ホンダ 社長。 歴代ホンダ社長|本田宗一郎の系譜

ホンダ社長がクルマ作りで大ナタを宣告、「決裁者は誰だ!」|ニュースイッチ by 日刊工業新聞社

ホンダ 社長

日頃よりHondaの活動に多大なるご支援とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。 2019年には二輪・四輪・ライフクリエーション、航空機や航空機エンジンなどすべての事業を合わせて、 世界中の約3,000万人のお客様に、魅力的な商品・サービスをお届けし、喜んでいただくことができました。 2017年、Hondaは「2030年ビジョン」を定めています。 「すべての人に『生活の可能性が拡がる喜び』を提供する」というステートメントの実現に向けて、 現在「既存事業の盤石化」と「将来の成長に向けた仕込み」に取り組んでいます。 また2019年には、「2030年ビジョン」の実現に向けた中長期の取り組み方向性を発表しました。 取り組みを通じて実現すべき価値は主に3つあり、1つめは持続可能な社会を実現するための「カーボンフリー技術」、 2つめは交通事故ゼロをめざした「事故ゼロ技術」、そして3つめが生活の可能性を拡げる「Honda eMaaS」に関する技術です。 Hondaは、モビリティーの進化にとどまらず、エネルギーやロボティクスの分野でも技術開発を進めてきました。 これらの分野で蓄積してきた技術の資源を、「移動」と「暮らし」のなかで相互につなげることで、 社会にモビリティーとエネルギーを融合させるシステム、それが「Honda eMaaS」です。 また、2020年4月には、「既存事業の盤石化」と「将来の成長に向けた仕込み」をさらに加速させることを目的とした 事業運営体制の変更を行っています。 この事業運営体制の変更を通じて各領域の事業運営を強化し、 「強い商品、強いものづくり、強い事業」の実現をめざすとともに、Hondaが創業時から変わらず取り組んできた 社会課題解決への姿勢をさらに強めることで、持続した成長・進化を実現していきます。 今回、新型コロナウイルスの影響は、世界に大きな変化をもたらし、Hondaの企業活動にもさまざまな影響を及ぼしています。 そして、今後も人々の価値観が大きく変わり、社会を変えていく可能性があると捉えています。 このような先行きを見通すことが難しい不透明な状況下で、現在取り組んでいる各施策を着実に実行していくとともに、 アフターコロナの新しい世界で、Hondaの製品やサービスを通じて、「すべての人に『生活の可能性が拡がる喜び』を提供する」。 これこそが、Hondaがやるべきことだと考えています。 そして、世界的な変化のなかでも、Hondaは「Environmental(環境)」「Social(社会)」「Governance(企業統治)」への 真摯な取り組みによって、将来への持続的成長を確かなものにしていきます。 変革の時代に、社会とともに成長し、進化し続けるHondaにぜひご期待ください。

次の

八郷隆弘・ホンダ社長「強さは逆境から生まれる」:日経ビジネス電子版

ホンダ 社長

経歴 [ ] 父が航空機のエンジニアであったことから 、子供の頃から航空機への関心が高く、大学もその関係で東大の航空工学科を選ぶ。 大学では原動機()の研究を専攻するが、戦後の日本における航空機産業の立ち遅れを目の当たりにして航空機のエンジニアになる夢をあきらめ、レース用のエンジンを作る方に関心が向くようになる。 ホンダ時代 [ ] 本田技研工業に入社。 同期には後にホンダの第4代社長となる、同じく第5代社長となる(大学も同期)がいる。 入交は研究所のレース設計課に配属され、いきなり(WGP)に出場する50ccレーサーのエンジン設計を任される。 には、この年からエンジン規定が変わったばかりの用のエンジン設計の責任者に抜擢され、用の3000cc・V12エンジンを設計する。 その後は市販車用のエンジン開発を手がける一方で、低公害エンジンとして知られるエンジンの開発に関わり、にはCVCCエンジンの技術供与のためにに一時出向する。 にはの取締役に就任し、新たに二輪専用の研究所として設けられた朝霞研究所の事実上のリーダーに抜擢される。 には本田技術研究所の常務に昇格する一方で、前年に発表されたWGP復帰宣言に従いWGP・500ccクラスに参戦するための車として4ストロークエンジンのの開発をスタートさせる。 には39歳でホンダ本社の取締役に就任。 からは「1兆円企業の30代取締役」、「将来の社長候補」として騒がれた。 ホンダでは若くして役員に登用されながらも、重圧に耐えかねたり、あるいは自信過剰で社内外の反発を買い、傍系会社に去った役員も少なからずいた。 そうした事実を踏まえ、入交を抜擢した社長のから、「君はこれから一年間、マスコミと接触してはいけない」と厳命された。 入交は河島との約束を忠実に守り、就任後1年間マスコミに登場することはなかった。 1980年代前半においては二輪開発の総責任者として、俗に「」と呼ばれたとの間のバイク分野におけるトップシェア争いを指揮。 にはホンダ本社の常務に昇格。 にはWGPを始めとする二輪レース参戦の統括会社として株式会社(HRC)を設立し初代社長となる。 には研究所を離れ鈴鹿製作所の所長に就任。 には米国の生産子会社であるHonda of America Manufacturing, Inc. (HAM)の社長となり 、米国の自動車業界において「 Mr. Iri」の通称で知られるようになる。 に帰国、翌にはホンダ本社の専務に昇格、総務・管理・生産部門を担当する。 には川本信彦が社長に就任するのに伴い副社長に就任、同時に本田技術研究所の社長となる。 しかしこの頃から徐々にホンダの経営方針を巡る川本と入交の対立が表面化し、3月には副社長を辞任。 この時期ストレスにより健康を害しており、辞任と同時に1ヶ月の入院生活を送る。 同年6月には取締役も辞任、常任顧問となる。 GM入社断念、セガ時代 [ ] の年明け早々、当時欧州社長だったが来日し入交に接触。 入交に欧州GM入りを打診する。 その後交渉は順調に進み、GMの国際事業を統括する「GMインターナショナル」の生産担当副社長兼GM本社の上級副社長に就任する方向で一度は話がまとまるが 、正式契約に至る直前で友人の(当時社長)にGM入りを止められる。 その後堀が、当時のセガ社長のに入交のセガ入りを打診し、中山が快諾。 入交はGM入りをあきらめてセガに入社する決断を下し、同年4月に正式にホンダを退社し、6月にはセガの副社長に就任する。 セガでは研究開発・生産部門を担当し、特にに発売された用のゲームソフト「」では製作総指揮・プロデューサー代表を務め、サクラ大戦をセガの一大人気シリーズに育て上げる。 にはセガの社長に昇格。 の開発を指揮しに対する巻き返しを狙う。 しかし結果は振るわず、6月にはドリームキャストの国内販売不振などで決算が3年連続赤字になった責任を取る形で副会長となる。 結局同年12月にはセガを退社。 セガ在職中のには、米国の自動車部品メーカーであるの社外取締役に就任している。 その後 [ ] セガ退社後は個人事務所として「有限会社入交昭一郎」を立ち上げた他、1月には子会社の取締役、同年4月にはフライシュマン・ヒラード・ジャパンのチーフストラテジスト、同年6月には系の玩具卸である株式会社の取締役に就任。 さらに自動車部品メーカーであるの社長、会長を歴任した。 エピソード [ ]• 1965年には、レーシングドライバーで当時の契約ドライバーだったが所有していたのチューニングを川本信彦らと共に行った。 これは元々生沢と(の長男、創業者)が友人関係にあったことがきっかけだと言われている。 本来ライバル企業のワークスドライバーである生沢の車をチューニングするだけでも大問題なのに、入交らは会社の倉庫から無断でワークスチーム用のパーツを持ち出してチューニングに使用するなどしたために会社から咎められ、懲戒解雇寸前の状況に追い込まれた。 その車は同年にで行われた全日本自動車クラブ選手権に生沢のドライブで登場し、が駆ると激戦を繰り広げている。 に発売されたゲームソフト「」に登場するセガの「人交(ひとまじり)社長」は、入交がモデルである。 脚注 [ ]• 日本経済新聞. 2016年10月18日. 2016年10月26日閲覧。 399 - 401• 479• 660• プレスリリース , 旭テック株式会社, 2013年3月26日 , 2016年10月26日閲覧。 日本経済新聞. 2014年3月3日. 2016年10月26日閲覧。 参考文献 [ ]• この項目は、 に関連した です。 などしてくださる(、)。

次の

【池原照雄の単眼複眼】ホンダ、新入社員の前例なきオンライン研修が終了…八郷社長も「先輩社員」として2度の講師

ホンダ 社長

2月23日、ホンダは八郷隆弘常務執行役員が社長に昇格する人事を発表した。 写真は都内の記者会見会場で同日撮影(2015年 ロイター/Yuya Shino) [東京 23日 ロイター] - ホンダ は23日、伊東孝紳現社長(61)が取締役相談役に退き、八郷隆弘常務執行役員(55)が社長に昇格する人事を発表した。 6月の定時株主総会後に正式決定する。 世界を北米、欧州、日本など6地域に分け、各地域で現地生産・開発などを推進する伊東氏の「6極体制」戦略を進化させ、主力車のリコール(回収・無償修理)などで傷ついた同社の収益力改善をめざす。 八郷氏は4月1日付で専務執行役員となる。 ホンダの研究開発部門である本田技術研究所の社長、本社での取締役を経ずにホンダ社長に就くのは初めて。 伊東社長は同日、八郷氏とともに会見し、この時期に社長交代を決めた理由について、自らが推進する「世界6極体制」の下、「地域が各々自立するとともに世界で効率を上げていく、ちょうどそのタイミングに差し掛かった」と説明。 「2015年、飛躍する準備は整った。 ここで新しく若いリーダーのもと一丸となってチャレンジすべきと考えた」と述べた。 次期社長となる八郷氏は、魅力的で品質が高く価格競争力のある車づくりを「今後も着実に展開し、全力でチャレンジする」と抱負を語った。 また、「グローバルなオペレーションを世界6極でさらに進化させることが私に課せられたテーマ」と指摘し、「将来につながる盤石な事業運営体制を構築する」と述べた。 八郷氏は入社後、車体設計を中心に四輪車の研究・開発に従事。 現在は中国の生産統括責任者を務めている。 研究所時代には米国へ駐在したほか、購買や生産部門の知見があり、欧州や中国での実績を持つ。 伊東社長は、こうした八郷氏の経験が「これからのホンダの事業運営に必ず役立つ」と述べた。 伊東社長はリーマン・ショック後の2009年に就任。 当時販売が落ち込んだ米国など先進国への依存を減らすため、長期的な成長が見込める新興国市場の開拓へ大きく舵を切り、「世界6極体制」によるグローバル・オペレーション改革を推進してきた。 しかし、昨年は主力車「フィット」などが度重なるリコールを引き起こし、ホンダ車の品質が大きく問われる事態となった。 同社長は、リコール続発の間接的な原因が販売拡大への急傾斜にあったとして、2017年3月期に世界で600万台の四輪車を販売するという自ら掲げた目標も取り下げた。 会見の中で、伊東社長は、リコールへの対応について、「研究開発分野で課題が多く、昨年、突貫工事で立て直した」と語るとともに、品質改革担当役員に据えた福尾幸一専務執行役員を今回の人事で研究所社長に就任させ、「安定的な(品質管理)体制が出来上がるという道筋を開いた」と述べた。 新社長となる八郷氏については、「彼を悪くいう人を聞いたことがない」といった声や「温和で調整型と言われている」との評価が社内外に少なくない。 ナカニシ自動車産業リサーチ代表兼アナリストの中西孝樹氏は、ホンダとしては足場を固めるべき時期にあるため、八郷氏を次期社長に選んだのではないか、とみる。 伊東社長にはリコール続発や業績伸び悩みなどを背景に、進退論がくすぶっていた。 しかし、関係者によると、1カ月ほど前の段階では、逆に伊東氏の続投説が高まっていたという。 ホンダのある現役幹部は「年始から1月にかけては伊東氏続投の感じで動いており、本人もその気持ちが強かった。 タカタの欠陥エアバッグ問題もあるので、もう一期やるというのが社内での強い見方だった」と話す。 だが、会見で八郷氏は「(社長交代の)話があったのは年明けに中国にいるとき、伊東社長から電話があった」ことを明かしている。 同幹部は「今にして思えば、それ(続投の示唆)はカムフラージュだったのかもしれない」と振り返る。 また、伊東社長退任の一番大きな理由は、国内販売の下振れにつながった「フィットのリコール」と指摘、伊東社長が「自ら退任を決めた」とみている。 *内容を追加しました。 白木真紀 取材協力:金昌蘭、白水徳彦 編集:北松克朗.

次の