田畑 政治 結婚。 田畑政治のプロフィールは?出身や学歴や息子のことなど!

田畑政治(たばたまさじ)プロフィールと経歴|家系図と子孫は?|はぐれめたる

田畑 政治 結婚

NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する田畑政治(たばた・まさじ)の実在のモデルの家系図と経歴を紹介します。 田畑家は明治時代・大正時代の典型的な地方の名士で、田畑家の家系図的には特筆するべきところは無いが、田畑政治の従兄弟に水野成夫が居る。 水野成夫はニッポン放送の鹿内信隆とともにフジテレビの創業して、フジテレビの初代社長を勤め、テレビ・新聞・ラジオを傘下に収め、フジテレビホールディンスの基礎を築き、「財界四天王」の1人に数えられた人物である。 下の経歴の方で詳しく紹介するが、田畑政治は水泳界だけでは無く、朝日新聞東京本社の代表取締役を務めており、長男・田畑和宏はNHKに勤務し、NHKの理事にまで出世しており、従兄弟にフジテレビ社長の水野成夫も居ることから、メディア系に強い家系となっている。 NHK大河ドラマ「いだてん」に、フジテレビの社長・水野成夫が登場するとは思えないが、こういう家系図を知っていれば、大河ドラマ「いだてん」がより楽しめると思うので、紹介しておく。 一方、水泳の経歴の方は、父と祖父が結核で早死にしていたことから、母・田畑うらが子供たちの健康を気遣ったようで、田畑政治は夏休みや冬休みは浜名湖にある弁天島の別荘で過ごしており、小学校に入る前から、浜名湖で水泳をしていた。 浜名湖は水泳の盛んな場所で、「遠州学友会水泳部」という水泳クラブがあり、泳ぎの得意な田畑政治は「遠州学友会水泳部」でもエースとして活躍していた。 ただ、この頃の水泳は西洋式の水泳ではなく、日本泳法(古式泳法)であり、早さよりも、泳法の型や技が重視されていた。 しかし、浜松一中の4年生の時に、慢性盲腸炎と大腸カタルを併発したため、医者から水泳を禁じられ、水泳を断念。 その後は、浜松一中を日本一にするため、指導者という道を選んだのだった。 そして、浜松一中を卒業後も休みの度に浜名湖に戻ってきて、後輩の指導に励み、周辺の水泳部を統合して「浜名湾流泳協会」を発足した。 また、浜名湾にクロールの採用を決め、東京帝国大学時代に全国大会を企画し、地物と有力者を説得して弁天島の一角を木枠で囲った海水プールを作り、大正10年に全国の強豪を招いて、全国競泳大会を開催した。 全国競泳大会の大阪の強豪・茨木中学に優勝をさらわれたが、翌年の大正11年に浜松一中が茨木中学を押さえて勝利し、日本一に輝いた。 そして、大正13年に東京帝国大学を卒業して朝日新聞に入社し、政治部の記者として政友会を担当して、鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)に気に入られた。 その一方で、田畑政治は記者時代に1本も記事を書いたことが無いと冗談を言われるほどで、暇を見つけては浜名湖に帰るのはもちろん、仕事をずる休みして、浜名湖の水泳を指導していた。 また、東海地方代表として大日本水泳競技連盟の設立に加わり、大正13年に大日本水泳競技連盟の理事に就任する。 当時は昭和不況という厳しい時期だったが、田畑政治は鳩山一郎に気に入られていたので、このコネを使って大蔵大臣・高橋是清に面会して補助金を取り付けることに成功し、昭和3年の年アムステルダム・オリンピックに日本水泳を派遣し、金メダルを取得した。 この成功により、田畑政治は大日本体育協会の理事に就任したほか、日本水上競技連盟の名誉主事などの要職を歴任するのであった。 そして、田畑政治は昭和7年のロサンゼルス・オリンピックで水泳の監督を務め、日本競泳は金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル1個という輝かしい成績を収めた。 さらに、昭和11年のベルリン・オリンピックでは本部役員を務め、日本競泳は金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個を取得した。 水泳女子200m平泳ぎに出場した前畑秀子に対して、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」を連呼した実況が生まれたのは、昭和11年のベルリン・オリンピックである。 昭和15年に開催予定の東京オリンピックは日中戦争の影響で返上されたが、田畑政治は2度に渡るオリンピックで華々しい成果を上げており、昭和14年に日本水上競技連盟の理事長に就任し、日本水泳界の頂点にたった。 一方、朝日新聞の政治記者としては、政友会と親しくしていたことから、五・一五事件や二・二六事件の時に政治家側の主張を記事にして、朝日新聞が右翼の標的になるなど、新聞記者としても活躍していた。 このため、田畑政治は戦後、いち早く「日本水泳連盟」を発足して理事長に就任して水泳界を再建すると、昭和22年には日本オリンピック委員会の総務主事に就任して、昭和23年のロンドン・オリンピックを目指した。 そうした一方で、朝日新聞の村山長挙ら経営陣が公職追放で去り、政治部長の長谷部忠が昭和22年の選挙で朝日新聞の取締役に就任し、昭和24年に社長に就任した。 田畑政治は、先輩の長谷部忠から頼まれ、昭和22年に朝日新聞東京本社の代表取締役に就任し、昭和24年に朝日新聞の常務取締役に就任した。 さて、戦後初となる昭和23年のロンドン・オリンピックは、開催国のイギリスから参加を拒否されたため、出場することができなった。 日本水泳界では古橋廣之進が好記録をたたき出していたので、田畑政治はなんとかして水泳だけでも出場できないかとコネを使ってイギリス側に接触しようとしたが、失敗に終わる。 そこで、田畑政治は、日本水泳の実力を世界に示すため、ロンドン・オリンピックと同じ日に、神宮プールで日本選手権を開催した。 このとき、古橋廣之進や橋爪四郎の記録は、ロンドン・オリンピックの優勝者の記録や世界記録を上回っており、水泳大国日本の健在を世界にアピールすることに成功したのである。 その結果、国際オリンピック委員会は、日本の復帰条件として、各競技の国際連盟に復帰することを勧告した。 田畑政治は、戦前から日米対抗水泳大会を開催するなどして、アメリカ代表の水泳監督キッパスと良好な関係を築いていたので、キッパスの協力もあって、日本水泳連盟は、いちはやく国際水泳連盟へ復帰する。 さらに、田畑政治はマッカーサー元帥の激賞を得て、ロサンゼルスで開催された全米選手権に参加。 古橋廣之進や橋爪四郎が世界新記録を連発。 古橋廣之進は「フジヤマのトビウオ」として全米を恐れさせた。 こうした日本水泳選手の活躍によって、世界の世論が一転し、日本の各競技は続々と世界連盟への復帰を果たし、日本は国際オリンピック委員会に復帰して、オリンピック出場権を得たのである。 その一方で、村山長挙が公職追放が解除されて朝日新聞の社主に復帰し、現経営陣を追放したため、昭和27年に田畑政治は朝日新聞を退社した。 田畑政治は、朝日新聞の初代社主・村山龍平の「あの顔は良さそうだから、採ってやれ」と言う鶴の一声で朝日新聞に採用され、その婿養子の村山長挙によって朝日新聞から追放されたのである。 朝日新聞を去った田畑政治は三島製紙の取締役となり、昭和27年7月のヘルシンキ・オリンピックでは、日本選手団長を務めたが、日本競泳は銀メダル3個という結果に終わった。 さらに、昭和31年のメルボリン・オリンピックでも、日本選手団長を務めたが、日本競泳は金メダル1個、銀メダル4個という結果に終わり、戦前の栄光は見る影も無かった。 こうした水泳界の低迷に、大阪支部長の高石勝男が日本水泳連盟の会長選に立候補して、会長の田畑政治と対立し、水泳界を二分するお家騒動が勃発した。 田畑政治はなんとか会長選で再選を果たしたものの、水泳界を混乱させた責任をとって日本水泳連盟の会長を辞任した。 こうした一方で、田畑の古巣である朝日新聞から、ある国家プロジェクトが生まれていた。 昭和30年3月に朝日新聞の記者・矢田喜美雄は、国際地球観測年特別委員会(CSAGI)が各国に南極観測事業を呼びかけている情報を入手し、朝日新聞が学者を支援して南極観測を行う「南極学術探検」を提唱した。 こうして朝日新聞が支援する南極学術探検計画が始まったのだが、協議を重ねていく内に、想定していた予算2億円では南極に行けないことが判明したため、国家事業へと発展した。 このとき、文部省が「探検には予算は出せない」と言ったので、「南極学術探検」は「南極観測隊」へと改称したのである。 そして、昭和31年11月8日、第1次南極観測隊や樺太犬タロ・ジロら22頭や南極越冬猫タケシなどを乗せた砕氷船「宗谷」が、晴海埠頭から出発したのである。 この第1次南極観測隊が、樺太犬タロ・ジロで有名な「南極物語」へとつながるのである。 なお、南極物語の実話は「」をご覧ください。 さて、日本が南極観測隊の話題で盛り上がっている一方で、田畑政治は東京でもオリンピックが開催できるという自信を強めていた。 そして、田畑政治は、国際オリンピック委員のフレンケルから「オリンピックを開催すれば、観光収入が増える。 オリンピックは金になる」と背中押され、東京都知事や政府を巻き込んで、国家事業として、東京オリンピックの誘致に動いていた。 そのようななか、国際オリンピック委員会の会長ブランデージから、「昭和35年のオリンピックに立候補して開催の意思を示し、昭和39年のオリンピックを狙いなさい」と助言を受ける。 田畑政治は、この助言に従い、昭和35年のオリンピックに立候補して、日本にオリンピックを開催する意思があることを示し、昭和39年開催のオリンピックを狙い、各方面の努力もあって、昭和39年の東京オリンピック開催を勝ち取ったのである。 こうして、東京オリンピックの開催が決まると、田畑政治は昭和34年に東京オリンピック組織委員会を発足して事務総長に就任し、オリンピック開催に向けて活動。 昭和36年には日本水連盟の名誉会長に就任した。 そして、田畑政治は、丹下健三の設計で念願の屋内水泳場(国立代々木競技場)を建設することを決定し、難問だったオリンピック村問題も解決する。 さらに、田畑政治は、NHKの協力を得て、オリンピック前年に予行演習として「東京国際スポーツ大会(プレオリンピック)」の開催を企画した。 このようななか、昭和37年(1962年)にインドネシアの首都ジャカルタで開催された第4回アジア大会で、インドネシアのスカルノ大統領が親中国や親イスラムだったことから、台湾とイスラエルの参加を拒否するという事件が発生する。 (注釈:タレントのデビ夫人は、スカルノ大統領の第2夫人だった。 ) このような政治的差別は大会憲章に違反しており、大会憲章に違反した第4回アジア大会に出場すれば、日本は国際オリンピック委員会から除名され、東京オリンピックが中止になるのでは無いかという議論が、日本国内で起きた。 日本選手団を率いてジャカルタ入りしていた田畑政治は、日本が出場しなければ、ジャカルタで暴動が起きるような状況だったことから、日本選手団の出場を決定するが、帰国後、記者に「国際大会としてではなく、親善試合として出場した」と話したことから、責任問題に発展してしまう。 田畑政治に恨みを持つオリンピック大臣・川島正次郎が、このチャンスを逃さず、財界からの批判をあおり、背金問題に発展させ、東京オリンピック組織委員会の会長・津島寿一と事務総長の田畑政治が、責任をとる形で辞任した。 さらに、オリンピック大臣・川島正次郎が、田畑政治に恨みを持っており、田畑政治から東京オリンピックに関するすべての肩書きを奪い、オリンピックの運営から追放したのである。 こうして、田畑政治は、東京にオリンピックを呼び、東京オリンピックの地ならしを全て終えて、開催への道筋をつけたにもかかわらず、無念にも、東京オリンピックの運営から外されてしまったのである。 唯一の心残りは、映画監督の黒澤明に、東京オリンピックの記録映画を撮ってもらことができなかったことだ。 以降、田畑政治は東京オリンピック組織委員会の委員として残ったが、東京オリンピックの運営には口を出さず、手弁当で選手を激賞して回り、東京オリンピックの本番は、応援席から身を乗り出して選手を応援した。 朝日新聞の記者・矢田喜美雄も、南極観測隊(南極学術探検)を提唱して国家事業へと発展させたのだが、隊員内の派閥争いがあったため、第1次南極観測隊に入れず、昭和31年11月8日に晴海埠頭から第1次南極観測隊を乗せて出発する南極観測船「宗谷」を見送っている。 さて、田畑政治は東京オリンピック後、東京スイミングセンターを建設して水泳選手育成に励み、札幌冬季オリンピック組織委員会の顧問を務めたり、中国の国際オリンピック委員会の復帰に尽力したりした。 また、スポーツ振興資金財団の顧問、国際スポーツ連絡協議会の議長、日本オリンピック委員会の委員長や名誉委員長などの要職に務めた。 晩年はパーキンソン病を発病して車椅子生活を送り、病室のテレビでロサンゼルス・オリンピックを観戦し、閉会式の2週間後の昭和59年(1984年)8月25日に死去した。 享年87。 田畑政治はオリンピックに関する数々の功績が認められ、「朝日賞」「オリンピックオーダー銀賞」「勲二等瑞宝章」「正四位勲二等旭日重光章」が贈られている。 なお、大河ドラマ「いだてん」の実在のモデル一覧は「」をご覧ください。

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『いだてん』田畑政治、五輪の後は

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NHK大河ドラマ「いたでん」のモデルとなる田畑政治の生涯を描く立志伝です。 田畑政治の立志伝 田畑政治(たばた・まさじ)は、明治31年(1898年)12月1日に静岡県浜松市中区成子町の造り酒屋「八百庄商店」で生まれた。 父親は高額納税者だったようで、相当裕福な家だった。 しかし、早くに祖父や父を結核で死去しており、田畑政治も体が丈夫な方では無かったので、幼い頃に「30までには死ぬだろう」と言われていた。 このため、母親が健康に気使ったのか、田畑政治は小学校に入る前から、夏と冬の休みになると、舞阪町の弁天橋付近にある別荘で過ごした。 そして、別荘の近くには浜名湾があり、田畑政治は子供の頃から浜名湾で泳いでいた。 浜名湾は水泳が盛んな場所で、地元中学の卒業生らが「遠州学友会水泳部」を創立すると、田畑政治は「遠州学友会水泳部」に入り、頭角を現した。 ただ、この頃の水泳は「古式泳法」であり、1等を競うことはあっても、波の影響もあって条件は同じでは無く、現在のようにタイムを競うような競技ではなかった。 指導者への道 子供の頃から泳いでいた田畑政治は、かなりの上前で、「遠州学友会水泳部」でもエースとして活躍していたが、旧制浜松中学校(浜松北高校)4年生の時に慢性盲腸炎と大腸カタルを併発し、医者から「泳いだら死ぬ」と言われたため、水泳を断念する。 しかし、水泳を断念した田畑政治は、旧制浜松中学校を日本一にしようと考え、指導者という道を選び、後輩の指導に力を入れ、旧制浜松中学校を大会で優勝に導いた。 すると、今度は浜名湾を日本一にしようと考え、大正5年に周辺の水泳部と統括する「浜名湾遊泳協会」を設立した。 田畑政治は、旧制浜松中学校を卒業して一高へと進み、一高から東京帝国大学に進学するという当時の典型的なエリート街道を進む一方で、旧制浜松中学校の卒業後も、休みの度に浜名湾へ戻って水泳の指導をして、後輩の育成から水泳の普及や発展に努めた。 全国大会の開催 ハワイで誕生したと言われるクロールは、大正時代の初期に日本にも伝わっていたが、普及はしておらず、せいぜい50メートルを泳ぐ短距用の泳法だと考えられていた。 しかし、内田正練・藤兼吉が水泳としては初のオリンピック参加となる大正9年のアントワープ・オリンピックに参加すると、既に外国人選手はクロールのみで長距離を泳いでおり、日本水泳界は大きな衝撃を受けた。 この衝撃を受けて、大阪の茨木中学がいち早くクロールを取り入れて大会で優勝すると、田畑政治も浜名湾にクロールを採用し、打倒・茨木中学を掲げて浜名湾の日本一を目指すのだった。 しかし、日本一になるためには、全国大会を開かねばならず、田畑政治は全国大会の開催を目指して奔走し、地元有力者の協力を得て、大正10年に北弁天島に海水プールを作った。 海水プールは、横幅30メートル、長さ100メートル、海辺の木の枠組みを杭で固定した簡易なものだが、大きな人気を呼んだ。 こうして、田畑政治は日本各地から有力選手を招いて全国大会を開催するが、期待とは裏腹に、日本一の称号は宿敵の茨木中学校にさらわれてしまった。 しかし、大正12年の全国大会で浜名湾が全国大会で茨木中学校を制して優勝すると、田畑政治の野望は日本一から世界一へと移っていった。 朝日新聞に入社 田畑政治は、大正13年3月に東京帝国大学を卒業すると、「政治に興味がある」という理由で、同年4月に朝日新聞に入社した。 当時の新聞社は縁故採用が主で、他の新聞社に先駆けて、朝日新聞が大正12年に一般採用を開始していた。 一高から東京帝国大学へと進んだエリートは官僚を目指すのが一般的で、当時の感覚では朝日新聞はエリートコースから外れており、朝日新聞に就職した田畑は異例だった。 田畑政治は、朝日新聞の政治部で政友会を担当し、鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)に気に入られて故意にしていた。 また、田畑は朝日新聞の政治記者として働く一方で、暇を見つけては浜名湖に帰って、後輩の指導や育成に奔走し、浜名湾から続々と強豪選手を誕生させる。 また、日本体育協会から競技ごとに独立する動きがあり、水泳界は大正13年10月に「日本水上陸上競技連盟」を創立。 田畑政治は東海代表として「日本水上陸上競技連盟」の創立に参画し、理事に就任した。 オリンピック第一主義 「日本水上陸上競技連盟」の理事として日本水泳界の中枢に進出した田畑政治は「オリンピック第一主義」を唱えて、昭和3年のアムステルダム・オリンピックに向けて執念を燃やした。 これは日本水上陸上競技連盟が発足して初のオリンピックであり、今度の日本水泳界を占うことになる。 田畑政治は政治記者としての鳩山一郎に気に入られており、鳩山一郎の紹介で時の大蔵大臣・高橋是清と会うことができた。 そして、高橋是清から補助金の約束を取り付けることに成功し、アムステルダム・オリンピックに水泳選手10人を送り込み、競泳男子200m平泳ぎで、鶴田義行が見事に金メダルを取得した。 さらに、男子800m自由形リレーで銀メダル、男子100メートル自由形で高石勝男が銅メダルを取得し、日本水泳初のオリンピックは華々しい活躍を見せた。 しかし、運が悪いことに、鶴田義行が金メダルを取得する3日前に、陸上男子三段跳の織田幹雄が、日本初の金メダルを取得したため、鶴田義行の金メダルは若干、インパクトに欠けてしまった。 昭和7年のロサンゼルス・オリンピックを目指して アムステルダム・オリンピックでの活躍を得た田畑政治は、次のロサンゼルス・オリンピックを目指して4つの目標を掲げて実行した。 ・水泳の組織を1本化する ・専用プールをつくること ・信頼するに足る監督を早い段階に決めて、全責任を与える ・アメリカのベストチームを招いて、地の利を活かして、徹底的にやっつける。 日本水泳は、アメリカのベストチームを招いた日米水泳大会で、アメリカに勝利した勢いに乗り、ロサンゼルス・オリンピックで金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個という輝かしい成績を収め、世界に水泳大国日本を印象づけた。 この日本水泳界の活躍は、アメリカで差別を受けていた日系人に大きな勇気と希望を与えた。 妻・田畑菊枝と結婚 田畑政治は朝日新聞に入った後、大阪の大道易者に占ってもらったところ、易者に「30歳で死ぬ」と言われた。 田畑政治は、易者は金を貰って占っているのだから、悪い事を言うはずが無いと思っていたので、「30歳で死ぬ」と言われて驚いた。 そして、祖父や父も早死にしていたこともあり、占いを信じてしまった。 このため、田畑は結婚しないことを決め、生涯を水泳に捧げることを誓っていた。 ところが、30歳になっても何も無い。 生きていた。 31歳の時に「田畑が死んだ」という噂が流れたが、生きていた。 田畑政治は、父も兄も34歳で死んでので、それまでには死ぬだろうと思っていたが、生きていたので、ロサンゼルス・オリンピックの翌年の昭和8年に妻・田畑菊枝と結婚した。 昭和11年のベルリン・オリンピック 田畑は、アメリカのベストチームに勝利してオリンピックに望んだことがロサンゼルス・オリンピックで好成績をあげた要因だと考えた。 そこで、田畑は、昭和10年にアメリカのベストチームを招いて第2回・日米水泳大会を開催してアメリカに大勝し、その勢いに乗って昭和11年のベルリン・オリンピックに出場した。 そして、日本水泳は、ベルリン・オリンピックで、金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個という華々しい成績を収め、アメリカを抑えてオリンピックを連覇した。 このとき、前畑秀子が200m平泳ぎでドイツのマルタ・ゲネンゲルと接戦を繰り広げ、1秒差で勝利して、日本女性初となる金メダルを取得。 NHKアナウンサー河西三省の「前畑頑張れ」という有名な実況も生まれた。 昭和15年の幻の東京オリンピック 東京都は紀元2600年記念行事の一環として、東京にオリンピックを招致することを決めた。 開催候補地は「東京」「ローマ」「ヘルシンキ」で、ローマに勝つことは難しいと考えられていたが、日本はイタリアのムッソリーニ首相に働きかけて、ローマに辞退してもらうことに成功し、ヘルシンキを抑えて東京での開催を勝ち取った。 しかし、昭和12年に日中戦争(シナ事変)が勃発したため、日本政府は東京オリンピック開催派と反対派に別れて大いに揉めた。 このようななか、商工省が「紀元2600年記念日本万国博覧会」の中止を決定したことから、厚生省も東京オリンピックの開催中止を決定し、日本政府は東京オリンピックを返上した。 こうして、オリンピックの開催地はヘルシンキになったが、第二次世界大戦の影響で、ヘルシンキ・オリンピックは中止となった。 しかし、田畑は、日本は経験不足だと考えていたようで、東京オリンピックを返上しても落胆しなかった。 閉ざされた道 戦時中、日本のスポーツ界は軍部の統制下に置かれてスポーツは禁止され、各競技団体は解散を命じられて「大日本体育会」に集約された。 しかし、田畑政治は、日本水上陸上競技連盟を解散せず、そのまま丸ビルに残しており、終戦の2月後の昭和20年10月に「日本水泳連盟」と改称して理事長に就任し、早くも国際水泳連盟への復帰を目指して水泳の復興に向けて動き出す。 そして、田畑政治は昭和21年に日本体育協会の常任理事となり、昭和22年には日本オリンピック委員会の総務主事に就任した。 さて、日本はオリンピック組織委員会を発足して、ロンドンオリンピックに向けて準備を開始したが、イギリスが日本とドイツの参加を拒否。 「政治とスポーツは別」というきれい事は通用せず、日本は参加の断念を余儀なくされた。 このようななか、後に「フジヤマのトビウオ」の異名を取る古橋廣之進が、日本選手権の400m自由形で4分38秒4という世界新記録を樹立するが、日本水泳界は国際水泳連盟に復帰していた無かったことから、公式記録として認められなかった。 怒った田畑政治は、オリンピックという晴れ舞台で古橋廣之進の実力を証明するため、水泳だけでも、戦後初となる昭和23年のロンドン・オリンピックに出場できないかと奔走したが、無理だった。 そこで、田畑政治は昭和23年のロンドン・オリンピックと同じ日に、神宮プールで日本選手権を開催したのである。 その結果、古橋廣之進と橋爪四郎が、日本選手権の1500メートル自由形で世界新記録を樹立。 この記録は、ロンドン・オリンピックの優勝者を上回る記録であり、世界に日本水泳の健在を示した。 しかし、オリンピックへの道は依然として閉ざされていたのだった。 「」へ続く。

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田畑政治(たばたまさじ)経歴や妻息子や子孫は?浜松一中オリンピック

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大河ドラマ「いだてん」 第32話「独裁者」 あらすじ【ネタバレ注意】 前畑秀子の苦悩 ロサンゼルスから帰国した日本選手団は日比谷公園で開催された「大市民歓迎会」に招かれた。 すると選手たちがいる控室に東京市長・永井秀次郎が顔を見せる。 そして永井は前畑秀子に言った。 「なぜ、あんたは金メダルを取ってこなかったんだ!たった10分の1秒差で2着とは!」 黙っている前畑秀子に永井はさらに続ける。 「この悔しさを忘れずに4年後頼むよ」 すると、一部始終を見ていた田畑政治が永井にキレた。 「だったらアンタが泳いでみればいい!前畑は苦しんで銀メダルをもぎ取って来たんだ!」 必死に岸清一は政治をなだめていたが、選手たちが悔し涙を流すのを見ている内に岸の中にも怒りが芽生え始める。 「国を背負って戦う者は命懸けだ!ド素人はすっこんでろ!」 そして今度は政治が岸をなだめ、とりあえず部屋から退出させた。 ここで永井は自分の心無い言葉に反省し、前畑秀子に謝罪する。 「すまなかった。 だが、全国民が君を応援していた。 だから悔しいんだ。 」 永井の言葉通り、前畑秀子には全国から次回での雪辱を果たして欲しいという激励の手紙が届いていた。 前畑秀子は手紙を読むたびに苦悩することになる。 練習を4年間続けても、勝てる保証はない。 悩む前畑秀子を決心させたのは、夢の中に現れた亡き両親の言葉だった。 「秀子、いったんやり始めたことは途中でやめたらあかん」 次の日、早朝4時にかかわらず、前畑秀子はプールにいた。 そして前畑秀子は1日20,000mという過酷な練習を始めていった。 スポンサーリンク 暗雲 岸は体協会長として昭和天皇の前でオリンピックのことを説明する機会がもうけられた。 ここで岸は、オリンピック無用論を唱えるドイツのヒトラーが首相となれば、ベルリン・オリンピックは返上となり東京に転がり込んでくるかもしれないと語った。 しかし、岸の思いとは逆に昭和8年(1933年)に首相となったヒトラーはベルリン・オリンピック支持を表明する。 ヒトラーの心変わりは宣伝大臣・ゲッペルスの助言によるものだった。 ヒトラーはオリンピックを利用してドイツを世界の一流国家と認めさせようとしていた。 そしてこの件の他にも、東京オリンピック招致には逆風が吹き始める。 招致を言い出した東京市長・永井が部下の汚職問題で辞職してしまったのだ。 そして国際的には、ジュネーブで開かれた国際連盟総会で満州事変にかんする「リットン報告書」が可決され、日本は国際連盟を脱退する運びとなっていった。 こんな状況の中、東京市庁で「国際オリムピック競技大会東京開催に関する実行委員会」が開かれた。 嘉納治五郎はこの席で、元国際連盟事務次長の杉村陽太郎、元貴族院議員の副島道正、陸上総監督の山本忠興、水泳総監督の田畑政治、永井の後任市長を実行委員にすることを決めた。 スポンサーリンク 田畑政治と酒井菊枝の結婚 政治は上司の緒方竹虎の発案でロサンゼルス・オリンピックの回顧録を書くこととなった。 毎夜残業して執筆する政治のため、速記係の酒井菊枝は連日弁当を手渡してくれる。 お礼のつもりで政治はオリンピックの思い出を語り、酒井菊枝は黙ってそれを聞いていた。 やがて政治は緒方から渡されていたお見合い写真を返すことにした。 写真の中身すら見てもいなかったが、政治には気になる人ができていたのだ。 その後、緒方は何気なく返された写真を開き、政治はそこで初めて女性の顔を見て驚く。 写真には晴れ着姿の酒井菊枝が写っていたのだ。 結局、お見合い相手は酒井菊枝だったことが分かり、二人は結婚することとなる。 結婚式には落語家が呼ばれ、高座に上がったのは孝蔵だった。 この頃の孝蔵はお座敷や結婚式の余興として呼ばれることも多くなり、ラジオ出演も果たしていた。 スポンサーリンク 岸清一の死去 政治が結婚した頃、熊本の池部家には小松勝という青年が四三を訪ねて来ていた。 どうも四三の著書である「ランニング」を読んで感銘を受けたらしい。 九州一周をしているという小松は、四三から激励の言葉をもらおうとしていたが、驚いたことに四三は一緒に走ると言い出す。 しかし、スヤは四三の行動に驚きもせず「着替えは2、3枚?」と言って、夫を送り出すのであった。 東京市長には牛塚虎太郎が就任し、治五郎たち実行委員はウィーンで開かれたIOC総会に出席した。 総会ではIOC委員に新たに杉村陽太郎が選ばれ、日本人IOC委員は嘉納治五郎、岸清一を含めて3人となった。 これでオリンピック開催地の投票時には3票が確実となる。 杉村陽太郎はウィーンから帰国すると、喘息で入院していた岸のお見舞いに訪れた。 そして先にお見舞いに来ていた政治と野口を前に、杉村陽太郎は総会の内容を報告する。 「1940年のオリンピック候補地は、東京とローマ、ヘルシンキに絞られました。 アメリカとスウェーデンの委員は東京を支持すると約束し、投票は2年後オスロで行われます。 」 報告を聞いて岸は期待感を膨らませていたのだが、まもなく岸は急逝することになってしまう。 そして治五郎は岸の墓前で東京オリンピック実現を誓い、政治も体協理事として協力することを決意した。 また、岸の後任のIOC委員には副島道正が選出された。 スポンサーリンク 逆らわずして勝つ 昭和9年(1934年)、治五郎、杉村、副島らIOC委員はアテネで総会に出席し、帰路にライバル候補地となっているローマを視察した。 ローマは大理石の競技場が完成間近で、IOC総会でもローマ支持の意見が多くあった。 帰国後、実行委員会でもその対応策が急務とされ、委員たちは頭を悩ませる。 そんな中、政治は「もっと簡単に考えよう」と口火を切った。 「ローマには勝てない。 じゃあどうする?『逆らわずして勝つ』の嘉納さん。 」 すると治五郎は「譲ってもらうってどうかな」と言い出した。 「案外、頼めば譲ってくれるんじゃないか?」 シンプルな治五郎の意見が出たところで、今度は杉村が発言する。 「私、10月から大使としてイタリアに赴任するんですよ。 」 副島と牛塚はうまくいかないというような顔をしているが、治五郎と杉村はノリノリだ。 結局、治五郎は日本の魅力を伝える写真付きの資料を作って世界に発信し、イタリアの首相・ムッソリーニには杉村を通じて交渉の場をもうけてもらうこととなった。 その後、政治は日本の魅力発信のための資料作成に取りかかり、写真集「日本」を完成させた。 完成した「日本」を見た治五郎は大いに喜び、ムッソリーニとの交渉成功を期待するが、持病の腰痛が再発してイタリア行きを副島に託すことになってしまった。

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