦を試みた。 しかしイギリス軍インド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。 さらに日本側はイギリス軍の戦車、装甲車40両及び自動車73両の捕獲に成功した。 またこの年に入っても、オーストラリア北部に対する日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は優勢なまま継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈した他、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を挙げた。 1月29日に日本海軍はので、で打ち損ねたアメリカ海軍の重巡洋艦「」を撃沈するという大きな戦果を挙げたが、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退()した。 半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。 3月より「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。 と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。 を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった。 放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「」の愛称を付け 、その後太平洋のアメリカ軍兵士らに評判となった。 同様の放送「」も同年12月より行われた。 インド洋上の乗員とスバス・チャンドラ・ボース(1943年4月) 4月7日から15日に、日本軍はガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「」を行った。 この作戦は日本海軍のの自ら指揮し、自らはわずかな損失で、アメリカ軍やオーストラリア軍の駆逐艦やコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクを沈めるなど完全に勝利し、航空機による船舶への攻撃が有効的であることを証明した。 作戦の成功に満足した山本海軍大将 は、4月18日に「い号作戦」前線視察のため訪れていた上空でによるを受けた戦闘機の待ち伏せを受け、乗機のを撃墜され戦死した(詳細は「」を参照)。 しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。 なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。 この頃日本陸海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本陸海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。 またアメリカ軍は、日系アメリカ人二世や三世などをオーストラリアの連合国翻訳通訳局などで暗号の解読に従事させ、日本軍の暗号の解読や捕虜の尋問などに役立てた。 を行くイタリア海軍の「コマンダンテ・カッペリーニ」 前年にを指導者とする ()が昭南で設立された。 連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや昭南、香港などで捕虜になったのインド兵を中心に結成されていたが指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官 ()と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた。 前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。 国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースとともに行動していたインド独立連盟幹部のもボースを後継者として招へいすることを進言した。 しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。 その結果、空路よりはでの移動のほうが安全であると結論が出て、に、チャンドラ・ボースと側近 ()の乗り込んだのは岸のを出航した。 4月26日に、アフリカのマダガスカル島東南沖 でU180とのが会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ。 、潜水艦は北端に位置し海軍特別根拠地隊指揮下のサバン島(ウエ島)サバン港に到着した。 5月には北太平洋のにアメリカ軍が上陸。 アメリカ領を初奪還すべく強力な陸海軍で及んだアメリカ軍に対し、戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し()、で初めて「」という言葉が用いられた。 しかしアメリカ軍はこれ以上の南下をすると日本軍の強力な反撃が予想されるため、南下はしなかった。 前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、5月に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてのみならず、内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。 のみならずオーストラリアやイギリス、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を決定的に弱体化させる結果となった。 における日本軍の攻撃で大破したアメリカ海軍の「セルフリッジ(左)」と「オバノン」(1943年10月) これ以前から昭南や、におかれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦やがインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「」や「レジナルド・ジュリアーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。 またイタリア海軍は、日本が占領下に置いた昭南に潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。 8月には「」もこれに加わった。 しかし昭南到着直後のにイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻はのドイツ降伏後は日本海軍に接収され、となった )。 なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国(サロ政権)成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。 なおイタリアの降伏後には、のイタリア極東艦隊の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、海兵隊「サン・マルコ」との間で小規模な戦闘の後に降伏した。 この後多くのイタリア極東艦隊の将兵はサロ政権側について以降も日本軍と行動を共にするものの、サロ政権につかなかったものは日本に送られ、名古屋の収容所に入れられた。 なお天津のイタリア租界はの管理下に置かれた。 南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月ので日本海軍はアメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を撃破したほか、10月に沖で行われたでも駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破しアメリカ海軍に完勝する。 なおベラ湾夜戦では後のアメリカ大統領のがアメリカ海軍の魚雷艇(PT-109)に乗船中、日本海軍の吹雪型駆逐艦に8月2日未明と遭遇し、衝突して真っ二つにされてしまう 、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された。 2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後 、一週間後に救助された。 空襲下のラバウル島シンプソン湾(1943年11月) でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から10月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるは孤立化し始める。 しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。 一方連合軍が劣勢のままのビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、新たに10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始したが、これは小規模なもので日中両国に大きな影響を与えることはなかった。 11月に日本の首相は、満洲国、、フィリピン、、、などの首脳を東京に集めてを開き、の結束を誇示する。 なおこれに先立つ10月には、先にドイツから潜水艦で到着後インド独立連盟を引き継ぎ、イギリスからの独立運動を昭南を中心に行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となったが設立され、ボースは同時に英領マラヤ、昭南や香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。 一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、同月にはのマキン島、の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。 また同月から12月にブーゲンビル島で行われた一連の戦い(、、)では日本軍は敗北したに見えたが、ブーゲンビル島を巡る戦いは均衡したまま1945年8月の終戦まで続いた。 また11月には、去年の2月から連続して行われた日本軍のオーストラリア空襲が終わりを告げるなど、ようやく態勢を立て直したイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、戦線を伸ばしすぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は開戦後2年を経てついに後退を余儀なくされていく。 1944年 [ ] を進軍する日本軍の機甲部隊(1944年5月) 方面では日本陸軍とが共同で、イギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。 3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留するの主要拠点であるの攻略を目指したとそれを支援するが開始された。 昭南からスバス・チャンドラ・ボース率いるまで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。 しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。 同作戦の失敗により翌年、将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。 しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦が開始され、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢が開始された()。 作戦自体は京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が1943年末から開始され、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通するなど、周到な準備が行われ、またの中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。 これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったと言われる。 によるとほとんど一揆のような状態だったという。 12月まで中華民国軍とアメリカ軍を相手に続くが、計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、その後連合国軍が航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた上、結果的に日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。 なおルーズベルトは開戦以来一貫して中華民国のを強く信頼しかつ支持しており、の際に、蒋介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蒋介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。 実際、これ以降蒋介石が連合国の重要会議(「」と「」)に招かれる事はなくなった。 緒戦の予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である「」を設けた。 の閣僚(1944年7月22日) 5月17日には、イギリス海軍とアメリカ海軍との合同機動部隊による、ジャワ島スラバヤの日本軍基地に対する航空攻撃「」が行われ、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。 これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。 6月に、早くも絶対国防圏の最重要地点にアメリカ軍が来襲する。 日本海軍はこれに反撃し、が起きる。 ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。 航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。 旗艦以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。 これらの島では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊が、、に次々に上陸。 、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。 多くの非戦闘員が死亡した。 しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のではそれらを中心とした艦隊が編成される。 戦況悪化と共に憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。 サイパン島が陥落した7月には兼軍需次官(開戦時は)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。 これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。 ところが、岸信介は東條配下のの脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。 さらに、近衛文麿元首相の秘書官の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の黙認の暗殺計画もあったと言われている。 しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、7月22日に東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。 陸軍大将と海軍大臣を首班とする内閣が発足した。 しかしながら、憲兵隊を配下にもち陸軍最大の権力者でもある東條英機が内閣総辞職をして、次の内閣の背後に回ったため、その後の内閣も大東亜戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸信介がなかば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら大っぴらには検討しにくいという状態が続く。 沈みつつある戦艦武蔵(駆逐艦から撮影(1944年10月) 続くにはかつてアメリカから奪取したとが連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。 この結果、日本の北部とを除く、ほぼ全土がアメリカ空軍の最新鋭爆撃機であるボーイングB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。 この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったボーイングB-29が東京の製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。 太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きかった。 しかし日本軍もサイパン島から撤退したが、サイパン島にあるアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け、被害を出し続けた。 アメリカやイギリスのような10,000メートル上空を飛ぶ大型の開発と、それを打ち落とすことのできる高度攻撃機の開発に遅れていた日本は、当時日本の研究員だけが発見していたを利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆるを開発。 アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。 予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害は市民数名の死亡、数か所に山火事を起こす程度であった。 また日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「」で、当時アメリカ管理下のを、搭載機の水上攻撃機「」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。 さらに日本は大量生産設備が整っておらず、その生産力はイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。 また本土の地下資源も少なく、石油やなどの物資のみならず、やなどをほぼ外地や勢力圏からの輸入に頼っていた。 それさえも1944年末頃には、連合軍による通商破壊戦で外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。 また、この事による日本本土の生活への衝撃は大きく、これ迄はレストランや旅館、ホテルなどは大幅な配給をうけて成り立っていたものの、これ以降はこれらに対する配給も制限されていくことになる。 部下を従えてレイテ島に上陸するマッカーサー ビルマ戦線がイギリス軍とアメリカ軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には沖縄にが行われ、続いてアメリカ軍とオーストラリア軍はフィリピンのへの進攻を開始した。 日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、が起きる。 日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、アメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦、を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。 この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。 この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い組織的な作戦能力を喪失した。 また、この戦いにおいて初めてが組織され、アメリカ軍海軍の撃沈などの戦果を上げている。 アメリカ陸軍は日本陸軍が占領していたフィリピンのレイテ島へ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。 戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、やなど、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ陸軍に対し、物質的に乏しい日本陸軍は敗走した。 なお、1942年に、違反などで死刑の判決を受けたソ連のスパイのリヒアルト・ゾルゲが、この年の11月7日のロシア革命記念日ににて死刑が執行された。 1945年 [ ] 明号作戦で日本軍に降伏するフランス軍(1945年3月) 1月にはアメリカ軍はに上陸した。 2月には、首都を奪回した。 日本は南方の要所であるフィリピンを失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源輸送の安全確保はより困難となった。 マニラの戦いでは、日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれたドイツ人神父など数十人、スペイン人200人以上、スイス人10名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。 アメリカ軍による被害も多かったにもかかわらず、「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にスペインは日本と断交した。 フィリピンが陥落したことで、硫黄島や沖縄など日本の領土が次の目標になったことで、ついに日本でも終戦工作が本格化する。 松岡元外相は旧友であり終戦工作に奔走していたから、和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。 また吉田は、や近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事()し、を近衛に引き合わせ後のにつながる終戦策を検討。 しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって2月の近衛上奏に協力したことが露見し、憲兵隊に拘束される。 なお日本陸軍は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放によるヴィシー政権崩壊と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、フランス領インドシナに駐屯していた日本軍は、「」を発動して戦闘を開始。 連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府及び駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はインドシナを独立させた。 空襲を受ける東京市街(1945年5月) この頃においても中華民国との大陸打通作戦において優勢にあったインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、またかなりの戦力を維持していたのでイギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行わなかったため、マレー半島や昭南、ジャワなどの占領地などとともにこのまま終戦までの間大きな戦闘もなく終わる。 2月から3月後半にかけてが行われた。 島を要塞化した日本軍守備隊とアメリカ海兵隊との間で大東亜戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者は日本軍を上回った)を出した。 末に、は陥落した。 これ以降アメリカ軍は死傷者を多く出すことに慎重になり、イギリス軍やオーストラリア軍を前面に出すことになる。 前年末から、アメリカ陸軍航空隊の爆撃機による小規模なが行われていたが、この年に入り本格化していた。 またそれまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間で攻撃が行われるようになった未明、これまで本格的な空襲を受けなかった東京の市街地を狙ったによって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。 その後も東京は、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回大規模な空襲に見舞われた。 低高度による爆撃に切り替えたことでアメリカ軍機の高射砲などによる被撃墜数は増加したものの、アメリカ軍は占領した硫黄島を、ボーイングB-29護衛のノースアメリカンやF6F戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。 この結果、護衛がついたB-29迎撃は困難となった。 これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000m のと連動した高射指揮装置つき防空陣地を築きB-29の撃墜に成功したとも言われるほか、新型迎撃機の開発を急ぎ、ジェット機「」を開発し敗戦直前の8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。 3月26日に沖縄のにアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日にに上陸してが勃発、凄惨な地上戦となる。 沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。 残るはわずかな戦艦と十数の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。 ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。 連合軍の艦艇に対するによる攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。 日本軍は貨物機やさえ動員して必死の反撃を行うが、少数ながらも戦果は大きく、3月26日の1日で駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「」と駆逐艦2隻を損傷させている。 その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊のが、中将率いるの重巡「」に命中、大破・航行不能にさせている。 また、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていき、さらに戦艦などによるや、空母機動部隊による日本沿岸のによる空襲、を頻繫に行った。 しかしこれ対する日本軍の反撃により連合国の爆撃機や艦載機の被撃墜数も比例して急増し、多い日は1日で日本上空で数十機が撃墜され、その分連合軍の死者や捕虜が出る状況になった。 沖縄への連合国軍の上陸を許すなど、戦況悪化の責任をとり4月7日に辞職したの後継に、をやらは首相に推したが 、先にサイパンを失った責任を取り首相を辞任した東條は、「陸軍が本土防衛の主体である」との理由でのを推薦し 、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。 これに対して岡田が「のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。 陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條を窘め 、東條は反論できずに黙ってしまった。 こうして鈴木を後継首班にすることが決定された。 鈴木の就任後、アメリカ大統領が亡くなり訃報を知ると、の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。 同じ頃、アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた。 アメリカに亡命していたドイツ人作家が鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。 鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた。 を占領したソ連軍 1945年9月 5月に入ると連合国による空襲は激しさを増し、東京や横浜、大阪などへ再び空襲が行われたほか、これまでは空襲を受けてこなかった百万都市の他、、、、、、、、、、、など、全国の中小各都市も終戦に至るまで空襲や機銃掃射にさらされることになる。 また、日本の領土であるものの、沖縄よりも本土に遠い台湾は、この頃よりアメリカ軍やイギリス軍の空襲や艦砲射撃に度々合うようになった。 また同じく外地の朝鮮は、北部こそ連合軍の空襲に遭うことがあったものの、やなどの中心都市はほぼ無傷であった。 また満洲国は南方戦線から遠く、によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のアメリカ軍のボーイングB-29の空襲を受け始めた。 同じく日本軍の勢力下にあったでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、の一部が日本軍に対し決起。 3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者はビルマ国民軍をに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。 同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。 にドイツが連合国に降伏。 枢軸国で残るは日本とだけとなり、その日本はを根拠に中立を保つソ連を頼るしかなかった。 しかしこれに先立つ2月、の密約、ヤルタ協約で、ドイツを破った後のソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。 次いで7月17日からドイツの郊外ので、英米ソによる首脳会談が行われた。 同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するが発表された(イギリスはこの日に総選挙が行われに首相が変わった)。 またこれに先立つ6月には、疎開先だった箱根ので大使は元首相の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行ったが当然ながらいい返事はもらえず、その上で鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連によるより一層の和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。 このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や投下、ソ連の参戦のみならず、日本軍や連合軍の兵士だけでなく大都市から中規模都市に爆撃目標が移った日本の一般市民にもさらなる惨禍をもたらすことになった。 地上戦となった沖縄戦は、日本の軍民総動員による持久戦で連合軍を苦しめたが、に第32軍司令官中将が自決し沖縄は陥落する。 しかしその後も日本軍が反撃するも、アメリカ軍はに沖縄作戦終了を宣告したが、日本軍によるゲリラ戦は7月後半まで続いた。 18万8136人が死亡し、うち一般住民は3万8千人に上った。 沖縄での日本軍の持久戦の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦()を無期限中止せざるを得なくなる。 またアメリカ、イギリスやオーストラリアを中心とした連合軍による、地方上陸作戦「」、その後地方への上陸作戦(「」)も計画されたが、沖縄戦の日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、最終的に計画は実行されなかった。 アメリカの大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から史上初の原子爆弾の使用を決定。 に、次いでにが行われ、投下直後には十数万人もの犠牲者が出た。 なお、当時日本でも独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのには及ばなかった。 原子爆弾を2発落とされても、まだ日本政府と軍は本土決戦に運命を託すと同時に、ソ連との中立条約の維持を唯一の根拠にした和平交渉にかすかな望みの綱をおいていた。 しかしソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(4月まで)有効のを一方的に破棄、、し翌9日、へ侵攻を開始した()。 これはソ連との中立条約の維持を唯一の根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の綱が切れた瞬間であった。 この日以降日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく。 当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、市民含む地上戦が行われ必死に反撃を行うも総崩れとなった。 降伏決定が報道された以降も、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に問題として残ることとなった。 また、ソ連参戦とその後のソ連軍の日本の降伏後の違法戦闘で、と満洲などは民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。 ここでも日本の軍民総動員による持久戦でソ連軍を苦しめたが、地上戦の結果、南樺太と、満洲、朝鮮北部などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜として不当にへ抑留された()。 捕虜となった日本軍兵士はその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、5万人を超える死者を出した。 さらに満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人の民間人は、流刑囚から多く結成された無教養なソ連軍、日本を見限ったあるいはソ連兵に加担した多くの朝鮮人によって、殺害・略奪・暴行された。 日本軍部指導層の一部が降伏を回避しようとしたため、のでの議論は混乱した。 しかし同盟国のドイツはすでになく、イギリスとアメリカ、オーストラリアなどの連合軍は本土に迫っており、さらに頼みの綱であった元中立国のソ連も日本領土へ迫っており、上陸さえ時間の問題であった。 ここで鈴木首相がに発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は降伏へと収束した。 日本政府は降伏を決定した事実を、10日の午後8時に海外向けの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送した。 その後も日本政府内、特に鈴木首相らと陸相ら陸海軍の上層部内で意見が紛糾し、ポツダム宣言受諾の意思を明確にしなかったために、日本政府の態度を懐疑的に見た連合国との戦闘や爆撃は継続された。 その4日後の、政府が同宣言受諾の意思を連合国へ直接通告、翌正午の昭和天皇によるをもって改めてポツダム宣言受諾を国民へ表明し、戦闘行為は停止された()。 公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県に飛来したが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。 なお、同作戦でがとの戦闘で撃墜され、少尉が無事パラシュート降下し捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した()。 なおソ連軍による日本侵攻作戦は、の日本との降伏文調印をも無視して継続された。 結局ソ連軍はのみならず、日本領土の南、、、、、、北部の全域を完全に支配下に置いたになってようやく、一方的で違法な戦闘攻撃を終了した。 停戦後 [ ] 中央博物館収蔵の九九襲ないし九九軍偵 敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたの奪還をもくろんで8月15日未明、などを襲撃する事件()を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。 また玉音放送後、の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊、さらに地方でもを起こすなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。 なお17日には総辞職した。 同じ17日に日本本土を偵察に来たを、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。 同じような英米仏蘭とのトラブルはこれ以降おこらなかった。 また、8月15日朝の玉音放送前に自決した陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と11機23名(うち5人が生還)とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った中将、ので切腹した少佐など、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って皇居前や代々木練兵場、基地などで自ら命を絶った軍人や民間人は数百人に渡った。 なおこの時点においても、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と、、台湾、朝鮮半島などの元来の領土の他に、中華民国の上海などの沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモールなどの北東アジアから東南アジア、ラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満州国などの友好国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き上げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。 8月16日、連合軍は中立国を通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。 これを受けて19日には、日本政府側の停戦全権委員が2機のの塗装をしたでからに飛行し、そこからでマニラへと向かい、マニラ・ホテルで少将らなどと停戦及び全権移譲の会談をするなど、イギリス軍やアメリカ軍、フランス軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。 しかし、これらを受け入れずインドネシアやビルマなどで勃発した独立戦争に協力するものや、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの()や、のちに中国共産党のに編入されたものも多かった。 さらには、で残留兵として戦い続けた少尉の様に、まで終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたものもいた。 また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(やなど)や戦車、銃器などがそのまま利用されるケースも多かった。 艦上にてに署名する外務大臣 1945年9月2日 なお日本と同盟下にあったタイは、8月16日に日本側の内諾を得た上で宣戦布告の無効宣言を発し、連合国側と独自に講和した。 また、日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し、に退位した皇帝のら満洲国首脳は日本への亡命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。 また、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。 8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受けるが発生した。 の、は8月末、占領は9月上旬になってからであった。 8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のからなるアメリカ軍の先遣部隊がに到着。 同基地を占領した。 また、同日大森の英米軍の捕虜収容所にアメリカ海軍の軽巡洋艦サンファンから上陸用舟艇が寄こされ、病院船ビネボレンスに怪我人などを収容していった。 、内停泊のアメリカ海軍戦艦艦上において、イギリス、オーストラリア、アメリカ、中華民国、カナダ、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席、さらには8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。 ここに日本政府全権、全権参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。 なお連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し 、のちに東京裁判などで裁かれた。 また中華民国や香港、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた軍人はそれぞれの現地で捕虜となり、その後戦犯として裁判に掛るものが多かった。 さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。 また民間人や軍属なども帰国の途に就いたが、台湾や朝鮮、マレーやインドシナなどからは比較的順調に行ったものの、中華民国や満州国からの帰国は混乱が多く、など戦後の混乱でやむなく置いておかれるものも多かった。 戦争状態の終結と講和 [ ] ドイツを除く欧州枢軸国 [ ] 「」も参照 旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は2月10日、パリにおいて個別に行われた()。 これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している。 パリ条約の締結後、占領は解除される予定であったが、ハンガリーとルーマニアにおいてはオーストリアとの連絡路を確保するという名目でソ連軍による駐留が継続され、共産主義政権成立につながっていくことになる。 イタリア [ ] イタリアは戦時中に共同参戦国として連合国と共に戦った経緯もあり、イタリア王国政府が存続を認められた上に、政権が自ら戦犯を裁き処罰する権利を与えられており、1946年までに戦犯裁判は終了している。 ドイツ [ ] 「」も参照 ドイツにおいては中央政府の不在がで宣言され、東西二つのドイツ政府が誕生したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。 1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツ()との戦争状態終結を宣言した。 1955年にはソ連がドイツ(・東ドイツ)との戦争状態終結を宣言し、西ドイツからは占領軍が撤退し、東ドイツも占領状態が解除されたものの、が駐留を続けている。 またに関してはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国軍が駐留を継続している。

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