尾崎 亜美 オリビア を 聴き ながら。 食卓ON楽

オリビアを聴きながら【歌詞解釈】歌詞の意味

尾崎 亜美 オリビア を 聴き ながら

1957年3月、京都府京都市に生まれた尾崎亜美は、高校進学後に、軽音楽部に入部。 女性3人で結成したバンド「どん」を皮切りに、「おしんこペイション」「エンプラ・ストリート」と3つのバンドを渡り歩きます。 1974年、尾崎亜美が在籍していたバンド・エンプラ・ストリートは、KBS京都が放送していたアマチュア音楽コンテスト番組「アクションヤング大丸」に出演、ボーカルの尾崎亜美は、その歌唱力を審査員から高く評価されて、レコード会社・東芝エキスプレスのスタッフから、デビューの誘いを受けます。 「デビューの話を貰うまで、まさか自分がプロの歌手になるなんて、想像できませんでした。 しかし、実際にプロデビューの誘いを受け、レコード会社のスタッフから話を聞いた時、私はアマチュアとプロの差を感じて、もし自分がプロになれば、もっと色んなミュージシャンと出会うことができて、自分にとって、もっと楽しい世界が開ける気がして、プロデビューすることを決めたんです」。 尾崎亜美さんは、当時についてこう振り返ります。 こうして、プロデビューが決まった尾崎亜美は、彼女自身が作詞・作曲した曲のアレンジを、松任谷正隆さんにお願いすることを決めます。 「スタッフと話をして、ピアノが弾けて、歌が歌えるのであれば、同じタイプの人にアレンジをお願いするのが良いのでは、ということになり、松任谷正隆さんにお願いしたんです。 松任谷さんは、私に「歌謡曲とは違う、シンガーソングライター尾崎亜美のカラーを作ろう」と言ってくれたんです。 それから私は、自分の音楽が、どうあるべきなのかを考えて、私の音楽の方向性を決めたんです。 その時、自分が思った気持ちや想いを、歌詞に置き換える。 そして、その歌詞を、今度はメロディに乗せてみんなに聞いてもらう、ただその想いだけで、音楽を作ろう。 そう考えたんです」。 その後、自分の想いを込めた曲作りを続けていた尾崎亜美のもとへ、1976年秋、翌年の春の、資生堂のキャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。 予め決まっていたキャンペーンテーマを、曲のタイトルにする、という依頼に、尾崎亜美は悩みながらも曲を作り、1977年2月にシングル「マイ・ピュア・レディ」は発売されます。 1977年2月に発売された、尾崎亜美3枚目のシングル「マイ・ピュア・レディ」は、資生堂春のキャンペーンソングとして起用されたこともあり、発売2ヵ月目の4月には、セールスチャート最高位3位にランク、約40万枚の売上を記録するヒット曲となります。 非現実的な言葉だからこそ、聞く人の心を上手く掴むことができるんじゃないかと考えたことが、この曲の大きなポイントでした」。 シングル「マイ・ピュア・レディ」のヒットをキッカケに、シンガーソングライター尾崎亜美独自の世界を切り開いた彼女は、4月から7月にかけて初めての全国ライブツアーを行います。 そして、6月に2枚目のアルバム『MIND DROPS』を発売した尾崎亜美のもとに、再び、翌年、1978年春の資生堂キャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。 「今度は、私が歌うのではなくて、私が作った曲を他のアーティストが歌うという内容でした。 私自身、自分が作った曲を他のアーティストが歌う事自体が初めての経験だったので、面白いと思って、二つ返事で受けました。 しかも、作詞・作曲だけでなく、曲のアレンジも私がやる事になったんです。 今まで、私の曲も、デモテープを作って、アレンジャーに渡して曲を仕上げてもらっていたんですけど、完成した曲を聴いてみると、自分の思っていたイメージとは違う形になることもあったので、今回、自分で曲を最後までアレンジできると考えたら、楽しくて仕方ありませんでした」。 初めて曲のアレンジを手掛けることになった当時について、尾崎亜美さん本人はこう振り返ります。 曲をアレンジする魅力に取りつかれた尾崎亜美は、2月に発売された、彼女にとって5枚目のシングル「ストップモーション」から、彼女自身が作詞・作曲はもちろん、曲のアレンジまでを手掛けるようになります。 そんなシンガーソングライターとして、着実にステップアップを図っていた尾崎亜美のもとへ、「新人女性歌手のデビュー曲を作って欲しい」という依頼が舞い込みます。 「彼女は、16歳の杏里という少女でした。 曲を作る前に、実際に彼女に会って、話をして、曲のイメージを作っていったんです。 この曲と、「Flying午前10時発」「中国人形」の、合わせて3曲を作って、渡しました。 曲の完成度は、この曲が一番良かったんですけど、失恋ソングだから、デビュー曲としては難しいな、って感じてて、アップテンポの「Flying午前10時発」が選ばれるのかな、と思っていました。 この曲がデビュー曲に選ばれた、と聞いた時はびっくりしたんです」。 「この曲を作った時、ちょうど私は東京でひとり暮らしを始めた時期でした。 当時、体調を崩すことが多かった私は、ひとり暮らしを始めるにあたって、これからは自分で、ちゃんと生活していかなきゃいけない。 でも、自分らしく、生きていきたいと思っていた時期でした。 そんな気持ちが歌詞にそのまま表れています。 それから、杏里がオリビア・ニュートン・ジョンが大好きで、アルバム『MAKING A GOOD THING BETTER』が流行っていた時期でもあったので、それを、歌詞の一部に使うことを考えたんです。 その他にも、私が家で飲む機会が多かったジャスミン茶など、ごく身近にある物を歌詞に使ったんです。 身の周りにあったキーワードとなる言葉を組み合わせていくと、残りの歌詞も自然に浮かんできたんです」。 1978年11月に発売された、杏里のデビューシングル「オリビアを聴きながら」は、セールスチャート最高位65位、約5万5千枚の売上を記録します。 そして、曲を作った尾崎亜美自身も1980年9月に発売された6枚目のアルバム『MERIDIAN-MELON』の中で、セルフカバーします。 1980年9月に発売された、尾崎亜美の6枚目のアルバム『MERIDIAN-MELON』で彼女自身がセルフカバーした、「オリビアを聴きながら」。 「曲を作った自分が言うのもおかしい話ですが、この曲の歌詞には、いつの時代になっても変わらない普遍的な言葉が詰め込まれているんです。 時代の変化とともに、曲のカラーも変化してきたし、杏里以外にも色んなアーティストの方にもカバーしてもらいました。 私自身も、この曲から色々な事をインスパイアされてきました。 この曲「オリビアを聴きながら」は、私自身を成長させてくれる歌です」。 最後に、尾崎さんは、この曲についてこう語ってくれました。 いつの時代になっても色褪せることなく歌い継がれる、J-POPのスタンダードナンバーが生まれた瞬間でした。

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オリビアを聴きながら(杏里) / コード譜 / ギター

尾崎 亜美 オリビア を 聴き ながら

1957年3月、京都府京都市に生まれた尾崎亜美は、高校進学後に、軽音楽部に入部。 女性3人で結成したバンド「どん」を皮切りに、「おしんこペイション」「エンプラ・ストリート」と3つのバンドを渡り歩きます。 1974年、尾崎亜美が在籍していたバンド・エンプラ・ストリートは、KBS京都が放送していたアマチュア音楽コンテスト番組「アクションヤング大丸」に出演、ボーカルの尾崎亜美は、その歌唱力を審査員から高く評価されて、レコード会社・東芝エキスプレスのスタッフから、デビューの誘いを受けます。 「デビューの話を貰うまで、まさか自分がプロの歌手になるなんて、想像できませんでした。 しかし、実際にプロデビューの誘いを受け、レコード会社のスタッフから話を聞いた時、私はアマチュアとプロの差を感じて、もし自分がプロになれば、もっと色んなミュージシャンと出会うことができて、自分にとって、もっと楽しい世界が開ける気がして、プロデビューすることを決めたんです」。 尾崎亜美さんは、当時についてこう振り返ります。 こうして、プロデビューが決まった尾崎亜美は、彼女自身が作詞・作曲した曲のアレンジを、松任谷正隆さんにお願いすることを決めます。 「スタッフと話をして、ピアノが弾けて、歌が歌えるのであれば、同じタイプの人にアレンジをお願いするのが良いのでは、ということになり、松任谷正隆さんにお願いしたんです。 松任谷さんは、私に「歌謡曲とは違う、シンガーソングライター尾崎亜美のカラーを作ろう」と言ってくれたんです。 それから私は、自分の音楽が、どうあるべきなのかを考えて、私の音楽の方向性を決めたんです。 その時、自分が思った気持ちや想いを、歌詞に置き換える。 そして、その歌詞を、今度はメロディに乗せてみんなに聞いてもらう、ただその想いだけで、音楽を作ろう。 そう考えたんです」。 その後、自分の想いを込めた曲作りを続けていた尾崎亜美のもとへ、1976年秋、翌年の春の、資生堂のキャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。 予め決まっていたキャンペーンテーマを、曲のタイトルにする、という依頼に、尾崎亜美は悩みながらも曲を作り、1977年2月にシングル「マイ・ピュア・レディ」は発売されます。 1977年2月に発売された、尾崎亜美3枚目のシングル「マイ・ピュア・レディ」は、資生堂春のキャンペーンソングとして起用されたこともあり、発売2ヵ月目の4月には、セールスチャート最高位3位にランク、約40万枚の売上を記録するヒット曲となります。 非現実的な言葉だからこそ、聞く人の心を上手く掴むことができるんじゃないかと考えたことが、この曲の大きなポイントでした」。 シングル「マイ・ピュア・レディ」のヒットをキッカケに、シンガーソングライター尾崎亜美独自の世界を切り開いた彼女は、4月から7月にかけて初めての全国ライブツアーを行います。 そして、6月に2枚目のアルバム『MIND DROPS』を発売した尾崎亜美のもとに、再び、翌年、1978年春の資生堂キャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。 「今度は、私が歌うのではなくて、私が作った曲を他のアーティストが歌うという内容でした。 私自身、自分が作った曲を他のアーティストが歌う事自体が初めての経験だったので、面白いと思って、二つ返事で受けました。 しかも、作詞・作曲だけでなく、曲のアレンジも私がやる事になったんです。 今まで、私の曲も、デモテープを作って、アレンジャーに渡して曲を仕上げてもらっていたんですけど、完成した曲を聴いてみると、自分の思っていたイメージとは違う形になることもあったので、今回、自分で曲を最後までアレンジできると考えたら、楽しくて仕方ありませんでした」。 初めて曲のアレンジを手掛けることになった当時について、尾崎亜美さん本人はこう振り返ります。 曲をアレンジする魅力に取りつかれた尾崎亜美は、2月に発売された、彼女にとって5枚目のシングル「ストップモーション」から、彼女自身が作詞・作曲はもちろん、曲のアレンジまでを手掛けるようになります。 そんなシンガーソングライターとして、着実にステップアップを図っていた尾崎亜美のもとへ、「新人女性歌手のデビュー曲を作って欲しい」という依頼が舞い込みます。 「彼女は、16歳の杏里という少女でした。 曲を作る前に、実際に彼女に会って、話をして、曲のイメージを作っていったんです。 この曲と、「Flying午前10時発」「中国人形」の、合わせて3曲を作って、渡しました。 曲の完成度は、この曲が一番良かったんですけど、失恋ソングだから、デビュー曲としては難しいな、って感じてて、アップテンポの「Flying午前10時発」が選ばれるのかな、と思っていました。 この曲がデビュー曲に選ばれた、と聞いた時はびっくりしたんです」。 「この曲を作った時、ちょうど私は東京でひとり暮らしを始めた時期でした。 当時、体調を崩すことが多かった私は、ひとり暮らしを始めるにあたって、これからは自分で、ちゃんと生活していかなきゃいけない。 でも、自分らしく、生きていきたいと思っていた時期でした。 そんな気持ちが歌詞にそのまま表れています。 それから、杏里がオリビア・ニュートン・ジョンが大好きで、アルバム『MAKING A GOOD THING BETTER』が流行っていた時期でもあったので、それを、歌詞の一部に使うことを考えたんです。 その他にも、私が家で飲む機会が多かったジャスミン茶など、ごく身近にある物を歌詞に使ったんです。 身の周りにあったキーワードとなる言葉を組み合わせていくと、残りの歌詞も自然に浮かんできたんです」。 1978年11月に発売された、杏里のデビューシングル「オリビアを聴きながら」は、セールスチャート最高位65位、約5万5千枚の売上を記録します。 そして、曲を作った尾崎亜美自身も1980年9月に発売された6枚目のアルバム『MERIDIAN-MELON』の中で、セルフカバーします。 1980年9月に発売された、尾崎亜美の6枚目のアルバム『MERIDIAN-MELON』で彼女自身がセルフカバーした、「オリビアを聴きながら」。 「曲を作った自分が言うのもおかしい話ですが、この曲の歌詞には、いつの時代になっても変わらない普遍的な言葉が詰め込まれているんです。 時代の変化とともに、曲のカラーも変化してきたし、杏里以外にも色んなアーティストの方にもカバーしてもらいました。 私自身も、この曲から色々な事をインスパイアされてきました。 この曲「オリビアを聴きながら」は、私自身を成長させてくれる歌です」。 最後に、尾崎さんは、この曲についてこう語ってくれました。 いつの時代になっても色褪せることなく歌い継がれる、J-POPのスタンダードナンバーが生まれた瞬間でした。

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杏里 オリビアを聴きながら 歌詞

尾崎 亜美 オリビア を 聴き ながら

解説 [ ] 「 オリビアを聴きながら」は、が・をしてに提供された楽曲。 の記録上では最高位65位、売り上げ5万5千枚で当時としては目立ったヒットに至ってはいないが、時を経て多くの歌手にされ、へと成長した。 製作者の尾崎もアルバム『MERIDIAN MELON』(1980. 6)でをしている。 タイトルにある「オリビア」とは、「(TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS)」「(HAVE YOU NEVER BEEN MELLOW)」「ジョリーン(JOLENE)」「フィジカル(PHYSICAL)」などが日本でもヒットした英国人歌手・の事。 直接的にオリビア自身について歌った楽曲というわけではなく、目線で恋の終幕が歌われた "失恋ソング" の類で、主人公の女性が聴いている「お気に入りの歌」、「淋しい心」を「なぐさめてくれる」歌として、オリビアの名前が登場する。 杏里の楽曲制作を担当することになり、その当時の新居に越したばかりの尾崎の自宅へ杏里が訪れて、尾崎といろいろな会話をしたところ杏里がオリビア・ニュートン=ジョンが好きという話になりこの楽曲を制作したという逸話がある。 歌手デビュー直前には所属事務所の先輩であったの付き人を体験したとラジオ等で語っている。 サビの箇所で「making good things better」というフレーズが登場するが、これはオリビアがに発表した楽曲「MAKING A GOOD THING BETTER」(アルバム『』〈邦題:きらめく光のように、1977. 20〉に収録されている同名曲)から由来しており、「MAKING A GOOD THING BETTER」の方は、2人の愛をさらに深め、もっと育てようという内容の明るい歌詞であるが、「オリビアを聴きながら」では、そうした愛が終ってしまい、「いいえ、済んだこと」と歌われている。 前述の通り多くの歌手がカヴァーしているが、杏里自身によるリテイク・ヴァージョンも多く存在し、『meditation』(1987. 21)、『16th Summer Breeze』(1994. 8)、『R134 OCEAN DeLIGHTS』(2003. 23)にそれぞれ収録されている。 『16th Summer Breeze』収録のものは、米国の、がピアノ演奏で参加。 『R134 OCEAN DeLIGHTS』では「Featuring Naoko Terai」として、・のをゲストに迎えている。 発売から20年近くたったの『』で、本楽曲が杏里によってで初披露された。 歌い継がれる名曲としての選出とされる。 また、の『』ではによって歌われているが、これは後藤が所属していたグループ「」のメンバー加入オーディションで歌ったことに由来する。 、『』の開催にあたりが行ったアンケート「」 では、紅組対象の上位94位にランクインした。 収録曲 [ ]• オリビアを聴きながら• 作詞・作曲: 、編曲:• So Long• 作詞: 、作曲: 杏里 、作曲: 瀬尾一三 関連作品 [ ]• (原曲)• (原曲)• (原曲)• (原曲)• ANRI the BEST(原曲)• ANRI IN THE BOX(原曲/『meditation』ヴァージョン)• (『meditation』ヴァージョン)• (『meditation』ヴァージョン)• (『16th Summer Breeze』ヴァージョン)• (『R134 OCEAN DeLIGHTS』ヴァージョン)• (『ANRI AGAIN 〜Best Of Myself〜』ヴァージョン)• (1989年、「再會」というタイトルででカヴァー。 アルバム『冬戀』に収録)• (1991年、「幾多」というタイトルで広東語でカヴァー。 アルバム『慾望野獸街』に収録)• (1995年「This time」というタイトルで英語でカヴァー。 『Behind The Memories』に収録)• (アルバム『色彩の主人公』、ライブ盤『LIVE〜女の子だけのコンサート〜』に収録)• (アルバム『』に収録)• ()(シングル『』収録曲)• (アルバム『歌姫ものがたり』に収録)• (アルバム『』に収録)• (アルバム『』に収録)• ・(アルバム『』に収録)• (アルバム『』に収録)• duet with アルバム『』に収録• with 『だれそかれそ』に収録• (発売のアルバム『ミナミカゼ』収録。 PCCA-04231。 編曲:。 (『ハッチポッチステーション The BEST』に収録)• (2016年3月16日発売の1stシングル『最後のサヨナラ』に収録) 脚注 [ ] [] 注釈.

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