ロマンチックラブイデオロギー。 ロマンティック・ラブ・イデオロギーは性の二重基準を含むというこ...

恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容 (青弓社ライブラリー)

ロマンチックラブイデオロギー

その説明では、私もちょっとわかりませんねえ。 「性の二重基準(ダブル・スタンダード)」という用語は、基本的には男性と女性に平等性を欠いている状況を指していうわけです。 一方、ロマンティック・ラブ・イデオロギーとは、ごくおおざっぱにいえば、家柄や階級ではなく人格による結びつきを尊重するというような考え方であって、別に、その基盤となっている社会そのものの二重規範を解消するものでないのは当然です。 「ロマンティック・ラブ・イデオロギーだけでは性の二重基準を打破できない」ということならわかるんですが、そもそも最初っからそのためのものではないわけで…。 なにかそういう方面での期待をかけていたのであれば、それは「ロマンティック・ラブ」をロマンティックに考え過ぎなんじゃないですかねw 恋愛が、家族や階級その他の帰属集団の問題ではなく、あくまで個人的な問題として意識されるようになった場合に改めて、それまで社会構造全体、つまりは性差別以外の差別構造によって隠蔽されていた性差別(ダブル・スタンダード)が明瞭化する、あるいは切り離されて独立のものとして立ち現れる、ということはあるでしょう。 あるいは差別の内面化の問題の方に重点があるのかな。 なんにせよ、そのへんのことを未整理なまま「説明」してしまったんじゃないですかね。 少なくとも、例えば交差いとこ婚や階級婚やレビラト婚などにダブル・スタンダードが存在しないわけはないので、ロマンティックラブだけに性の二重基準が存在するわけではありません。 * * * ええと、ryujyuhokekyoさんとmotorcycle1129さんの回答を読んで少し困惑しているんですが、質問には「授業で説明された」とあります。 現在、たぶん大学だとは思いますが、フェミニズムを含む現代思想の講義であれ、文化人類学的な方面の講義であれ、はたまた差別問題について考えるための社会啓蒙的な講義であれ、「性の二重基準」というものを「自由と制度のダブル・スタンダード」もしくは「自由と義務のダブル・スタンダード」を指す用語として使うということは一般的なんですか? それはあまりに先鋭的というか、途中の段階をすっとばし過ぎだということはともかく、仮にそうなのだとしても、それは「性の」ではなく「恋愛の」もしくは「婚姻の二重基準」として、一般的にいわれる男性・女性のダブル・スタンダードとは区別されるべきでしょう。 そうでないと、単なる「個人と社会」とか「自由と規範」といった一般的かつ実効性のない概念になってしまうし、「問題」として取り組みようがなくなってしまうじゃないですか。 私自身は回答の前に、ひょっとして講師はヘテロノーマティビティのことを「性の二重基準(異性愛と同性愛のダブル・スタンダード)」として捉え、ロマンティック・ラブ・イデオロギーがヘテロセクシズムを含んでいるという指摘をしてるのか、という可能性を考えたぐらいですが、それでも「自由と制度の二重基準」よりはマシというか具体性があると思いますが…。 ryujyuhokekyoさんの回答の内容が間違っているというわけではありません。 それはその通りだと思いますが、しかしそれを「授業」において「ロマンティック・ラブ・イデオロギーは性の二重基準を含む」という表現に集約するのは問題があると思いませんか。 それは「二重基準」ではなく「自由の限界」の方のハナシに近い。 ロマンティック・ラブ・イデオロギーでは恋愛と性と結婚を三位一体のものとしてとらえます。 現代から見れば当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、それ以前の時代の価値観では結婚と恋愛は必ずしも一致するものではありませんでした。 好きな相手と結婚できるのは非常に稀なケースだったことを思えば、恋愛と性と結婚とをひとつながりとする考え方は大きな価値の転換と呼べるもので、それは近代家族という新たなモデルを生み出すことになります。 要するに女性を男性の従属物として愛のない結婚から解放し、個々人の自由意思により相手を選び、個人的な感情から恋愛に至るのがロマンティック・ラブ・イデオロギーという新たな概念なわけですが、恋愛が結婚へとつながって然るべきと考える時、結婚を前提としない性や恋愛は否定されることになります。 それは結婚までの純潔の要求ともなり、それは前時代の影響や、当時の女性観などから、特に女性に強く求められた。 それはおそらく今でもそうですよね。 婚前交渉については女性よりも男性の方が寛大にみられる風潮は依然あるといえるんじゃないかと。 性の二重基準は純潔にとどまらず、告白するのは男性と相場が決まっていたりもします。 男性は奢り、女性は奢られ、男性が家族を養い、女性は料理を作り、家庭を守る、といったジェンダーの役割に固着したイメージがロマンティック・ラブ・イデオロギーにおいても支配的である、とジェンダー問題の研究者は指摘していて、おそらく質問者さんが授業で聞いたのは、そこらあたりの説明だったんじゃないかと思います。 我々は自分の意志で告白したりされたり、奢ったり奢られたりしているように見えて、その実、女性だから告白されたい、男性だから奢りたいというジェンダー的な役割要請に支配されている、それが性の二重基準だというフェミニズム的な指摘ということになるんじゃないかと思います。 歴史的に言えば日本もかっては「お見合い結婚」が圧倒的多数でした。 家柄や経済力のバランスを第三者が吟味して引き合わせる訳であり、そこには多くに社会的な要素が介在しておりました。 これに対して高度成長期の頃から恋愛結婚が多くなり始め今は完全にこちらの方が主流です。 ロマンチックラブ・イデオロギーというのは恋愛とイデオロギーという一見無関係と思えるものをくっ付けた、ミスマッチ故の面白い言説だと感じます。 つまり音楽を聴けばラブソングばかり、映画には恋愛は付き物で、クリスマスイブの夜に一人で歩くのは惨めったらしいということですよね。 まあ、誰とでも自由に恋愛して結婚できるということは素晴らしいことですが、自由があれば責任があるのもまた人生です。 だから私は自由から責任への変容をダブル・スタンダードと言うよりも時間の経過において人として当然、守るべき基準であると考えます。 恋愛の自由をいつまでも享受することは出来ません。 それは一時の輝きであり、そう何度も味わうべきものではありません。 制度と言われようが何と言われよと家庭が子供を育てる最小単位であることは普遍です。 家庭がそこから逸脱すれば必ず社会は乱れます。 もちろんもっと踏み込むべき論点はあるが、それを性のダブル・スタンダードと言い切って良いものかは大いに疑問があります。 ロマンチック・ラブ・イデオロギーの二重基準は「自由」と「制度」です。 ロマンチク・ラブと聞くと、身分や家柄にとらわれない恋愛至上主義のように感じます。 実際、既存のしがらみにとらわれず恋愛感情を重視するので、そのような仕組みがあることは確かです。 そこでは人は「自由」恋愛を享受していると考えています。 しかし、ロマンチック・ラブは何ものにもしばられない「自由」とは違います。 旧「制度」からは解放されたかもしれませんが、ロマンチック・ラブがイデオロギーになる頃には、新たな「制度」の中に組み込まれています。 具体的には近代社会の家族制度です。 旧制度では恋愛感情を紐帯とした家族ではなく、血筋や家柄を紐帯としていました。 夫婦が愛し合っているかどうかは、それほど問題ではなく血筋を継続することのほうが重要視されます。 それが近代にはいると、家族の紐帯の象徴は夫婦間の恋愛感情になります。 ここでは夫婦が愛し合っているかどうかが問題で、愛のない夫婦が離婚することは一般的です。 このように人々はロマンチック・ラブにおいて「自由」を感じていますが、実際には恋愛感情を抱くことで「制度」に組み込まれていきます。 そして「制度」に組み込まれたロマンチック・ラブは政治的イデオロギーとなります。 簡単に言うと、国家にとって、国民が恋愛してくれた方が都合がいいのです。 恋愛して、結婚して、家族を形成し子どもを産む。 家族を構成する国民は、国家にとって管理しやすい存在です。 なぜなら家族を維持する者は、積極的に社会参加するからです。 労働し、納税し、子どもに教育を与え、地域活動をする。 逆に、恋愛もせず、家族を構成しない者は国家にとって管理しにくい存在です。 家族を構成しない者の大半は、労働もするし、納税も、その他のことも行います。 しかし、パートナーや子どもがいない者は、自らの行為の最終的な決定を自己本位で行うので選択の幅が良くも悪くも広いので、それだけ不確定要素が多くなります。 そう考えるとロマンチック・ラブは「自由」な恋愛の「義務」のようなものです。 「自由」なのか「義務」なのかどっちなのか分からないダブルスタンダードに陥ることになります。

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ロマンティック・ラブに悩む日本 変貌する恋愛観とは

ロマンチックラブイデオロギー

ロマンチックラブ解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる 1 あなたにキラキラはありますか? 1 の続きです。 ちなみに、最近僕の中でもっとも典型的な、ロマンティックラブをベースにを形成しながら、それがとっても板についている理想の夫婦像のモデルは、 ファレル&・フォード夫妻。 作者のさんが、ちゃんと「騎士道というものの本質」をわかっているので、の理想の騎士っぷりには、いつも脱帽します。 また 少女マンガではなかなか見ることのできない、恋愛で結ばれて、その後の夫婦生活と子供が育ってからの家庭における「夫婦の愛」や「あり方」までが一貫して描かれているところに、このルの良さというか、なかなか興味深いところがあります。 あとで言及しますが、 少女マンガの問題点は、恋愛の始まりから性愛までは描けるのですが、その後の「その恋愛のキラキラ感をベースにどのようにてゆき子育てをする過程が継続されるか?」が、スポット抜けている点にあります。 要は、恋愛の「はじまり」だけ強調して、終わりや途中における困難を無視しているのが、僕にはとても不満でした。 ちなみに、そういう中で、この21巻のドラマCDの付属として、エカリープにおけるとファレルのショートストーリーがあるのですが、このエピソードが、ああ、中年の夫婦におけるキラキラ感を持つためにどういうものが必要かを、凄くよくぁわかっているなーと感心しました。 この漫画って、たしか、ろきさんが新年会で見せてくれたやつだー。 良くて買ってしまったよ。。。。 えっとね、が、ファレル(奥さん)にドレスを贈るんだけど、それってで必要なものだからと言われてファレルは自分で買うようになってたんだよね。 そんで王城ので「男がドレスを女性におくるのは脱がせたい下心があるからだ」というのを聞いて、「笑えるねー」とに言うんですよね。 すると、は、不機嫌になって 「奥さんに下心があって悪いのか!」 と、むっつりするんですよね。 これねぇ、、、女性から見たら、旦那さんかわいいと思うだろうなー(笑)って思うんですよ。 僕は時々、思い出したように奥さん花を買って帰るんですが、「食べ物の方がいい!」とすぐ却下されるんですが(苦笑)、このの気持ちはよくわかるんですよ。 いくつになっても、結婚しても、にとってファレルは「かわいい自分の大好きな女の子」なんですよ。 これって、僕がいう キラキラ感ってやつなんですけど、女性に対してこの感覚が生きていると、時々見ているのもまぶしくなるように、なんてかわいいんだぁ、、、と胸がキューーっとなるんですよね。 これって、いま、、、僕は40歳近いですが、奥さんももう子どもも二人もいるしちょっと年下なだけなので、要は中年なんですが、いまだ、少女マンガでどっきーんんと胸が高鳴るような、なんか、背景にキラキラした感じの強調がかかる感じの(笑)あれが発生するんですよねー。 つまりは、 全然そんなやつはいない!。 もっといえば、構造的にそういう風には慣れない関係性の仕組みがあるの、日本には。 日本社会の夫婦モデルってこのパターンは、どうもほとんどありえないみたい。 特殊な芸術家のルや、子供がいないルとか、あと浮世離れしている大金持ちとかそういうケースでは、まれにあるんだけれども、、、芸術家って、たとえば、ジョンレノンとオノヨーコを思い出してみればいいですが、ああいう感じです。 そういう特殊例外例は、いくつか見ているんですが、からそれ以下では、要は社会の過半では、それはほとんど無理と僕は思っています。 みたことねーもん。 まぁ、僕の世界がそういう人がいない世代なのか、若い世代になると変わるのかは、わかりませんが、、、、少なくとも、やJrぐらいの1940-1980年代までの生まれの層では、少ないですね。 ようは30代の真ん中までぐらいだと、ほとんどそういうのは無理みたい。 すぐ、お父さん、お母さんになって、に陥る。 どうも、こういうのような、騎士道のモデルのように女性に対して、一対一の姿勢の愛を貫くケース、それも年齢を経ても、というのは、なかなか日本社会の家族では難しいようなのですね。 日本では、絶対性があまりモデルとして意識されていないし、宗教の下地もないので、 夫婦というロマンチックラブで形成されたが、家共同体に転化してしまうんですね。 これは、人類の基本みたいなもんですが、西洋近代社会では、この本能的なものに逆らう宗教、社会的な基盤がそれなりにあるのだろうと思います。 ちなみに何度も言いますが、西洋社会の方が優れているとか、だから倫理的にいいモノだなんて、話は一切していないですからね。 そこ勘違いしないでね。 よくいるんだ、この話を、だから西洋は偉い!的な、ゴミなレベルに理解する人が。。。 そういうことは云っていません。 カ社会の60年代以降の離婚率の上昇や家庭の崩壊など、こういうロマンチックラブによる形成の歴史的基盤はあっても、それが、解体しないかというのは別の話。 女性の権利拡張と経済的自立やの形成、の浸透によって、のような最小単位のものでも、共同体が破壊され崩壊していくのは、近代都市社会の分業をベースにする個への分断という意味では、どれも同じなのです。 が、その 「現れ方が歴史的社会的条件で違う」と言っているだけなので。 西洋にしても東洋にしても(なんという大雑把な区分けか!)、どっちにせよ、資本制が浸透して近代成熟社会になっていけば、同じ機能的なるものに支配されていくと思うのです。 資本制社会が人類のほぼ共通のフォーマットになりつつあり、それ以外のティヴ選択肢は、どうもいまのところ見えないんだから、そう考えてもいいんじゃないかなーと思います。 まぁ、少なくとも、 僕が生きている間には、それを以外の社会が、が出現することはなさそうです。 ・・・ほんとはネットの世界には、が形成される可能性は高いので、、、、ってその話はまた今度。 まぁちなみに、そういうですが、外に子供説(笑)が作中で大いに盛り上がっていますが、基本的には、その程度のことではゆらがないんですよね、この二人の愛は。 それは、酸いも甘いを噛み分けている長年の夫婦の歴史と相互理解と、あの年齢(も50台近い?)になってもお互いへのキラキラ感(=愛の唯一性を重視する絶対性)が維持されていることを考えると、そんな軽いことでは揺らぎません。 揺らぐように見えないもん。 話がずれた、、、また盛大に、、、話。 を戻すと、、、、とはいえ、僕は、1970年代に生まれた、日本社会が世界の最先進国、ストックでまわる豊かな成熟都市社会に育った子供です。 いろいろ問題はあるし、未来もそんなに明るいものではないとはいえ、それだけの成熟社会でが行きついて、ロマンチックラブに支えられたが完全に成立した、言い換えれば、古き形の村共同体や伝統的な大家族や一族が解体され、さらに90年代以降は会社共同体も信用できなくなるの高いこの人間がバラバラに孤独で生きる社会に生きています。 それが、僕らが生きるいまであり日常なんです。 人類の最先端先進国である、西ヨーロッパ、北米、日本の3地域は、資本主義が浸透し、議会制民主主義を経て150年以上たつ、、ストックでまわる後期資本制を基盤とする成熟社会です。 それは、見方を変えると、(=入れ替え可能性)が行きついた、誰もが等分に無価値な、真っ白な社会です。 虐げられて個人の権利がなかった時代は、による個の解放と、個人の自立は意味があるでした。 いまもまだ世界は十分に不平等で、この・はとても価値のあるものです。 けれども、じゃあ、それがいいことだけなのか?というと、いきつくと凄い問題があるものであることもわかっています。 ではないですが、個人を成立させると共同体のブランケットが奪われ、人は疎外(=アリエネーション)されていきます。 また人に迷惑をかけなければ!という言葉にあるように、徹底的な自己責任(=これも現実社会では成立しにくい純粋概念です)によって、絆や紐帯を奪われます。 そして、過去の古い意味でのビルトインされた村共同体の自明性に支えられるような「絆」はもうありません。 にさらされた的な絆しかありえない。 まぁ、なんにせよ、なんでも完璧ってはないもんで、「生きていく」ってのは、何を選んでも問題だらけなんで、血反吐を吐きながらそれでも空を飛ぶ鳥のように飛ぶしかないのかもしれません(by)。 とはいえ、では、 「ここ」で生きていくうえで、どんな振る舞いや、どんなあり方が、良いのか?って いいのか?ってのは、 どういうことをすれば、自分が幸せになれるのか?って問いが重要です。 これを、中学の頃から高校の頃にかけて、少年は悩んでいました(笑)。 ちなみに、少年は、少女マンガをずっと愛する少年でしたので、ロマンチックな恋愛をずっと、夢想していて、、、運命の女の子が空から降ってくるものだと信じていました(笑)。 けれども、そこは何でも深く無駄にネガティヴに考える少年は、数々の物語や、現実の話を収集したり、その思索の結果、 その時に、ずっと注目してのは、、、というか当時はそんな分析的に考えていたわけではありませんが、後から振り返ると、 この問題に重要なヒントと示唆を与え続けてくれたのは、少女マンガとエロ漫画でした(笑)。 なんて、両極端な(苦笑)。 このことの代表例は、ずーーーっと昔に書いたさんの『ボーイ』に関する話です。 前にも書いたけれども、とりわけ『ボーイ』の家庭環境が、凄い複雑なのが、とても興味深かったと書いた。 というのは、以下があらすじ なんですが、、、、 >主人公の小石川光希は、ある日突然両親から笑顔で「私たちは離婚することにしたの。 」と告げられる。 何か怪しいと思った光希が問い質すと、ハワイ旅行に行った際に松浦と言う夫婦に出会い、母親がその夫と、父親がその妻と恋に落ち、ちょうどいいからお互い伴侶を交換しようとなったと言うのだ。 今度その松浦夫婦と話し合いをすることになっていることを告げられた光希は何とか離婚を止めさせようと一緒についていくことに。 だが結局、離婚再婚は食い止められず、新松浦夫婦と新小石川夫婦のそれぞれの子供、光希と遊を含めた6人の奇妙な同居生活が始まる。 どうです?(笑)。 おかしいでしょう?。 まぁ実はこのパートナー交換には、複雑な背景があってことだというのが後で明かされるのですが・・。 僕は、りぼんのような低年齢層の女の子向けの雑誌に、さも当たり前のようにこういった複雑な家庭環境が載ることが、すげーなーと驚きでした。 こういう複雑な関係性を書く人は、たぶん低年齢向けでは飽き足らなくなって、もう少し大人の世界に目が行くのではないかなーと思っていたのですが、今回は、かなり年齢層が上な『コーラス』で中篇を書いて、このたびクイーンズコミックスで出たので買った見ました。 中篇が、2つ載っているのですが・・・・表題作の『チェリッシュ』は、やっぱり複雑な家庭環境が好きなようで(笑)、シングルマザーの母親が死んで、その同居相手で親友だったゲイの青年に引き取られた女の子の話です。 その後、彼女の義理の父親は、ゲイなんで、男性と結婚して・・・・彼女には父親が二人いるという状態なんです。 カならばありえる可能性大ですが・・・日本では、ありえないでしょうねぇ、、まだ。 そこで主人公の千紘(ちひろ)が、高校生の時に好きになった男の子が、「生理的に受けつけない」との手紙を残してふられてしまい、家族と彼氏とどっちが大事かという選択を迫られるという話です。 ・・・・・・・けど、ザンネン。 つまらなかった。 中篇で物語を上手く構築できていないというのもあるけれども、たぶん本質はそんなことじゃない。 『ボーイ』の凄かったところは、そして僕が凄い好きだ!って思った部分は、パートナーを交換しちゃうような常識に反することをして、しかも親族から大バッシングを受けても、平気で(平気でなくとも実力で)まったく怯まない、あっけらかんとした人生の肯定をする光希の両親の態度だった。 その強い確信。 大事なものを見失わないで、常識に反することでも、あまり苦もなく平然と貫いてしまうルな部分に、とっても感銘を受けたのだ。 が・・・・チェリッシュは、たしかにゲイの両親を持ったら世間の目が厳しかろうし、いろいろ拒否する人もいるだろうけれども、そういうのはよくある話だ。 そこに恋愛モノとして新しいものも強い感情も存在しない。 だから、あまり面白くなかったなぁ。 さんの画風は、さっぱりしていて繊細だけれども、どこかスカスカ感があるのだが、そのスカスカ感が、『ボーイ』の光希の両親や、『』の熊谷一哉のようなクールでさっぱりわりきった人格が見る世界観をテンポよく表現できていたと思う。 ここで僕が見ている視点は、少女マンガという『恋愛=ロマンチックラブ』を唱道する媒体の 関係性のモデルの変遷を注目していたってことなんだって今を思い返すとわかります。 だから、僕の恋愛観や家族簡易衝撃を与えた本のひとつは、『THE BBB』です。 この分野が『THE BBB』のようなカリフォルニアで重婚!!(男二人と女の子一人の結婚で、ちなみに男同士もゲイのル(苦笑))などの多人数の愛や、BL()やゲイの話にジャンルが展開していったのは当然のことだろうと思うし、僕は非常にノンケでつまらない人間なんですが(そこはがっかり、、、、)運よく、僕にとっての神様であった・さんがBLのにあたる人で、この分野の神だったので、この人を理解するために 小学校から中学期に、全力でBLの黎明期を読み漁った(なんでそんなことしてたんだろうねぇ、、、我ながら・・・・(笑))ので、偏見がほぼなくなってしまったというのが大きいと思う。 ほんとに数百冊は読んでいると思うし、調べまくっていた(爆)。 少なくとも物語の世界や頭の中のイメージでは。 これは、僕の性的な好みが、あまりにストレート真ん中なのを考えると、なかなかに珍しい人だと思う。 僕にとって、最も美しい恋愛は?という質問を自分い投げかけると、の『終わりのないラブソング』の二葉と竜一が真っ先に上がってくる(笑)。 もうがBLなのかとかは、よくわかりません。 最先端のBLとかを読んでいるわけでもないし、相当かわってしまっていると思いますので。 けど、僕にとって、恋愛=ロマンチックッラブの基礎モデルになるのが、この話なんです(笑)。 ・・・・・いま書いてて、ビックリ、、、僕の恋愛感の基礎って、おわらぶとか『翼あるもの』とか『真夜中の天使』だ、、、、。 つーことは、(笑)。 というか、 恋愛を、一つの精神のパワーゲームで捉える傾向が強いのは、の恋愛感によるものだろうなぁ、と思う。 あっとですね、恋愛をパワーゲームとしてとらえるのは、の恋愛世界の一つの特徴と僕は思っていてそういった、精神のパワーゲームのバランスがとれてい時だけが、ほぼありえない、本当の愛で、、、、って、要は本当の愛、 お互いが対等で本質を認め合っているような状況は、ほとんどありえないことである、という前提 が僕にはあるってことですねー。 この精神のパワーゲームの話、、、これって、要は僕がずっと言っている、 恋愛における「つくるもの」と「つくられるもの」の逆転劇の話ですね。 話すと長くなりすぎるので、この話は割愛。 ちなみに、を除けばこのテーマに敏感なのは、さんですね。 二人が、結構仲好さそうだったのも、よくわかります。。。 価値観一緒だもん。 ちなみに「つくられるもの」と「つくるもの」の葛藤の物語として吉田さんの作品は、なんといっても『BANANA FISH』ですね。 『』 著 『「つくられるもの」と「つくるもの」の葛藤の物語をどこまで追いつめられるだろうか? TURN 6 『太平洋 奇襲 作戦』 〜つくるモノとつくられるもの、守るものと守られるものの葛藤のドラマツゥルギー2 『』 著 静謐なる残酷から希望への物語(1) 『』 著 静謐なる残酷から希望への物語(2)〜非日常から日常へ・次世代の物語である『バーサス』へ えっとねー話を戻すと、 少女マンガってのは、ロマンチックラブの、内面深化と、それにおける関係性のモデルケースを提供していたんだろうと僕はおもっています。 関係性のモデルケースとは?要は、誰を好きになってもありなんだよ!という話です。 少女マンガを見ると、大きなテーマの一つに教師との恋愛ものがあります。 僕は、さんの『Oh! my ダーリン』が好きでしたねー。 教師ものだと、真っ先のこれが思い浮かびます。 これって、ようは、誰を好きになっても、いいんだとモデルケースをいろいろなパターンで、シミュレーションしてくれているわけですよ。 教師って聖職幻想がありますし、いってみれば権力の上位者ですがそれへのタブー破りと逆転劇の構造なんですが、こういう風に、常識や社会慣行上ありえない関係性をいっぱい場合分けしてみせるのが、恋愛の物語における、おもしろさです。 それはもうありとあらゆるバリエーションがあるのは、わかると思います。 もちろん、この派生として、男同士や女同士や、多人数など、さまざまな形に展開していきます(笑)。 これを読むと、ああ、何でも有なんだな、恋愛って、ておもうだろうなー(笑)って僕はいつも思うのですよ。 そういうのをずっと、少女マンガを読んでとレーニングしていた気がします(笑)。 ・・・・・具体的処方箋に辿り着かない(苦笑)。 ながくなったので、次へたぶん続きます。

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ロマンチックラブ・イデオロギー

ロマンチックラブイデオロギー

突然だが、あなたは ロマンティック・ラブ・イデオロギーという言葉を知っているだろうか? 実は、検索窓に「ロマンティックラブイデオロギー」と入力すれば、学生たちの書いた多くの論文がヒットする。 なぜ今、学生たちはこのテーマを研究対象に選ぶのか? 今日はそんな話。 そこで、本を読むのが苦手(論文はもっと苦手)な僕が、自分なりにざっくりパワポでまとめてみた。 まず、ロマンティック・ラブ・イデオロギーは、とある 「当たり前」を疑ってみることからはじまる。 それがこれだ。 「え!これ疑うところある?」 と思った人こそ、ぜひ最後まで読んでいただきたい。 (読了まで3分) 学術的に 「恋愛と性愛と生殖が結婚を媒介とすることで一体化された概念」と説明されるロマンティック・ラブ・イデオロギーだが、簡単に表現するとこういうこと。 恋愛すること、結婚すること、出産すること。 今の日本では、これらを3点セットで語るのが「当たり前」なので、付き合っている人がいると 「結婚しないの?」と聞かれ、結婚していると 「子どもはつくるの?」と聞かれる。 この根底にあるのがロマンティック・ラブ・イデオロギーだ。 だって、好きな人と結婚して、その人の子供を産んで、2人で一緒に育てるのは 「素敵なこと」で 「当たり前」だから。 しかし昨今はこれらの発言が 「ハラスメント」と捉えられる風潮もある。 当たり前なのに、ハラスメント。 あれ?どういうことだろう? そんな小さな疑問が学生たちに論文を書かせているきっかけかもしれない。 恋愛と結婚と出産。 これらには異なる目的がある。 例えばこんな感じ。 この目的は会社経営で言えば ビジョンのようなもの。 組織がどの方向に向かうのか、何を目指すために存在するのか。 どんなに バラバラな組織でも、これさえ一致していれば大丈夫とも言われている。 逆に言えば、この 目的が異なるなら同じ会社でいることは難しい。 しかしロマンティック・ラブ・イデオロギーは、この 3つの目的を1つの組織(カップル)で完遂させようとする。 僕が経営コンサルタントだったら止める。 「絶対にどこかで無理がくるからやめた方がいい。 それなら3社に分社化したほうがいい。 」 そうアドバイスするだろう。 しかし現実はそうはいかない。 世の中には既に 「ロマンティックラブ包囲網」が敷かれており、制度上も、ビジネス上も、カルチャーでさえもこのロマンティック・ラブ・イデオロギーを前提とした方が都合がいいので、3つの異なる目的を1つの組織に押し付けようとしている。 あれ?これ無理ゲーじゃね? と冷静に気づこうとしても、これらの包囲網が僕らから 冷静な判断力を奪っていく。 しかし学生たちはまだこの包囲網の中で暮らして20年足らず。 まだ冷静に戻れる余地を残しているから、人生初の論文のテーマにロマンティック・ラブ・イデオロギーを選ぶのかもしれない。 その学生がこのテーマに関心を持ったきっかけは昨今の 不倫騒動だったと言う。 では、その視点で先ほどの図を見ていこう。 先ほどはこの図を「3つの異なる目的を1つの組織に押し付けている」と説明した。 これに対して 「フェーズ(時期)によって目的が移行しているだけ」という反論も考えられる。 図にするとこんな感じだ。 STEP1の恋愛期では 一時的なドキドキや盛り上がりを楽しみ、その期間が終わったらSTEP2の 社会的な安定や認定を求める結婚期に移行する。 さらに安定を獲得したことでSTEP3の 遺伝子の継承を目的とした出産期に移る、というこの説明はある程度納得できる。 ただ、欠陥があるとしたら STEP4が存在しないことだ。 この説明だと、 STEP3で2人の関係は終わりを迎えたことになる。 役割を果たして、また 別の人とSTEP1をはじめられる世の中ならそれでいいだろう。 しかし今の世の中はそれを許してくれない。 結婚して、子供もいる人が 「また恋愛したい」など言おうものなら壮大なバッシングに合うだろう。 昨今の不倫騒動はそれを物語っている。 このサイクル論を主張するのであれば、子供ができた時点で 2人の関係性は一旦、発展的解消を迎えるのが自然、それこそ 当たり前だろう。 人生100年時代に、その 半数以上を目的もない相手との関係を続けるのが前提になっている。 これがロマンティック・ラブ・イデオロギーの最大の問題点だ。 こうなってくると「早めに規定演技を終わらせて離婚すればいい」という意識か 「そのサイクルに入るのをなるべく遅らせたい」という意識が芽生え、後者が初婚年齢を遅らせる要因となる。 事実、この考え方は19世紀に生まれた。 学生たちは、まずこの事実にぶつかり 「じゃあなぜ私たちはこれを当たり前と受け入れていたのだろうか?」と考えはじめる。 そこから政治の歴史、宗教の歴史、国の歴史、文化の歴史など、様々な角度から自分の思想に影響した要因を検証していく。 僕は決して勉強が得意ではなかったが、このテーマには自分の思考や世間の当たり前を疑ってみる 学問の本質や醍醐味のようなものを感じる。 コロナウイルス騒動で自分と向き合う時間が増えた今は、自分の思考と向き合ってみるいい時間かもしれない。 以下のような世界がこれからの当たり前になる可能性だって、十分あるのだから。 ロマンディック・ラブ・イデオロギーについて書いたnoteはもどうぞ。

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