箱根 登山 鉄道。 箱根登山鉄道、箱根湯本~強羅間運転再開へ一部区間で試運転を開始

神奈川)台風で被災の箱根登山鉄道、復活へ前進:朝日新聞デジタル

箱根 登山 鉄道

7 OH48 高16m 3. 1m 地蔵山隧道 長183. 1m 塔ノ峰隧道 長194. 1m 7. 1 OH52 高153m 大ヶ嶽隧道 長317. 9m 杉山隧道 長148. 9m 出山隧道 長124. 7m 松山隧道 長96. 6m 8. 3 高222m 嵐山隧道 長236. 5m 鐘山隧道 長89. 5m 常磐山隧道 長167. 0m 畑山隧道 長102. 6m 9. 9 OH53 高337m 10. 4 高346m 大平台隧道 長301. 9m 11. 2 高398m 12. 1 OH54 高436m 13. 4 OH55 高523m 14. 3 OH56 高539m 15. 0 OH57 高541m 軌間は現状を示す• 標準軌:1435mm• 狭軌:1067mm• 三線軌条:1435mmと1067mm 鉄道線(てつどうせん)は、のを起点とし、神奈川県のまでを結ぶのである。 で使われる路線記号は OH。 旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、対外的には「 箱根登山電車」の名が使われる。 メディアなどでは路線を指して会社名(箱根登山鉄道) のほか、「 箱根登山線 」「 箱根登山鉄道線 」とも呼ばれる。 最急80という、やに頼らない(普通鉄道)としては日本最急 のが存在する。 建設にあたってのベルニナ鉄道(その後の)を参考にしており 、その縁でに、箱根登山鉄道とレーティッシュ鉄道は、の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる。 概要 [ ] 日本国外を外遊した名士からの提案を契機として 1919年に開業した鉄道路線である。 当初はと強羅駅の間を結ぶ路線で 、箱根湯本駅まではが接続していたが、1935年に小田原駅発着となった。 箱根登山鉄道はの一社で 、1950年以降は箱根湯本駅までの列車が乗り入れている。 日本の粘着式鉄道では最急の勾配や急カーブ、などがあるで、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある。 特徴 [ ] 本路線は、以下のような数々の特徴を有する。 勾配 [ ] 箱根湯本駅との間には、80という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する。 57度である。 1両の全長が14. 17mほどの高低差がつく。 建設当時の時点において日本における最急勾配だったのはの66. 曲線半径 [ ] との間 、小涌谷駅との間 には、半径30mという急な曲線が存在する。 これはで後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており 、しかも脈に悪影響を与えるという理由で掘削ができなくなった 区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである。 半径30mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは60度ほどの角度がつく。 日本の普通鉄道において、本線上で半径30mもの急曲線が設定されている事例は、や以外にはほとんどない。 三線軌条 [ ] と箱根湯本駅の間には、国際の1,435mm・の1,067mmという異なるにおいて、片側のレールを共用するが存在する。 これはするように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で 、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された。 これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、も複雑な構造となった。 狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく 、(JR東日本)では運行のためにの一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察し、分岐器の構造などについて学んでいる。 しかし、輸送力の違いや化対応などの理由により 、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された。 歴史 [ ] 建設の経緯 [ ] 箱根に登山電車を走らせる計画は、に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあった が、計画が具体化するのは、1900年にと湯本を結ぶの路線(を参照)を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けでから「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである。 小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめた が、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった。 登山電車の建設計画が再び具体化するのは1907年、におけるの実況を視察した者 から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。 また、やなどの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告した ことを受け、1910年1月の臨時株主総会において、からへ路線を延長することが決定した。 同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅からを経てのへの延伸計画を追加し 、3月1日に登山鉄道建設の免許が交付された が、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた。 度重なるルート変更 [ ] と箱根登山鉄道各線の衛星写真。 水色が箱根ロープウェイ、赤が 鉄道線、橙が鋼索線。 当初の免許では、の右岸を遡り、須雲川集落から北上してへ抜け、からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13kmになるルートであった が、この時期に軌道線がの洪水によって軌道が流失してしまい 、ルート変更を余儀なくされた ため、登山鉄道のルートも再検討することとなった。 そこで、1911年5月にはまでは早川の左岸を進み 、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された。 このルート案では、が2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125の鉄道とする計画で 、湯本から強羅までの距離は7. 1kmほどとなるルート設定であった が、当時既に最急勾配が66. また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあった ため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をに派遣した。 建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていた が、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した。 この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが 、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている。 難工事・運行開始 [ ] 建設中の出山信号場 こうして、ようやく建設は開始された。 ところが、にが勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶 、建設工事にも影響を及ぼした。 の建設に当たってはの橋梁の鋼体の払い下げを受けることになった が、景観破壊の恐れがあるとからクレームが入り 、改築を条件にしてようやく認められた。 この早川橋梁の架設工事が終了したのは1917年5月31日で 、1915年に架橋工事が開始されてから 2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている。 車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず 、製の車両を購入することになった。 さらに、1916年に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した。 山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく 、仕方なく遠回りのルートに変更された。 当初計画になかったは、この時に開設が決まった。 震災により崩壊した杉山トンネル。 手前のトラスは早川橋梁 9月1日に発生した()で、鉄道線は甚大な被害を蒙った。 箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没する など、軌道は大部分が崩壊または埋没し 、建造物も半数近くが半壊 、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した。 橋梁は1箇所を除いて全て破壊されてしまった が、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷 とわずかにずれた程度で、被害を免れた。 7両あった登山電車も全て脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった。 早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌1924年1月から復旧工事が開始された。 復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日 、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日 、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日 、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった。 震災の被害から復帰した後の1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するというが発生した。 運転士は生存していたものの、精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかった が、速度制御に失敗したものとみられている。 この事故の後しばらくした1928年1月に、小田原電気鉄道はいったんに合併した 後、同年8月に再度 箱根登山鉄道として分社化された。 登山電車が小田原へ乗り入れ [ ] 日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された。 この計画では小田原からまでは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった。 板橋陸橋での試運転 4月1日にを起点とする(小田急)がまで開通した ことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請 、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ。 1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い 、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手 、1935年9月21日にすべての工事が完了した。 小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている。 これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった。 そこで、に連結器についての指導を仰いだ結果 、の設計による連結器の試作が実現した。 数か月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため 、の連結器を全て交換した。 こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された。 これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり 、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した。 に入ってからは、1942年5月30日付でが社長に就任する などの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった。 終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両がとなった。 1948年9月15日にはが上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失 、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり 、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ。 小田急が箱根湯本へ乗り入れ [ ] これより少し遡る1946年には東京急行電鉄()が策定した『鉄軌道復興3カ年計画』の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた。 1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップの運行を開始していた が、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え 、この乗り入れ計画を推進することになった。 しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。 三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造 鉄道線のは国際的な標準である1,435mmであった が、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067mmであった。 また、小田急を1,435mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で 、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった 上、との貨物輸送においての直通が不可能となり 、貨物収入が激減してしまうことになる。 そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設するを採用することとなった。 なお、共用するレールについては山側(小田原駅を発車すると進行方向右側)とされた が、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、が並走)への転落を防ぐためである。 通常のは可動箇所が2箇所である が、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり 、当初は手動でによって切り替えを行っていた が、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという。 その後、分岐器の切り替えは電動化された。 小田急(軌間1,067mm)と箱根登山(軌間1,435mm)の車両規格の相違。 片側のレールを共用すると、車体の位置がこれだけずれてしまう 三線軌条の導入によって、問題になったのは車両のであった。 登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急ではを使用していた。 通常ならアダプターの役割を果たすを介して非常時の連結に備えることになる が、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない。 このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった。 車体中心のずれは駅のと車両の間にも影響し 、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800mmであるのに対し 、登山電車の車体幅は2,520mmと狭い ことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30cm以上の隙間ができてしまうことになった。 また、鉄道線の架線電圧は当時600Vであった が、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500Vであった ため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500Vに昇圧し 、箱根湯本駅構内にはが設置され 、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった。 ただし、これによって直流600Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり 、箱根湯本駅から送電線による給電をせざるをえなくなった。 その上、軌道条件も異なっていた。 そのような勾配が1km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった。 このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった。 このほか、に設備を新設した ほか、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた。 技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。 レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた。 これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった。 これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。 とのによって車両関係の改造が遅れるという障害もあった が、8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された。 乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してが飾られ 、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた。 1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設 、1972年には が導入された。 1972年3月15日には最寄の二ノ平駅がに改称された。 1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され 、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20mの車両による6両編成に増強された。 登山電車の3両編成化 [ ] 登山電車に乗ろうとする人たちの長蛇の列(1993年のゴールデンウィーク) 鉄道線を利用する観光客は増加し、1991年には年間輸送人員が1千万人を超えた。 当時の登山電車は2両で15分間隔が最大の輸送力であり 、や箱根が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた。 しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した。 鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された。 最も難工事だったのはの工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で 、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで 、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった。 このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり 、文字通りでの工事を余儀なくされた。 塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた。 これ以外にも、の増強や 、架線電圧を600Vから750Vへ昇圧 、一部車両の2両固定編成化などが行われた。 塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため 、当初は1993年10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された。 三線軌条区間の縮小 [ ] 2006年以降は小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両のみとなった しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった。 このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車を全て箱根湯本駅と強羅駅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた。 また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる 上、途中のではホーム長が短いために、小田急の車両ではを使用して手動で扉を開ける (ホームにかからない車両の扉は開けない、いわゆる)という状態であった。 さらに対応にも問題が生じた。 小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、に抵触する可能性も出てきた。 こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ 、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった。 さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車は全て小田急の車両に置き換えられることになった。 これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去された が、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、風祭駅の改良工事完了によりドアカットが解消されたほか 、小田急の車両は以外は4両編成での運行となった。 なお、大きな被害をもたらした(2011年)以来、小田原市内では表示が随所に表示されるようになった が、箱根登山鉄道が公表していた数値と異なることが問題となり、2013年11月に修正されることになった ()。 2019年10月13日、(台風19号)により大平台駅 - 小涌谷駅間を中心に土砂流入や橋脚流失など甚大な被害を受け、箱根湯本駅 - 強羅駅間が長期不通となった。 箱根登山鉄道は同年11月22日に同区間の運転再開を2020年秋頃の見通しと発表したが 、後に2020年7月下旬に前倒しすると発表した。 運行形態 [ ] 軌道条件 [ ] 半径30mの急カーブ 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、との間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配 80 を登る。 この区間に3か所(・・)あるも山岳鉄道的な特徴である。 このほか、カーブの最小半径も30mと小さい。 全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50レール であるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10m の37kgレール を使用している。 37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること 、通過トン数にも十分対応している といった理由が挙げられている。 運行体制 [ ] 運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており 、軌道線の市内電車との接続が図られていた。 戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車はが3往復とが7往復であった。 その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復 、日中の急行は30分間隔での運転で 、これに登山電車が接続していた。 その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原駅 - 強羅駅間を直通する登山電車が1時間あたり2本 、これにから乗り入れてくると急行がそれぞれ1時間あたり2本ずつとなっており 、箱根湯本駅 - 強羅駅間ではこの区間を往復する列車が1時間あたり2本設定されており 、小田原駅発着の直通電車とあわせて1時間あたり4本という運行形態であった。 しかし、登山電車は小型の車両で輸送力にやや難があったため 、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原駅発の箱根湯本駅行きが設定された。 さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は1時間あたり2本から4本に倍増 、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった。 さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた。 これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった。 2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転のが1時間あたり4本 、小田急小田原線・方面から特急ロマンスカーが1時間あたり2本 という運行体制が基本となった。 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中1時間あたり4本で運行される。 この他に夜間に着が各停として設定されている。 以前は朝夕に発着や平日のみ本厚木駅発も設定されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止となった。 なお、同改正での本厚木駅着は平日のみだったが、2019年3月16日以降は土休日も設定されるようになった。 箱根駅伝への対応 [ ] 風祭から箱根湯本ゆき乗車券。 このような短い区間であっても、2日間有効で途中下車可能だった。 に隣接する小涌谷踏切はのコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する。 これに対応して、開催日の1月2日(往路)昼頃と1月3日(復路)午前8時台はに係員を待機させ 、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる。 これは選手が踏切で足止めされ、をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である。 乗車券・座席券 [ ] 鉄道線の開業当初より 、線内の乗車券は片道でも2日間有効で可能であった が、2002年4月1日よりこの取り扱いは廃止され 、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された。 特急ロマンスカーについては、小田急との通し利用のほか、当日空席がある場合に限り小田原駅・箱根湯本駅のホームにおいて発売する座席券(大人200円・小人100円)を購入することで小田原 - 箱根湯本間のみの利用も可能である。 2005年9月30日までは箱根登山鉄道の料金が設定されていなかったため、小田原 - 箱根湯本間のみの利用はできなかった。 小田急との通し利用については両社の料金を合算する(2018年3月16日までは小田急が箱根登山鉄道の座席料金に相当する額を割り引いていた )。 1994年から運行する「夜のあじさい号」は全車指定席であり、専用の座席券が必要となる。 運賃 [ ] 鉄道線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。 ・運賃同額。 2019年10月1日改定。 箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており 、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたという が、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である。 箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる。 箱根湯本駅から強羅駅まで8. 9kmの区間のうち、半分近い4. この区間では大半の区間で樹木に囲まれており 、夏季には並走するからでさえも電車の姿は見えなくなる。 小田原 - 箱根湯本 [ ] 小田原駅 - 箱根板橋駅間の半径160mの急カーブ(2009年3月17日) 標高14mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJRと並行して南に下る。 この下り勾配を下りきっての高架橋をくぐる と標高36mのである。 風祭駅を過ぎると最大28. 入生田駅を発車するとほどなくするとに入るが、38. この間に、進行方向右側の斜面に送水管が見える が、この送水管は登山鉄道開業のために建設された三枚橋発電所への水路で 、発電所自体はその後東京電力に移管されている。 勾配が緩くなり、国道1号から箱根旧街道が分かれるのを見つつ、標高96mの箱根湯本駅に到着する。 車内でもが斜めになっていることが分かる。 3番目のトンネルを抜けると 標高153mの に到着する。 上りホームの片隅にはがある。 塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル 317. トンネルの出口はかなり上の方にあり 、井戸の底から空を見上げるようにも見え 、この電車が登れるのかと驚く人もいる。 次の杉山隧道を抜けるとで深さ43mの谷を渡る。 ここで左下を見ると、先ほど渡った早川橋梁が眼下に見える。 早川橋梁と出山信号場は直線距離で500mも離れていない。 3kmほども続く。 出山信号場から大平台駅までの1. 6kmで、一気に115mも高度を上げたことになる。 大平台 - 強羅 [ ] の敷地の脇を通る登山電車 大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる。 強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると 、標高398mのである。 仙人台からは再び国道1号と並行する が、この辺りでは随所に半径30mから40m程度の急カーブが連続する。 3両編成の列車(全長44m)の場合、先頭車と後尾車では最大で60度近い角度の差がつく。 ホームの向こうにはが一望できる。 ここから先の区間では本来はトンネルで抜けるところを、温泉脈に悪影響を与えないように地形に逆らわないルート設定となった。 では選手の通過時にこの踏切の手前で電車を停車させる。 踏切を過ぎるとまもなく標高523mのである。 小涌谷駅を発車すると、山肌に沿って半径30mの左カーブと右カーブが連続する。 これも地形に逆らわないルート設定の結果である。 の敷地の脇を通りぬけ 、標高539mのに到着である。 ここから先はほとんど平坦な線形で 、地獄澤橋梁を渡ると ほどなく標高541mのに到着する。 スイッチバックが3回あったため、箱根湯本駅を出発した時とは進行方向が逆になった状態での到着である。 あじさい電車 [ ] 線路沿いにはあじさいが植えられている 沿線の線路沿いには1万株以上のが植えられている。 これは、元来は土止めの目的で植えられたもので 、開業当時には存在しなかったものである。 しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため 、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである。 紫陽花の花が見頃となる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり 、1975年頃からは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見頃になる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている。 1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において長官賞を受賞した。 1990年代からは夜間に紫陽花のも行われており 、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、の「夜のあじさい電車」も運行されるようになった。 車両 [ ] 登山電車の特徴 [ ] 箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。 ブレーキ [ ] レール圧着ブレーキ [ ] として設けられているもので 、空気圧により作動し台車からのブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである。 通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触である が、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールの面接触によって ブレーキが作動する仕組みである。 レールに使用される鋼とカーボランダムの(数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0. 30 、撒水した状態では0. 42である。 これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0. 15 、撒水時で0. 123 であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており 、大きな摩擦力が働くことが分かる。 開業時の1919年に導入されたでは電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。 その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため 、全車両がレール圧着ブレーキに統一された。 一時期はカーボランダムの代わりにが使用されたことがある。 踏面ブレーキ [ ] 常用ブレーキのについては、鉄道線の車両では制輪子が使用されている。 これは、合成制輪子よりも鋳鉄制輪子の方が車輪の踏面が荒れる ため、高い粘着力を確保できるという理由である。 撒水装置 [ ] 終点で給水を行なう電車 鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。 レールと車輪では車輪の方が硬く 、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり 、台車側に塗油器を設けることによってレールの磨耗を抑える。 しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して上り勾配でのや下り勾配でのが発生し 、極めて危険な状態となる。 そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした。 このため、各車両とも車両の両端部に容量360の水タンクを設け 、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している。 片道1回の運行でおよそ50Lから80Lの水を消費する。 開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという。 このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けた が、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した。 なお、開業当初は粘着力を増す目的で全車両の台車にを設けていた が、撒水したところに砂を撒くことによってレールの磨耗が激しくなったため 、撒砂装置は後年、全て撤去されている。 連結器 [ ] 開業当時に製造されたチキ1形ではを装備しており 、1927年に登場したチキ2形ではを装備していた。 しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発される までは、連結して運用されることはなかった。 この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため 、上下左右に大きく振れる構造となっている。 ただし、「」の編成中間部では半永久連結器が使用されている。 また、連結器の突き出し部分は長くとられており 、連結面間距離においても通常の20mの通勤電車で500mm程度なのに対して 、「ベルニナ号」では860mmも空いている。 なお、車両間のは非常用であり 、貫通幌も設置されておらず 、通常は施錠されている。 大容量抵抗器 [ ] 電車の走行・ブレーキに使用するは下り坂でので使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している。 開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていた が、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた。 その後、旅客車両では全て屋根上に抵抗器を搭載している。 車両各説 [ ] 自社車両 [ ] 現有車両 [ ] 1919年の開業当時に7両が製造された。 電装品と台車はアメリカ製 、車体はによる木造車体である で、全車両が車両中央に手荷物室を設けていた。 1926年にチキ5がにより廃車。 1934年にはチキ1・チキ2・チキ6・チキ7の4両が荷物室を撤去し 、荷物室が残った車両はチキテ1形に称号変更を行いチキテ3・チキテ4となる。 1950年に全車両について車体の鋼体化と複電圧化改造が行われ、同年に全車両がモハ1形に称号変更 、番号は元の番号に100を加算しモハ101〜104・106・107となった。 その後、1993年の3両編成化に伴い全車両が片側の運転台を撤去して2両固定編成化。 2002年に101-102編成が廃車。 2019年7月には箱根登山鉄道最後のの103-107編成が廃車となり、残るはの104-106編成のみとなった。 1927年に3両が製造された。 電装品と台車はスイス製 、車体は日本車輌製造による木造車体である で、番号はチキ1形に続いてチキ8からチキ10とされた。 1934年にはチキ8・10の4両が荷物室を撤去し 、荷物室が残った車両はチキテ2形に称号変更を行いチキテ9となる。 1935年には保管されていた電装品と台車を使用し、の鋼製車体を架装したチキ111・チキ112が増備された。 1950年に複電圧化改造と同時期に称号変更が行われモハ2形・モハニ2形となり 、モハ8・モハニ9・モハ10は元の番号に100を加算した。 1955年から1957年にかけて木造車体の車両については鋼体化が行われ 、同時に全車両ともモハ2形に揃えられモハ108〜112となった。 1991年に2両(モハ111・112)が廃車 、2017年にもモハ110が廃車となり 、残るは108・109号のみである。 約45年ぶりとなる新型車両として1981年に登場 、には1編成が増備 、2004年には冷房改造と同時に後述する「サン・モリッツ号」の中間車を組み込んで3両編成となった。 第25回受賞車両。 登山電車では初の冷房車として1989年に登場。 1991年に1編成が増備され 、1993年には3両編成化のため中間車2両を増備 、1997年には3両編成1編成が増備された。 2004年には2編成が2両編成となり 、捻出された中間車は前述の「ベルニナ号」に組み込まれた。 箱根登山鉄道では初の車両となるほか、・LED照明を採用する。 デザイン設計はに依頼。 2014年4月14日に最初の車両が入線 、2014年11月1日より運行を開始した。 2000系の増結用として2014年に2両が製造され 、その後も旧型車両の置き換えのために導入が進められる予定。 2016年12月5日には、3000形を片運転台・2両固定編成に設計変更した3100形を1編成導入することが発表され 、2017年5月15日より運行を開始した。 1975年に製造された荷物電車。 過去の車両 [ ] 1935年に川崎車両で3両が製造された。 電装品・台車も日本製で 、当初より番号はチキ113からチキ115となっている。 1984年に2両が廃車 、1997年に残る1両も廃車となり全廃。 開業より早い1916年に2両が製造された電動無蓋貨車 で、建設時から資材輸送に使用されていた。 1952年に1両が廃車された が、その後も1両が車庫での入換用に残されていた。 1992年に全廃。 1921年に2両が製造された電動有蓋貨車 で、箱根の旅館で使用する食材や資材などの運搬に使用されていた。 1952年に1両が廃車された が、その後も保線用に残されていた。 1976年に全廃。 乗り入れ車両 [ ] 小田原 - 箱根湯本間の各駅停車に使用される、登山電車カラーの 1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は・などの30両に限定されていた。 これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである。 その後 や・なども乗り入れるようになった。 その後、1982年頃までは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両はに限定されるようになった。 これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであった が、1982年7月からは・などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった。 ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された。 2000年頃には側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い 、通勤車両は6両編成までなら全ての形式が乗り入れ可能となった。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両以外は4両編成の車両のみが乗り入れている。 同年3月17日のダイヤ改正以降、小田原 - 箱根湯本間の各駅停車はこの4編成に限定して運用されている。 なお、特急車両については、以降の全ての特急車両が乗り入れている。 データ [ ] 駅一覧 [ ] 1985年時点で、箱根登山鉄道が公表していると、の地図に記載されている標高は異なっていた。 これは、箱根登山鉄道の建設時の測量の際のが異なるためであった。 しかし、東日本大震災の後に小田原市内各所で表示が行われた際に、駅前の標高表示と駅名標で数値が異なるとの指摘を受けて標高を再調査したところ、2013年7月に全ての駅で数値が異なっていたことが判明したため、同年11月に各駅の表示を修正することになった。 下表の標高は修正後の数値である。 は、2014年1月より順次導入。 小田急小田原線新宿駅からの通し番号となっている。 全駅に所在。 入生田駅 - 箱根湯本駅間は、軌間1,067mm(狭軌)と軌間1,435mm(標準軌)の三線軌条区間。 箱根湯本駅で運転系統が分離されているため、箱根湯本駅を跨ぐ区間を乗車する場合は乗り換えが必要となる。 各駅停車は省略(全旅客駅に停車)。 7 1. 5 3. 0 4. 9 6. 0 7. 2 8. 6 9. 5 10. 8 11. 9 12. 3 13. 9 14. 3 * OH57 541 0. 7 15. 箱根湯本駅:(1919 - 1935年)• 箱根板橋駅:(1935 - 1956年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• にある半径28mのカーブが普通鉄道最小半径である。 「であったことは間違いない」と推測されている。 1mあたりの重さが50kgのレール。 1mあたりの重さが37kgのレール。 1919年8月20日改正の時刻表で確認できる。 1925年3月22日発行の乗車券で、「通用発行日共二日間」という表記が確認できる。 10両編成のとについては、小田原駅でを行い、最大6両編成で乗り入れている。 出典 [ ]• - 箱根登山鉄道(2019年12月22日閲覧)• - 乗換案内NEXT(2019年12月22日閲覧)• - 路線情報(2019年12月22日閲覧)• (2019年12月22日閲覧)• (2019年12月22日閲覧)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• 神奈川新聞. 2020年3月26日. の2020年3月26日時点におけるアーカイブ。 2020年3月26日閲覧。 神奈川新聞. 2020年5月11日. 2020年5月12日閲覧。 , ナビタイム, 2018-2-5 ,• 2012年5月14日. 2013年2月14日閲覧。 (小田急電鉄・2017年12月15日)• 箱根登山鉄道 2019年9月5日. 2019年10月8日閲覧。 株式会社イード Response 2017年5月23日. 2017年7月3日閲覧。 日本語 PDF プレスリリース , , 2016年12月5日 ,• 日本語 プレスリリース , 箱根登山鉄道, 2017年5月17日 ,• 箱根登山鉄道公式サイトニュースリリース(インターネットアーカイブ)• - 小田急電鉄、2013年12月24日• - 箱根登山鉄道 参考文献 [ ] 社史 [ ]• 箱根登山鉄道株式会社総務部総務課『すばらしい箱根 グラフ100』箱根登山鉄道、1988年。 書籍 [ ]• 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』、2009年。 青田孝『箱根の山に挑んだ鉄路 「天下の険」を越えた技』交通新聞社、2011年。 荒井文治『箱根登山鉄道への招待』、1994年(原著1988年)、第6版。 市川健三編『箱根の鉄道100年』、1988年。 伊藤東作『鉄道110年とっておきの話』雄鶏社、1981年。 生方良雄、『日本の私鉄1 小田急』、1988年。 生方良雄、諸河久『小田急ロマンスカー物語』保育社、1994年。 生方良雄『小田急物語』多摩川新聞社、2000年。 生方良雄『小田急の駅 今昔・昭和の面影』、2009年。 加藤一雄『小田急よもやま話(下)』多摩川新聞社、1993年。 加藤利之『箱根山の近代交通』、1995年。 編『ブルーリボン賞の車両'88』保育社、1988年。 編『小田急 車両と駅の60年』大正出版、1987年。 0025-301310-4487。 渡辺一夫『トコトコ登山電車』あかね書房、1985年。 『58 東海自動車・箱根登山バス』BJエディターズ〈〉、2006年。 『2012 小田急時刻表』交通新聞社、2012年。 『鉄道車両ガイドVol. 15 箱根登山鉄道モハ1・2・3』、2013年。 雑誌記事 [ ]• 蛯原宏「初夏の山峡にツリカケ三重奏 箱根登山鉄道モハ1形・2形に見る連結運転」『』第467号、鉄道ジャーナル社、2005年9月、 50-55頁。 生方良雄「駅・線路変更にみる小田急の移り変わり」『』第546号、電気車研究会、1991年7月、 94-105頁。 生方良雄「私鉄車両めぐり37 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 pp. 42-71。 小川浩之「現役車両を分かりやすく解説 箱根登山鉄道の通になる」『鉄道ひとり旅ふたり旅』第1号、枻出版社、2010年5月、 31-33頁、。 刈田草一「小田急列車運転慨史」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 15-23頁。 刈田草一「小田急電鉄 列車運転の変遷」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 145-156頁。 岸上明彦「天下の嶮に挑む箱根登山鉄道」『鉄道ピクトリアル』第532号、電気車研究会、1990年9月、 41-45頁。 楠居利彦「特集 箱根登山鉄道」『』第93号、、1992年1月、 26-47頁。 杉田弘志「小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 204-219頁。 「箱根山に挑む観光鉄道」『鉄道ジャーナル』第383号、鉄道ジャーナル社、1998年9月、 40-49頁。 種村直樹「関東の駅百選を歩き、遊ぶ 4」『鉄道ジャーナル』第431号、鉄道ジャーナル社、2002年9月、 70-75頁。 一寸木正長、生方良雄「箱根登山鉄道1000形登場」『』第240号、交友社、1981年4月、 54-64頁。 西口靖宏、岸上明彦「箱根登山鉄道の車両と運転」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 117-119頁。 細野詠一「箱根登山鉄道 サン・モリッツ号が征く」『鉄道ジャーナル』第275号、鉄道ジャーナル社、1989年9月、 136-141頁。 本多聡志「小田急電鉄列車運転の興味」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 106-112頁。 本多聡志「小田急電鉄 列車運転の興味」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 189-193頁。 三浦衛「天下の険を攀じ登る 箱根登山鉄道 箱根湯本-強羅間3両編成運転化で輸送力増強」『鉄道ジャーナル』第324号、鉄道ジャーナル社、1993年10月、 70-77頁。 「箱根登山鉄道路線図」『鉄道ピクトリアル』第532号、電気車研究会、1990年9月、 24-25頁。 「日本一の登山鉄道を誌上体験」『鉄道ひとり旅ふたり旅』第1号、枻出版社、2010年5月、 10-30頁、。 「POST」『』第613号、、2012年5月、 186-194頁。 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第550号、鉄道ジャーナル社、2012年8月、 145-153頁。 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第573号、鉄道ジャーナル社、2014年7月、 114-120頁。 外部リンク [ ]•

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神奈川)台風で被災の箱根登山鉄道、復活へ前進:朝日新聞デジタル

箱根 登山 鉄道

7 OH48 高16m 3. 1m 地蔵山隧道 長183. 1m 塔ノ峰隧道 長194. 1m 7. 1 OH52 高153m 大ヶ嶽隧道 長317. 9m 杉山隧道 長148. 9m 出山隧道 長124. 7m 松山隧道 長96. 6m 8. 3 高222m 嵐山隧道 長236. 5m 鐘山隧道 長89. 5m 常磐山隧道 長167. 0m 畑山隧道 長102. 6m 9. 9 OH53 高337m 10. 4 高346m 大平台隧道 長301. 9m 11. 2 高398m 12. 1 OH54 高436m 13. 4 OH55 高523m 14. 3 OH56 高539m 15. 0 OH57 高541m 軌間は現状を示す• 標準軌:1435mm• 狭軌:1067mm• 三線軌条:1435mmと1067mm 鉄道線(てつどうせん)は、のを起点とし、神奈川県のまでを結ぶのである。 で使われる路線記号は OH。 旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、対外的には「 箱根登山電車」の名が使われる。 メディアなどでは路線を指して会社名(箱根登山鉄道) のほか、「 箱根登山線 」「 箱根登山鉄道線 」とも呼ばれる。 最急80という、やに頼らない(普通鉄道)としては日本最急 のが存在する。 建設にあたってのベルニナ鉄道(その後の)を参考にしており 、その縁でに、箱根登山鉄道とレーティッシュ鉄道は、の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる。 概要 [ ] 日本国外を外遊した名士からの提案を契機として 1919年に開業した鉄道路線である。 当初はと強羅駅の間を結ぶ路線で 、箱根湯本駅まではが接続していたが、1935年に小田原駅発着となった。 箱根登山鉄道はの一社で 、1950年以降は箱根湯本駅までの列車が乗り入れている。 日本の粘着式鉄道では最急の勾配や急カーブ、などがあるで、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある。 特徴 [ ] 本路線は、以下のような数々の特徴を有する。 勾配 [ ] 箱根湯本駅との間には、80という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する。 57度である。 1両の全長が14. 17mほどの高低差がつく。 建設当時の時点において日本における最急勾配だったのはの66. 曲線半径 [ ] との間 、小涌谷駅との間 には、半径30mという急な曲線が存在する。 これはで後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており 、しかも脈に悪影響を与えるという理由で掘削ができなくなった 区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである。 半径30mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは60度ほどの角度がつく。 日本の普通鉄道において、本線上で半径30mもの急曲線が設定されている事例は、や以外にはほとんどない。 三線軌条 [ ] と箱根湯本駅の間には、国際の1,435mm・の1,067mmという異なるにおいて、片側のレールを共用するが存在する。 これはするように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で 、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された。 これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、も複雑な構造となった。 狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく 、(JR東日本)では運行のためにの一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察し、分岐器の構造などについて学んでいる。 しかし、輸送力の違いや化対応などの理由により 、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された。 歴史 [ ] 建設の経緯 [ ] 箱根に登山電車を走らせる計画は、に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあった が、計画が具体化するのは、1900年にと湯本を結ぶの路線(を参照)を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けでから「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである。 小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめた が、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった。 登山電車の建設計画が再び具体化するのは1907年、におけるの実況を視察した者 から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。 また、やなどの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告した ことを受け、1910年1月の臨時株主総会において、からへ路線を延長することが決定した。 同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅からを経てのへの延伸計画を追加し 、3月1日に登山鉄道建設の免許が交付された が、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた。 度重なるルート変更 [ ] と箱根登山鉄道各線の衛星写真。 水色が箱根ロープウェイ、赤が 鉄道線、橙が鋼索線。 当初の免許では、の右岸を遡り、須雲川集落から北上してへ抜け、からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13kmになるルートであった が、この時期に軌道線がの洪水によって軌道が流失してしまい 、ルート変更を余儀なくされた ため、登山鉄道のルートも再検討することとなった。 そこで、1911年5月にはまでは早川の左岸を進み 、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された。 このルート案では、が2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125の鉄道とする計画で 、湯本から強羅までの距離は7. 1kmほどとなるルート設定であった が、当時既に最急勾配が66. また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあった ため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をに派遣した。 建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていた が、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した。 この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが 、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている。 難工事・運行開始 [ ] 建設中の出山信号場 こうして、ようやく建設は開始された。 ところが、にが勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶 、建設工事にも影響を及ぼした。 の建設に当たってはの橋梁の鋼体の払い下げを受けることになった が、景観破壊の恐れがあるとからクレームが入り 、改築を条件にしてようやく認められた。 この早川橋梁の架設工事が終了したのは1917年5月31日で 、1915年に架橋工事が開始されてから 2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている。 車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず 、製の車両を購入することになった。 さらに、1916年に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した。 山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく 、仕方なく遠回りのルートに変更された。 当初計画になかったは、この時に開設が決まった。 震災により崩壊した杉山トンネル。 手前のトラスは早川橋梁 9月1日に発生した()で、鉄道線は甚大な被害を蒙った。 箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没する など、軌道は大部分が崩壊または埋没し 、建造物も半数近くが半壊 、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した。 橋梁は1箇所を除いて全て破壊されてしまった が、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷 とわずかにずれた程度で、被害を免れた。 7両あった登山電車も全て脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった。 早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌1924年1月から復旧工事が開始された。 復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日 、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日 、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日 、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった。 震災の被害から復帰した後の1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するというが発生した。 運転士は生存していたものの、精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかった が、速度制御に失敗したものとみられている。 この事故の後しばらくした1928年1月に、小田原電気鉄道はいったんに合併した 後、同年8月に再度 箱根登山鉄道として分社化された。 登山電車が小田原へ乗り入れ [ ] 日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された。 この計画では小田原からまでは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった。 板橋陸橋での試運転 4月1日にを起点とする(小田急)がまで開通した ことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請 、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ。 1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い 、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手 、1935年9月21日にすべての工事が完了した。 小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている。 これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった。 そこで、に連結器についての指導を仰いだ結果 、の設計による連結器の試作が実現した。 数か月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため 、の連結器を全て交換した。 こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された。 これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり 、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した。 に入ってからは、1942年5月30日付でが社長に就任する などの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった。 終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両がとなった。 1948年9月15日にはが上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失 、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり 、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ。 小田急が箱根湯本へ乗り入れ [ ] これより少し遡る1946年には東京急行電鉄()が策定した『鉄軌道復興3カ年計画』の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた。 1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップの運行を開始していた が、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え 、この乗り入れ計画を推進することになった。 しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。 三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造 鉄道線のは国際的な標準である1,435mmであった が、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067mmであった。 また、小田急を1,435mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で 、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった 上、との貨物輸送においての直通が不可能となり 、貨物収入が激減してしまうことになる。 そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設するを採用することとなった。 なお、共用するレールについては山側(小田原駅を発車すると進行方向右側)とされた が、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、が並走)への転落を防ぐためである。 通常のは可動箇所が2箇所である が、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり 、当初は手動でによって切り替えを行っていた が、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという。 その後、分岐器の切り替えは電動化された。 小田急(軌間1,067mm)と箱根登山(軌間1,435mm)の車両規格の相違。 片側のレールを共用すると、車体の位置がこれだけずれてしまう 三線軌条の導入によって、問題になったのは車両のであった。 登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急ではを使用していた。 通常ならアダプターの役割を果たすを介して非常時の連結に備えることになる が、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない。 このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった。 車体中心のずれは駅のと車両の間にも影響し 、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800mmであるのに対し 、登山電車の車体幅は2,520mmと狭い ことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30cm以上の隙間ができてしまうことになった。 また、鉄道線の架線電圧は当時600Vであった が、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500Vであった ため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500Vに昇圧し 、箱根湯本駅構内にはが設置され 、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった。 ただし、これによって直流600Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり 、箱根湯本駅から送電線による給電をせざるをえなくなった。 その上、軌道条件も異なっていた。 そのような勾配が1km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった。 このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった。 このほか、に設備を新設した ほか、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた。 技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。 レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた。 これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった。 これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。 とのによって車両関係の改造が遅れるという障害もあった が、8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された。 乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してが飾られ 、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた。 1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設 、1972年には が導入された。 1972年3月15日には最寄の二ノ平駅がに改称された。 1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され 、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20mの車両による6両編成に増強された。 登山電車の3両編成化 [ ] 登山電車に乗ろうとする人たちの長蛇の列(1993年のゴールデンウィーク) 鉄道線を利用する観光客は増加し、1991年には年間輸送人員が1千万人を超えた。 当時の登山電車は2両で15分間隔が最大の輸送力であり 、や箱根が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた。 しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した。 鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された。 最も難工事だったのはの工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で 、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで 、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった。 このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり 、文字通りでの工事を余儀なくされた。 塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた。 これ以外にも、の増強や 、架線電圧を600Vから750Vへ昇圧 、一部車両の2両固定編成化などが行われた。 塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため 、当初は1993年10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された。 三線軌条区間の縮小 [ ] 2006年以降は小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両のみとなった しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった。 このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車を全て箱根湯本駅と強羅駅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた。 また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる 上、途中のではホーム長が短いために、小田急の車両ではを使用して手動で扉を開ける (ホームにかからない車両の扉は開けない、いわゆる)という状態であった。 さらに対応にも問題が生じた。 小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、に抵触する可能性も出てきた。 こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ 、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった。 さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車は全て小田急の車両に置き換えられることになった。 これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去された が、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、風祭駅の改良工事完了によりドアカットが解消されたほか 、小田急の車両は以外は4両編成での運行となった。 なお、大きな被害をもたらした(2011年)以来、小田原市内では表示が随所に表示されるようになった が、箱根登山鉄道が公表していた数値と異なることが問題となり、2013年11月に修正されることになった ()。 2019年10月13日、(台風19号)により大平台駅 - 小涌谷駅間を中心に土砂流入や橋脚流失など甚大な被害を受け、箱根湯本駅 - 強羅駅間が長期不通となった。 箱根登山鉄道は同年11月22日に同区間の運転再開を2020年秋頃の見通しと発表したが 、後に2020年7月下旬に前倒しすると発表した。 運行形態 [ ] 軌道条件 [ ] 半径30mの急カーブ 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、との間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配 80 を登る。 この区間に3か所(・・)あるも山岳鉄道的な特徴である。 このほか、カーブの最小半径も30mと小さい。 全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50レール であるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10m の37kgレール を使用している。 37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること 、通過トン数にも十分対応している といった理由が挙げられている。 運行体制 [ ] 運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており 、軌道線の市内電車との接続が図られていた。 戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車はが3往復とが7往復であった。 その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復 、日中の急行は30分間隔での運転で 、これに登山電車が接続していた。 その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原駅 - 強羅駅間を直通する登山電車が1時間あたり2本 、これにから乗り入れてくると急行がそれぞれ1時間あたり2本ずつとなっており 、箱根湯本駅 - 強羅駅間ではこの区間を往復する列車が1時間あたり2本設定されており 、小田原駅発着の直通電車とあわせて1時間あたり4本という運行形態であった。 しかし、登山電車は小型の車両で輸送力にやや難があったため 、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原駅発の箱根湯本駅行きが設定された。 さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は1時間あたり2本から4本に倍増 、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった。 さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた。 これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった。 2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転のが1時間あたり4本 、小田急小田原線・方面から特急ロマンスカーが1時間あたり2本 という運行体制が基本となった。 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中1時間あたり4本で運行される。 この他に夜間に着が各停として設定されている。 以前は朝夕に発着や平日のみ本厚木駅発も設定されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止となった。 なお、同改正での本厚木駅着は平日のみだったが、2019年3月16日以降は土休日も設定されるようになった。 箱根駅伝への対応 [ ] 風祭から箱根湯本ゆき乗車券。 このような短い区間であっても、2日間有効で途中下車可能だった。 に隣接する小涌谷踏切はのコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する。 これに対応して、開催日の1月2日(往路)昼頃と1月3日(復路)午前8時台はに係員を待機させ 、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる。 これは選手が踏切で足止めされ、をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である。 乗車券・座席券 [ ] 鉄道線の開業当初より 、線内の乗車券は片道でも2日間有効で可能であった が、2002年4月1日よりこの取り扱いは廃止され 、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された。 特急ロマンスカーについては、小田急との通し利用のほか、当日空席がある場合に限り小田原駅・箱根湯本駅のホームにおいて発売する座席券(大人200円・小人100円)を購入することで小田原 - 箱根湯本間のみの利用も可能である。 2005年9月30日までは箱根登山鉄道の料金が設定されていなかったため、小田原 - 箱根湯本間のみの利用はできなかった。 小田急との通し利用については両社の料金を合算する(2018年3月16日までは小田急が箱根登山鉄道の座席料金に相当する額を割り引いていた )。 1994年から運行する「夜のあじさい号」は全車指定席であり、専用の座席券が必要となる。 運賃 [ ] 鉄道線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。 ・運賃同額。 2019年10月1日改定。 箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており 、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたという が、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である。 箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる。 箱根湯本駅から強羅駅まで8. 9kmの区間のうち、半分近い4. この区間では大半の区間で樹木に囲まれており 、夏季には並走するからでさえも電車の姿は見えなくなる。 小田原 - 箱根湯本 [ ] 小田原駅 - 箱根板橋駅間の半径160mの急カーブ(2009年3月17日) 標高14mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJRと並行して南に下る。 この下り勾配を下りきっての高架橋をくぐる と標高36mのである。 風祭駅を過ぎると最大28. 入生田駅を発車するとほどなくするとに入るが、38. この間に、進行方向右側の斜面に送水管が見える が、この送水管は登山鉄道開業のために建設された三枚橋発電所への水路で 、発電所自体はその後東京電力に移管されている。 勾配が緩くなり、国道1号から箱根旧街道が分かれるのを見つつ、標高96mの箱根湯本駅に到着する。 車内でもが斜めになっていることが分かる。 3番目のトンネルを抜けると 標高153mの に到着する。 上りホームの片隅にはがある。 塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル 317. トンネルの出口はかなり上の方にあり 、井戸の底から空を見上げるようにも見え 、この電車が登れるのかと驚く人もいる。 次の杉山隧道を抜けるとで深さ43mの谷を渡る。 ここで左下を見ると、先ほど渡った早川橋梁が眼下に見える。 早川橋梁と出山信号場は直線距離で500mも離れていない。 3kmほども続く。 出山信号場から大平台駅までの1. 6kmで、一気に115mも高度を上げたことになる。 大平台 - 強羅 [ ] の敷地の脇を通る登山電車 大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる。 強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると 、標高398mのである。 仙人台からは再び国道1号と並行する が、この辺りでは随所に半径30mから40m程度の急カーブが連続する。 3両編成の列車(全長44m)の場合、先頭車と後尾車では最大で60度近い角度の差がつく。 ホームの向こうにはが一望できる。 ここから先の区間では本来はトンネルで抜けるところを、温泉脈に悪影響を与えないように地形に逆らわないルート設定となった。 では選手の通過時にこの踏切の手前で電車を停車させる。 踏切を過ぎるとまもなく標高523mのである。 小涌谷駅を発車すると、山肌に沿って半径30mの左カーブと右カーブが連続する。 これも地形に逆らわないルート設定の結果である。 の敷地の脇を通りぬけ 、標高539mのに到着である。 ここから先はほとんど平坦な線形で 、地獄澤橋梁を渡ると ほどなく標高541mのに到着する。 スイッチバックが3回あったため、箱根湯本駅を出発した時とは進行方向が逆になった状態での到着である。 あじさい電車 [ ] 線路沿いにはあじさいが植えられている 沿線の線路沿いには1万株以上のが植えられている。 これは、元来は土止めの目的で植えられたもので 、開業当時には存在しなかったものである。 しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため 、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである。 紫陽花の花が見頃となる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり 、1975年頃からは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見頃になる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている。 1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において長官賞を受賞した。 1990年代からは夜間に紫陽花のも行われており 、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、の「夜のあじさい電車」も運行されるようになった。 車両 [ ] 登山電車の特徴 [ ] 箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。 ブレーキ [ ] レール圧着ブレーキ [ ] として設けられているもので 、空気圧により作動し台車からのブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである。 通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触である が、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールの面接触によって ブレーキが作動する仕組みである。 レールに使用される鋼とカーボランダムの(数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0. 30 、撒水した状態では0. 42である。 これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0. 15 、撒水時で0. 123 であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており 、大きな摩擦力が働くことが分かる。 開業時の1919年に導入されたでは電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。 その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため 、全車両がレール圧着ブレーキに統一された。 一時期はカーボランダムの代わりにが使用されたことがある。 踏面ブレーキ [ ] 常用ブレーキのについては、鉄道線の車両では制輪子が使用されている。 これは、合成制輪子よりも鋳鉄制輪子の方が車輪の踏面が荒れる ため、高い粘着力を確保できるという理由である。 撒水装置 [ ] 終点で給水を行なう電車 鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。 レールと車輪では車輪の方が硬く 、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり 、台車側に塗油器を設けることによってレールの磨耗を抑える。 しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して上り勾配でのや下り勾配でのが発生し 、極めて危険な状態となる。 そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした。 このため、各車両とも車両の両端部に容量360の水タンクを設け 、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している。 片道1回の運行でおよそ50Lから80Lの水を消費する。 開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという。 このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けた が、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した。 なお、開業当初は粘着力を増す目的で全車両の台車にを設けていた が、撒水したところに砂を撒くことによってレールの磨耗が激しくなったため 、撒砂装置は後年、全て撤去されている。 連結器 [ ] 開業当時に製造されたチキ1形ではを装備しており 、1927年に登場したチキ2形ではを装備していた。 しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発される までは、連結して運用されることはなかった。 この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため 、上下左右に大きく振れる構造となっている。 ただし、「」の編成中間部では半永久連結器が使用されている。 また、連結器の突き出し部分は長くとられており 、連結面間距離においても通常の20mの通勤電車で500mm程度なのに対して 、「ベルニナ号」では860mmも空いている。 なお、車両間のは非常用であり 、貫通幌も設置されておらず 、通常は施錠されている。 大容量抵抗器 [ ] 電車の走行・ブレーキに使用するは下り坂でので使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している。 開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていた が、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた。 その後、旅客車両では全て屋根上に抵抗器を搭載している。 車両各説 [ ] 自社車両 [ ] 現有車両 [ ] 1919年の開業当時に7両が製造された。 電装品と台車はアメリカ製 、車体はによる木造車体である で、全車両が車両中央に手荷物室を設けていた。 1926年にチキ5がにより廃車。 1934年にはチキ1・チキ2・チキ6・チキ7の4両が荷物室を撤去し 、荷物室が残った車両はチキテ1形に称号変更を行いチキテ3・チキテ4となる。 1950年に全車両について車体の鋼体化と複電圧化改造が行われ、同年に全車両がモハ1形に称号変更 、番号は元の番号に100を加算しモハ101〜104・106・107となった。 その後、1993年の3両編成化に伴い全車両が片側の運転台を撤去して2両固定編成化。 2002年に101-102編成が廃車。 2019年7月には箱根登山鉄道最後のの103-107編成が廃車となり、残るはの104-106編成のみとなった。 1927年に3両が製造された。 電装品と台車はスイス製 、車体は日本車輌製造による木造車体である で、番号はチキ1形に続いてチキ8からチキ10とされた。 1934年にはチキ8・10の4両が荷物室を撤去し 、荷物室が残った車両はチキテ2形に称号変更を行いチキテ9となる。 1935年には保管されていた電装品と台車を使用し、の鋼製車体を架装したチキ111・チキ112が増備された。 1950年に複電圧化改造と同時期に称号変更が行われモハ2形・モハニ2形となり 、モハ8・モハニ9・モハ10は元の番号に100を加算した。 1955年から1957年にかけて木造車体の車両については鋼体化が行われ 、同時に全車両ともモハ2形に揃えられモハ108〜112となった。 1991年に2両(モハ111・112)が廃車 、2017年にもモハ110が廃車となり 、残るは108・109号のみである。 約45年ぶりとなる新型車両として1981年に登場 、には1編成が増備 、2004年には冷房改造と同時に後述する「サン・モリッツ号」の中間車を組み込んで3両編成となった。 第25回受賞車両。 登山電車では初の冷房車として1989年に登場。 1991年に1編成が増備され 、1993年には3両編成化のため中間車2両を増備 、1997年には3両編成1編成が増備された。 2004年には2編成が2両編成となり 、捻出された中間車は前述の「ベルニナ号」に組み込まれた。 箱根登山鉄道では初の車両となるほか、・LED照明を採用する。 デザイン設計はに依頼。 2014年4月14日に最初の車両が入線 、2014年11月1日より運行を開始した。 2000系の増結用として2014年に2両が製造され 、その後も旧型車両の置き換えのために導入が進められる予定。 2016年12月5日には、3000形を片運転台・2両固定編成に設計変更した3100形を1編成導入することが発表され 、2017年5月15日より運行を開始した。 1975年に製造された荷物電車。 過去の車両 [ ] 1935年に川崎車両で3両が製造された。 電装品・台車も日本製で 、当初より番号はチキ113からチキ115となっている。 1984年に2両が廃車 、1997年に残る1両も廃車となり全廃。 開業より早い1916年に2両が製造された電動無蓋貨車 で、建設時から資材輸送に使用されていた。 1952年に1両が廃車された が、その後も1両が車庫での入換用に残されていた。 1992年に全廃。 1921年に2両が製造された電動有蓋貨車 で、箱根の旅館で使用する食材や資材などの運搬に使用されていた。 1952年に1両が廃車された が、その後も保線用に残されていた。 1976年に全廃。 乗り入れ車両 [ ] 小田原 - 箱根湯本間の各駅停車に使用される、登山電車カラーの 1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は・などの30両に限定されていた。 これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである。 その後 や・なども乗り入れるようになった。 その後、1982年頃までは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両はに限定されるようになった。 これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであった が、1982年7月からは・などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった。 ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された。 2000年頃には側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い 、通勤車両は6両編成までなら全ての形式が乗り入れ可能となった。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両以外は4両編成の車両のみが乗り入れている。 同年3月17日のダイヤ改正以降、小田原 - 箱根湯本間の各駅停車はこの4編成に限定して運用されている。 なお、特急車両については、以降の全ての特急車両が乗り入れている。 データ [ ] 駅一覧 [ ] 1985年時点で、箱根登山鉄道が公表していると、の地図に記載されている標高は異なっていた。 これは、箱根登山鉄道の建設時の測量の際のが異なるためであった。 しかし、東日本大震災の後に小田原市内各所で表示が行われた際に、駅前の標高表示と駅名標で数値が異なるとの指摘を受けて標高を再調査したところ、2013年7月に全ての駅で数値が異なっていたことが判明したため、同年11月に各駅の表示を修正することになった。 下表の標高は修正後の数値である。 は、2014年1月より順次導入。 小田急小田原線新宿駅からの通し番号となっている。 全駅に所在。 入生田駅 - 箱根湯本駅間は、軌間1,067mm(狭軌)と軌間1,435mm(標準軌)の三線軌条区間。 箱根湯本駅で運転系統が分離されているため、箱根湯本駅を跨ぐ区間を乗車する場合は乗り換えが必要となる。 各駅停車は省略(全旅客駅に停車)。 7 1. 5 3. 0 4. 9 6. 0 7. 2 8. 6 9. 5 10. 8 11. 9 12. 3 13. 9 14. 3 * OH57 541 0. 7 15. 箱根湯本駅:(1919 - 1935年)• 箱根板橋駅:(1935 - 1956年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• にある半径28mのカーブが普通鉄道最小半径である。 「であったことは間違いない」と推測されている。 1mあたりの重さが50kgのレール。 1mあたりの重さが37kgのレール。 1919年8月20日改正の時刻表で確認できる。 1925年3月22日発行の乗車券で、「通用発行日共二日間」という表記が確認できる。 10両編成のとについては、小田原駅でを行い、最大6両編成で乗り入れている。 出典 [ ]• - 箱根登山鉄道(2019年12月22日閲覧)• - 乗換案内NEXT(2019年12月22日閲覧)• - 路線情報(2019年12月22日閲覧)• (2019年12月22日閲覧)• (2019年12月22日閲覧)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• 神奈川新聞. 2020年3月26日. の2020年3月26日時点におけるアーカイブ。 2020年3月26日閲覧。 神奈川新聞. 2020年5月11日. 2020年5月12日閲覧。 , ナビタイム, 2018-2-5 ,• 2012年5月14日. 2013年2月14日閲覧。 (小田急電鉄・2017年12月15日)• 箱根登山鉄道 2019年9月5日. 2019年10月8日閲覧。 株式会社イード Response 2017年5月23日. 2017年7月3日閲覧。 日本語 PDF プレスリリース , , 2016年12月5日 ,• 日本語 プレスリリース , 箱根登山鉄道, 2017年5月17日 ,• 箱根登山鉄道公式サイトニュースリリース(インターネットアーカイブ)• - 小田急電鉄、2013年12月24日• - 箱根登山鉄道 参考文献 [ ] 社史 [ ]• 箱根登山鉄道株式会社総務部総務課『すばらしい箱根 グラフ100』箱根登山鉄道、1988年。 書籍 [ ]• 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』、2009年。 青田孝『箱根の山に挑んだ鉄路 「天下の険」を越えた技』交通新聞社、2011年。 荒井文治『箱根登山鉄道への招待』、1994年(原著1988年)、第6版。 市川健三編『箱根の鉄道100年』、1988年。 伊藤東作『鉄道110年とっておきの話』雄鶏社、1981年。 生方良雄、『日本の私鉄1 小田急』、1988年。 生方良雄、諸河久『小田急ロマンスカー物語』保育社、1994年。 生方良雄『小田急物語』多摩川新聞社、2000年。 生方良雄『小田急の駅 今昔・昭和の面影』、2009年。 加藤一雄『小田急よもやま話(下)』多摩川新聞社、1993年。 加藤利之『箱根山の近代交通』、1995年。 編『ブルーリボン賞の車両'88』保育社、1988年。 編『小田急 車両と駅の60年』大正出版、1987年。 0025-301310-4487。 渡辺一夫『トコトコ登山電車』あかね書房、1985年。 『58 東海自動車・箱根登山バス』BJエディターズ〈〉、2006年。 『2012 小田急時刻表』交通新聞社、2012年。 『鉄道車両ガイドVol. 15 箱根登山鉄道モハ1・2・3』、2013年。 雑誌記事 [ ]• 蛯原宏「初夏の山峡にツリカケ三重奏 箱根登山鉄道モハ1形・2形に見る連結運転」『』第467号、鉄道ジャーナル社、2005年9月、 50-55頁。 生方良雄「駅・線路変更にみる小田急の移り変わり」『』第546号、電気車研究会、1991年7月、 94-105頁。 生方良雄「私鉄車両めぐり37 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 pp. 42-71。 小川浩之「現役車両を分かりやすく解説 箱根登山鉄道の通になる」『鉄道ひとり旅ふたり旅』第1号、枻出版社、2010年5月、 31-33頁、。 刈田草一「小田急列車運転慨史」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 15-23頁。 刈田草一「小田急電鉄 列車運転の変遷」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 145-156頁。 岸上明彦「天下の嶮に挑む箱根登山鉄道」『鉄道ピクトリアル』第532号、電気車研究会、1990年9月、 41-45頁。 楠居利彦「特集 箱根登山鉄道」『』第93号、、1992年1月、 26-47頁。 杉田弘志「小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 204-219頁。 「箱根山に挑む観光鉄道」『鉄道ジャーナル』第383号、鉄道ジャーナル社、1998年9月、 40-49頁。 種村直樹「関東の駅百選を歩き、遊ぶ 4」『鉄道ジャーナル』第431号、鉄道ジャーナル社、2002年9月、 70-75頁。 一寸木正長、生方良雄「箱根登山鉄道1000形登場」『』第240号、交友社、1981年4月、 54-64頁。 西口靖宏、岸上明彦「箱根登山鉄道の車両と運転」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 117-119頁。 細野詠一「箱根登山鉄道 サン・モリッツ号が征く」『鉄道ジャーナル』第275号、鉄道ジャーナル社、1989年9月、 136-141頁。 本多聡志「小田急電鉄列車運転の興味」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 106-112頁。 本多聡志「小田急電鉄 列車運転の興味」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 189-193頁。 三浦衛「天下の険を攀じ登る 箱根登山鉄道 箱根湯本-強羅間3両編成運転化で輸送力増強」『鉄道ジャーナル』第324号、鉄道ジャーナル社、1993年10月、 70-77頁。 「箱根登山鉄道路線図」『鉄道ピクトリアル』第532号、電気車研究会、1990年9月、 24-25頁。 「日本一の登山鉄道を誌上体験」『鉄道ひとり旅ふたり旅』第1号、枻出版社、2010年5月、 10-30頁、。 「POST」『』第613号、、2012年5月、 186-194頁。 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第550号、鉄道ジャーナル社、2012年8月、 145-153頁。 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第573号、鉄道ジャーナル社、2014年7月、 114-120頁。 外部リンク [ ]•

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箱根登山鉄道、箱根湯本~強羅間運転再開へ一部区間で試運転を開始

箱根 登山 鉄道

箱根登山鉄道株式会社(はこねとざんてつどう、: Hakone Tozan Railway Co. , Ltd. )は、に本社を設け、神奈川県周辺を主な営業エリアとするの孫会社にあたるのである。 当時のの経路から外れる小田原と箱根を結ぶことを目的としてに設立された 小田原馬車鉄道(その後の)が前身で、その後電化により1896年には 小田原電気鉄道となり、にいったんに合併した後に 箱根登山鉄道として独立した。 10月にはバス部門をとして分社化 、8月に小田急電鉄の完全子会社となり 、10月には純粋持株会社としてに社名変更し 、会社分割によって鉄道部門の事業を継承する「箱根登山鉄道株式会社」が新設された。 鉄道路線としてと(箱根登山ケーブルカー)の2路線を有する他、自社ビルなどの建物の管理運営や、強羅・宮城野地区の旅館などへの供給なども行う。 加盟会社。 グループ会社にはビジネスホテル業を営む「ホテルとざん」 があるほか、箱根登山バスの路線バス車両の一部には「ハートフルバス とざん」と表記されており、かつて存在した子会社のが運営するは「トザンストア」 、2002年から2006年まで発売されていたの名称は「とざんカード」 と称していたなど、神奈川県西部地区では単に「登山」とも通称される事例が見られる。 なお、DIY店を運営する「」 もグループ会社であったが、2017年に株式会社へと全株式が譲渡されグループからは外れている。 本項では鉄道事業を中心として、小田原馬車鉄道・小田原電気鉄道・箱根登山鉄道について記述し、必要に応じて自動車部門(バス事業)についても記述する。 持株会社についてはを参照のこと。 鉄道線の詳細な歴史については「」を、鋼索線の詳細な歴史については「」を、軌道線(小田原市内線)の詳細な歴史については「」を、自動車事業の詳細な歴史については「」を参照 創業期・馬車鉄道時代 [ ] に日本で初めて鉄道路線が開通した後、当時の政府は東京と大阪を結ぶ幹線鉄道の建設を計画していた。 当初はに沿ったルート が選定されていたが、1884年から建設工事に入ると当時のトンネル切削などの土木技術が未熟なことから、工事が大幅に遅れることになった。 このため、には中山道ルートの建設を一時休止し 、東海道に沿ったルートの建設が決定された。 小田原はの開府以来、東海道におけるとして栄えていた。 東海道ルートの建設決定によって、小田原の自治体では「少なくとも小田原には鉄道が来る」という期待を持っていた。 ところが、その後明らかになった路線計画では、国府津から御殿場を回って沼津へ抜けるルートとなり、小田原は経由しなかった。 当初は箱根山を越えて三島に至るルートも検討されていた が、当時の技術水準では難工事となることが予想されたためである。 「幹線ルートから外れることによって近代化から取り残される」と危惧した小田原の有力者は、当時の鉄道局に対して実地測量を求める嘆願を行った が、受け入れられなかった。 1900年ごろの湯本駅と馬車鉄道の車両 そこで、小田原の有力者は11月20日に 、のを起点とし、小田原を経由して箱根町湯本にいたるの敷設を神奈川県に対して請願した。 この請願については神奈川県当局は好意的で 、2月には敷設許可が得られた。 ただし、神奈川県当局が好意的だったのは、の再興運動が起きないように、「恩を売る」という意味もあったと推測されている。 ともあれ、同年2月21日に 小田原馬車鉄道が設立され 、小田原で薬商を営んでいた吉田義方 が初代社長として就任した。 同年3月から敷設工事が開始されたが、9月3日には全線の敷設工事が竣工した。 こうして、1888年10月1日より日本では3番目となる馬車鉄道として 、小田原馬車鉄道の営業が開始された。 これが後に軌道線となる路線の営業開始である。 しかし、開業後には既存のやの事業者からの反対運動が起きた。 軌道上に大きな石を置いたり、馬車に投石するなどの暴力的な行為が繰り返され 、乗員・乗客やの安全を確保することが難しくなり 、1か月ほどの運行休止をせざるを得ない状態に陥った。 ところが、折りしも元の が静養のため小田原の別荘に滞在していた時で 、この騒ぎを知った伊藤は、神奈川県知事に対して運行事業者の保護と暴力行為に対する取締りを強く求めた。 これを受けて、からはの警部だった田島正勝が社長に就任 、吉田は取締役に退いた。 他にも元を数人入社させることで沿線の警備を行うこととした。 経営体制の刷新も行われ 、ようやく馬車鉄道は平常運行が可能となった。 馬車鉄道の運行によって客の増加がみられるなど 、小田原馬車鉄道の開業が小田原や箱根の近代化に対する原動力となったことは確かとみられている。 しかし、馬の蹄によって軌道の傷みが発生したり 、馬がに罹患したり 、馬の飼料代が高騰する などの要因もあり、経営的には苦しい状態が続いた。 電気鉄道への転換 [ ] 電気鉄道について調査 [ ] 東京電燈のスプレーグ式電車 折りしも、5月ににおいて第3回が開催され 、そこではがからを輸入し 、実際に展示運転を行なっていた。 これは日本で初めてのであった。 前述の通り、小田原馬車鉄道は苦しい経営を余儀なくされており、何か大きな改革によってこの状況を打破することが必要と考えていた。 そのような状況下でこの催しを知った社長の田島は、馬車鉄道からへの転換が可能かどうかを模索するため 、重役会で電車の視察について賛同を得た上で 、この電車の視察に博覧会会場へ赴いた。 東京電燈の技師長であったはこの視察を喜び 、日本国外における電気鉄道の実情や運転方法について説明し 、藤岡自身が設計した発電所まで案内した。 さらに藤岡は「箱根の地形はに向いている」とも付け加えた。 博覧会で実際に電車を見た田島は、「次の乗り物は電車」と確信し 、早速同年10月ので電気鉄道への変更を提案したが 、時期尚早として見送りとなってしまった。 当時、小田原や箱根には、どこにも電灯は設置されていなかったのである。 しかし、資金調達の手段については討議され、増資の資金募集を行い、無理な場合は会社の財産や経営権を売却することで電化工事に充てようという方針が定められた。 翌には、当時逓信次官であったに意見を求めた が、前島の反応は「電気鉄道に転換すれば十分に利益が上がるだろう」と好意的で 、ちょうど欧米の電化事情を視察して帰国したばかりだった逓信省職員のを現地に派遣した。 五十嵐は現地を視察の上、「水力発電が得やすく、電気鉄道としては天与の好位置」と報告した。 6月には東京電燈の藤岡に対して電気鉄道全般について指導を依頼 、同年9月にはとの建設に携わったと武永常太郎に対して実地測量を依頼した。 この実地測量の結果、発電所からの電力によって、電車の運行だけではなく電力供給事業まで行うことが可能であると判明した。 この結果を元に、同年10月には電気鉄道への転換が株主総会で決議され 、同年10月12日に神奈川県に対して電気鉄道への変更を出願した。 1894年8月には、神奈川県から「道路を会社側で拡幅した上で、新設した軌道敷を国に献上する願書を提出すれば、電気鉄道への変更は軌道条例によって許可する」との内示が出た。 しかし、まだ資金調達の目途が立っていない現状であったため、この時点では会社側では様子を見るしかなかった。 資金調達のため経営権を譲渡 [ ] 2月1日には、日本で初の営業用電車の運行を行なう電気鉄道としてが開業し、小田原馬車鉄道では社長以下の重役が視察を行なった。 この視察により、電気鉄道への転換への意欲はさらに高まった が、電化に必要となる資金の調達は未解決のままであった。 そこで、東京馬車鉄道と協議の上、「1300株ほど発行されていた小田原馬車鉄道の株式のうち、1000株以上を東京馬車鉄道に譲渡し、その代わりに電化に必要な資金は東京馬車鉄道が負担する」という約束がまとまった。 これによって、会社の経営権は東京馬車鉄道へ譲渡された。 これは「名を捨てて実をとる」行動、つまり会社自体を売ってでも電化を実現しようとしたのである。 建設中の湯本茶屋発電所 この頃、東京馬車鉄道においても電気鉄道への変更を目論んでいた。 しかし、狭い道路での電気鉄道の運行が危険と考えられたことや 、1891年に仮のが漏電により焼失していたことから「電気は怖い」という風潮が広まっていたこともあって 、認可されていなかった。 そこへ小田原馬車鉄道からの経営権譲渡の話があり、東京馬車鉄道では「まず箱根で実績を積むことで認可を得よう」と考えたのである。 これによって、社長には東京馬車鉄道の取締役であったが就任し 、東京馬車鉄道社長のと東京電燈の藤岡が取締役に就任した が、初代社長の吉田と2代目社長の田島も取締役として留任している。 なお、終結後の好景気により 、から馬車鉄道の利用者は増加に転じ、同年の利用者数は前年比43パーセント増となった。 資金調達の目途も立ち、1896年7月には電気鉄道の敷設許可も得られた ことから、同年10月には社名を 小田原電気鉄道に変更した。 このときに資本金も70万円に増資されたが、出資者の顔ぶれの中には東京電燈社長ののほか、社長の前島密、社長の近藤廉平、木曽川電力と社長の、後にの社長となる の名前が見られる が、これらは当時「有力な鉄道」として評価されたものとみられている。 まず電力を供給するための設備としてに湯本茶屋発電所の建設が開始され 、続いて2月からは軌道の電化工事が開始された。 橋梁の改修や架け替え、軌道敷設工事なども進められ 、1900年2月に発電所が竣工し 、3月には全ての工事が完了した。 電化開業 [ ] 酒匂橋を渡る電車 こうして、馬車鉄道は1900年3月20日限りで廃止となり 、翌3月21日からは全線で電車の運転が開始された。 これは日本では4番目の電気鉄道で 、馬車鉄道からの電化は日本では初めての事例である。 電化によって、利用者数の大幅な増加がみられた。 馬車鉄道末期の同年3月20日までの利用者数は、前年同時期と比較して1万1500人減少しているのに対し 、電化後の2か月だけで1万7000人もの利用者増となった。 さらに、同年の6月からの半年間では4万人以上の利用者増をみており 、電化したことは大成功であったといわれている。 また、不要になった馬や馬車、などは全て東京馬車鉄道が買い取った が、特にレールは予想していた価格よりも高く売れたことも、会社経営上では有利に作用した。 なお、には東京馬車鉄道は小田原電気鉄道の経営一切から身を引いている が、その後東京電車鉄道として開業する際には、の実習を小田原電気鉄道に依頼していた。 もっとも、電化後の経営は必ずしも順調ではなかった。 1901年10月には電車の乗務員たちが労働条件改善を会社側に要求したが回答がなかった ため、同年11月25日から2日間にわたるを行なった。 これは日本の電気鉄道では初のストライキといわれている。 また、には国府津と湯本にの事業者として古郡馬車が参入し、資金力にものをいわせた経営方針により、電車より低いで集客を図ったのである。 しかし、時の流れにより、乗合馬車は衰退していったとされている。 また、やが毎年のようにして被害を与えていた。 特に、9月に発生したでは線路が埋没した ほか、8月の早川のでは風祭と湯本の間のが流失してしまった。 こうした水禍から逃れるには、「路線そのものを変える以外に方法はない」という結論に達した ことから、6月には風祭と湯本の間の軌道変更計画が立案され 、8月に山側へ軌道が移設された。 登山電車計画 [ ] 外部からの進言により着手 [ ] 電車の盛況を見たからは、1900年5月23日付けで「路線を当村まで延長して欲しい」との要請があった。 この当時、既に箱根遊覧鉄道から湯本と気賀を結ぶ鉄道路線の免許が存在したため、まず小田原電気鉄道では湯本と宮城野を結ぶ路線延長を出願した。 同年9月8日付の『横浜貿易新報』において「箱根遊覧鉄道は解散した上で、小田原電気鉄道が創立費用を負担することにまとまった」と報じられている が、この延長計画は同年9月17日の臨時株主総会で否決されてしまった。 、スイスにおけるの実況を視察した者 から「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけで 、再び登山電車の建設計画が具体化した。 実業家のやなどが資本家階級の社交クラブ「交詢社」において、日本の発展策の一案として「海外からの観光客を誘致するためにに登山鉄道を延長する」という内容で話し合い、この事業を小田原電気鉄道に勧告した。 これを受けて、1910年1月の臨時株主総会において、湯本から強羅へ路線を延長すること 、そのために資本金を220万円に増額することを決定した。 同年4月には路線延長を総理大臣・内務大臣に出願し、さらに翌月には強羅からを経て、のへの延伸計画を追加した。 この当時、小田原電気鉄道のほかには駿豆電気鉄道など4社が箱根に登山電車を走らせる計画を出願しており、競願となっていた。 しかし、小田原電気鉄道は益田や井上などの後援がある上、益田の義兄弟のが長州藩出身で、当時神奈川県知事の周布公平も長州藩出身であった。 しかも、出願されていた路線はいずれも小田原電気鉄道の延長という形態であった。 結局、1911年3月1日に小田原電気鉄道に登山鉄道建設の免許が交付されることになった。 には下強羅と上強羅を結ぶ鋼索鉄道(ケーブルカー)の敷設免許を申請し 、同年中に免許が下りている。 また、2月22日には、山王松原(2012年時点での小田原市山王)とを結ぶ鉄道の敷設を申請しているが、許可には至っていない。 計画変更・着工 [ ] 当初の免許では、の右岸を遡り、須雲川集落から北上して大平台へ抜け、宮ノ下を経由して強羅に行くルートであった。 しかし、前述のように水害に対応するために風祭と湯本の間の軌道を変更することになった ため、登山鉄道のルートも再検討することとなり 、1911年5月には最急の勾配が125の鉄道とする計画に変更された。 しかし、これは当時既に最急勾配が66. この計画・設計の変更は同年6月に認められているが 、建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されている。 こうして、登山鉄道の建設は開始されたものの、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり 、資金調達に苦慮することになった。 1910年にも資本金の増額が決議されていたが、その後には社債の発行を行うことで建設資金を確保 、さらにには資本金を110万円増額 、にはさらに資本金を330万円増額することになり 、建設が終わる頃には小田原電気鉄道の資本金は660万円と 、建設当初の3倍にもなっていた。 これらの資金調達に応じたのは、東京の資本家が中心であった が、これは多数の財界人と交流を持っていた益田の存在が大きかったとみられている。 建設中の出山信号場 さらに、の影響で輸入予定だった建設資材の未着や遅れが発生したことに加え 、温泉脈に影響を与えないための路線変更もあり 、工事は大幅に遅れた。 工事そのものも難工事で、もっとも難航を極めたのはの架設工事であったとされている。 車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが第一次世界大戦の影響で実現せず 、主要機器が製の車両を購入することになった。 発電所については、新たに三枚橋発電所を建設したが、こちらは1918年11月に完成し 、代わりに湯本茶屋発電所は廃止された。 すべての工事が終わったのは5月24日で 、着工から7年以上が経過していた。 強羅の開発と自動車事業 [ ] 創業当初の富士屋自働車 登山電車の建設を進める一方、鉄道以外の事業にも着手した。 小田原電気鉄道では1911年にの土地を取得 、これを旅館や別荘地に適するように造成して販売を行った。 続いて、登山鉄道やケーブルカーの敷設計画と並行する強羅地区の総合開発の一環として、先に分譲した地区の中央部に公園を開設することになり、1914年にとして開設した。 さらに、強羅に旅館「一福」を建設、1921年から営業を開始した。 一方、1913年3月1日からは貸自動車業の営業を開始した。 これは、1912年に箱根自動車が貸自動車業の営業を開始したことがきっかけとなったもので 、5台の自動車によって事業を開始した。 ところが、この貸自動車業に関連するトラブルが同年夏に発生したのを機に 、の取締役の山口正造も1914年から富士屋自働車を設立して貸自動車業に参入してきた。 しかし、当時の小田原電気鉄道は登山鉄道の建設に注力していたため、この時点では富士屋自働車との競合はあまり問題にならなかった。 これらの貸自動車業は、運行当初は人力車夫や駕篭かきから反発を買い、路上にガラス片をまかれたり投石されたこともあった。 そのような状況下、富士屋自働車では1915年8月には国府津駅と箱根地区を結ぶ乗合自動車の、1917年6月には小田原と熱海を結ぶ乗合自動車の運行許可を得て 、乗合自動車の運行準備を進めていた。 登山電車の運行開始 [ ] 苦しい経営 [ ] 運行開始当初の鋼索線 6月1日、小田原電気鉄道の延長線となる鉄道線(登山電車)の運行が開始された。 しかし、この日からは富士屋自働車の乗合自動車の運行も開始された。 登山電車と乗合自動車が同時に開業したのでは、人力車夫や駕篭かきも大きな抵抗はできず、やがて姿を消してゆくことになった。 7月25日からは、小田原電気鉄道でも小涌谷と箱根町を結ぶ乗合自動車の運行を開始し 、富士屋自働車に対する対抗策とした が、小田原電気鉄道と富士屋自働車の乗客争奪は激しいもので 、12月3日には両社の社員同士による乱闘事件まで発生した。 登山電車の開業後の1921年、既に免許を得ていた下強羅から上強羅を結ぶ鋼索線の建設に着手した。 鋼索線は軌条・車両・巻上げ装置はすべてスイス製のものを使用し 、同年12月1日に開業した。 これは日本においては1918年に開業したに続く2番目の鋼索鉄道である。 なお、10月21日にはのちに東海道本線の新線となる熱海線が国府津から小田原までの区間で開業することに伴い 、軌道線については前と小田原町役場前を結ぶ区間を建設し 、熱海線の開業と同日から運行を開始した。 これに伴い、国府津から小田原までの軌道線については同年12月6日に廃止された。 しかし、当初の登山電車は山を登るときにだけ利用され、下りは歩いて湯本まで出る利用者も多かった。 さらに、建設費を賄うための借入金の返済は経営上重荷となり、借入金の利子は当時の小田原電気鉄道の支出の4割近くを占めており 、毎年赤字を計上している有様であった。 そのような状況下で経営破綻を回避できたのは、1913年からにより支給されていたがあったからであるとされている。 1920年には二ノ平から分岐して元箱根に至る電気鉄道の路線 、強羅から水戸野(2012年時点での箱根町宮城野)と湖尻・元箱根を経由して箱根町に至る路線 、水戸野から御殿場に至る路線 、湖尻から芦ノ湖の湖西を経由して箱根町に至る路線 、さらに1922年には三島と箱根町を結ぶ路線の敷設を出願している が、いずれも実現に至っていない。 連続する災難 [ ] 苦しい経営が続いている小田原電気鉄道に追い討ちをかけるように、災難が連続した。 2月1日深夜には小田原市内の本社社屋が全焼する事態が発生、電気鉄道になってからの資料などが焼失してしまった。 震災により倒壊した軌道線小田原駅 その後は仮社屋で業務を行なっていたが 、同年9月1日にはが発生し、建造物はほとんどが倒壊し 、軌道も歪曲や埋没などで破壊されるなど、軌道線・鉄道線・電力事業ともに甚大な被害を蒙り 、「再起不能なり」とまで報道される惨状であった。 この地震での被害総額は、当時の金額で約150万円にも上った。 翌年から復旧工事が開始され、7月9日には軌道線が全線で運行を再開 、同年12月24日には登山電車も運行を再開 、ケーブルカーも翌1925年3月に復旧した。 なお、この復旧を機に、軌道線の軌間を1,372mmから1,435mmに変更している が、これは焼失した路面電車の代わりに登山電車を軌道線に走らせるという意図もあった。 さらに、震災の被害から復帰した後の1月16日には、小涌谷を発車した電車が速度制御を失い脱線転覆するというが発生した。 短期間に3度もの災難が襲った格好となり、これら一連の事件や事故の被害総額は当時の金額にして300万円にも上るものとなり 、創立以来最大の経営危機に陥った。 日本電力傘下へ [ ] 合併の後再分離 [ ] 折りしも、1919年に設立され、関西地方を基盤とした電力会社であるは関東への進出の機会をうかがっていた が、小田原電気鉄道が資金調達に腐心していたことに着目した。 日本電力副社長のと同じ出身であるの仲介により 、数度にわたる交渉の末、1月20日付で小田原電気鉄道は日本電力に吸収合併され、日本電力小田原営業所となった。 各事業はそのまま継承された。 合併後、日本電力によって送電線や事務所の建物など、目につく場所には日本電力の広告看板が掲出されたという。 しかし、日本電力が小田原電気鉄道を吸収合併したのは電力設備が目当てであった。 これを裏付けるように「儲かる方の電灯事業を親会社が抱き込んで、儲からない電車部を切り離し」という当時の関係者の発言が残っている。 事実、合併後わずか2ヵ月後の同年3月29日には新会社設立の発起人会議が行われている。 同年8月13日に日本電力が全額出資し、電力事業以外の全ての事業を継承した 箱根登山鉄道として分離され 、社長には池尾芳蔵が就任した。 小田原から強羅まで直通運転 [ ] 軌道線の小田原駅。 左側が国鉄小田原駅で、駅前にバス乗り場が設けられていた 新会社として再出発した箱根登山鉄道が最初に打ち出したのは、 小田原から強羅まで登山電車を直通運転することであった。 この構想は、関東大震災の直後には既に打ち出されていたが、その当時の小田原電気鉄道の経営状態では実現不可能であった。 その一方、不況下であるにもかかわらず、1928年ごろからは各地から箱根への観光客を輸送する貸切バスが増加していた。 これは登山電車やの収入減少につながるものであった。 さらに、地元小田原では、富士屋自働車との乗客争奪が続いていた。 軌道線の小田原駅は国鉄の小田原駅前に位置していた が、駅前には富士屋自働車の乗り場も設けられていた。 そのため、富士屋自働車は「乗り換えなしで箱根へ」と 、一方の箱根登山鉄道は「電車の方が静かで安い」と 、観光客を自社へ誘導するべく客引きを行っていた。 時には社員同士が殴り合いを始める有様だった。 こうした状況の解決策や、将来の発展を考慮して、登山電車の直通運転計画が取り組まれるようになった。 折りしも、4月1日からはを起点とする(小田急)が小田原まで開通していた。 これを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への乗り入れを申請 、には小田原駅での連絡について小田急と協定を結んだ。 板橋陸橋での試運転 工事については、まず11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い 、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手した。 また、これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増に対応すべく、2両編成での運転についても検討が進められることになった。 9月21日にすべての工事が完了 、2両編成での運行を行なうための連結器についても開発が終了した。 それを受けて、同年10月1日より小田原と強羅の間における登山電車の直通運転が開始された。 これに伴い、軌道線の箱根板橋と箱根湯本の間は前日の9月30日限りで営業を終了した。 なお、これより少し遡るにはの社長であったの仲介により 両社のバス事業を統合することになっており、1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働車に譲渡され 、富士屋自働車は社名を 富士箱根自動車に変更した。 これによって、小田原での箱根登山鉄道と富士屋自働車との乗客争奪は終結している。 また、には日本電力の子会社であった箱根観光によって「強羅ホテル」が完成し、同年7月21日から営業を開始した。 戦時体制下 [ ] に日華事変が勃発してから戦時色が強くなるに従い、箱根登山鉄道も変革を余儀なくされることになった。 電力国家管理法の成立によって電力は国が管理することになり、日本電力はその基幹事業を失うことになった。 そこで、日本電力は箱根登山鉄道と富士箱根自動車を他社へ譲渡する意向を示した。 これに反応したのがで 、やはり日本電力の子会社であった箱根観光とともに五島によって買収されることになり、5月30日付で五島が社長に就任した。 さらに、1942年に強制統合の通牒が出た後には富士箱根自動車と足柄自動車との3社統合が推進され 、7月31日付で富士箱根自動車と足柄自動車は箱根登山鉄道に合併となった。 ケーブルカーは「不要不急線」と扱われたため1944年2月10日限りで運行を休止し 、軌道線についても空襲の被害を受けた川崎市電に車両を回すため 、1945年1月10日付で運行を休止した。 バス事業においても、観光路線は次々と運休になった。 戦後の展開 [ ] 小田急の乗り入れと軌道線の廃止 [ ] の終戦後、まず軌道線が同年9月12日に運行を再開した が、軌道線用の車両が3両しか残っておらず 、この時点では平常通りの運行には至らなかった。 には本社を小田原市緑町に移転した。 一方、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急からは、6月1日に小田急電鉄(小田急)・京浜急行電鉄・京王帝都電鉄が分離したが、元来小田急電鉄が運行していたは京王の所属となり 、もともと東急の傘下にあった(当時)と箱根登山鉄道が小田急の傘下に入ることになった。 1948年9月にはにより鉄道線は大きな被害を受け 、復旧は7月6日にずれ込んだ。 その後、鉄道線の箱根湯本駅まで小田急の電車を乗り入れさせることになり、8月1日から小田急の電車が箱根湯本駅まで直通運転するようになった。 しかし、この結果、鉄道線は小田原駅から箱根湯本駅までの架線電圧が直流1,500Vとなり 、それまで直接鉄道線から直流600Vの給電を受けていた軌道線は昇圧ができず 、止むを得ず箱根湯本から送電線を設けることになった が、これは施設維持の負担や経費面から問題となった。 さらに、の交通量が増加したことに伴い、神奈川県は国道1号の改修工事を行なうことを決定 、小田原市を通じて箱根登山鉄道に軌道線の廃止を打診した。 箱根登山鉄道側は廃止に消極的であった が、最終的に神奈川県が9000万円、小田原市が300万円の補償金を箱根登山鉄道に支払うことで合意 、5月31日限りで軌道線は廃止された。 箱根山戦争と事業拡大 [ ] 「」も参照 これより少し遡る9月、箱根で路線バスと専用自動車道を運営していたでは、小田原と小涌谷を結ぶ区間に路線バスの運行免許申請を行った。 傘下にあった大雄山鉄道(当時)との一貫輸送を図ったものであった が、当時まだ東急の傘下だった箱根登山鉄道は、自社防衛の見地から反対の立場をとった。 しかし、当時の箱根登山鉄道はケーブルカーの運行再開に全力を挙げており 、ただちに自社バスの増強を図ることは難しかった 上、地元からも「独占はよくない」という声も上がっていた こともあり、1949年12月には駿豆鉄道の路線バス運行については条件付で認可された。 これに対応して、小田急の傘下に入った直後の箱根登山鉄道では早雲山から大涌谷を経由して湖尻に至る路線バス運行の免許申請を行なった が、これは逆に駿豆鉄道から反対を受けた。 最終的には、1950年3月に両社の協定により、駿豆鉄道は途中停留所と運行回数の制限を、登山バスは1年ごとの有料道路利用契約の更新をそれぞれ条件とした上 で、小田原へは駿豆鉄道バスが乗り入れ、代わりに登山バスが初めて芦ノ湖北岸へ乗り入れることになった。 箱根登山鉄道はこれに続いて、1950年3月に芦ノ湖への湖上交通に着手するために、箱根町や仙石原で西武グループに敵対の立場を取っていた有力者と共同で船舶会社()を設立した。 当初の箱根観光船は小型遊覧船のみを保有する小規模な事業者であった が、には芦ノ湖一周航路の免許を取得 、さらにには大型の遊覧船を就航させた。 駿豆鉄道側ではこれに対して、1956年3月に「有料道路通行契約が満了すると共に契約を破棄する」と通告し、契約満了後の同年7月以降には有料道路に遮断機を設けて登山バスの通行を阻止した。 これは箱根観光船の大型船導入に対する報復で 、後にとして広く知られ、の小説「箱根山」の題材にもなった西武グループとの対立の始まりでもあった。 その後、互いに訴訟を起こして争う一方で、小田急側ではにを開通させたことにより、小田急グループのみで芦ノ湖北岸へ到達できるようになった。 また、に有料道路を神奈川県が買い上げた上で一般道路として開放した ことで、抗争は事実上終結した。 数多くあった訴訟案件の決着がついたには西武と小田急のトップが友好的な協定に調印した ことから、以後両社は共存してゆくことになる。 これらの紛争の前後にも、事業展開は進められた。 自動車事業においては、1950年には貸切バス事業を再開 、同年には東京から箱根や熱海へ直通する路線バスの運行を開始した ほか、にはへの路線が開設され 、にはの運行を開始している。 また、関連事業においてはから強羅公園の再整備に着手し 、1958年には強羅地区での温泉造成工事も開始 、1959年9月にはが完成し営業を開始した。 戦後中断されていた宅地分譲も1964年から再開され 、同年12月には「強羅国際スケートリンク」を開業した。 モータリゼーションの影響 [ ] 代に入ると、やの開通など、道路網の整備が進められることになった。 これは箱根を訪れる観光客の増加を促進したが、その一方でモータリゼーションの進展に伴い、路線バスの走行環境は悪化した。 観光客を乗せたマイカーが特定の道路に集中することによる渋滞で登山バスの定時性が損なわれ 、バス利用者の減少を招いた。 しかし、この渋滞によってマイカーも身動きが取れない状況となり 、それに伴って時間の正確な登山電車は見直されることにもつながった。 輸送力増強のため、には小田急乗り入れ車両の大型化が計画され 、7月から小田急の大型車両が箱根湯本まで乗り入れるようになった。 レーティッシュ鉄道との姉妹鉄道提携 [ ] 姉妹鉄道提携にちなんで「ベルニナ号」と命名された1000形 に開業90周年を迎えた箱根登山鉄道は、記念行事の一環として 、6月1日に の協力を得て、との姉妹鉄道提携を結んだ。 これは鉄道線の開業時にスイスのベルニナ鉄道(その後のレーティッシュ鉄道)を参考にした事が縁になったもので 、強羅公園内と強羅駅構内にはクリスマスツリーに使用されるの記念植樹が行われた。 には45年ぶりの新型車両としてが導入され、「ベルニナ号」と命名された。 1982年には、姉妹鉄道提携3周年を記念して、レーティッシュ鉄道からが贈られた。 これに対する返礼を箱根登山鉄道からレーティッシュ鉄道に打診すると、日本人観光客が増加しているため日本語の駅名板という要望があった ため、姉妹鉄道提携5周年記念として6月、、、の3駅の駅名板がレーティッシュ鉄道へ贈られた。 姉妹鉄道提携にちなんで「サン・モリッツ号」と命名された2000形 また、には箱根がに指定されてから50周年となる ため、記念行事を検討した折、サンモリッツ観光局がプロモーション目的で来日することになった ため、姉妹鉄道提携7周年記念として「サンモリッツとの友好の集い」が開催された。 には箱根登山鉄道では初の冷房付電車となるが導入された が、スイス政府観光局とサンモリッツ観光局の協力を得て 、2000形は「サン・モリッツ号」と命名された。 その後も鉄道線を利用する観光客は増加し、には年間輸送人員が1千万人を超えた。 輸送力増強のため、鉄道線の列車を最大3両編成にすることが決定 、7月から鉄道線では3両編成での運行が開始された。 また、ケーブルカーについてもに2両編成化が実施された。 一方、関連事業の「強羅国際スケートリンク」は利用者の減少により3月に廃止となった。 こうした状況下、箱根の交通ネットワークの改善に着手し 、同時に高コスト構造の是正を図った。 既にには沼津地区の路線バスが沼津箱根登山自動車として分社化されていた が、沼津地区の路線は10月に全て沼津東海バスに譲渡され、沼津東海バスはと改称された。 また、熱海地区の路線はに統合された。 残った箱根登山鉄道のバス部門は沼津箱根登山自動車に譲渡の上、沼津箱根登山自動車は箱根登山バスへ社名変更された。 また、貸切バス事業についてはに一部がに移管されていた が、過当競争によって業績が低迷していたことから 、2002年に箱根登山観光バスは事業廃止とした。 さらに、8月には箱根登山鉄道は小田急との株式交換により上場廃止となり、箱根登山鉄道は小田急の完全子会社となった。 さらに同年9月には箱根登山鉄道は事業持株会社化され 、同年10月には箱根登山鉄道の事業部門として新会社を設立 、同時にそれまでの箱根登山鉄道はに商号変更した上で純粋持株会社となった。 鉄道線においては、既に12月2日より小田原駅と箱根湯本駅の間においては日中は小田急の車両のみの運行となっていた が、からは同区間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた。 また、2002年には電車とバスに共通のプリペイドカードとして「とざんカード」を導入した が、2005年度にはICカード化の流れで「とざんカード」の販売は中止された。 一方、2003年12月には小田急グループと西武グループが箱根において業務提携をすることが発表された。 この提携後、度には一部で異なっていたバス停留所名も箱根登山バスと伊豆箱根バスで統一された ほか、には小田急・箱根登山鉄道・西武鉄道が協議会と提携して資材の共同購入を開始した。 年表 [ ]• (明治20年) 国府津 - 湯本間の馬車鉄道敷設の請願書を神奈川県に提出。 (明治21年)• 馬車鉄道敷設特許を取得。 小田原馬車鉄道設立。 国府津駅 - 小田原駅 - 湯本駅(現:箱根湯本駅)間開業。 (明治29年) 小田原電気鉄道(小田電)に社名変更。 (明治33年) 全線電化。 (大正8年) 鉄道線 箱根湯本駅 - 強羅駅間開業。 (大正9年) 小田原市内線 国府津駅 - 小田原駅間廃止。 (大正10年) 鋼索線 下強羅駅(現:強羅) - 上強羅駅(現:早雲山)間開業。 (昭和3年)• 小田原電気鉄道が 日本電力と合併し、日本電力小田原営業所となる。 (旧) 箱根登山鉄道株式会社設立(現在の小田急箱根ホールディングス株式会社)。 日本電力が鉄軌道事業を箱根登山鉄道に分離譲渡。 (昭和10年)10月1日 鉄道線 小田原駅 - 箱根湯本駅間開業。 小田原市内線 箱根板橋駅 - 箱根湯本駅間廃止。 (昭和17年) 五島慶太が社長に就任。 (昭和23年)6月1日 大東急の分割によって小田急電鉄の関連会社となる。 (昭和25年) 鉄道線 小田原駅 - 箱根湯本駅間に小田急電鉄の列車が乗り入れ開始。 (昭和31年)6月1日 小田原市内線 小田原駅 - 箱根板橋駅間が廃止。 (昭和54年)6月1日 のと姉妹鉄道提携を結ぶ。 (昭和57年) 鉄道線に大型(20m車)6両編成乗り入れ開始。 (平成14年)4月16日 鉄道・バス共通のプリペイドカード「とざんカード」を導入。 (平成15年)• 3月19日 鉄道線 小田原駅 - 箱根湯本駅間にを導入。 8月1日 小田急電鉄の完全子会社となる。 (平成16年)10月1日 会社再編に伴い、鉄道事業を新設の 箱根登山鉄道株式会社(当社)に承継。 (平成18年)• 鉄道線 小田原駅 - 箱根湯本駅間を終日小田急車で運行。 その後、小田原駅 - 入生田駅間の3線軌条を2線軌条化(1067mm)。 鉄道線での「とざんカード」の発売を中止。 鉄道線での「とざんカード」の使用を中止(では引き続き利用可能)。 (平成19年)3月18日 鉄道線にを導入。 と相互利用可。 (平成20年) パスネットの自動改札機での使用を終了。 (平成21年)4月1日 協議会と提携。 同協議会を通して資材の共同購入を開始。 (平成25年)• 開始により、なども利用可能となる。 各駅・信号場の標高調査を実施。 (平成27年)10月7日 ベスト100に箱根登山鉄道が導入したが選ばれる。 (令和元年)• 10月12日 (台風19号)により鉄道線・鋼索線が全線運休。 13日に鉄道線の小田原駅 - 箱根湯本駅間 、16日に鋼索線 が運転を再開するも、鉄道線の箱根湯本駅 - 強羅駅間は道床流出や橋梁流出などの復旧には長期間を要する被害。 10月18日 箱根湯本駅 - 強羅駅間の各駅を結ぶ代行バス(日中は路線バスで対応)の運行を開始する。 10月25日 令和元年東日本台風による温泉供給設備の流出・破損で利用できなくなった強羅・早雲山地区の受湯契約者に対して、11月中旬の供給再開を目指している旨を発表する。 10月26日 代行バスにおいて、箱根湯本駅 - 強羅駅間の直行便を設定、運用を開始する。 11月22日 電車の運転再開見込みを2020年秋頃と発表。 (令和2年)• 3月26日 電車の運転再開見込みを2020年7月下旬に前倒しすると発表。 5月11日 7月下旬の運転再開に向けて箱根湯本駅 - 大平台駅付近にて通常とは異なり1時間に2本程度で日中に試運転を開始。 復旧工事の進行に合わせて順次試運転の区間を拡大。 6月2日 大平台駅付近を超えて宮ノ下駅付近まで試運転の区間を拡大。 事業 [ ] 鉄軌道 [ ] 現有路線 [ ] 1919年6月1日に湯本から強羅までの区間で開業。 1935年10月1日より小田原と強羅の間における直通運転を開始。 1921年12月1日に開業。 として2月10日限りで運行を休止 、1950年7月1日から運行再開。 詳細は「」を参照 1913年3月1日に開業した小田原電気鉄道の貸自動車業 と、1914年8月15日に開業した富士屋自働車の貸自動車業 を前身とし、1932年に両社が合併して富士箱根自動車となる が、戦時中の交通事業統合の流れの中で1921年創業の足柄自動車とともに1944年に箱根登山鉄道に合併し、同社の自動車部門となった。 2002年10月には小田急グループ内での事業再編に伴い分社化された。 その他 [ ] 温泉供給事業 1911年から強羅地区への引き湯を行うために温泉業に着手したのが始まり。 1958年からは強羅地区で温泉造成にも着手 、1988年時点では1日1,600tの温泉を供給している。 商業施設 1959年、小田原駅東口に「」を開設、その後「箱根登山ベルジュ」に変更した後、2013年に閉鎖・解体。 2015年11月に新商業施設が完成し「トザンイースト」と名付けて営業している。 車両 [ ]• (旧)箱根登山鉄道株式会社(現:)の移行に伴うにより2004年10月1日に当社が鉄道事業等を承継。 その後となるルート。 日本初の馬車鉄道は開業の 、2番目となるのは1888年8月9日に開業したの。 伊藤はこの年の4月に内閣総理大臣を辞任していた。 小田原馬車鉄道の1890年度決算においては、総支出24,829円のうち、馬匹費だけで13,069円と半分以上を占めていた。 この地域で初めて電灯が導入されたのは、翌1891年に火力発電によって電灯を導入したである。 この人物は、実業家のであったと推測されている。 技師から専務取締役になり退社後は、、の役員を歴任(国立国会図書館デジタルコレクション)• 五島に対して「箱根登山鉄道を買収したらどうか」と勧めたのは堤康次郎である。 この売却に関しては複数の説が存在する。 小田急の社史『小田急五十年史』では、箱根登山鉄道は1942年5月に東急の傘下に加わったことになっている。 しかし、東急の社史『東急五十年史』では五島慶太が1941年に小田急の社長に就任し、その後に箱根地区における観光事業の強化のために箱根登山鉄道と箱根観光を買収したことになっている 一方で、箱根登山鉄道は1941年5月に東急の傘下に入ったことになっている。 この事業再編の結果、2002年に分社化した箱根登山バスは、小田急箱根ホールディングスの下で箱根登山鉄道・箱根ロープウェイ・箱根観光船と並列に位置することになる。 出典 [ ]• - 箱根登山鉄道• 国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会• PDF プレスリリース , 箱根登山鉄道・・・・・, 2009年9月3日 , 2012年12月14日閲覧。 (国立国会図書館デジタルコレクション)• 「鉄道記録帳2003年3月」『RAIL FAN』第50巻第6号、鉄道友の会、2003年6月1日、 19頁。 箱根登山鉄道. 2013年11月30日閲覧。 国土交通省 2019-10-25 7:30. 2019年10月26日閲覧。 - 日本経済新聞、2019年10月16日• - 箱根登山鉄道、2019年10月21日• - 箱根登山鉄道、2019年10月25日• - 箱根登山鉄道、2019年10月25日• - 箱根登山鉄道、2019年11月22日、同月24日閲覧• 日本経済新聞. 2019年11月22日. 2019年11月23日閲覧。 神奈川新聞. 2020年3月26日. の2020年3月26日時点におけるアーカイブ。 2020年3月26日閲覧。 参考文献 [ ] 社史 [ ]• 箱根登山鉄道株式会社総務部総務課『箱根登山鉄道創業100周年記念 すばらしい箱根 グラフ100』箱根登山鉄道、1988年。 書籍 [ ]• 青田孝『箱根の山に挑んだ鉄路 「天下の険」を越えた技』、2011年。 荒井文治『箱根登山鉄道への招待』、1994年(原著1988年)、第6版。 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『』()震災後の登山電車.

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