表現 の 不 自由 展 問題 点。 【あいちトリエンナーレ2019】の根本的問題点を指摘する

「表現の不自由」は誰にとっての問題だったのか あいちトリエンナーレが残した課題

表現 の 不 自由 展 問題 点

芸術祭の実行委員会(会長・大村秀章愛知県知事)は、混乱を回避するため抽選方式を導入して入場者を制限。 会場には朝から鑑賞を希望する多くの人が詰めかけ、午後2時10分からと午後4時20分からの計2回の抽選に、延べ約1350人が並んだ。 いずれの回も抽選倍率は20倍超となり、選ばれた30人ずつがガイドとともに鑑賞した。 実行委は安全確保のため、金属探知機による検査や手荷物の預かりを実施。 展示物の動画撮影を禁止し、SNS(交流サイト)への拡散防止も求めた。 会場の前では「公金の不正使用を認めるな」などと書かれたプラカードを掲げて抗議する人の姿があったが、実行委は「会場では特に大きな混乱はなかった」としている。 9日以降は公開回数を増やす方向で検討する。 会期末の14日までの公開となる見通しだ。 鑑賞した千葉県船橋市の女性会社員(25)は「展示を中止するほど問題がある作品とは思わなかった。 他の美術展でも同様の表現はある」と冷静に受け止めた。 愛知県岡崎市の男性会社員(39)は「芸術祭が、不自由展の話題ばかりで注目されてしまったのは残念だ」と語った。 一方、萩生田光一文部科学相は8日の記者会見で不自由展が再開されても補助金不交付の判断は変わらないとの認識を改めて示した。 芸術祭実行委の会長代行を務める名古屋市の河村たかし市長は再開について「とんでもないこと。 暴力そのもので(市に)相談もなかった」と批判し、会場前で約10分間座り込むなどした。 県や実行委に8日寄せられた抗議電話は約200件だったという。 芸術祭と不自由展の両実行委は9月30日、中止前の展示内容を維持したうえで再開することで合意し、協議を開始。 事前予約の整理券方式にするなどの条件付きで、10月6~8日の再開を目指してきた。 展示方法や警備面などを巡って協議が難航したが、8日の再開にこぎ着けた。 再開にあたって脅迫に屈しないと明確にしたことは評価できるが、反対意見にも配慮し、市民の納得を得ることが大切だ。 十分な安全対策を施していることや表現の自由の重みについて主催者が説明を尽くしていくべきだ。 今後も執拗な脅迫が続く恐れはあり、警察とも協力しながら対策を徹底する必要がある。 安全上の理由で中止を決めたのだから、安全対策が整えば再開するのは当然だろう。 今回は実行委員会のトップを知事が務めていたため、「行政が展示の内容を支持しているのか」との批判を招くことになった。 実行委のトップは芸術家などの専門家に任せ、行政は予算を出すだけ、という枠組みをより明確にすべきだった。

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「表現の不自由展・その後」 中止の波紋

表現 の 不 自由 展 問題 点

しかし、あなたがその意見を主張する自由は、命がけで守りたい」 言論・表現の自由とは何かを的確に言い表した名句を、今こそかみしめ、実践しなければならない。 そんな気持ちでこの稿を書き始めたら、残念なニュースが飛び込んできた。 愛知県美術館などで行われている美術展「あいちトリエンナーレ2019」で、戦争中の慰安婦を象徴する少女像などを展示した企画展「表現の不自由展・その後」が、抗議の電話やメールが大量に寄せられ、中止を発表した。 今回は、この問題の本質はなんなのか、を考えたい。 それは本稿の中盤から展開する。 「公金イベント」をめぐる的外れな批判 その前に言っておきたいのは、主催者への抗議のなかに、「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と、京都アニメーションの事件を思わせるFAXもあった、という点。 こうした悪質な脅しについては、愛知県警は徹底した捜査を行ってもらいたい。 気に食わない表現活動を、脅しによって封殺しようとするのは、同企画展に対する威力業務妨害というにとどまらず、表現の自由を掲げるわが国に対する重大なテロ行為である。 また、このような脅し文句は、京アニの事件で奪われた35人の命や、それを悲しむ多くの人たちに対する冒涜でもあって、断じて許しがたい。 脅迫行為の主がきちんと突き止められ、検挙され、法の裁きを受けることが、こうした事件の再発を防ぎ、言論・表現活動の萎縮を防ぐためには肝要だ。 来年のオリンピック・パラリンピックを控え、「テロを許さない」という国の姿勢を示すうえでも、このような事件をあいまいにしてはいけない。 愛知県知事は、主催者を代表して被害の届けを出し、県警に徹底捜査を要請し、かつそのことを公にするべきだ。 政府も、こうした卑劣な脅迫行為には断固たる対応をするよう、警察庁を督励してもらいたい。 今回の企画展については、政治家の言動も問題になっている。 河村たかし名古屋市長は、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの。 いかんと思う」などと述べて、少女像の撤去を求めた。 企画展の中止が決まった後も、「やめれば済む問題ではない」として、謝罪を要求。 少女像の展示は「『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる」と語った。 自民党の保守系議員らの集まりが、この少女像について「事実上の政治プロパガンダだ」として、「公金を投じるべきでなく、国や関係自治体に適切な対応を求める」との意見表明を行った。 さらに、代表者が首相官邸で西村康稔官房副長官と面会。 西村氏は「自民党愛知県議団を中心に対応を始めている」と応じたという。 日韓関係の悪化に伴い、国民の間でも韓国に対する批判や少女像に対する反発が高まっているとしても、それに乗じて、言論・表現への抑圧を画策するのは、自由と民主主義を重んじる政党の政治家がやるべきことではない。 今回の企画展の意図は、何も韓国側の主張を是としてPRしているわけではないうえ、言論・表現の自由を守ろうとするなら、冒頭に紹介した言葉のように、異なる意見の表明の場を守らなければならない。 ついでに言えば、「よい作品」だから守るのではなく、「ダメ作品」についても表現する自由は守らなければならない。 ダメさ加減は、それを批判するか、あるいは無視することで対応すればよいのだ。 表現の自由を守ることは、何も表現内容を認めたり、賛同することとはまったく違う。 展示によって「韓国側の主張を認めたことになる」と発言した河村氏は、表現の自由について、まったくわかってないのか、それともわかってないふりをしているのか……。 さらに、政府の立場に合う言論・表現でなければ公的支援は行わない、などという事態になれば、栄えるのは政府のプロパガンダばかりということになる。 美術だけでなく、演劇やオペラなどを含め、表現は窮屈になり、日本の文化はやせ細っていく。 しかも、税金は、政府の支持者からのみ集めているわけではない。 自民党の武井俊輔衆院議員はツイッターで次のように述べている。 <「国益に反するものに税金投入はおかしい!」確かにその論は受け入れられやすいが、国益が何かという定義は国民の皆さんそれぞれに考えがあり、政治の側がそれを言い立てることには、くれぐれも慎重になければなりません> <間違えてはいけないのは、税金は政府や行政に批判的な人でも納税しているものであり、それを再配分するもの。 政府や行政に従順、ないしは意向に沿ったものにしか拠出しないということでは、決してあってはならないということ> まっとうな見識と言うべきだろう。 さらに、日本維新の会の品川区議会議員である松本ときひろ氏のこんなツイートもあった。 <私は表現の自由に大きな価値を置きます。 現代アートは政治的表現を内包することが少なくない。 現代アートに公金を支出すると決めた時点でそれは前提であるはず。 例え野蛮でも違法に至らない物を表現内容で撤去して良いのか。 批判又は対抗展示で戦う手段もある。 なお展示内容は不快この上ありません> 維新系で、このように言論・表現の自由を適確にとらえて発言する政治家がいるというのは、私には驚きだったが、松本氏の発言は、冒頭に紹介した言論・表現の自由の本質を突いていると思う。 そういう良識的な意見よりも、展示に圧力をかける政治家の動きが悪目立ちしているのが、嘆かわしい。 メディアも、声が大きく派手に立ち回る政治家ばかり追いかけるのでなく、まっとうな政治家の良識ある声もきちんと報じるべきだ。

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「表現の不自由展・その後」に関する3つの問題点

表現 の 不 自由 展 問題 点

2019年8月1日、あいちトリエンナーレ2019が開幕した。 同年8月3日、その中の展示の一つ「表現の不自由展・その後」が、中止となった。 あいちトリエンナーレと「表現の不自由展・その後」 は2010年から3年ごとに開催されている国内有数規模の国際芸術祭で、2019年はジャーナリストの津田大介氏を芸術監督に迎え、「情の時代」をテーマに掲げた。 作家の選定にあたってその男女比を同等にすることを打ち出すなど芸術祭の枠を超えて話題となる要素も多く、。 その中の展示の一つであるは、「その後」という名称からもわかるように、今回のトリエンナーレでゼロから企画されたものではない。 オリジナルの展覧会である「表現の不自由展~消されたものたち」は、2015年の1月から2月にかけて、東京・江古田の小さなギャラリーで行われた。 今回のトリエンナーレでの展示は、2015年の展覧会で扱われた作品に、この4年間で新たに展示が不許可となった作品を加えて構成されたものだ。 筆者がこの企画を知ったのは、2019年4月1日に、芸術監督の津田氏がTwitterで出展作家の告知を行ったときだった。 、それは2015年にオリジナルの展覧会を訪れていた筆者にとっても、新鮮な驚きだった。 「表現の不自由展・その後」で何が起きたのか 8月1日 「表現の不自由展・その後」に対する政治的な圧力がはじめて明らかになったのは8月1日、あいちトリエンナーレ開幕の日だった。。 (ただし実際にはそれに先立って、開幕前日の7月31日午後にはすでに、らがこの問題にTwitterで言及し、事務局に対する抗議電話も始まっていた。 ) なお河村市長の発言の前には松井一郎・大阪市長がとツイートしているが、河村市長は翌2日の取材で「大阪市の松井市長に聞いて知った」と発言しており、松井市長から連絡があったのは確かなようだ。。 8月2日 河村市長は2日12時前、あいちトリエンナーレのメイン会場である愛知芸術文化センターに到着。 会場奥にある「表現の不自由展・その後」を担当者に案内されながら15分ほどかけて視察し、その後のぶら下がりの取材の中で、(なお筆者はこの日たまたま会場を訪れており、視察後の取材にも居合わせることになった)。 また並行して政府閣僚なども次々とこの問題に言及し、2日午前の記者会見では菅義偉官房長官がと発言。 また柴山昌彦・文部科学大臣も補助金の問題に言及したほか、自民党の保守系議員でつくる「日本の尊厳と国益を護る会」(代表幹事・青山繁晴参議院議員)も、少女像についてとの声明を出した。 こうしたことを受けて、2日夕方に津田氏が会見。。 8月3日 そして翌日、8月3日夕方。。 「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」とした脅迫FAXが来たことなどに触れ、おもに安全面の理由で中止を決めたと説明した。。 きわめて露骨な「表現の自由」の侵害 以上が、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたことのうちの、事実関係にかかわる部分である。 では、内容的には、そこで起こっていたのはいったいどういうことだったのか。 まず確認しておくべきことは、今回の事件における河村市長の介入や菅官房長官の発言が、国や地方自治体による「表現の自由」に対するきわめて露骨な侵害だったということだ。 本来すべきではないことであってもあまりにもあからさまにやられると受け取る側の感覚が麻痺してつい受け入れてしまうということが起こるが、そうならないためにも、この点は最初にはっきりさせておく必要がある。 実際、最近は「表現の自由」という言葉がかなり広く用いられる傾向にあるが、「表現の自由」がもっとも必要とされるのは、まさに今回のように国や地方自治体が表現を抑圧することに対抗する際だ。 とくに河村市長の言動は、市長の立場で特定の作品についての撤去を直接責任者に申し入れただけでなく、撤去後も関係者の謝罪を要求するなどしており、「表現の自由」が本来守ろうとしていることをことごとく踏みにじるものだと言える。 なお関連する論点として、今回の河村市長の介入や菅官房長官の発言が「検閲」にあたるのかというものがある。 定義の問題として言えば、狭義の「検閲」が指すのは行政による事前抑制である。 その点では今回はこうした狭義の「検閲」は行われていないし、それはやでも強調されている。 しかしより実効的な観点から考えた場合、「検閲」は必ずしもこうした事前抑制に限られるものではない。 日本で「検閲」といったときに真っ先に想起される戦前の新聞紙法や出版法による検閲でさえ、すべてを実際に見て潰していったわけではなく、目立つものを検閲することでメディアが「委縮」し、自主的に「忖度」してそうした規範を受け入れるようなやり方が取られた()。 こうした観点からすると、河村市長の介入はもちろん菅官房長官の発言も、アーティストや芸術祭主催者などの「萎縮」と「忖度」のメカニズムを発動させるには十分なものだ。 この点は、あいちトリエンナーレ単体ではなくより長期的な観点から考えても、きわめて重要な問題だと言える。 「金を出す以上口も出すのは当然」なのか とはいえ上の議論は、少し違った角度から補完しておく必要がある。 すでに言及したように、菅官房長官は今回の件に触れるにあたって「補助金交付」に言及した。 河村市長は記事になっている範囲ではお金に言及していないが、、一連の発言も当然そうしたことを前提にしたものだ。 さてこのとき、こういう疑問がありうる。 確かに国や地方自治体による表現の自由の侵害はよくないかもしれないが、それは民間が独自にやっていることに横から口を挟む場合であって、国や地方自治体が出資元である場合には、当然話は違ってくるのではないか、と。 端的に言えば、金を出している以上口も出すのは当然なのではないか、という疑問だ。 確かにこれは、一見もっともらしい話ではある。 しかし注意が必要なのは、そこで国や地方自治体が出している「金」は、当然ながら政府閣僚や地方自治体の首長個人のものではなく、あくまでも公的なものだということだ。 文化や芸術について国や地方自治体に求められる役割は、やや極端に言えば道路や水道の整備と同様基本的な「インフラ」の整備なのであって、政治家や担当者の好みに応じて個別の作家や作品に金を出すことではない。 実際、大村知事は3日の記者会見で、と強調した。 これは重要な発言だが、同時にこれがあたかも大村知事個人のポリシーのように報じられているのはやや問題だ。 国や地方自治体の役割がインフラの整備だという観点からすれば、むしろこれこそが「大原則」なのである。 ただしそうは言っても、実際に金を出すのは具体的なイベントであり、そこに出品する作家や作品は当然選択しなければならない。 そこで重要になるのが専門家への委託で、たとえば今回のあいちトリエンナーレであれば、その選択をするのは芸術監督である津田氏である。 行政が行うのは、その津田氏を芸術監督として選ぶということまでだ。 これを「間接的」な口出しだと考えることはもちろんできるだろうが、そのことと個々の作品についての展示や撤去について直接行政が介入することのあいだには、決定的な違いがある。 「表現の自由」に限界はある、しかし このように、この問題における大原則は「表現の自由」である。 しかしそれは、表現の自由にはいかなる例外もない、ということを意味するものではない。 実際、表現や言論であっても法的に許容されないものはいくつもある。 たとえば、ある団体に「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というファックスを送ることは形式的には「表現」の範囲内だが、実際には刑法上の脅迫として当然立件されうるものだ。 同様のことは、名誉毀損や侮辱、あるいはプライバシー侵害についても言える。 これらはいずれも「表現」を用いてなされるものだが、実際には法的な制約を受ける。 つまり一言で言えば、「表現の自由」にも限界はある。 ではたとえば、今回もっとも焦点となった「平和の少女像」は、そうした「表現の自由」の限界にあたるものなのか。 たとえば河村市長は、2日の視察後の取材で、中止申し入れの理由をだとした。 河村市長は「ヘイトスピーチ」という言葉は使っていないが、今回の撤去は「ヘイトスピーチ」に対するものと同じ理由で正当化されるのではないか、と考える人は、おそらく一定数いるのではないかと思う。 しかし実際には、こうした考え方は正しくない。 まず強調しておかなければならないのは、ヘイトスピーチを規制するということは、誰かが不快になるような表現はいけないので禁止します、ということではないということだ。 では、今回の少女像がそうした「差別煽動」にあたるのかと言えば、相当可能性を高めに見積もっても、あたらないと言わざるをえない。 実際あの像を見て「日本人を追い出そう」「日本人を入店禁止にしよう」といったことが起きることを想定するのは、あまりに想像力を必要としすぎる話である。 あえてこういう言い方をすれば、「ここは日本である」。 そのとき、そこで日本人に対する差別煽動が生じるということは、ごく一部の例外を除き、基本的に考え難い。 つまり今回河村市長が示した「理由」では、「平和の少女像」が表現の自由の例外になりうるということをまったく説明できない。 表現の自由には確かに限界があるが、それは一首長がぶら下がり取材の中で設定していいようなものではないのだ。 名誉毀損も、プライバシー侵害も、そしてヘイトスピーチも、表現の自由という大原則とのあいだの何十年にもわたる葛藤の中で生み出されてきた「例外」である。 そうした蓄積のないところに突然思いつきで例外をつくるのだとすれば、それは正しく「表現の自由の冒涜」ということになるだろう。 「政治的な理由による排除」を可視化するために さて、以上基本的に「表現の自由」ということを中心に書いてきた。 そもそも今回の展示のタイトルは「表現の不自由展・その後」であり、その中止が「表現の自由」をめぐる問題になるというのは、ごく当然のことであるかもしれない。 しかし今回の事件を考えるにあたって、「表現の自由」は確かに重要ではあるけれども、同時にもっとも的確な視点というわけではない。 実際展示された作品を見ればすぐにわかることだが、「表現の不自由展・その後」は、「表現の自由」全体を問題にしているわけではない。 「表現の不自由」なら何でもいいというのであれば、たとえば名誉毀損とかプライバシー侵害とかヘイトスピーチとか、そうした効果をもつ作品を並べてもそれは可能だ。 しかし実際に行われた「表現の不自由展・その後」は、そうしたものではない。 このことについては、あらためて強調が必要だと思う。 では、そこで示された「表現の不自由」は、どのような「不自由」だったのか。 それは一言で言えば、「政治的な理由による不自由」である。 「表現の不自由展・その後」で展示された作品は、いずれも過去に「政治的な理由」によって展示されなかったり、展示を中止されたりした作品だ。 そしてそうした作品の排除は、まさに今回の展示中止がそうであったように、法的に蓄積された表現の自由の正当な「例外」とは別に、その場その場でアドホックに恣意的につくられた理屈のもとで行われた。 「政治的な理由」は、そうしたアドホックな理屈に、たまたま付けられた総称にすぎない。 そしてこうした「政治的な理由」による作品の排除は、少なくとも今回展示された作品の数だけ、すでに過去に行われている。 その中には、それなりにこうした文脈を追ってきた筆者でさえ、詳細は把握していない排除もある。 恐ろしいのはこうした排除が社会から見えにくい状態に置かれることだが、今回の「表現の不自由展・その後」(そしてオリジナルの「表現の不自由展」)が行ったのは、まさにそうでなければ見えにくい状態に置かれていた政治的な排除を、可視化することだ。 その展示が、今回、中止となった。 中止になることも含めてアート、といった開き直りにとどまれるほど筆者は楽観的ではないし、3日間でも可視化に成功したから十分だと言ってしまえるほど控えめでもない。 今回の展示はもっと多くの人の目に触れるべきもので、3日間という期間はそのためにはあまりにも短すぎた。 だとすれば今後やるべきことは、この短すぎた期間を、あらゆる手段で取り戻していくことだろう。 そのためにはおそらく、この展示が予定通り75日間にわたって開催された場合に比べて、ずっと多くの人のかかわりが必要となると思う。 しかしそれは、今回のことを「これでまた状況が悪くなった」などと嘆いて終えることに比べれば、はるかに将来につながりうるプロジェクトである。

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